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白川前日銀総裁は結城豊太郎をどう評価したか(5)人間としての結城総裁 [結城豊太郎]

結城豊太郎先生遺芳録DSC_0400.jpgそもそも10月9日デフレで滅んだ戦前の日本で、 金解禁に係る井上蔵相の二つのミスが指摘されています。①円とゴールドの交換レートを以前の水準のままにした結果、金解禁のために準備したゴールド3億円 の70%以上がわずか6ヶ月で海外流出したこと ②金解禁前年の世界恐慌の始まり(1929)を甘く見て、結果的に日本の輸出産業を壊滅状態に追い込んだ こと、この二つです。結果的に昭和7年(1932)5月15日の犬養首相殺害を経て政党政治の終焉、軍部による実権掌握、そして戦争への道を歩むことにな ります。とすると結城豊太郎の役割は井上蔵相の失敗の始末をつけることではなかったのか、というのが今朝の段階の私の理解です。ただ結城に「井上蔵相の失 敗」という認識があったのかどうか、その辺に関心を向けてみたいと思ったところでした。》と書いたことに端を発する白川前日銀総裁講演録の転載でした。「井上蔵相の失敗(井上暗殺)」→「髙橋財政による景気回復」→「軍事予算増大の見直し」→「2.26事件(髙橋暗殺)」→「馬場蔵相による軍事予算拡大」→「結城蔵相登場(林銑十郎内閣)」→「1割削減予算案」→「林内閣退陣、近衛内閣に」→「結城日銀総裁」の流れがよく理解できました。結局、結城総裁の意に反して時代は大東亜戦争へ向い、後世「悲劇の総裁」の評価に甘んじなければならなかったわけです。「過去を語ろうとはしなかった」、その思いがよくわかります。工藤宗一郎先生13323796951.jpegただその分、郷土への思いの深さはひとしおだったにちがいありません。その証しが臨雲文庫であり結城豊太郎記念館なわけで、南陽市民としてほんとうにありがたく思います。10月13日に結城記念館で開催された文化講座で結城亮一さんと牧野房先生の話しを聴いてきたところです。今の記念館、なんといっても加藤館長のはたらきがめざましい。それにつけても、黙々と大著『結城豊太郎先生遺芳録』をまとめあげられた工藤宗一郎先生の面影が懐かしく思い浮かんだことでした。


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5.人間としての結城総裁
 最後に、人間としての結城総裁について申し上げたいと思います。
  結城総裁は一般的には内外から怖れられた総裁だと言われています。エピソードが多く残っていますが、一つだけご紹介します。今は工事中でみられませんが、 日本銀行の旧館には比較的最近までの総裁については立派な肖像画が掲げられています。結城総裁は総裁になった直後、文書局長を呼んで肖像画について、[自 分は元気なうちに描かせておきたいから、今描かせるように]と指示してすぐに描いてもらいました。肖像画は辞めた後に描くものですので、言われた方は当惑 したと思います。そうして出来上がった自分の肖像画と第3代総裁川田小一郎——大変な実力者でした——-の肖像画だけを真向い合わせにして総裁室に飾り、 その下で執務をしていたという逸話が残っています。
 結城豊太郎総裁について思うことは、「バンカー」であり、実践の人であるということです。中央銀行総裁には2つのタイプがあると思っています。一つは、金融政策・マクロ経済あるいは理論に重点を置くタイプ。もう一つは、中央銀行のもう—つの仕事である金融システムの安定の確保をしっかりとやっていく、そのための実践・実務や人との繋がりを大切にするタイプです。結城総裁は明らかに後者のクイプだったと思います。井上準之助総裁もそうだったと思います。「バンカー」であり実践の人だったという感じがします。
 先ほど「結城総裁は怖かった」という話をしましたが、そのことは裏返しで結城総裁は親分肌で あることも意味していました。後輩の面倒見は良く、再就職の面倒も実にまめにみています。また部下の意見をよく聞いたということも、色々な記録に残ってい ます。日本銀行の総裁になってから、本店の部局長全員を集めて意見を聞くフリートーキングをしょっちゅう行っています。色々な意見書を提出させて、その意 見書は現在、当地に残る「臨雲文庫」にも収録されていると聞いています。日本銀行の職員の健康を考えて、日本銀行に医務室を作ったのも結城総裁です。
 調査を重視し、戦時下ではありましたが、東大やー橋大学から立派な先生を呼んで若手に色々な共同研究をさせるようにしました。将来の日本を考えさせるようなこともしました。
 人材育成に一貫して力を入れていると感じます。人材育成の姿勢が最もよく表れているのが、お生まれになった赤湯の地に対する思いであったような気がします。昭和10年に所蔵する書籍や資料や書簡の一切を赤湯町に寄贈され、それが先ほど言及した、今年80周年を迎える臨霊文庫であり、結城豊太郎記念館にも繋がっているわけです。

おわりに
  冒頭紹介した結城豊太郎遺徳顕彰会の佐貝会長と、昭和17年当時の結城総裁との色々なやりとりを聞くうちに——結城総裁が亡くなって随分経つわけです がーー、「先生の教えはこうした形で生きているんだ」と感じました。顕彰会で先生のことを思い続ける人がいて、記念館が今回20周年を迎えて、その記念館 の下で小学生、中学生などに対する様々な教育活動が行われている。大変な影響を後世に残しているわけです。
 若い世代に経験を伝えていくことは、公職を務め終えた者が果たすべき大事な仕事の 一つだと私は思っています。今日こういった形でお招きいただきましたことを、私自身光栄に思っております。結城総裁の行った仕事は大変立派なものであった と——私ごときが評価めいたことを申し上げるのは大変に借越だとは思いますが——そういう思いで、今日は参りました。この後、結城豊太郎記念館を見学させ ていただけるのを大変楽しみにしています。
 改めまして、結城豊太郎記念館を20年間運営された地元の方々に、日本銀行を代表してお礼申し上げますとともに、これからも大いに地域のために貢献していただきたいという気持ちで、私の話を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

以上


【追記 R1.10.10】

◎結城豊太郎をどう評価するか(「mespesadoさんによる1億人のための経済談義」)



白川氏講演に対して批判的検討を加えつつの「結城豊太郎論」です。

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