SSブログ

安藤昌益講演会資料 [安藤昌益]

安藤昌益講演会DSC_0311.jpg30名弱の参加者でしたが、中味の濃い講演会、懇親会になりました。講演資料を転載しておきます。

A4冊子1P-P16表紙.jpg

A4冊子2P関係図.jpg
《講演資料〉
1 自己紹介 
2 調べる会の紹介
 東北地方で活動した安藤昌益の稿本『自然真営道』101巻93冊が、明治時代千住より発見された「謎」について調査研究するために、2004年千住の人々を中心に結成された。現在、会員・賛助会員50名。本年5月第15回総会を開催した。活動内容は、必要に応じて「班」を結成して、各班が独自に活動して機関紙で報告して記録に残し、全体化している。現在、「佐藤元萇日記解読班」「佐藤元萇日記読合せ会」「北関東調査班」が活動している。

安藤昌益.jpg3 安藤昌益の紹介
 安藤昌益(1703〜1762) 秋田県大館二井田出身。狩野亨吉「日本の国土が生んだ最大思想家にして、世界思想史上にも特筆すべき人物」、司馬遼太郎「日本で唯一の独創的思想家」
 名昌益、号確龍堂、医号良中。
 主著:稿本『自然真営道』101巻93冊、刊本『自然真営道』3冊、稿本『統道真伝』5冊ほか (暦の大意、孔子一世辨記など)
 医学思想:婦人門から始まる生命尊重の医学思想
 自然思想:土と稲を中軸に据えた農の思想。活真(いきてまこと)が織りなす自然(ひとりする)思想
 社会思想:男女(ひと)は転地(てんち)にあって互性(ごせい)という平等思想、平和思想、自立思想
 参考図書:昌益文庫一〜六、石渡博明著『昌益研究かけある記』 山崎康男著『安藤昌益の実像』 農文協発行『安藤昌益全集』ほか

川村寿庵.jpg佐藤応渠.jpg

静谿漫筆.jpg医真天機.jpg4 安藤昌益の医統
○昌益の文献:松前・須賀川・江戸・京・浪華・長崎の弟子の実在は確認できず
○青森八戸:南部藩の記録より1744年の頃八戸で町医者としてくらす。神山仙確他の弟子と天聖寺記録
○秋田二井田:温泉寺の墓と一関家文書、守農太神の石碑、医師内藤玄秀
○川村錦城:『医真天機』を口述し、昌益の人となり、近くで処方を学び、記録したものを見たと著す
○川村真斎:昌益の医学部門を書き写したとされる『真斎漫筆』を著す。錦城の二男。千住で没する
○千住 橋栄徳:真斎と接触し、『自然真営道』を書き写し「予真営道ニ従フナリ」と『静谿漫筆』著す
錦城先生経験方.jpg○宮内 舟山寛:昌益の処方「安肝湯」を記載した川村錦城の処方集『錦城先生経験方』を著す

5 佐藤元萇日記の発見
○佐藤元萇(1818〜1897)福島県会津出身。森鴎外「明治の初年に依田学海先生に漢文を学び、佐藤應渠先生に詩を学びし外には、師とたのみし人なし」。
 名賜良、号應渠、医号元兆。多紀元堅「存誠薬室」にて学び、会津藩医学教授、医学館助教授。日本橋石町にて医院を開業しながら、千住にて医院・医塾「薬園」を指導し、常陸筑波郡弥柳を拠点に地域医療に尽くす。
 主著:刊本『感詠一貫』、稿本『佐藤元萇日記』8冊、稿本『自叙伝(仮称)』1冊他多数
登門録.jpg存誠薬室:多紀元堅・雲従二代の私塾。弟子900人を数える幕末江戸の最大の医者集団。門人に佐藤元萇・橋本玄益、島貫元光(米澤宮内)、舟山養源(米澤池黒村)等がいる。
○佐藤元萇日記:嘉永四年(1851)から明治四年(1871)の二十年間の記録が8冊に書き綴られている携帯用の日記を元萇の曾孫にあたる沼津在住の佐藤友哉家より2009年筆者が発見した。「調べる会」は解読班を結成し、8冊の翻刻・注釈ブックレット版を発行する。現在、単行本を発行するために、点検作業に取り組んでいる。
○舟山養源・舟山寛の調査:元萇日記3巻嘉永6年の項に、川村真斎の弟子と思われる「禛」「禛仙」「禛斎」を名乗る三名の人物が登場し、元萇が禛斎の媒酌を行っていることに「養元」がお礼に来る、という記述があり、この「養元」を舟山養源と仮定して、舟山養源と舟山寛の再調査に取り組む。


6 山田二男の「里人巷談」
○山田二男(1887-1975)享年88歳。40年の教職生活を過ごした後、郷土史研究に取り組み、その成果を『宮内文化史資料』他に発表する。昭和38年5月15日発行『宮内文化史資料』第四集に掲載した「里人巷談」の中で舟山寛を紹介する。
 その内容は
一、  一八〇〇年前後、宮内に舟山寛という漢方医で立派な漢学者がいた
二、舟山寛は、山田家先考の恩師であり、記録が残っている
三、舟山寛は、米沢藩が招いた儒者細井平洲と同門で、細井に招かれ登城し、平洲に代わって藩士に講義をおこなっている
四、藩士の中に受け入れない者もあり、居眠りして受講していた某により、後年、入牢を申しつけられたことで、医業から離れた
と いうものであったが、山田家に残されていた史資料によって一と二は証明することができたが、三と四については記録による実証は成らなかった。山田家に残さ れていた史資料の中に、舟山寛の漢詩一幅があり、舟山寛の漢詩を山田家初代宗四朗松寿庵が所蔵し、安政四年(一八五七)二代伯龍が改表したものである。軸 を巻き戻し通常「表題」を書いておく所に伯龍の手になる「説明記」がある。
 「説明記」は五行で綴られている。
  文政二卯年八月九日去世 松寿庵先生之
              大恩之師也
           安政四己年八月改表之
  舟山隆庵先生書小字与一ト云
              山田伯龍苗教誌
 山田伯龍がこの説明書きを書き残したことが、山田二男に受け継がれ、今、二百年の時を超えて舟山寛が復活したのである。
 山田二男が書き残した舟山寛と細井平洲の関係であるが、現存している史料の中にはなかったが、南陽市役所南陽市史編纂室に保存されている山田二男の「研究ノート」の第一冊分(昭和26年頃)の六月九日の条に
 六月九目星野氏訪問
  「今の横町に船山寛(幼名与市)といふ漢学者で医者が居た、(今の花屋)細井平州先生は自分の去った跡は船山に任せるとまでいわれた人 正徳寺境内に「船 山先生之墓」として残って居るがもとは山王山ノつつみの處にあったものだ、平州先生が鷹山公に招かれて米沢に来た時「宮内の船山を呼べ」とのことで肝煎羽 田平兵衛同道参ったところ藩公と同列、に座した家老連中不可解なことに思ったが「学者に上下はない」との平州先生の仰せであったと伝えている。」
が記されており、この時の取材をもとに、「里人巷談」の後段に於いて三と四を展開したものと思われる。


医論(『国書総目録』.jpg医論.jpg7 舟山寛と宮内の漢方医
○舟山寛調査の経緯:舟山寛については、安藤昌益研究者の間では名前が知られていた。 2001年石渡博明が内藤記念くすり博物館より安藤昌益関連書の一つとして『錦城先生経験方』文化五年戊辰夏四月舟山寛公綽之撰 を発見したことを2002年1月10日発行の『直耕』第24号にて発表していたからである。『錦城先生経験方』には、安藤昌益の処方として知られていた「安肝湯」が記載されており、錦城先生とは昌益の医学思想を伝えた『医真天機』を遺した川村錦城(寿庵)であると想定することができ、その弟子に舟山寛を名乗る人物がいたことが判明した。しかし、舟山寛がどこの人かは依然として不明な状態であった。
○2017年、筆者が京都大学富士川文庫より『医論』羽陽舟山寛著を発見し、舟山寛の再調査に取り組むこととなった。山形県立図書館をはじめ県内の10に及ぶ公立機関の協力を得て、南陽市立図書館にて山田二男の「里人巷談」を発見する。 2017年12月舟山寛の墓がある正徳寺を訪ねるために一回目の宮内訪門に宿泊先としてお世話になった「いとや旅館」の若女将に山田二男先生の事蹟を訪ねてきたことを話すと、夜分にもかかわらず母親の鈴木ひろ子さんを呼んでくれて、ひろ子さんの斡旋で二男の孫にあたる山田家現当主山田尚さんと夜半電話にてお話しができ、山田家に残されている諸資料の調査に取り組むことができた。
○山田家の史資料;山田家に遺された史資料は、多岐にわたる。江戸時代のものは伯龍の手になるもので、医業を営んでいた時代、隠居後俳諧を好み古松園雲樵といい松隠と号した時代の作品、明治以降は二男の手になる蒐集資料と研究原稿が主なものだが、その内、宮内周辺の研究課題にかかわるものを記しておくと
一、嘉永二年寳物諸品改帳
一、嘉永七年蔵書記録
一、嘉永七年蔵書出入先借用扣
一、安政二年種痘記帳
一、安政六年古松園先生寿碑建立面付帳
を挙げることができる。
 この内、舟山寛に拘わる一冊を挙げるとすると、蔵書記録が挙げられ、その概要を記すと
一、儒書之部 (八〇部)
一、同写本之部(一二部、内舟山翁筆六部)
一、医書之部 (五三部、内医論全、他端本十冊)
一、同写本之部(七五部、内錦城経験方、他舟山翁筆十一部)
一、秘書之部 (二七部、内舟山翁筆九部)

一、歌之部  (六〇部)
一、雑部   (七七部、内舟山翁書二部)
一、墨状石摺部(二〇部)
 が綴られている。舟山寛が『錦城先生経験方』、『医論』だけではなく、たくさんの著書を著していたことが分かるのである。また、嘉永七年蔵書出人先借用扣には、舟山寛の著書が多数貸し出されていたことが綴られていたので、宮内や周辺の医者や文化人の間で読まれていたことも分かるのである。
○山田家の系譜:初代宗四朗苗照―二代苗教伯龍―三代忠靖―四代貞次郎―五代二男。山田家は宗四朗苗照より宮内において医業に携わり、二代苗教は山田伯龍として弟子たちによる生碑が正徳寺内に建立され、地元に名を残し、三代忠靖も医業を継ぎ傍ら村人に書読を授け、筆子門弟らにより生碑が建立されており、いずれも現存している。四代貞次郎も医を志し東都に学びしも業成らず、漆山村田島医院にて医師を続けた。四代続いた山田家の医統は貞二郎の死没により絶えている。五代二男は山田家系続の為の養子である。現当主尚氏は七代目に当たる。
島貫元光:宮内の漢方医。嘉永三年に多紀要従に弟子入り。
○舟山養源:池黒村の漢方医・宿場医。嘉禾二年に多紀雲従に弟子入り。安政二年・三年に村人50人に種痘を施す。米澤堀内家の門人録に、池黒村舟山養源の名がある。
杉玄達.jpg杉玄達:羽陽杉玄達猛恭として『良中先生自然真営道方』を書き写した人物。人物像は不明。杉玄達はペンネームか。
春淙:嘉永六年(1853)に舟山寛の『医論』を書き写す。奥付けに「羽江之滸杜本之村松柏隠圖書」とあり、松柏は川村錦城の号でもあり、錦喊―寛―春淙 の医統が窺える。春淙はペンネームか。
船山道純の系譜:熊野大社の参道入り口で代々船山医院を開業していた船山道純・道生親子については、「船山道也家文書」が船山道也夫妻と息子の道隆氏によって南陽市に寄贈され、南陽市史編纂室須崎寛二先生を中心に翻刻されたものが『南陽市史編薗資料』39号に掲載されたことにより世に出ている。これによると、船山家はもと関東船山に在って上杉氏に属して小田原北条氏と戦い、敗れて羽州宮内に至った船山七右衛門を初代とし、のち上杉氏が米沢に入部すると中津川郷の代官に任命された。その何代目かの養仙が町医師となり、道富の時代宮内に移住し、その後道純の時代堀内忠亮に西洋医学を学び、洋医として代々船山医院を営んできたということである。船山道也家系譜には、舟山寛・舟山養源の名前はなかったが、船山道純が戦地にいる息子船山道生に送った手紙の中に、医師仲間の山田元登・斎藤松益・三須良伯らが病気を理由に北越戦争従軍を逃れて、すでに登城していることを記述した後に「養源も行軍披仰付候へ共、是も病気不参也」と伝えている。同姓の為「舟山」を省いたともとれるが、文脈より「養源」は道純・道生親子にとって身近な存在、縁戚にあたる人物かと思われる。
 舟山寛であるが、「船山道也家文書」の中の「六八 婚姻許可書」に
         覚 

    (端裏書黒江玄益)五十嵐八郎左衛門     末々名跡
       船山道富次男 寛次 右妻ニ  八郎左衛門娘取合
     右八郎左衛門実子無之、右寛次末々名跡仕、右妻ニ八左衛門娘取合度由、両様願之通相済侯事
         文化三十月
とあることから、舟山寛の活動した時期と一致していることが認められるので、船山道富の時代次男の「寛」が船山七右衛門家系より外に出て、新たに舟山寛の家系を築いた事が推察できる。

安藤昌益門弟・関係者分布.jpg8 おわりに
 私たちが調査研究活動をしている千住は江戸時代千住宿として、奥羽諸藩の江戸参勤交代道中の最後(最初)の宿場として、現東北地方の文化とも深いかかわりを持っていたことが知られていろ。秋田・青森で活動した安藤昌益の稿本『自然真営道』が、明治の時代千住宿から発見されたこともこのような脈絡の中にあると私たちは考えて調査研究を続けてきた。米沢藩の御殿医であった堀内家出身の堀内亮一氏が明治から大正にかけて千住仲町に奸生堂堀内医院を開業し、地元医療と教育事業に多大の足跡を残していることも、千住と山形・米陽との繋がりを彷彿とさせる。
 今般、私たち千住の「調べる会」活動の中で、安藤昌益の医学を伝えた川村錦城の弟子として宮内出身の舟山寛の存在が明らかになり、「羽陽舟山寛」「羽陽杉玄達」というように、羽陽宮内とその周辺にも安藤昌益の医続があったことが判明した。
 これからの調査研究課題として、舟山寛の著作物の発見、舟山寛と舟山養源との関係性の研究や島貫元光・杉玄達・春淙などの研究をとおして、昌益思想ど宮内との関係性の究明があり、また米沢藩との関係を調査するためにも、星野氏とはどこの人なのか、「羽陽」とはどこまでを指す地名なのかを特定していく作業が残されている。地元宮内と置賜地方の皆さんの協力を得ながら調査研究を続けていきたい、と考えている。 

        (了)

nice!(0)  コメント(1) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 1

めい

放映されたNCVニュースをyoutubeにアップしておきました。
https://www.youtube.com/watch?v=28nTUPjXIt0

by めい (2018-10-24 04:32) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。