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龍雄、米沢を去るーその場面 [雲井龍雄]

藤沢周平の『檻車墨河を渡る』(『雲奔る』で文庫化)で、もっともせつなく心に残る場面が、最後に米沢を離れる場面だ。共に居ることも少ない上に、姑との折り合いもよくはなく、淡白でありつづけた夫婦であっただけに、かえってこの場面は胸に迫った。


 《その日(明治3年8月5日)の朝、河村の家の前に、龍雄を東京に運ぶ檻車がきて止まった。武装した護衛の兵三十名が一緒だった。一群の人々が、家の前に塊っていて、その様子を眺めていた。河村の家の近所の人たち、館山口の龍雄の家の近隣の人、そしてお志賀、ヨシ、兄の久兵衛ら実家の人々がその中にいる。
 河村の家から出てきた龍雄は、人々をみるとゆっくり歩み寄った。龍雄は痩せていたが、河村の好意で髪を結い直し、家から運んださっぱりした衣服に着がえて、意外に元気そうに見えた。
 龍雄は一人ぴとりに丁寧に挨拶した。義母のお志賀には「お身体に気をつけて」と言い兄の久兵衛には後の面倒見を頼んだ。ヨシ(妻)の前にきたとき、龍雄はヨシにも軽く頭を下げた。龍雄の顔は、初め青白く緊張していたが、人々と言葉を交わす間に、微かな笑いも浮かんできた。
 人々はつとめて何気ない見送り人として振舞おうとしていた。だが檻車が停っている異様な光景の中で、やはり表情はぎごちなく、言葉は短く終った。
 一度離れた龍雄に、ヨシが追い鎚った。
 「お身体はいかがですか。大丈夫ですか」
 「大丈夫だ。心配はいらん」
 龍雄が答えたとき、それまで見ぬ振りをしていた護送隊の隊長が寄ってきた。
 「そろそろ、時刻ですが」
 振り向いた龍雄は、きっとなって言った。
 「いそぐことはあるまい。今まいる」
 檻車とそれを囲む護送の一隊が出発し、それを見送った人々が散ったあと、ヨシはお志賀の眼を遁れて檻車の後を追った。人眼を避けて遠回りしたので、ヨシがふたたび車の隊列を見出したのは、郊外に出てからだった。ヨシはしばらく小走りに道を走ったが、やがて苦しげに胸を押さえて立ち止まった。
 秋めいた光が野と山を照らしていた。その中をもうヨシには追いつけない遠い道を、隊列は黒っぽい塊となり、やがて点のようになって遠ざかろうとしていた。
 この道を、あの人が帰ってくることはないだろう。
 突然撃たれたように、ヨシはそう思った。あんなに優しかったのが、その証だ、と思い返された。
 道をそれて畑に踏み込むと、ヨシは里芋の畝の間に蹲り、両掌で顔を押さえた。芋の幅広い葉は、やや枯れいろが出始めていたが、丈高く地面を覆っていて、ヨシの身体を隠した。その陰で、ヨシは長い間ひっそりと欽いた。》(293p)

龍雄が米沢で最後に匿われていたのが、土手の内にあった親友河村右馬之允の家。龍雄はここから檻車に乗せられる。8月14日東京藩邸着。18日、小伝馬町の獄舎へ。獄中の詩が残る。(読み下しは藤沢周平による)

 
  身世何瓢颻  身世何んぞ瓢颻(ひょうよう)たる
  浮沈未自保  浮沈未だ自ら保せず
  俯感又仰歎  俯して感じ仰いで又笑う(ママ)
  心労而形槁  心は労して形槁(か)る
  微躯一致君  微躯は一に君に致し
  不能養我老  我が老を養うこと能わず
  揮涙辞庭闈  涙を揮(ふる)つて庭闈(ていい)を辞し
  檻車向遠道  檻車遠き道に向う
  鼎鑊豈徒甘  鼎鑊(ていかく)豈(あに)徒らに甘んぜんや
  平生有懐抱  平生懐抱あり
  此骨縦可摧  此(こ)の骨縦(たと)へ摧(くだ)くべきも
  此節安可境  此の節安(いづくん)ぞ撓(たわ)むべけんや
  我命我自知  わが命は我自ら知る
  不復訴蒼旻  復(ま)た蒼旻(そうびん)に訴えず
 
人の一生というものは、
どうして風に吹かれる木の葉のようなものなのだろうか。
浮き沈みも、自分で今までままならなかった。
うつむき、また天を仰いでは嘆き、
心身ともに疲れはてた。
この私のつまらない身は、
ひとえに主君のために用いてきた。
そのために、
穏やかな老後を養うことはできなかった。
涙を振り払って家族たちと別れを告げ、
囚人護送用の檻のついた車に乗り込む、
処刑場までの遠い道のりへと向かう。
そこでは、釜茹でのような、地獄の極刑が待っているのだろうけれど、
私には日ごろから抱負と志があった。
(だから決して怖くはないし、逃げようとも思わない)
この私の肉体と骨はたとえ拷問や処刑によって砕き折ることができるとしても、
この私の節義は誰も曲げることはできないのだから。
私の使命と天命は、私自身が知っている。
だから、ことさら、この青空に私の運命や悲しみを訴えようとは思わない。


《法廷で龍雄は激越な弁論を展開した。無罪を論じ、政府の意図を非難して屈しなかったが、東京府の背後にいる政府の腹は、最初から決まっていた。原直鉄、大忍坊など、周囲から証拠を固め、その中に龍雄を首魁として巻き込むつもりである。政府はその上に極刑を用意していた。/ 以後の闘いにも、能維は敗れた。》(294p)12月26日、判決申し渡し。《申し渡しの二日後、明治三年十二月二十八日、脆雄は小伝馬町の牢屋敷で斬られ、その首は小塚原の刑場に送られて梟された。二十七歳であった。》(295p)


土手の内 安藤家DSC_0836.jpg土手の内の河村宅の場所というのが義叔母の住むちょうど向いであることを知ったのは、何年か前の「米沢日報」新年号でだった。昨日の夕方御年始に行ってそこが更地になっているのに驚いた。にわかに藤沢周平が描いた場面が浮んできた。来年(2020)雲井龍雄逝って150年となる。
 

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