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「置賜発アジア主義」(4)置賜的「アジア主義」 [アジア主義]

米沢藩士の「アジア主義」
 明治14年の福岡黒田藩士が中心となった玄洋社発足に先立ち明治13、日本におけるアジア主義(興亜主義)の原点であり源流とされる興亜会が設立されています。その前身は、米沢藩士曽根俊虎(1847-1910)、大八の父宮島誠一郎(1938-1911)等による振亜社でした。曽根は孫文(1866-1925)を宮崎滔天(熊本出身/1871-1922)に引き合わせた人物としても知られます。宮崎滔天は、中国革命の日本人支援者として中心的役割を果すことになります。

曽根俊虎250px-Sone_Toshitora.jpg曽根俊虎について狭間直樹京都大名誉教授その真っ当さを評価しています。曽根にある「万国公法」に基づく公平性、そしてその根底には、儒学的教養に忠実な「政治とは民生の安定にある」とする思想があったといいます。

 《曽根の書物(『清国近世乱誌』1879/ 天皇の褒辞を受けた)が当時に抜きん出ているのは、まず「万国公法」の立場にたつことを明言していることである。つまり、太平天国は「官」に相い対する 「敵」なのであって、「賊」なのではない。ゆえに、一方で反乱の首魁洪秀全を英雄とし、かつ反乱討伐の殊勲者曽国藩の偉功を同時に顕彰することができるの である。反乱の発端が清朝の政治の腐敗にありとする視点は揺るぐことなく、しかも「敵」軍の翼王石達間の敗死の場面でとくに論賛をかかげて、その「大志」 「仁義」を称揚し、「官」軍の李鴻章の勝利を描いて清の道義的違約を責めているのを見れば、曽根の執筆意図が、太平天国の失敗を惜しむと言えば過当になる にしても、清朝政治の改革の必要を訴えることにあることは疑えないのである。/ 話がすこし横道に逸れてしまったが、ここでは、一国の政治は民の安定した 生活を保証することに責任を負うものでなければならないとする儒学の基本的教義に、曽根俊虎が立っていたことを.確認しておけばよい。興亜イデオロギーは それと表裏の関係にあるものである。『清国近世乱誌』でのの 位置づけ、「大志」「仁義」の評価はそれを物語るし、しかもそれに加えて「万国公法」の 視点でもって叙述しているのである。/ この立場から欧米の侵略に虐げられるアジアの構図を認識にのぼすとき、百尺竿頭一歩を進めて、まっとうなアジア主 義、興亜のための連携のイデオロギーヘと向かうであろうことは、ごく自然に予想されてよい一つの理路であろう。ほかにそのような理路をたどったものがいく らもいたはずだが、振亜社の形をとってそれを組織化することに着手したのは、まごうかたなく、曽根俊虎の功績である。》(「初期アジア主義についての史的 考察(2)第一章 曽根俊虎と振亜社」2001
  さらに、曽根の伊藤博文宛の手紙から「日本の国益を追求するのは当然だが、その国益は相手との対等の関係において実現されねばならない」という真っ当さを 狭間は読み取ります。日本人が欧米人にはへつらいつつ清国人を牛豚視することへの極めて真っ当な苦言と評価するのです。
 
清国海軍艦隊水兵が長崎で引き起こした暴力事件に対して曽根は、《目下長崎事件の如きは素より小事なりと雖ども、亦故無くして起りし者には非ず。夫れ本邦欧 米人を見るとは大いに異なりて、人の清国人を見るは之を牛豚視して軽蔑を加ふるを以て、清国人も亦本邦人を軽蔑して「假鬼子(キャグイツー/ニセヲニ ゴ)」と呼ぶに至りぬ。》(同上)
 もとより曽根の「アジア主義」は「帝国主義的野心」とは無縁であり、むしろそうなることへの警戒が込められています。その流れを汲む宮島大八ゆえの中野正剛に対する怒りであったのです。(つづく)

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