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「霊性」とは何か? [思想]

前回「霊性を以て未来を照射せよ!」と書いた。「霊性」とは何か。たとえば、シンクロニシティ体験で、いま生きている世界とは別の世界を垣間見る。この「移ろうままに」ブログ、「シンクロニシティ」で検索したら16回あった。そのたび「別の世界」の存在を感じさせられていた、その時の感覚。あるいは先日、『飯山一郎最終講義』にあった出世外人さんの寄稿文を読んで《真に創造的な知的作業とはまさしく、言語化・文書化された知識からではなく、いかに潜在意識に潜んでいる真実を汲み上げ表出化するかにかかっているのではないか》の言葉に感じ入ったのだが、その時の「潜在意識」に反応する感覚。それらは「霊性」につながる感覚といえるのでは、と思うのだが、私なりには「顕幽両界、相渉る感覚」、要するに「死んでも通用する感覚」というのがよくわかるような気がする。5年前の「無私であることにおいて、個は究極的に輝く」(若松英輔)の記事で、『現代の超克』(若松英輔×中島岳志 ミシマ社 平26.8)の「霊性の問題」の段から次の文章を引いていた。《霊性論とは、人は、神を客観的問題として論じえるか否かという問題にほかならない。(人間という存在はいつも神の一部であると考える吉満義彦は)人は、何を論じるにしても「神」の問題から逃れることはできない。「近代の超克」とは、「再び神を見出し霊性の立場で文化を秩序づけて行く」ことだと吉満は語っています。》《吉満にとって霊性は、人間のなかにある絶対を求める衝動です。・・・それは・・・魂が、存在の淵源に還ろうとすることだと吉満は・・・感じている。》つまり「霊性」とは、「絶対を求める衝動」であり、「魂が、存在の淵源に還ろうとすること」。そして「霊性」について論ずることは、「神を客観的問題として論」ずることにほかならぬ、と言う。角度はちがうが「死んでも通用する感覚」と同じものを見ていると私には思える。

それにしても、「霊性」を「知識」として理解しようとすれば躓く。今朝亀さんブログで読んだ今東光和尚の人生相談、「経験と読書、どっちが大事か」の問いへの回答は《それはバカな話で、鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのかというのと同じでな。経験して読書し、読書して経験する、という交互作用によって本というものは生きてくるし、経験というものも役に立ってくるもんでね。経験だって読書だって同じように大切だ。何をとぼけたことぬかしてやがる。》「霊性とは何か」の問題はまさにそういう問題。実はこのところ「霊性」が私の中で問題になり出したのは、「放知技」板の放知技の書斎」スレッドでの議論がきっかけだった。以下その議論。

*   *   *   *   *

31:亀さん:
2019/04/21 (Sun) 07:23:16

>>30
> 『毒舌仏教入門』

和尚の『毒舌仏教入門』に目を通すとは流石です! 同署は確か、戸津説法をベースにした本だと朧気に記憶していますが、久しぶりに再読したくなりましたwww

仏教といえば、最近本スレで霊性について言及するようになりましたが、霊性といえば鈴木大拙の『日本的霊性』ですね。確か過去に読んでいるはずと、今個人データベースで確認しましたが、同師の別の本でした。だから未読なので一瞬取り寄せようと思いましたが、すでに『天皇霊性の時代』で霊性を知っているので、まぁ読まなくてもいいかと…。>>28の愚山人さんの言葉ではないけど、亀さんも「今や 寡読」、つうか、今は本より酒です(爆)

『言志四録』は小生の手許にもありますが、素晴らしい人生指南の書だと思いマス。同書に目を通した人たちに南洲や今東光がいますが、以下は『言志四録』と同時に和尚のことも取り上げたサイトです。
https://www.utok.jp/%E4%BB%8A%E6%9D%B1%E5%85%89%E3%81%AE%E6%AF%92%E8%88%8C%E4%BA%BA%E7%94%9F%E7%9B%B8%E8%AB%87%EF%BC%8D%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91%E3%80%8C%E6%9C%AC%E9%9F%B3%E3%81%A8%E5%BB%BA%E5%89%8D%E3%80%8D6/

32:猿都瑠 :
2019/04/26 (Fri) 16:39:28

>>31
亀さん

『天皇霊性の時代』を読んでます。
『昭和天皇のおほみうた』と併読中です。
天皇陛下に付いて語る上に於いて必読ですね。
天皇陛下こそが憲法護持の云々とか、そんなものは戦後民主主義に毒された寝言であると言って過言じゃ無いでしょう。
それはさておき、まだ半分ぐらいなんですけど、『天皇霊性の時代』P119から。
「この国の形」というような、客体化した、冷ややかな物言いを聞くことはあっても、
「我が国の姿」という、血の通った理想像を語る声は稀にしか聞かれなくなりました。
形は作るものであり、外的なものですが、姿は全体であり、もともとある、何かしら内面の顕れです。
天皇皇后両陛下の熱祷※に日本の真姿は支えられてきましたが、
憲法に名を借りて、政の府は、あまりにもそこから遠去かりすぎてきたのではないでしょうか。
この文章には痺れました。
※熱祷(ねつとう)の祷は示壽
何とか平成の間に読み終わりたいと思います。

33:亀さん:
2019/04/27 (Sat) 02:23:25

>>32
> この文章には痺れました。

『天皇霊性の時代』p.119の行に痺れると書いた、猿都瑠さんに痺れました。ちなみに、「この国」という言い方についての小生の愚見は、拙ブログ「沖縄の心」にも少し書きました。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-60.html

同書の次小節、「神話は霊性の大河の水源である」(p.120)にも目が留まったと思いますが、竹本は柳田國男を取り上げていますね。
__________
民俗学の大家、柳田国男翁は、最晩年に、こう痛恨の一言を発したと伝えられています。
------------
「しまった。言語や方言などに熱をあげるんじゃなかった! 神話を研究すべきだった。なぜなら、神話は、神話などというものではないからだ。日本人とは何 かを知るために自ら聞いた民俗学の目標は、究極には日本の神々の研究によって果たされるべきだった。だが、もう時間がない!」
------------

神話は神話などというものではない。
では何か、といえば、それは霊性の大河である、と筆者(柳田國男)は言いたいように思います。その大河には、さらに、水源がある。そこに遡って、流れと身をなして下るべし--と。
柳田翁の後悔を私どもも引きずってはなりますまい。

『天皇霊性の時代』p.124
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
小生、その霊性と五月一日に接してきます。

亀さん@人生は冥土までの暇潰し

34:mespesado:
2019/04/27 (Sat) 09:18:09

>>33
> ちなみに、「この国」という言い方についての小生の愚見は、拙ブログ
> 「沖縄の心」にも少し書きました。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-60.html

 リンク先の動画見ました。2013年(皇紀2673年、平成25年)の段階で既に保守側というか、アンチ左翼の内容を評価しておられた亀さんには敬服です。
 さて、「この国」と「我が国」の違いですが、確かに「この国」というのは、一見すると自分の母国である日本を冷静に眺めるための「客観視した言い方」のように見えるかもしれないが、それは絶対違いますね。
 もし客観的に眺めたいときは「この国」とは言わず、ただ「日本」と言ってますよ、そういう場合は。
 ではどういうときに「この国」という言い方をするかというと、日本を見下している場合ですね、特にサヨク界隈で。サヨクな人は、保守から「反日」と呼ばれていますし。ただ、サヨクからすると、「日本が嫌いなわけじゃない。政府が気に入らないんだ」と言うのですが、選挙で自民が圧勝するたびに、「おかしいな、あんな悪政ばかりしている自民党政権が何で選挙で勝つんだろう。そうだ!それはきっと大多数の国民は金持ちに雇用や賃金で首根っこ掴まれてるから金持ち優遇の自民党に投票を強要され、本心である野党に投票できないからだ。じゃあそんな金持ちを力で倒すしかない。革命だ!」という流れになるからサヨクは革命が好きなわけですネ。
 いずれにせよ、サヨクな人たちは、自分たちが正しい。一番エライという考えに凝り固まってる。「この国」という上から目線の表現は、まさにその象徴です。

35:mespesado:
2019/04/27 (Sat) 09:34:41

>>33
> 神話は神話などというものではない。

 おお、この一文に痺れましたw!
 神話、あるいは宗教ですが、日本神道もタテマエ上は数ある「宗教」の一つと見做されていますが、上の引用文になぞらえると

> 日本神道は宗教などというものではない。

ですよね。なぞらえ、というよりは、全く同じことの別表現に過ぎないくらいです。つまり日本神話、日本神道は土着な要素が非常に強い。例えば儒教やキリスト教や仏教やイスラム教は「教祖」がいます。日本神道に対応するのはヒンズー教くらいでしょうか。
 対する「神話」の場合も、戦後の歴史学者は『古事記』や『日本書紀』の日本神話を、『古事記』や『日本書紀』完成時点である7世紀に後から創作されたものだ、などと根拠のないことを言う。これは戦前の、日本神話をそのまま史実であるとして社会科で教えてきたことの“WGIP洗脳による”反省から、完全否定してしまったことの現れでしょう。

36:猿都瑠 :
2019/04/27 (Sat) 15:25:15

>>34
サヨクは二言目には安倍政権は嘘つきだと言いますけど、
自説を強化する為に、作話を我田引水的にさぞ事実の様に喧伝してきた罪は、相当に重いものですよね。
陛下こそが護憲を訴えておられるみたいな、まぁこれは彼らの都合のよい思い込みでしょうけど。
昭和天皇も1975年を最後に靖国参拝をされなかったんですが、靖国参拝をしたい想いは「うた」に込められてるんですよね。
決してサヨクが言うような、ましてや中韓に対する配慮なんかではない。
中韓に配慮し続けて来たのは政の方であったと。
やはりこの国と言うような言い方をする人間が増えた結果でしょう。
ところが、我が国と語る安倍晋三という政治家が出てきた。
日本という国家を下に見ていた連中からすると、国家を上に見る政治家とは嫌悪の対象以外何物でもない。
それが安倍政権支持と反安倍の現象としての今現在の政治批評なんでしょうね。

37:亀さん:
2019/04/28 (Sun) 06:42:45

やっと暖かい春の気候に慣れてきたというのに、昨朝と今朝は例年になく寒く、キーボードを打つ手を幾度もこすり合わせるほどでした。北海道は雪だったというから無理もないか…

>>35
> 日本神道は宗教などというものではない。

御意。また、神道には教祖がいない、というmespesadoさんの視点、言われてみればなるほどであり、新鮮でした。
教祖の有無という視点に痺れた後、もう一つの痺れがありました。それは、神計らいで今日発行の『みち』を校正中に目にした、聖書についての一文です。
__________
神が複数存在する。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
小生は時折ブログで、「一神教vs.多神教」という話を引き合いに出しますが、一神教と言うと「唯一の神」というイメージを抱きがちです。しかし、聖書に は"Gods"という複数形や名を変えた〝神々〟が多く登場していることに、十代の頃に住み始めたアメリカで、特に最後の一年間ほど毎週のように通っていた、教会で何となく疑問に思っていました。このあたりは長年腑に落ちなかったのですが、「神が複数存在する」という明確な背景を指摘していた、ミュージシャンであるJINMOさんの一文に接し、大いに頷けるものがあったのだし、また、今まで断片的だった聖書の〝神々〟について、漸く納得のいく視座を獲得できたような気分になった今朝でした。

加えて、見事なアナロジーにも接しました。
__________
アブラハムによってユダヤ教が始まってから、その聖典・旧約聖書が完成するまで1200年もの長きを要している(執筆期間は400年間)。
例えるなら、平安時代の初期に始まった宗教団体が、21世紀の今日、ようやく聖典を手にしたようなものだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
神道の八百万の神々同様、原始ユダヤ教にも複数の神々が存在していたことは知っていたが、それが唯一の神に変わっていった過程はどうだったのか、今後の研究対象にしたいと思った次第。それにしても、「平安時代の初期に始まった宗教団体が、21世紀の今日、ようやく聖典を手にしたようなもの」という比喩、お見事です!

それから、>>34で紹介した動画の我那覇真子さん、今でも政治活動家として活躍中です。

亀さん@人生は冥土までの暇潰し

39:猿都瑠 :
2019/04/29 (Mon) 03:03:24

『昭和天皇の学ばれた「倫理」―倫理御進講草案抄』杉浦重剛著
天皇霊性の時代に杉浦重剛氏の事が書かれており、そこに「倫理」があったんですね。
早速探してみると、最近に出版されてる事を知り、ジュンク堂神戸店に立ち寄りました。
すると、『昭和天皇の学ばれた教育勅語』杉浦重剛著 も並んでるじゃありませんか。
二冊を持ってレジに行きました。
亀さんは今、古事記を音読されてるとの事ですが、今まで自分は黙読でした。
しかしこの二冊は音読が良いとの直感がして、音読を始めました。
昭和天皇の受けられた帝王学の極致が詰まっている。
霊性を知るには同じ道を辿ってみたらどうかと。
不思議と音読の方が頭に入っていくようです。
当時の文体そのものなので、現代語訳は無い。
しかし不思議なもので、音読をすると意味が朧気ながら輪郭が見えてくるんですね。
戦前の教育の最高峰のエッセンスを吸収すれば、その頃の独立国家としての我が国の雰囲気だけでも味わえる気がします。
日本という国は世界で最も過去と断絶が無い国と思ってましたが、やはり戦前と戦後の断絶は日本国建国以来最大と言えるでしょうね。
この溝を埋める日本人が一人でも増えることを祈って。

40:猿都瑠 :
2019/04/29 (Mon) 03:26:49

>>38
メッさん
奇跡の経済教室【基礎知識編】は近々購入します。
確かに何か一つに突出した著作は多々ありますが、常に思うのは物足らない部分が目に付く事でしょうか。
國體論とか読んでいても、やはり飯山史観を知る者としては、そこを修正しながら読まなければならない。
一つ上の次元から俯瞰してるように見えるので、その修正を言語化する作業が必要となる。
幸いにも幾人もの先達が放知技にはおられるので、幸せな環境に居るんだなと、飯山翁の偉大さに感謝する日々を過ごしています。

>>33
亀さん
はい、柳田翁のその部分の記述も勿論目に留まってます。
柳田翁が神話と取り組んでいれば、南方熊楠と並び立ってたのではないかと。
南方熊楠については、鶴見和子の1冊を読んだに過ぎないので何とも言えませんが。
去年3月の堺の集まりで、飯山翁が鶴見和子は鶴見俊輔の娘って言ってましたけど、姉ですって訂正出来なかった事が悔やまれます。
それにしても読書と名著と呼ばれる著作と向き合うと、どんどん知らない世界が見えて来て、謙虚になれますね。
上から目線で一端の評論家気取りなんか恥ずかしくてw

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