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「置賜発アジア主義」(1)はじめに [アジア主義]

4月に発刊される「懐風」に寄せた原稿です。一挙掲載と思ったのですが、11回に分けることにしました。

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置賜発アジア主義

はじめに——「戊辰雪冤」

 上杉博物館の特別展「戊辰戦争と米沢」で上杉茂憲漢詩「戊辰討庄先鋒細声駅述懐」を見て、公の心中を思い心が震えました。慶応四年の秋、東北越後の奥羽越列藩同盟と薩長を中心とする新政府軍とが戦った戊辰戦争。同盟成立の中心を担った米沢藩でしたが、必死の戦い空しく新政府軍の前に屈します。戦さの倣いとはいえ米沢藩は、同盟庄内藩討伐の先鋒を命ぜられます。その軍を率いる上杉茂憲公24歳、月山六十里越細越駅で詠んだ悲痛の七言絶句です。

上杉茂憲漢詩.jpg  軽重自存義与情 軽重自ら存す、義と情と 
  暗揮双涙討同盟 暗に双涙を揮って同盟を討つ
  隊伍森然更無語 隊伍森然として更に語る無し 
  満山風雪発軍営 満山風雪、軍営を発つ
 早い冬の訪れで凍死者も出たほどだったと伝えられます。

 この日927日(旧暦)に先立つ829日、綱木峠で米沢藩降伏決断の報を小森沢琢蔵(宮島誠一郎の実弟)によって知らされた雲井龍雄は、夜半急ぎ峠を駆け下ります。
 
《米沢城下に着いたのは、夜明け近い時刻である。まだ人気のない、青白く光が澱む町を駈け抜けて、龍雄は真直ぐ千坂太郎左衛門の屋敷に行き、門を叩いた。/ だが、通された一室で、龍雄が見たのは、別人のような千坂の姿だった。沈着で、男気と智謀に恵まれた青年家老、米沢藩全軍を指揮した輝かしい総督の姿は消えて、罪囚に似た暗い顔を伏せがちな一人の敗軍の将がいるぱかりだった。千坂の顔は、戦場焼けして憔悴し、身体はひとまわり痩せている。》
(藤沢周平『雲奔る』)
 千坂から苦渋の思いを聞いた龍雄は、邸を辞して後、激しい喀血に襲われたのでした。
 それからほぼ一月後、庄内に向けての辛い出陣でした。その後、必死の工作効を奏して同盟相撃つ事態は寸前で免れたとはいえ、この間の思いは米沢藩苦衷の記憶として深く根を下ろすことになったはずです。茂憲公の沖縄県令としての奮闘、雲井龍雄の失業浪士救済に向けた奔走、宮島誠一郎の新国家中枢に入りこんでの人知れぬ影響力行使、いずれも「戊辰雪冤」の念あってのことにちがいありません。冤を(すす)がんとする切なる意志を以て迎えた置賜の近代、以来百五十年、この間この地に発した世界史的思潮の流れがあったことに気づかされました。今後の新たな時代に益するかとも思い、記させていただきます。

置賜から変わる世界

 まず私の「思い込み」を述べておきます。 
 平成29年大晦日から平成30年元旦にかけてのNHK「ゆく年くる年」、午前零時を挟んだ直前と直後、宮内熊野大社から二度の中継がありました。その年明けの中継はなんと拝殿での大祓詞奏上でした。戦後、NHKの電波で大祓詞が堂々と流されたのは初めてのことかもしれません。昭和2012月、GHQに よる神道指令以来の封印が宮内熊野大社から解かれたのです。そしてこの日、予期せぬことが起りました。北朝鮮の金正恩委員長による平昌冬季オリンピックへの参 加表明演説です。ここから世界は一挙に転回し始めます。情理に背く世の中から自然の摂理に則った明るい世の中へ向けて、置賜を起点に東アジアが、そして世界が変わり出した!そんな思い込みが育ちはじめていろんな場で発言することになりました。(つづく)

ゆく年くる年 大祓詞奏上DSax72JUMAEuvX3.jpg

 


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