「戊辰戦争150年」雲井龍雄の悲しみ [雲井龍雄]
10月24日の山形新聞「気炎」欄「戊辰戦争150年」、《明治150年を祝う気には私はなれない。》とあったが、よくわかる。
* * * * *
150年前の10月、東北に戦火が燃え盛っていた。戊辰戦争である。同月8日、敗色濃くなり、会津藩は鶴ケ城への籠城を余儀なくされる。16、17歳の少年で組織された白虎隊の隊員19人が、飯盛山で自刃したのもこの日である。
19日、仙台藩と並び奥羽越列藩同盟を主導した米沢藩が新政府に降伏する。23日、明治と改元され、27日、列藩同盟の軍事局が福島城から撤退。30日、列藩同盟の盟主、仙台藩もが降伏し、同盟は崩壊した。会津藩は孤立無援の戦いを続けるが、11月6日、ついに降伏の白旗を掲げる。
もとより、望んだ戦争ではなかった。6月1日、仙台藩の呼びかけで、奥羽列藩の重臣が白石に集結する。目的は朝敵とされた会津藩の救済。戦争は回避したい、それは列藩の一致した思いだった。
会津藩への寛大な処置を求め、翌2日、仙台、米沢の両藩主が奥羽鎮撫総督府を訪れ嘆願に及ぶが、総督府下参謀、長州藩士世良修蔵はこれを一蹴、仙台、米沢両藩主に会津征討を厳命した。
福島城下で世良修蔵は、もう一人の総督府下参謀、薩摩藩の大山裕之助宛て書状を認める。「奥羽皆敵と見て逆撃の大策に至るべし」。武力で奥羽を征討すべしと世良は断じた。その書状を託された福島藩士から一報が仙台藩にもたらされ、仙台藩は激怒、藩士を福島に送り世良を斬殺させた。そして戦争が始まった。
戦争はいつも西からやってくる。平安時代初期の蝦夷征伐以来、前九年・後三年の役、奥州征伐、奥州仕置と、西の権力はその威光を誇示するために奥羽を征伐した。戊辰戦争も征伐だった。
奥羽を征伐した長州、薩摩の政権は、それ以降も太平洋戦争で敗北するまでの77年間、東北の若者を戦争に駆り出し、数多の命を奪い取った。明治150年を祝う気には私はなれない。(河北蒼生)
19日、仙台藩と並び奥羽越列藩同盟を主導した米沢藩が新政府に降伏する。23日、明治と改元され、27日、列藩同盟の軍事局が福島城から撤退。30日、列藩同盟の盟主、仙台藩もが降伏し、同盟は崩壊した。会津藩は孤立無援の戦いを続けるが、11月6日、ついに降伏の白旗を掲げる。
もとより、望んだ戦争ではなかった。6月1日、仙台藩の呼びかけで、奥羽列藩の重臣が白石に集結する。目的は朝敵とされた会津藩の救済。戦争は回避したい、それは列藩の一致した思いだった。
会津藩への寛大な処置を求め、翌2日、仙台、米沢の両藩主が奥羽鎮撫総督府を訪れ嘆願に及ぶが、総督府下参謀、長州藩士世良修蔵はこれを一蹴、仙台、米沢両藩主に会津征討を厳命した。
福島城下で世良修蔵は、もう一人の総督府下参謀、薩摩藩の大山裕之助宛て書状を認める。「奥羽皆敵と見て逆撃の大策に至るべし」。武力で奥羽を征討すべしと世良は断じた。その書状を託された福島藩士から一報が仙台藩にもたらされ、仙台藩は激怒、藩士を福島に送り世良を斬殺させた。そして戦争が始まった。
戦争はいつも西からやってくる。平安時代初期の蝦夷征伐以来、前九年・後三年の役、奥州征伐、奥州仕置と、西の権力はその威光を誇示するために奥羽を征伐した。戊辰戦争も征伐だった。
奥羽を征伐した長州、薩摩の政権は、それ以降も太平洋戦争で敗北するまでの77年間、東北の若者を戦争に駆り出し、数多の命を奪い取った。明治150年を祝う気には私はなれない。(河北蒼生)
* * * * *
* * * * *
九月二七日、庄内藩攻撃に向かう上杉茂憲が、志津(西川町)を出発して六十服越街道を通り、細越峠(本資料では「細声」)で詠んだ七言絶句です。上杉斉憲の末子・亀雄家に伝来しました。同盟していた庄内藩を討つ苦しい胸の内と、吹雪のなか、黙々と進む米沢藩の軍勢を詠んでいます。若干、後半の表現が異なる別の歌も伝えられています。
『玉庭村郷土誌』によれば、茂憲の御供をした藩士も同内容の歌を記録しています。同行の藩士たちもまた、この心境を共有したことでしょう。この日は、人夫一人が凍死するほどの寒さでした。
なお、米沢藩士大滝新蔵らの仲介により、九月二七日に庄内藩は正式に降伏し、圃藩の戦闘は回避されたのでした。
(印)
軽重自存義与情 暗揮双涙討同盟
隊伍森然吏無語 満山風雪発軍営
戊辰討庄先鋒細声駅述懐 藤原茂憲 (印)(印)
【読み下し】
軽重自ら存す義と情と 暗に双涙を揮って同盟を討つ
隊伍森然として更に語る無し 満山風雪、軍営を発す
【試訳】
義と情と、どちらが重要かは知っている(同盟の情より、義が重要だ)。
(だからこそ)暗に両眼の涙を払って同盟の庄内を討つのだ。
部隊は厳かに並び立ち、話をする者などいない。
風雪が山に満ちる中、軍営を出発する。
『玉庭村郷土誌』によれば、茂憲の御供をした藩士も同内容の歌を記録しています。同行の藩士たちもまた、この心境を共有したことでしょう。この日は、人夫一人が凍死するほどの寒さでした。
なお、米沢藩士大滝新蔵らの仲介により、九月二七日に庄内藩は正式に降伏し、圃藩の戦闘は回避されたのでした。
(印)
軽重自存義与情 暗揮双涙討同盟
隊伍森然吏無語 満山風雪発軍営
戊辰討庄先鋒細声駅述懐 藤原茂憲 (印)(印)
【読み下し】
軽重自ら存す義と情と 暗に双涙を揮って同盟を討つ
隊伍森然として更に語る無し 満山風雪、軍営を発す
【試訳】
義と情と、どちらが重要かは知っている(同盟の情より、義が重要だ)。
(だからこそ)暗に両眼の涙を払って同盟の庄内を討つのだ。
部隊は厳かに並び立ち、話をする者などいない。
風雪が山に満ちる中、軍営を出発する。
* * * * *
八月二九日、雲井龍雄は(旧暦)綱木峠で米沢降伏決断の報を小森沢琢蔵(宮島誠一郎の実弟)によって知る。龍雄は夜半急ぎ峠を駆け下りる。《米沢城下に着いたのは、夜明け近い時刻である。まだ人気のない、青白く光が澱む町を駈け技けて、龍雄は真直ぐ干坂太郎左衛門の屋敷に行き、門を叩いた。/ だが、通された一室で、龍雄が見たのは、別人のような千坂の姿だった。沈着で、男気と智謀に恵まれた青年家老、米沢藩全軍を指揮した輝かしい総督の姿は消えて、罪囚に似た暗い顔を伏せがちな一人の敗軍の将がいるぱかりだった。千坂の顔は、戦場焼けして愧悴し、身体はひとまわり痩せている。》(藤沢周平『雲奔る』)千坂から苦渋の思いを聞いた龍雄は,邸を辞して後、激しく喀血する。
言うにいわれぬ米沢人の心の屈折はおそらくここに端を発すると思えてならない。雲井龍雄の悲しみに復らねばならない。雲井龍雄を大きな歴史の流れの中に見事に位置づけたこのたびの友田昌宏講演、「米沢にとって歴史的な講演だった」と評価する所以である。
コメント 0