「置賜発アジア主義」(10)復興アジア主義 [アジア主義]
復興アジア主義
戦後「ナショナリズム」がタブー視されていた時代にあって、いちはやくその必要性を訴えたのは米沢興譲館高校の大井魁先生でした。私も高校3年で日本史を習いました。中央公論に「日本国ナショナリズムの形成」を発表し、当時の言論界に大きな反響を巻き起こしたのは昭和38年、私が高校1年の時でした。その論文は『戦後教育論』(論創社 1982)で読むことができます。(https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2015-04-07)
《日本国に理性的なナショナリズムを形成することが、今日の急務である。》とするもので、それには《日本帝国時代の日本人と日本国の今の日本人との、歴史的な一体感の回復をおいてはほかにない。国家としての(戦前戦後の)断絶を超えて、帝国臣民の主体的体験を日本国国民が自己の体験としてうけとり、帝国時代の日本を今の日本人の自我のうちにつつみこむことが、日本国にふさわしいナショナリズムの形成の条件である。》とし、最後を《何よりも望まれるのは、日本の五十万の教師の自覚である。日本国の理性的ナショナリズムの形成は、まず日本の教師たちの先覚者的任務の自覚からはじまらなければなるまい。》と締めくくっています。その翌年刊行の『大東亜戦争肯定論』(1964)で、林房雄は大井論文を高く評価しました。締めの文章について《あまりに「先覚者」すぎる日教組の現指導者諸氏はそっぽを向くかもしれぬが、少なくとも半数の二十五万の教師諸氏の胸底には同じ憂いと自覚が芽生えはじめて いるのではなかろうか。憂いは哲学的となり、形而上学的となり、もやもやの雲となっているが、やがて雨となって日本の乾いた土をうるおしてくれるかもしれない。》と記しています。
この論文の中で先の孫文演説が取り上げられています。
《中国革命の父と呼ばれる孫文が、その死の前年である一九二四年の講演に、中国革命の基本思想を説いたなかで、明治日本のナショナリズムを評価していることは周知のとおりである。/ 日本は、「ヨーロッパ文明の東方への到来に乗じ、ヨーロッパ、アメリカの風雨のなかに身をひたして、新しい科学の方法を利用し、 国家を発展させ、維新後五十年にしていまやアジアでもっとも強大な国家となった。・・・この日本が富強になり得たということは、アジアの各国に限りない希望を生みだした。・・・以前にはヨーロッパ人にできることでも、われわれにはできぬものと思われていたものだ。それが今日本人がヨーロッパに学び得たこと から、われわれが日本にまなび得ることがわかったわけだ」/ 右のように述べて、孫文は、日本が衰えた国から強大な国家に変ったのは、”民族主義”の精神 があったからだと論じている。アジアにおける明治日本に対する右のような評価は、今日においても変更を加える必要はあるまい。》
日本は「民族主義」によって近代化を果し、アジアの希望となった、というのです。しかし、大井論文はつづけて《朝鮮の併合を機として、日本のナショナリズムは、他国と他民族の犠牲において自国の発展をはかる我欲的ナショナリズムに転換する。》と指摘、《日本帝国は、朝鮮の併合から道徳的に汚れはじめた》とします。大井論文の志向する「ナショナリズム」が、帝国主義とは一線を画する「置賜発アジア主義」の流れを汲むものであることは言うまでもありません。大井先生主張の「ナショナリズム復興」は、「真っ当なアジア主義の復興」と同義です。(つづく)
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『大東亜戦争肯定論』の初刊は昭和39年(1964)、センセーショナルな登場だったにちがいありません。あえてそれを狙った標題です。それだけに誤解されやすい。《一貫して東亜百年戦争という観点から、グローバル資本主義の中で1850年以降の日本近代史を整理している》とし、《『東亜百年戦争』としておけば、この種の本の古典として残ったと思われる。》という池田信夫氏の評価がありました。http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51939801.html
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初版は1964年で、タイトルだけ見るとトンデモ本のようだが、内容の水準は高い。解説で保阪正康氏もいうように「肯定論」として本書を抜くものはいまだ にない。日米開戦は「ルーズベルトの罠」だったとか、パル判事の日本無罪論とか、おなじみの話が多いが、これは本書がオリジナルで、『正論』や 『WiLL』に毎月出てくる話はほとんどここに書かれている。
それより重要なのは、本書が一貫して東亜百年戦争という観点から、グローバル資本主義の中で1850年以降の日本近代史を整理していること だ。これは19世紀以降の帝国主義戦争の中で最後に残された日本が自衛するためには軍備増強が必要だったというスケールの大きな歴史観だ。結果的にそれが 失敗だったことも認めているが、戦争は「勝てば官軍」。正義の戦争などというものはないという。
百年戦争の起点は、ペリー来航より7年前の弘化年間(1844~47)で、この時期に80件以上の外国船(オランダを除く)が記録されている。東京湾や琉 球にはアメリカが、樺太にはロシアの軍艦が出没し、ペリー以降も薩英戦争や下関戦争が起こった。こうした軍事衝突を「宣戦布告なき戦争」と考えれば、 1850年ごろから戦争は始まっていたわけだ。
幕末の「戦争」によって、徳川の太平の眠りをむさぼっていた武士の戦闘精神が覚醒し、尊王攘夷の運動が始まる。この起点も吉田松陰より前の水戸学と平田国学で、「日本」という国のまとまりを初めて意識し、その君主として天皇を想定した。
この意味で尊王攘夷は日本的ナショナリズムであり、西洋の典型的なナショナリズムとは違うが、「君主を中心にして国を守る」という主権国家に似たモデル だった。伊藤博文などの明治の元勲も、300の諸邦を統一して国家を建設したドイツに学んで、300の藩を統一して「列強」の帝国主義に対抗しようとした のだ。
日清戦争については、金玉均が福沢諭吉に学んで朝鮮の近代化をはかり、それに失敗したことが悲劇の原因だった。この経緯を抜きにして福沢の「国権論」を批 判するのは誤りだ。伊藤博文や井上毅などの首脳は、日露戦争まで一貫して非戦論だった。当時、非戦論をとなえた『万朝報』は弾圧されず、対露強硬論を主張 した内田良平の本が発禁になった。
要するに、明治政府は戦力を知っているので戦争に消極的だったが、そういう実情を知らない右翼が強硬論を主張し、それにあおられて軍部の強硬派が勢いづい たのだ。この点で右翼そのものが政権をとった「ファシズム」とは違う――と林は丸山眞男を批判しているが、これは現在の歴史学の通説に近い。
ただこの百年戦争は、石原莞爾の考えたような一貫した計画で行なわれたものではなく、「やらないとやられる」という警戒心と、危機が迫ってから準備する敵前工作として場当たり的に拡大したものだ。満州事変の謀略をしかけた石原が排除されて永田鉄山が暗殺されてから、強硬派がコントロールできなくなった。
…など、本書の歴史記述は意外に客観的で、戦争を「聖戦」と「侵略」にわけるのは勝者の論理で、日本が従う必要はないというのも正論である。「進歩的文化 人の加害妄想」を指摘している点は、まさにその通りだ。惜しまれるのはタイトルである。『東亜百年戦争』としておけば、この種の本の古典として残ったと思われる。
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