SSブログ

米沢英語研究懇話会で「置賜発アジア主義」 [アジア主義]

昨年発刊の「宮内よもやま歴史絵巻」を恩師篠田州雄先生にお送りしたのがきっかけとなって、米沢英語研究懇話会第101回例会で話させていただく機会を得た。篠田先生の思いは、「宮内よもやま歴史絵巻」発刊について語って、ということだったのかもしれないが、「置賜発アジア主義」をまとめあげる動機付けに利用させていただいた。おかげで「懐風」誌に寄稿の文章ができたのだが,それについて話す会が昨日。1時間足らずの時間なのに、A3で6頁の資料を用意することになったから大変。あっという間に与えられた時間が過ぎて、最後は語りたいことの半分も語れない、不完全燃焼のまま時間切れ。そもそも書いた文章に頼り切ったのがまちがい。あれもこれもでなく、きっちりテーマを定めてやらねばダメ、と強く反省。思いつくテーマというか、いくつかの切り口をあげておきます。

・そもそもなぜ「置賜発アジア主義」なのか(「九州発」との対比で「まっとうなアジア主義」)
・上杉茂憲公漢詩「戊辰討庄先鋒細声駅述懐」、そして「戊辰雪冤」へ
・雲井龍雄から曽根俊虎へ
・宮島誠一郎、雲井龍雄、内村鑑三に共通する政体論(「民主主義」への懐疑)
・宮島誠一郎の生涯
・河上清、遠藤三郎、平貞蔵の「アジア主義」
・大井魁の思想的意義
・これからの時代

以下、用意した資料です。

*   *   *   *   *

米沢英語研究懇話会 講話資料                     H.31.3.23 於 置賜総合文化センター

置賜発アジア主義

はじめに

平成29年から30年の「ゆく年くる年」→金正恩委員長の平昌オリンピック参加表明→東アジア情勢の激変→世界の転回

上杉茂憲公漢詩「戊辰討庄先鋒細声駅述懐」(「戊辰戦争と米沢」展)→戊辰雪冤→まっとうなアジア主義

  軽重自存義与情 軽重自ら存す、義と情と 
  暗揮双涙討同盟 暗に双涙を揮って同盟を討つ
  隊伍森然更無語 隊伍森然として更に語る無し 
  満山風雪発軍営 満山風雪、軍営を発つ

 

主な登場人物

置賜人

甘糟継成(1832-1869)・宮島誠一郎(1838-1911)・雲井龍雄(1844-1871)・曽根俊虎(1847-1910)・河上清(1873-1949)・宮島大八(1867-1943)・遠藤三郎1893-1984)・平貞蔵(1894-1978)・大井魁(1920-2009

置賜人以外

勝海舟(1823-1899)・内村鑑三(1861-1930)・孫文(1866-1925)・宮崎滔天(1871-1922)・中野正剛(1886-1943

 

「まっとうなアジア主義」

木村東介の体験

《日支事変勃発と同時に、宮島大八というやはりもと上杉藩の国士が支那から帰ってくるというので、これも顧問の中に並べておこうと思って中野正剛の紹介状をもらい、大八の渋谷の仮寓を訪れたのである。/ 丸刈りのズングリした印象で、奥の部屋から現われた大八は、わたくしのさし出した堂々たる「雲井塾塾長」の名刺を中野正剛の名刺とともに、もみくちゃに握りつぶしてしまった。突っ立ったまんま見ようともせずに……。/ 当時の日本における中野正剛の存在は、輝ける太陽のごとき勢いで、中野の演説があるなどといえば、国技館も日比谷公会堂も延々長蛇の列がとりまくほどの人気の絶頂にあったのに、全然それを無視しきっていた。これがまず、わたくしのど肝を抜いた。/ わたくしは初めから、大八を日本の右翼的な国士と決めてかかっており、日本の国威宣揚のとき、皇軍の海外侵略に欣喜雀躍している人と信じきっていたのである。・・・/ ・・・大八は頭からかみつくようなけんまくで日本の軍や官僚、政治家、右翼たちをこきおろした後、「支那の何万何十万の無辜の民を殺し、幾多有為の日本青年の骨を中国の山河に晒して、いった い、なんの得るところがある。中野の馬鹿者にそう言っておけ。」/・・・中野正剛にこのことを話した。椅子に端然と腰をおろして、新聞に目を通していた正剛はブイと立ち上がると、「宮島の気狂い親父が!」と吐き捨てるようにつぶやいて、足を引きずりなから次の間に消えた。》木村東介(1901-1992)『女坂界隈』(1956

狭間直樹京都大名誉教授の曽根評価

 《曽根の書物(『清国近世乱誌』1879/ 天皇の褒辞を受けた)が当時に抜きん出ているのは、まず「万国公法」の立場にたつことを明言していることである。・・・ここでは、一国の政治は民の安定した生活を保証することに責任を負うものでなければならないとする儒学の基本的教義に、曽根俊虎が立っていたことを.確認しておけばよい。興亜イデオロギーはそれと表裏の関係にあるものである。『清国近世乱誌』での”乱”の 位置づけ、「大志」「仁義」の評価はそれを物語るし、しかもそれに加えて「万国公法」の視点でもって叙述しているのである。/ この立場から欧米の侵略に虐げられるアジアの構図を認識にのぼすとき、百尺竿頭一歩を進めて、まっとうなアジア主義興亜のための連携のイデオロギーヘと向かうであろうことは、ごく自然に予想されてよい一つの理路であろう。ほかにそのような理路をたどったものがいくらもいたはずだが、振亜社の形をとってそれを組織化することに着手したのは、まごうかたなく、曽根俊虎の功績である。》「初期アジア主義についての史的 考察(2)第一章 曽根俊虎と振亜社」2001

雲井龍雄と曽根俊虎(『懐風』掲載予定「置賜発アジア主義」より)
 曽根俊虎は三歳年上の雲井龍雄(1844-1871)を敬愛して止みませんでした。尾崎周道著『志士・詩人 雲井龍雄』の最後の場面に、極めて印象深く曽根が登場します。  
 明治38月、雲井龍雄が米沢から東京に檻送され、小伝馬町の牢に送られる前の三日ほどを藩邸の獄で過します。名詩の誉れ高い「辞世」はここで生まれました。
  死不畏死  死して死を畏れず
  生不偸生  生きて生を偸(ぬす)まず
  男児大節  男児の大節
  光興日争  光日と争う
  道之苟直  道苟(いやしく)も直くば
  不憚鼎烹  鼎烹(ていほう)を憚(はばか)らず
  渺然一身  渺然たる一身
  万里長城  万里の長城
            龍雄拝
 尾崎は言います。
 《この詩は述懐とも辞世とも題せられて伝えられてきたが、「渺然一身万里長城」と咄(とつ)として、何故に万里の長城を龍雄が見るのか、長いあいだ疑問であった。真蹟の詩の終りに龍雄拝とあるのも解きかねていた。が、最近あるとき、フッと二つとも 疑いは消えた。それはこうだ。/ 龍雄が獄中でこの詩をうたうとき、牢格子を隔ててこれを聴く一人の男がいたのである。その名は嘯雲曽根俊虎。この詩はまさに米沢の男が、米沢の男に志をつたえる絶命の詞に他ならない。龍雄は、燈下ひとり剣に看た清国への想いはやまなかった。いま幽明相隔てようとするときに、二人の間に万里の長城はあらわ れ、延々とつづいたのである。荘厳な儀式というべきである。龍雄が死とともに天に騰ると俊虎は一躍して清国に渡って万里の長城の雲に嘯(うそぶ)いた。》
 雲井龍雄27歳、曽根俊虎24歳、龍雄は俊虎に向けてこの詩を詠ったのです。
「心配しなくてもいい、間もなく迎えるであろう死を怖れてはいないから。偽って生きながらえようとする気は全く持ってはいないから。男の真直ぐな生き様が発する輝きは、太陽の輝きにも匹敵する。おのれの歩む道が真っ当なものならば、たとえ釜茹でになろうともかまわない。いずれとるに足らないこの身ではある。とはいえ心は勇躍せよ。勢いを以てさらに、身をも勇躍せしめるべし。狭い日本に留まるのではない。万里の長城を思うがいい。」
 その前年(明治2年)秋、同志が集い解盟の宴を催した際、その折の心境を託して詠ぜられた詩があります。「會舊部局將校於。置酒更盟。酔後、賦之」、その一部を引きます。

  聞説八小洲外別有五大洲  聞くならく八小洲の外別に五大洲あり
  長風好放破浪舟  長風放つに好し破浪の舟
  鳥拉之山太平海  烏拉(ウラル)の山太平の海
  去矣一周全地球  去って一周せん全地球

 尾崎の釈、《聞くに日本の外には五大洲があるという、破浪の舟を長風に放ってウラルの山や太平洋と地球を廻り、各邦の俊傑と親しく語り、万国の名勝を観てしかる後、故郷に帰って松菊を伴とすることが出来れば、一世の能事は終りだ》——雲井龍雄にとっての「戊辰雪冤」の念の向かう先は、アジアからさらにウラルを越え、勇躍世界へと羽ばたいていたのです。
 狭間直樹教授は、曽根の「万国公法」に基づく公平性を評価しました。「万国公法」といえば、雲井龍雄の有名なエピソードがあります。龍雄が 三計塾に在塾の折、師安井息軒から横浜に行って毛布を買ってくるように命ぜられます。ところが毛布を買う金で「万国公法」を求めて、帰って師に言うには 「さほど貴重とも思えぬ毛布よりも、この書物を先生に読んでいただいた方が国のためになると判断して買ってまいりました。」息軒は龍雄の判断を諒とし、そ の労を謝したというのです。「万国公法」を尊重する曽根の姿勢に、雲井龍雄の影を感じました。

 曽根は孫文(1866-1925)と宮崎滔天(1871-1922)をむすびつける役割を担います。

【宮崎滔天:日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲師。欧州に侵略されているアジアを救うには、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であり、それが世界平和に繋がるという信念のもと、大陸浪人として活躍した。明治35年(1902年)に國光書房より出版した『三十三年の夢』が『孫逸仙』という題で中国で抄訳として紹介された事で、「革命家孫逸仙」(孫文)の名が一般に知られるようになり、革命を志す者が孫文の元に集まるようになる。(ウィキペディア)】
『遠い潮騒—米沢海軍の系譜と追憶ー』(松野良寅 米沢海軍武官会 昭和55年)「曽根俊虎海軍大尉」より

 つとに英学に関心の深かった曽根俊虎は、慶応四年戊辰戦争の渦中から明治二年にかけ、渡辺洪基について米沢で英学を修め、次いで東京麻布の上杉邸にいた甘糟継成を頼って、吉田賢輔について英学を修める。

 曽根と共に英学を修めた内村良蔵や平田東助は大学南校に、樫村清徳は大学東校に進み、後日それぞれ名をなすが、曽根は、明治四年海軍に入った。

 「東京丸」乗組を申付けられたのが、明治四年十二月九日で、半年後の明治五年六月に海軍少尉に任官している。

  明治六年三月、外務卿副島種臣特令全権公使に随行し、龍驤艦で靖国に渡っている。同年十二月海軍中尉に進級し、海軍省勤務を経て、明治七年九月二日から八 年十二月十五日まで靖国上海に派遣され、九年二月十日から十年十二月二十日まで再度靖国に滞在、中国の事情を視察して、明治十一年一月十七日帰朝し、翌日 明治天皇の拝謁を仰せつかっている。

 帰国後曽根は、中国事情に深い関心を寄せていた宮島誠一郎、樫村積徳ら同郷人と協力して、興亜会(会長 長岡護美、副会長 渡辺洪基)をおこし、本邦最初の、本格的中国語教育施設である興亜学校を設立、日中連合を首唱する。

 その後、明治十二年から十九年にかけ、曽根は再三中国に渡り、中国事情に通暁する。そして、明治十九年三月二十二日、参謀本部海軍部編纂課長心得に任じら れ、当日上海を去り帰朝する。が、在清中送った建白書が、時の外務大臣井上馨の逆鱗にふれ、一切の官職は剥奪され、海軍監獄に収禁の身となる。(無罪)

 ・・・・・・・・・・・・

 このような事情の背景には、明治二十年から二十一年にかけて、伊藤内閣が企図した不平等条約改正の内容、及び大日本帝国憲法改正案等が外部に漏れ、朝野にわたり大反対運動が展開された事実がある。

 第一次伊藤内閣は、明治二十年十二月、内相山県有朋、警視総監三島通庸の主導により、保安条例を公布してこの反対運動に弾圧を加えた。この間に、秘密出版でボアソナード、谷干城らの反対意見書が流布される。これに関連して、曽根俊虎も身柄を抱禁されたものと考えられる。

 明治二十二年、黒田内閣の大隈外相が、条約改正を強力に進めようとした結果、十月十八日、超国家主義団体玄洋社の来島恒喜に襲撃され、重傷を負う惨事が起こった。

 かくて、形勢不穏のさ中、野に下った曽根俊虎は、植民協会員となってアメリカに渡ったとも言われているが、明治二十九年四月三十日付で、台湾総督府撫墾署主事に任じられ、同年五月二十五日、台東撫墾署長に任命されている。

 明治三十一年依願免官となってからは、蘇州で梁山泊的な生活を送り、日露戦争後、農務省の補助を得て、蘇州日本人居留地に、商品陳列館を設置したりするが、明治四十二年病いに伏し帰国、翌四十三年五月三十一日病没する。

 海軍大尉曽根俊虎の志を継承したのが、善隣書院の経営を通し、日中親善友好に多大の功績を遺した、勝海舟門弟宮島大八であった。

 

雲井龍雄と内村鑑三

内村鑑三「萬朝報」社説(明治30420日)「起てよ佐幕の士」

《諸士に賊名を負はせ、諸士の近親を屠り、諸士をして三十年の長き、憂苦措く能はざらしめたる薩長の族ハ今や日本国民を自利の要具に供しつゝあるに非ずや、若し雲井龍雄をして今日尚ほ在らしめバ彼等ハ何の面ありてか此清士に対するを得ん。嗚呼諸士の蒙りし賊名を洗ひ去るハ今なり、諸士何ぞ起たざる》(友田昌宏「雲井龍雄と米沢の民権家たち――精神の継承をめぐって」『東北の近代と自由民権ー「白河以北」を越えて』所収)

雲井龍雄と内村鑑三の共鳴点

・雲井龍雄が版籍奉還に反対した理由(友田昌宏「雲井龍雄と米沢の民権家たち―精神の継承をめぐって」)

《封建体制が今日まで続いたのはそれなりの理由があってのことである。全国の諸侯が現在の版図に封ぜられ、位階を保持しているのは、一朝一夕のことではな く、・・・どんな愚鈍な藩主といえども、その土地と民を愛し、祖先の衣鉢を継いでその功績をおしひろげようとしないものはない。そして、家臣や領民もま た、そのような主君を慕っている。天皇家が万世一系、今日まで続いているのは、統治の一切をかかる武家に任せていたからである。もし君臣を引き裂き、諸侯をほかの土地に移そうものなら身を擲って義に尽くすものはいなくなるだろう。薩摩藩は郡県論でもって私心を覆い隠そうとしているだけだ》

・内村鑑三『代表的日本人』「上杉鷹山」の章の序

《徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。・・・代議制は改善された警察機構のようなものだ。ごろつきやならず者はそれで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、一人の英雄に代わることはできない・・・本質において、国は大きな家族だった。・・・封建制が完璧な形をとれば、これ以上理想的な政治形態はない》

・ 内村が『代表的日本人』を書いた時(明治27年刊)、内村の胸には雲井龍雄が躍っていたにちがいない!

 

河上清(宮下雄七/1873-1949

米沢生れの国際ジャーナリスト

米沢中学を出て上京し最初に頼ったのが曽根俊虎。曽 根は同郷の有為の若者を寄宿させて面倒を見ていた。

内村鑑三が在籍する「萬朝報」記者となり、社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などを追及。

『嵐に書く――日米の半世紀 を生きたジャーナリスト』古森義久

《キリスト教に関心を持ち、英語を学ぶ。自由民権に共鳴して、自由の新天地アメリカに あこがれる。社会主義を信じて政党の旗あげまでするが、一転してアメリカに渡り、日本への愛国を誓う。日本が先導する「アジア人のアジア」を唱え、富国強兵を説く。日本の軍国主義を批判しながらも、アメリカに向かっては日本を断固として擁護する。が、開戦後はまた一転してアメリカ側につき、日本を糾弾する。戦後はソ連の体制を批判し、道義を説き、非武装中立を主張する・・・・・。》

義姉にあてた河上の手紙

《健康だけは大切にしなければと最近つくづく感じています。健康のためにはあらゆる活動を犠牲にするのもやむを得な い。私はまだまだ生きなければならないからです。長く生きて日本が軍国主義のくびきを脱し、また豊かに栄えるのを見なければならない。「アジア人のアジア」という私の永年の理想が現実になるのを見なければならない。そんな新しいアジアでは、日本はまた先頭に立つ国となるでしょう。なんと言っても世界中の 諸国が何世紀もかかって達成したことを半世紀でなしとげた日本が、貧弱な敗戦国のままで長くいるはずはありません。》

 

宮島誠一郎と雲井龍雄

二人は京都探索周旋方として行動を共にする。ただし、《宮島誠一郎と雲井危雄(当時二十五歳)とは五歳の差で、両者とも藩校興譲館の逸材であるが、常識家型の宮島と天才型で激情家の雲井とは私の見るところ両者の仲は必ずしもうまくいっていなかったと思われる》(判沢弘「宮島誠一郎と雲井龍雄」『共同研究 明治維新』所収)

二人は版籍奉還の評価をめぐって対立。誠一郎が、天皇のもとに国家の統一をはかる方途であり、名実ともに正しい行為と評価するのに対し、心通う君臣関係の上に築かれた封建体制に重きをおく龍雄は、そこに薩摩の邪謀を見て、真っ向から反対する。《誠一郎は慶応四年の戊辰戦争のおり、勝(海舟 1823-1899)と出会うことで、封建体制から中央集権体制へと国家意識転換の契機をつかみえたのであるが、龍雄は慶応元年に江戸に上り、安井息軒(1799-1876)の薫陶をうけることにより、その封建思想をいっそう強固で揺るぎないものとした。そして、それは戊辰戦争での探索周旋活動を経ても変わることがなかった。》(友田昌宏『東北の幕末維新: 米沢藩士の情報・交流・思想』)

明治3年(187127歳にして小塚原の露と散った雲井龍雄であったが、明治20年代自由民権運動の中で、遺した多くの詩とともに息を吹き返す。

しかし一方、誠一郎は明治5年(1872)にいち早く立憲政体の樹立を提唱(「立国憲議」「「国憲編纂起原」)したにもかかわらず、民権運動を蛇蝎の如く忌み嫌った。なぜなら誠一郎にとっての立憲政体構想は、「君民同治」すなわち、立法権を君と民が分有することとしつつも、政府をあくまで天皇の代理者とし、その政府のもとに行政権を置こうとするものであった。したがって、選挙でもっとも多くの人民から支持を得た政党が内閣を組織し、行政をも担当する議院内閣制を目指す民権運動とは相容れないものであった。

誠一郎の「君民同治」は甘糟継成(1832-1869)から得ていた。継成にとって「君」は藩主でした。時代が変わって「君」は天皇です。幕末から明治へ、その激動の最中にあって、宮島誠一 郎には見えていたものが、雲井龍雄には見えなかった。しかし、龍雄にしても新しく変わった世を生きていれば、「民」への全権委任を求める自由民権運動よりも、誠一郎の「君民同治」論を支持していたのではなかったか。

 

宮島誠一郎と宮島大八(詠士)

明治5年(1872)左院少議官時代、「国憲を立つるの議」(「立国憲議」)を提出して憲法制定の必要を説き、「日本民主政治の先駆け」と評価。宮内省御用掛として明治天皇に親しく仕え、帝室典範制定の中心的役割。《宮島誠一郎は東亜の情勢に通暁していた。東亜問題に関する知識と識見のほどは、重要な問題の発生した折、「そのことに就て宮島の意見を聞いたか」と、度々明治天皇から係りの者に御下問あったことによって知られよう。政治的意見の対立がある時、有力な政治家の間に立ってしばしば調停役をはたしたことも文書や書翰が伝えている。》(平貞蔵『宮島詠士先生遺墨選』)

誠一郎は、嘉永3年(1850)から明治41年(1908)までの詳細な日記のほか多くの貴重な文書を残す。それらは、早稲田大学、国立国会図書館、上杉博物館に「宮島誠一郎文書」として所蔵され、近年になってようやくその研究の成果が論文、著書として次々発表されるようになってきた。

宮島誠一郎こそ大河ドラマに取り上げるにふさわしい人物。日本の近代の出発を、「白河以北」の立場も加えた視点から見直すことになるだけでなく、誠一郎を軸に「雲井龍雄→曽根俊虎→宮島大八」の生き方、思いを追うことで、アジアユーラシア世界の明るい未来ビジョンが拓けてくる。

誠一郎のアジアへの思いを継承したのが息子大八(詠士)。幼少にして父母とともに上京、11歳で勝海舟の門に入る。20歳で渡清して清末の碩学張裕釗(ゆうしょう/廉卿)に師事して書法を究め、7年の滞在を経て中国を去るに際しては、同門から「中国の書東す。」(中国の書道、日本に移 る)といって惜しまれた。帰国後大八は、日中交流を担う次世代の教育のために、後々使い継がれる数々の中国語教科書を編纂、中国語塾善隣書院を経営して多くの人材を育てた。

大正81919)年のパリ講和会議において、日本代表の牧野伸顕が、国際会議では最初となる人種的差別撤廃を提案。この提案を牧野に入れ知恵したのが宮島詠士。《先生は、父誠一郎と牧野の父大久保利通とが友人だったので牧野とは早くから交り親しかった。牧野は出発に先立って「出発準備に忙殺され自分でお訪ねする 時間がない。失礼だが小村欣一(小村寿太郎の息)をお伺いさせるから、会議でどういう提案主張をしたら宜しいものか、お考えをきかせてほしい」と電話を先生にかけてよこし た。先生は大事なことと思って色々思案したが良い考えが浮ばない。そこで、「師の勝海舟先生なら、こういう場合にどういうことを主張されただらうか」と考え、頭をしぼった。そして人種平等ということに思いついた。小村を通じて牧野にそれを述べたのである。今でこそ当然のこととされるが、当時このことに思い 至ったのは偉とせねばならない。人種平等案はヴェルサイユ会議では採択されなかったが、黒人は牧野を神のように尊敬し、大きな希望を与えられるに至った。日露戦争における日本の勝利がトルコ以東の諸民族の覚醒を促したのに類する事件だったわけである。》(同上) 

 しかし詠士は一切このことを公にしようとはしなかった。書院の老小使に話したことを平が伝え聞き、不審に思ってあとで先生に確かめた。

大八の中国観がわかる談話記録がある。 昭和15113日、重慶政府№2の汪兆銘(精衛 1833-1944)が蒋介石と袂を別ち、日本側の意向に沿う南京政府樹立(330日成立)に向かう動きの中での談話。《汪兆銘も今度は命を投げ出して出て来たのだから、日本もその点は認めてやらねばならぬ。決して支那人を馬鹿にすべきではない。寧ろ支那人が日本人を馬鹿にして居るかも知れぬ。馬鹿にされても何でも構わぬ、日本は正しいと考うる道を堂々と進んで東亜永遠の平和のために努力しさえすればよい。そうすれば支那人もきっとついて来る。日支人相互にその長所を認め合ってお互に尊敬して行けば必ず親愛の情が起って来る。一体日本人は余りに長い間西洋を尊んで支那を侮り過ぎた。今こそ反省すべき時である。支那人は利害問題では西洋人と親密になるが、精神的に結び着き得るのは同じ東洋人たる日本人ではあるまいか。日本人もこの際支那を見直さねばならぬが、支那もその国本来の大学間たる漢文を復興してその歴史なり民族性なりを研究して自己を研くべきであろう。》「詠翁道話」(富永覺『素描ー人と画とー」所収 1969

 

遠藤三郎(1893-1984

戦後「赤の将軍」と言われながら平和運動に生涯を捧げた小松生れの遠藤三郎中将の中国観も宮島大八と通い合う。やはり「置賜感覚」。《戦後私は毛沢東氏を始め中華人民共和国に多くの知己を得ましたが、私の見る所中国人はやはり数千年の文化の歴史を持つだけあってどこの民族よりもおとな の様であります。我々の学ばねばならぬ幾多の徳操を持っている様に思います。「他からは学んでも他に求めず、なし得れば他に与える」という心構えがあれば 人も国も争いは無くなるのではないでしょうか。》(『日中十五年戦争と私』1974遠藤中将は、中支従軍中の記念として汪兆銘から掛軸を贈られています。帰国に際しては、汪政権の国防部長からは「日本陸軍中もっとも親しみあり、かつ信頼し得る将軍だ」と評されたと、「リップサービス」と謙遜しつつ記しています。

(第28回国会予算委員会公聴会/昭和33225日)《役にも立たない軍隊を作って、アメリカの役にも立たない兵器をもらって、そうしてわれわれの生活を暗くするような軍備はおやりにならぬ方がよかろうと私は思っております。》《真に 人類社会の永遠の幸福をこいねがうならば、まず軍隊をなくすべきものであろうと思います。現憲法によりまして戦争と軍隊とを否認しておる日本こそ率先して これを実行し、米ソの間の抗争を緩和するよう奉力することがわれわれ日本人に与えられた崇高な使命と信じております。》

 

平貞蔵(1894-1978

長井市伊佐沢に生れ、米沢中学から三高を経て東大へ。左派学生が集まる新人会で労働運動に関わり、浅沼稲次郎、野坂参三らとも知り合う。恩師吉野作造の勧めで中国を旅し、孫文とも会う。命懸けの秘密工作にも関わり、満鉄調査部へ。昭和12年(1937)日中戦争がはじまると、戦線拡大を停めるべく内地に戻って内閣直属の企画院に。「天皇陛下の力で戦争収拾を」と画策するもかなわず、その後は人材育成を通して軍に歯止めをかけるべく、近衛文麿率いる新体制運動に力を向ける。学生時代より門下生として宮島大八に親しく接し、貞蔵が遺した大八についての記録は貴重。戦後は東京電機大学教授の傍ら、郷里山形県と米沢市の開発計画策定に関わり30年近く主導、八幡原工業団地、栗子ハイウェー、米沢総合卸売団地センター、旧市街地の再開発等の功績を残した。米沢市名誉市民。

 

大井魁1920-2009

昭和38年、中央公論に「日本国ナショナリズムの形成」を発表し、当時の言論界に大きな反響を巻き起こす。(拙ブログ「移ろうままに」に転載https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2015-04-07

《日本国に理性的なナショナリズムを形成することが、今日の急務である。》とし、それには《日本帝国時代の日本人と日本国の今の日本人との、歴史的な一体感の回復をおいてはほかにない。国家としての(戦前戦後の)断絶を超えて、帝国臣民の主体的体験を日本国国民が自己の体験としてうけとり、帝国時代の日本を今の日本人の自我のうちにつつみこむことが、日本国にふさわしいナショナリズムの形成の条件である。》そして最後を、《何よりも望まれるのは、日本の五十万の教師の自覚である。日本国の理性的ナショナリズムの形成は、まず日本の教師たちの先覚者的任務の自覚からはじまらなければなるまい。》と締めくくる。

翌年刊行の『大東亜戦争肯定論』(1964)で、林房雄は大井論文を高く評価。上記締めの文章について《あまりに「先覚者」すぎる日教組の現指導者諸氏はそっぽを向くかもしれぬが、少なくとも半数の二十五万の教師諸氏の胸底には同じ憂いと自覚が芽生えはじめて いるのではなかろうか。憂いは哲学的となり、形而上学的となり、もやもやの雲となっているが、やがて雨となって日本の乾いた土をうるおしてくれるかもしれ ない。》と記す。

孫文演説について、《中国革命の父と呼ばれる孫文が、その死の前年である一九二四年の講演に、中国革命の基本思想を説いたなかで、明治日本のナショナリズムを評価していることは周知のとおりである。/ 日本は、「ヨーロッパ文明の東方への到来に乗じ、ヨーロッパ、アメリカの風雨のなかに身をひたして、新しい科学の方法を利用し、国家を発展させ、維新後五十年にしていまやアジアでもっとも強大な国家となった。・・・この日本が富強になり得たということは、アジアの各国に限りない希望を生みだした。・・・以前にはヨーロッパ人にできることでも、われわれにはできぬものと思われていたものだ。それが今日本人がヨーロッパに学び得たことから、われわれが日本にまなび得るこことがわかったわけだ」/ 右のように述べて、孫文は、日本が衰えた国から強大な国家に変ったのは、”民族主義”の精神があったからだと論じている。アジアにおける明治日本に対する右のような評価は、今日においても変更を加える必要はあるまい。

 日本は「民族主義」によって近代化を果し、アジアの希望となった。しかし、大井論文はつづけて《朝鮮の併合を機として、日本のナショナリズムは、他国と他民族の犠牲において自国の発展をはかる我欲的ナショナリズムに転換する。》と指摘、《日本帝国は、朝鮮の併合から道徳的に汚れはじめた》とします。大井論文の志向する「ナショナリズム」が、帝国主義とは一線を画する「置賜発アジア主義」の流れを汲む。大井先生主張の「ナショナリズム復興」は、「真っ当なアジア主義の復興」と同義です。

孫文演説

孫文(1866-1925)、大正13年(1924)神戸で2000人の聴衆を前に「大亜細亜問題」と題して演説。《東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道であります。王道は仁義道徳を主張するものであり、覇道は功利強権を主張するものであります。仁義道徳は正義合理によって人を感化するものであり、功利強権は洋銃大砲を以て人を圧追するものであります。》とし、公刊された演説原稿の最後では《貴方がた日本民族は、既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の手先となるか、或は東洋王道の防壁となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な選択にかかるものであります。》と締める。

演説の前日、孫文は頭山満(1855-1944)と会談、満州をめぐっての意見の対立が明らかになる。《「九州発アジア主義」は満州利権確保を狙う帝国ナショナリズムの側に絡めとられてしまっていました。満州権益をめぐる日中立場の違いが表面化しつつある中での孫文演説だったのです。/ しかし、歴史の現実から眼を背け、純なる「王道」的立場で「霸道」を断罪することはできません。孫文の言い分をそのまま諒とすることはできないのです。当 時まだまだ貧しい日本にあって、満州はまさに「王道楽土」の可能性で輝いていました。孫文自体、かつて「滅満興漢」を革命のスローガンにしていた時には、満州は日本にまかせる考えでした。ところが革命成就とともに、満州は中国ナショナリズムの圏内に入りました。必然、九州発アジア主義は日本ナショナリズムと一体化、中国との対立関係に陥らざるを得なかったのです。その行動力、それゆえの政治性によって歴史に深くコミットしてきた「九州発アジア主義」と、む しろ文化的な「置賜発アジア主義」の分水嶺がここにあります。》

 

むすび(『懐風』掲載予定「置賜発アジア主義」より)

 戦前の対外的膨張ナショナリズムに同化させられたアジア主義とは異質な、もうひとつのアジア主義の流れが、この置賜から流れ出していることに気づかされ、その都度メモっていたものを一本にまとめてみました。

 なぜ置賜なのか、思い当たるのはやはり、謙信公に発し直江公を経て鷹山公によってしっかり根付かされた置賜のエートス(精神風土)です。雪の深い一本道で誰かが出逢ったその時に、自ら避けて人を通そうと思う心は素直な人間の自然にとる道であろう。≫(「興譲館精神」)―― 何も難しくはない、要するに自然の情理に沿うことです。置賜発アジア主義とは、主義をことさら標榜したわけではなく、目覚めた日本が世界に目を向けた時、置賜の空気で育った先人達が自ずと歩んできた道行きです。振り返ると、一本の道筋がついていたのです。

 ではこれから先に見えてくるのは何か。

 明治中期以降現在までの国民総生産の変化のグラフです。(貨幣価値変動は調整済 https://s.webry.info/sp/naga0001.at.webry.info/201610/article_6.html

 戦前の伸びと戦後の伸びではそのスケールがちがいます。この勢いで、豊かに、便利に、楽に、暮しやすくなったのです。さらに2045年にはAIが人間の知能を超える(シンギュラリティ)と言われ、それに合わせて想像を越えた生産力の発展が考えられます。

 生産力の発展が人間の欲望の進化を上回るようになれば、貧しさゆえの争いは無くなります。争ってまで他のところに「王道楽土」を求めなくてもよくなるのです。孫文の言う「王道」と「覇道」で言えば、あえて「覇道」を求める必要はなくなったと言えます。

  林房雄の言葉があります。

 ≪王道を信ずる者は敗北し、覇道の実行者が勝利者となる。・・・「王道」は常に自ら破れ、「霸道」は「霸道」によって自らほろびる。しかも「王道」は常に不死鳥のごとく灰からよみがえる。「王道」がついに「霸道」を倒して再び立つ能ざらしめる 時は必ずくるはずだ。人間はこの夢を抱いて七千年の歴史の非情に堪えてきた。》と嘆じつつ、≪私もまた「王道実現の夢」をいだきつつ死の床につく一人でありたい。≫と記しました。(『大東亜戦争肯定論』)

 それから50年、宮内熊野大社の大祓詞で明けた平成30年元旦以来の世界の動きは、林が思い描いた「その時」に向けて着々と歩みだしているように思えるのです。

「置賜発アジア主義」全文は、拙ブログ「移ろうままに」で読めます。→https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2019-02-17 〜  

*   *   *   *   *

上杉茂憲公漢詩「戊辰討庄先鋒細声駅述懐」に、「こういうのを見せられると吟じたくなる」と語った篠田先生に、懇親会もだいぶ盛り上がったところで、「酒を飲んでからはあまりやりたくないんだが」と言われるのを無理に吟じていただきました。米沢の後藤先生というところでやっておられたそうです。昭和7年生れ86歳の篠田先生、さすが味わいのある吟、録音させて頂きました。先生の謡曲は観世流の本格派です。

                                        


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。