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白川前日銀総裁は結城豊太郎をどう評価したか(4)結城豊太郎の経歴(総裁就任まで) [結城豊太郎]

mespesadoさんの議論で結城豊太郎に関心が向いたところで白川批判の議論に出会い、あらためて結城豊太郎とリンクしたという流れの中で掘り起こした講演録です。そんなわけで「2.昭和初期から昭和12年までの経済・金融情勢」からの転載でしたが、あらためて「はじめに」「1.結城豊太郎総裁の経歴:総裁就任まで」を転載、その後に「5.人間としての結城総裁」「おわりに」で締めたいと思います。過去の記録に埋もれさせておくにはもったいない、前日銀総裁渾身の講演です。

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はじめに
 ただいまご紹介にあずかりました白川です。本日は日本銀行の大先輩に当たる第15代総裁である結城豊太郎総裁の記念館開館20周年、臨雲文庫開庫80周年の記念行事にお招きいただき、誠にありがとうございます。大変光栄に存じております。この行事の実施・運営に当たられた白岩南陽市市長、猪野記念事業実行委員会委員長、加藤結城豊太郎記念館館長はじめ、多くの方に心からお礼申し上げます。
 先ほど加藤館長からお話がありましたが、2012年11月に結城先生の遺徳顕彰会の方々が日本銀行にお見えになりました。そのときのことははっきり覚えております。ご高齢であった佐貝会長が、「長年遺徳顕彰会を運営してきたが、高齢になったので市にお返ししたい」ということで、わざわざご丁寧に挨拶に来て下さいました。そのときに昔の話をなさったのですが、奨学金を結城先生から貰われていて、半年に一度、今は日本銀行の旧館と呼ばれている建物の中にある総裁室にお見えになっていたそうです。結城総裁は直接、現金で奨学金をお渡しになったそうです。毎回、佐貝少年に「元気に勉強してますか」と声をかけたということですが、佐貝会長は、そのことを70年近く経っていたその時点でもつい昨日のことのように話されていました。それほどまでに大きな影響を残されている方はどういう方なのだろうと、私は当時から興味がありました。今回、こうした形でご招待いただき、喜んで参った次第です。
  ご存じの方もいらっしやるかもしれませんが、「日本銀行と山形とは大変縁が深い」ということからお話をしたいと思います。現在の日本銀行総裁は、創立以来 31代目ですが、再任の方もいらっしやるので、この間に29人の総裁がいます。出身別にみると最も多いのが東京と大分で、いずれも4名です。次いで多いの が山形の3名ということになります。第14代で米沢出身の池田成彬(しげあき)総裁、第15代でここ赤湯の出身である結城豊太郎総裁、そして第21代で米 沢出身の宇佐美洵総裁です。他にも、必ずしも出身地ということにはならないかもしれませんが、第8代の三島弥太郎総裁は、お父様が山形県の初代県令の三島 通庸でして、ご本人は山形師範学校を卒業しています。
 日本銀行の山形事務所は、昭和20年8月に設置され、今年が70周年に当たります。私は現在日本銀行を離れていますが、この70年間、.日本銀行の山形事務所が地元の方々に大変お世話になったことにお礼を中し上げたいと思います。
  結城総裁には以前から関心がありました。いくつかの理由があります。一番目の理由は、結城豊太郎総裁のお孫さんである青木昭さんという方が、私の日銀時代 の上司で、大変お世話になったということです。青木昭さんは、日本銀行で理事、日本輸出入銀行で副総裁を務めらましたが、大変敬愛する先輩であり、上司で ありました。青木昭さんの風貌は、写真でみる結城総裁に感じが似ていて、個人的にも親しみを持っていました。
  二番目の理由は、結城総裁が総裁を務められた時期が、日中戦争が拡大していき、やがて太平洋戦争が始まるという時期であったということです。中央銀行の総 裁の仕事は一国の通貨のコントロールをする仕事です。誰かが一生懸命やらなければ通貨のコントロールは難しいということを私は常々感じておりますが、大変 孤独な仕事だという感じがしています。どの時代の総裁もそれぞれに苦労していると思いますが、特に結城総裁がこの極めて難しい時期にどういう気持ちで仕事をされていたのだろうかと考えることがありました。特に私自身が2008年に思いがけず日本銀行の総裁に就任し、色々な仕事をする過程で、結城総裁のことを考えることが少なからずありました。
 三番目の理由は、冒頭申し上げました遺徳顕彰会の方々が日本銀行を訪ねてくれたときの印象が非常に強かったということです。
 今日お話をするに当たって、結城総裁に関する色々な書物も読んでみましたし、歴史の研究者とも話をしました。そうした中で、本日は自分なりに感じることのいくつかをお話したいと思います。
  本日は、最初にごく簡単に結城総裁のご経歴をご紹介し、次いで昭和の初期から昭和12年までの——結城総裁が総裁に就任する前の——経済・金融情勢を説明 し、その上で結城総裁時代の日本経済と日本銀行の金融政策についてお話しします。さらに中央銀行と中央銀行総裁の役割について触れ、最後に私なりに感じる 人間としての結城総裁についてお話ししたいと思います。

1.結城豊太郎総裁の経歴:総裁就任まで
結 城総裁は、現在の山形県南陽市赤湯町に明治10年(1877年)5月24日にお生まれになりました。ちょうど今日は誕生日に当たります。そうした日にこう した行事が行われますことを大変嬉しく思います。日本銀行の創立は明治15年ですので、結城総裁が誕生されたときには、まだ日本銀行は誕生していませんで した。亡くなられたのは昭和26年8月。74才でした。生家は造り酒屋さん。興味深いことに第9、11代総裁である井上準之助総裁も大分の日田の造り酒量 の生まれです。
  赤湯小学校、山形中学(現在の山形東高校)、仙台の旧制第二高等学校を経て、明治36年7月に東京帝国大学法学部を卒業し、翌37年1月に日本銀行に入行 しています。学生時代に書かれた手紙を読みますと、大蔵大臣、日本銀行総裁への関心が記されていますが、結果的にその両方になった方です。
  日本銀行への就職に当たっては、実は大変苦労しています。大学を卒業した明治36年7月から就職した明治37年1月までの間には約半年のブランクがありま す。この時期、就職に苦労している様は、赤湯の御殿守旅館のお嬢様であった奥様宛の手紙に書かれています。就職に苦労した理由の一つは、当時不景気であっ たということです。いま一つは、当時の日本銀行の採用は縁故採用でしたが、縁故がなかったということです。そこで結城青年は手を尽くしてある人の縁を通じ て紹介状を貰い、当時副総裁であった高橋是清に面会します。しかし高橋は、「もう今年は採用がないから」という感じであったといいます。それでも結城青年 は、「そこを何とか」と高橋是清の和服の裾を引っ張ってお願いします。「このときたまたま高橋是清か和服を着ていたのが幸いした」といったことを、このこ とを書き残した人は記しています。そうしたことがあって明治37年1月に日本銀行に入行しました。
  入行後、最初は検査局、国庫局で勤務しますが、2年後の明治39年3月にニューヨークでの勤務となります。「ニューヨーク代理店監督役付」という堅苦しい 肩書でしたが、日露戦争で日本が国債を発行し、その国債の元本・利息に関する業務を代理店一一現在の三菱東京UFJ銀行の前身の一つである横浜正金銀 行ーーがきちんと行っているかを監督する仕事でした。実際は、広い意味での留学でして、アメリカの金融機関で実習生となったり、財務省で色々な話を聞くと いった研修を受けていました。ちなみに上司である当時の代理店監督役の小野英二郎は、オノ・ョーコの祖父です。アメリカは何度も恐慌を経験していますが、 結城豊太郎自身は、1907年の金融恐慌をニューヨークで経験しています。実は、この時期アメリカにはまだ中央銀行はありませんでした。この金融恐慌が きっかけとなって中央銀行を設けることになり、1913年に現在FRBと呼ばれている中央銀行が設立されています。結城総裁は若き日にそうした金融恐慌を 経験することによって、中央銀行が果たすべき役割として、金融恐慌を防ぎ、どのようにして金融の安定を保つかということについて、実践で学んでいったと理 解しています。
 帰国後、調査局、大阪支店、京都出張所長(その後、支店昇格により支店長)、秘書役、名古屋支店長を経験し、大正7年4月に大阪支店長に就任します。
  大阪支店長時代の大正8年8月に理事に就任しています。当時42歳。結城豊太郎が日本銀行に入行した年に東京大学から日本銀行に3名人行しています。それ ぞれに栄進していますが、結城総裁が理事に就任した年には一人は松本支店長、もう一人は京都支店の調査役でしたので、結城豊太郎は抜群の昇進をしたことに なります。これは、井上準之助総裁が結城豊太郎の能力を評価して異例の抜擢をしたためですが、当時、「結城の前に結城なく、結城の後に結城なし」と 言われたそうです。大阪支店長・理事の時期には、第一次世界大戦終了後の反動恐慌が起こり、そうした中で金融システムの安定のために奔走したということで す。当時の手紙を読んでみると、「本店の言うことは何も聞かず、いろいろなことをやった」とあります。現場で判断しないと金融システムが大混乱してしまう という状況の下で、自ら判断して必要な行動をとりました。金融危機にあっては、最後は日本銀行がお金を出して不安心理を鎮めるしかないわけですが、そうし たことを果断に行っていったのです。当時の結城支店長の手紙には、「当節椅子に腰を下ろしの暇少なく」(大正8年、井上宛ての手紙)とあり、大変忙しかっ たようです。
 日本銀行で結城豊太郎の採用を決めた高橋是清は、この金融恐慌の当時は大蔵大臣でしたが、結城大阪支店長が書く報告書を読みたいということで、大臣にはいつも報告書が回覧されていたという
ことです。
  大正10年、安田財閥の総帥である安田善次郎——東大にある安田講堂は、安田善次郎が寄付したものです——が暗殺されるという事件が起こりました。それま での安田財閥は、安田善次郎が引っ張っていく前近代的な会社でしたが、これを機に近代的な経営に切り替えていく必要があるということになりました。ついて は外部から人を招き入れようということになり、安田財閥では当時の高橋是清大蔵大臣と井上準之助日銀総裁に人の推薦をお願いしたそうです。安田財閥として は、もう少し年齢の上の人を想定していたようですが、両名が推薦したのが結城豊太郎でした。結城豊太郎43歳のときのことです。安田に移ってからは、安田 財閥の経営の近代化を進めました。大変なリーダーシップを発揮して特に安田銀行——その後の富士銀行、現在のみずほ銀行の前身の一つ——の経営の近代化に 努めました。昭和2年の金融恐慌のときにも安田銀行の頭取として活躍されました。しかし近代化を急速に進めた結果、安田の内部からの反発も強く、排斥され、最終的に昭和3年2月に安田を辞めることになります。これは大きな人生の挫折になったと言われています。
  その後、昭和5年9月に日本興業銀行——これも現在のみずほ銀行の前身の一つ——の総裁に就き、昭和11年12月に東京商工会議所会頭、翌昭和12年1月 に日本商工会議所会頭、2月に大蔵大臣、さらに7月には日本銀行総裁に就任するということで、昭和11年末から昭和12年にかけて大変慌ただしい時期を過 ごしています。
 昭和12年2月に林銑十郎内閣の大蔵大臣に 就任するに当たっては、当初想定されていた池田成彬が、健康状態が優れないことを理由に大蔵大臣就任を断ったため、結城豊太郎が推薦されるという多少の経 緯がありました。面白いことは、このとき日銀総裁に就任したのが池田成彬であったということです。なぜ池田成彬は大蔵大臣就任を断る一方で日銀総裁には就 任したのかについては、今日お話することとも関係しますので原文を紹介しますと、「陸軍の要求する国防充実はどこまでもやっぱり国際情勢に準じてやらなけ ればならん。そうして現在の経済機構の根本を毀されてはならん。そうなると金融の中心に当たっている日本銀行あたりがよほどうまくやらないと非常に危険な ことになる。非常に危うい大事なところにあるんだから、いまさら出る場合じやないけれども、まあ自分も御奉公だと思って快諾したjと書かれています。要は 戦時体制が段々と強まる中で、金融に対する政府・軍部の影響が大きくなってくる。そうすると通貨のコントロールが難しくなってくるので、自分がここで頑張 ろうと日銀総裁を引き受けたわけです。昭和12年は、結城豊太郎大蔵大臣、池田成彬日銀総裁という山形のコンビで始まったということになります。
 しかし林銑十郎内閣は間もなく近衛内閣に交替し、結城豊太郎は5か月程で大蔵大臣を辞めることになります。その後、昭和12年7月に日銀総裁に就任することになり、16年振りに日銀に戻ります。大学卒業後、ただちに日銀に入行して総裁に就任した人物としては、井上準之助、土方久徴(ひさあきら)に次いで3人目になります。(つづく)


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