SSブログ

吉野石膏の歴史(8)最終回 [吉野石膏]

最終回です。

*   *   *   *   *

  カッコ悪いけどね

 コンピナートがIカ所ばかりじやないからね、そっちこっちだからね、三菱系統なら三菱系統、住友系統なら住友系統だけならいいんだけども、そういう訳にはいかなくなってしまった。いま問題になってるけども、窒素(新日本窒素)とか宇部・今のセントラル硝子ね、三菱化成、三菱金属、コープ、そして日産化学とか多木建材とかね、大きいところばかりだ。だもんだから、資本金は六億のままなんだ。資金が必要であれば、やっぱり資本金六十億くらいになってなくちゃならない。少なくとも、資本金三十億くらい無くっちゃカッコ悪いんだけどね。外部の株主誰も居ない。自然にそうなってしまったわけだよ。
(こういう会社というのは、全国でも例がないんじやありませんか。)

 無いねえ、独特の格好だからね。住友系統なら住友系統で大きくなるとか三菱なら三菱系統でって、そういうことではなくなってしまったわけだ。

(衣袋監査役)原料のあるところからシェークハンドしてきたわけでね。で、株も半分半分、作って売るのは全部ウチでね。

(須藤会長)技術は全部こっち、販売もね。向こうは原料だけ、という独特な形というわけだよ。

   重厚長大安物の代表

(ライバル会社を作り乍ら、7〜80%のシェアを維持して来られた?)
  だから公取(公正取引委員会)は、非常に問題にはするわけだ。問題にするんだけども、何もこっちが変なことして作為的にシェアが大きくなったわけじゃな い。もともと100%ウチのものなんだ。それを開放したわけだから。ただ100%の頃は、年間生産高がせいぜい五〜六万坪ぐらいだったのかな。
(衣袋)終戦当時の機械は小さなものだったが、今のは四〜五〇〇メーター、もう大量生産だから。
(輸出とか海外工場というのは?)
(衣袋)ほとんど無いねぇ。重量物だから、運賃が15%だもの。その代わり逆に外からも来ないわけよ。そもそも寸法が違う。アメリカ辺りから来ても規格がちがうから再カットしなくちゃならない。
(須藤会長)重厚長大安物の代表だ。ウチに出入りしている運送屋は儲かったねー最初、三輪車一台で始めた運送星がね、今、トラック800台って言ったかな、そんなでかい会社だ。

   ずっと上昇カーブ

(衣 袋)永次社長というのはタイガー会とかYN会とかって日本国中に代理店を作って居った。全国に販売網があった。他の社はその場所で作っても売れないと結局 遠い所に運ぱなくちゃならない、採算が合わないんですよ。それで「吉野石膏なんとかしてくれ」と来る。だから公取も仕様がないわけ。
 ただ、デメリットはね、経営権が無いわけ。株主総会には行けない、そういうデメリットはあるわけね。株を買って役員を投入するというんじゃないからね。まあ、販売して儲かってるからメリットないわけじゃないねぇ。そういう形態で公取もシェアが少し多くなっても認めてる。大体70%以上になると、ダメーッということになるんだが。
(このままの形態でずっといきますか?)
(須 藤会長)まあ、景気がどうなるかね、どんどん家でも建つようになんないと。金利がいくら安くても、使えないだろう、どこの企業もリストラだ、リストラ だという中では。少しくらい給料安くても、大勢使うというのならいいけど、既存の額を減らすわけに行かないものだから、人数を減らす、これは問題だ。
(衣袋)建築業、銀行、証券会社といった一番人数の多い所が、減らし方やってる。景気良くなる要因がないんだなぁ。
 ただ、ここ五、六十年のことを考えると、終戦直後は「掘って掘って」って炭坑ね、黒もの。そのあとは三白景気って、セメント、肥料、砂糖。その次がガチャ万景気って言って機織り、そして弱電、自動車と、みんなおかしくなって行った。
 ところが、ウチの場合ばかげた好景気は無いんだけども、スローカーブでずっと上がってきている。人聞が住む以上は、住宅が必要だからねえ。

   人に恵まれたね

(明治34年(1901)創業ですから二年後には百周年を迎えられるわけですが、会社の重大な危機というのは無かったのですか?)
(須藤会長)俺が引き継いでからは無いな。それまではそりゃあ大変だった。財産も何も無くて始まった事業だからねぇ。
 俺の時代で危機が無かったということはね、やっぱりいい部下が俺を助けてくれたということだよ、いい部下が沢山いた。優秀な技術屋が何人か居て、俺を助けてくれる部下が大勢いたということだよ。
 仕事なんていうものは、一人で出来るもんじやない、大勢の社員たちが社長と同じ気時ちになってやってくれなきゃね。「企業は人なり」という、その人に恵まれたということだね。
(ホントに若々しくお元気ですが、会長は何歳になられましたか?)
 八十九歳、昔流に言うと九十だなぁ。
(どうぞ益々お元気でご活躍ください。また宮内のお宅にお帰りの折にお目に掛かりたいと思います。長時間有難いございました。)

 昨年(平成10年)十一月末、丸ノ内・新東京ピルの本社に須藤会長をお訪ねしたのだが、大きな声、若々しい表情、明快な話しぶり、そして記憶の確かさには脱帽した。会長は昭和12年春、福島高商(現福島大学)卒業と同
時に吉野石膏㈱入社、父永次社長と共に同社を今日の 隆盛に導いた人である。同39年社長就任、63年長男永 一郎氏にバトンタッチ、会長に就任。これまでに紺綬褒章、藍綬褒章を受章、勲‐‐等瑞宝章、勲三等旭日中・綬章に叙せられている。」
平成16年、95歳の天寿を全うされて亡くなられた。「蒲団の上げ下ろしは自分の仕事」と語られたのを思い起こす。若い頃の肉体労働で鍛えられたであろう偉丈夫だった。)
 
       *   *   *   *   *

 「週刊置賜」の30周年に際して、その間掲載された講演録から光を当てようということで、講演のたぐい30年分をコピーしていた。その中から掘出した。貴重な記録に思え再録した。

その時、10周年につくった「美(うま)し国おいたま―21世紀、置賜は世界の中心になる」のスライドと併せて「講演録でたどる「週刊置賜」30年のあゆみ」というDVDに仕立て上げた。今日があの時からちょうど8年になる震災の年、まだ生々しいその年の6月のことだった。

30年のあゆみE382B8E383A3E382B1E38383E38388E38080E5A496E581B4.jpg30年のあゆみE382B8E383A3E382B1E38383E38388E38080E58685.jpg

3.11の鳥居1992024-F203.11E9B3A5E5B185.jpg30周年の実行委員会の席、《ただの飲んでペちゃペちゃしゃべるだけの祝賀会にはしたくない。「酔った勢いで言うけれど、『週刊置賜』の30年のあゆみのようなものをまとめてみたいと思っている」と口に出した。 その時頭にあったのは、3月11日の夜、息子が停電で真っ暗な町にカメラを持って出て行って撮ってきた何枚かの写真を使って何かできるかもしれない、ということだけだった。それからどれだけたった頃か、ふと「週刊置賜」に掲載された講演録をたどることで一つの歴史の流れを見ることができるかもしれ ないことに思い至った。それからがたいへんだった。/創刊号から総てのページをめくることになった。しかしこれがほんとうに宝の山だった。》そうしてできたDVDだった。

その中、須藤会長インタビューについてのナレーション。

*   *   *   *   *

 吉野石膏株式会社2代目須藤恒雄会長からは、宮内菖蒲沢のご自宅と東京の本社でと2回に亘って話していただいています。
 「処分に困っていた燐酸肥料生産の副産物である石膏を使ってのボード生産、持っていってもらっただけでありがたい原料代、ただでもいいと言われるのに、儲かりすぎて税金に取られるのがもったいないんで、最初は1トン200円、それでも儲かりすぎるんで600円で計算することにした」
「ほんとは株式公開でもして皆さんから資本を集めればよかったんだけど、うちの提携企業はみな大会社なんで金を調達する必要がなかったわけだよ。サインすればどこの銀行でも何億でも出すところだから、金が要らなかったんだなあ。」
 儲かった金は美術品の収集に向けられました。いま山形美術館では、ゴッホの油絵「白い花瓶のバラ」が寄託されたお披露目をかねて「吉野石膏コレクションのすべて」展が開催されています。山形市美術館に はコロー、ミレー、シスレー、セザンヌ、モネ、ルノワール、ルソー、ユトリロ、シャガールなどのフランス近代絵画139点。さらにその他、天童市美術館には横山大観、上村松園、小倉遊亀、東山魁夷、加山又造、杉山寧、平山郁夫など約100点が寄託されています。なぜ南陽でなかったのか、そんな思いがよぎります。

*   *   *   *   *

そもそもこのインタビューを思い起こすことになったのは、Eテレの「日曜美術館」を見たことからだった。(そのあと「まんぷく」があって、「吉野石膏のすごさ」の記事になった。)



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。