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摩訶庵蒼山のことと窿應和尚の書(「時代(とき)のわすれもの」) [地元のこと]

宮内郷土資料館「時代(とき)のわすれもの」の鈴木孝一さん(孝ちゃん)が、江戸晩期から明治にかけての旅日記や俳句、狂歌本を活字化したというので持って来てくれた。
・『雲鳥日記』 摩訶庵蒼山(1819-1869)。赤湯に生れ、浜松市下石田町で歿。同市安新町普伝院に「さすかたはなくてただとぶほたるかな」の句碑。伊勢、熊野、九州、山陰を経て三河に至る旅で詠んだ旅の句集。
・『ひくまのゝにき』 摩訶庵蒼山。慶応元年の歌(句)日記。
・『狂歌千歳友』 出羽米澤 浅翠庵大垣守舎による狂歌集。文政7年。
・『越の雪』 摩訶庵蒼山と契史の句集。連歌の模範として識者間に定評。【契史本間徳左衛門(1824年 - 1873年):白河会津村松藩の御用達を務めた資産家で中蒲原郡下新村の庄屋。遠藤蒼山に師事して古木庵契史(桂花亭)と号した】
・『蒼山發句集』 三周忌を機に、明治5年刊。
・『陸奥日記』 山水亭千可喜。宮内の酒田屋4代目佐藤利右衛門長春。狂歌。文政3年(1820)3月24日〜4月17日の旅日記。宮内→板谷峠→福島→宮城→山寺→宮内。
摩訶庵蒼山については、島崎利博氏による「幕末期の俳人 蒼山のこと」の記事がありました。(「山形大学付属博物館報34」
公民館に宮島詠士の書が眠っていたのを見つけた話から、「斎藤茂吉の師である窿應和尚の書がある。」「えっ!」窿應和尚と言えば中林梧竹とつながる《明 治29年 の夏、茂吉は父につれられて上京したが、あたかも宗用で滞京してゐた和尚は、茂吉父子を東京でむかへた。その年の秋彼岸の中日に銀座の寓居に梧竹をたづ ね、和尚は茂吉のために揮毫を依頼した。香をたきこめて観音経一巻を誦した梧竹は、おもむろに筆をとって「大聖文殊菩薩」を拝毫した。かたはらに和尚はう やうやしく合掌して、茂吉の出世をひたすら念じた。まことに崇高な劇的な場面であった。》(黒江太郎『窿應の生涯と茂吉』)早速、その夕方行って見せてもらいました。

佐原窿應書DSC_0851.jpg

「徳は身を潤す」で「富は屋を潤し」につづく「大学」にある言葉だそうです。戊午は大正7年(1918)です。「禮記の語を録す 桑隠」。
「時代のわすれもの」に行くとついつい長居になってしまうので、なかなかゆったりした時でないと行けないが、今回もあれを見たりこれを見たりで、ほんとうに宝の山。そっくり保存できる施設が急務。そういう公民館がほしい。「孝ちゃん、それまで元気でいてな」。孝ちゃんも今年76歳です。
https://oshosina.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_e75/oshosina/1-E69982E4BBA3E381AEE3828FE38199E3828CE38282E381AE.jpg

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