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漢方医舟山寛のこと [安藤昌益]

家内は「昔の夏はこういうものだった」と言うが、この暑さただ事でない。数日前台風12号がほんのお湿り程度の雨を齎してくれたが、それ以外20日以上ずっと降ってない。祭りが終わった後の「オミサカアライ」、このところ毎年まちがいなくあったので、今年もあるにちがいないと思っていたのだが、ついになかった。(それほど異常だ。)大正10年(1921)に熊野のお獅子を大清水神社まで御出動願って雨乞いした記録がある。お獅子が集結する8月7日の七夕、雨乞いしなければならないのではないか。

よもやま歴史絵巻 表紙.jpg例年のことだが祭明けのこの時期、本業はじめ何やらかにやらでとにかく忙しい。とりわけ今年は「よもやま歴史絵巻」、なんとか8月18日のえくぼプラザ出張展に間に合うように冊子化にこぎつけたい。新たに今年度版5枚追加したくて、それも冊子に含めたくてまだその段階でまごまごしている。資金調達の予約は1000冊分ほど集まって資金的には大丈夫。2000冊発行できそうだ。500円を300円(10冊単位)、しかも予約部数に合わせて広告を掲載します、といういい条件なので、できてから「言ってくれればよかったのに」と言われることも心配しなければならない。(まだ間に合います。ご希望の方はご連絡ください。)

安藤昌益 通信2018.7.1.jpg新たに作る分に、今年になって急浮上した、安藤昌益の医統に連なるという「舟山寛」を取り上げたいと思っていたところに、「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の矢内信悟事務局長から「会通信第86号」が、私が答えねばならないいくつかの課題とともに届いた。矢内氏による「調査研究の『新たな10年』に向けてー川村寿庵の弟子舟山寛について報告する(その二)―」が掲載されている。実は矢内氏とは6月にもお会いしているのだが、ここに書かねばと思いながら書きそびれてしまっていた。とりあえず、その中から宮内関連部分を転載させていただきます。

*   *   *   *   *

山形県宮内を三度訪れる
 「通信」八四号で舟山寛を紹介した。これは、故山田二男(図1)が郷土誌『宮内文化資料』第四集(一丸六三年五月一五日発行)に掲載した’里人巷談」の中 で記したものを紹介しようとしたもので、その後同じく『置賜文化』二四号・二五号に分載されていたが、月日と共に忘れ去られていたもの を、昨年こ一月筆者が南陽市立中央図書館にて確夥し、『通指ごにて報告したものである。この時、菩提寺正徳寺に墓の存在は確認できたか、大雪の為、文字の 正確な判読ができなかりたが、本年三月と六月に訪れ置賜地方の資料も新たに入手でき、山田家に残る諸資料の調査も進んだので、現地調査について続編を報告する。
 十二月に訪れたとき、鈴木ひろ子さんの斡旋で山田家の現当主山田尚氏と、夜更けに入って電話にてお話しすることができた。訪宮内の案件をご理解くださった尚さんは.、山田家資料の調査をご承諾下され、雪が解けた頃の再訪を約束することができた。
  三月、町の中は短靴にて歩くことができるとのことで、一泊二日の強行軍で山田家の資料調査を、尚・由美子ご夫妻と三人で行い、紙袋二つの史料を御預かりす ることができた。寺域は官が大量に残っているため訪ねることは出来なかったが(山田家に向かう途中道の両脇にニメートル近い雪が積み上げられていた)、こ 一月に泊めていただいた「いとや旅館」の若女将が紹介して下さった地元の郷土史研究者高岡亮一さん、ふるさと資料館「ときのねすれもの」を主宰する鈴木孝 一さん、高岡さんが呼んでくれた舟山家の分家で宮内熊野大社楽長舟山昇さんとも夜を徹してお話しすることができた。
 六月に入って、預かっている資料の一部を返却することと、山田家の再調査及び正徳寺の「舟山先生墓」の拓本を採取することを主な目的として、二泊三日で三度目の調査に取り組んだ。夜には前掲三人の方に地元のお仲間片平文男さんも加わり、安藤昌益ー川村錦城ー舟山寛の医統がここ米沢宮内にあったことを、夜の更けるのを忘れて話し合った。

山田家史料・現地資料から分かってきたこと
  故山田二男は「乏しいながらも、自分の力で何とか宮内町発展の歴史をまとめて見たいものだと、資料の蒐集に傾倒したのは、昭和二十七年一月からだった」の 書き出しで始まる「里人巷談」のなかで、置賜地方各地の成り立ちなどを紹介した後、「宮内ではちょっと風格の変った、気骨のある、名利を超越した人物を語ろう」と、山形県置賜地方で、あるいはわが国で初めて、舟山寛を紹介した。
 山田の文をざっくりと纏めると
一、一八○○年前後、宮内に舟山寛という漢方医で立派な漢学者がいた
二、舟山寛は、山田家先考の恩師であり、記録が残っている
三、舟山寛は、米沢藩が招いた儒者細井平州と同門で、細井に招かれ登城し、平州に代わって藩士に講義をおこなっている
四、藩士の中に受け入れない者もあり、居眠りして受講していた某により、後年、入牢を申しつけられたことで、医業から離れた
と、紹介していた。山田の記述は、置賜地方宮内と舟山の関係を著したものであったが、今回の調査により「一」と「二」は証明することができたが、「三」と「四」については記録による実証は成らなかった。次に、このことについて、詳しく記述することにする。

山田家の系譜について
 山田家には、二男が作成した「山田家系譜」が残されている。清和源氏から始まり、延々と綴られ、二男先代貞次郎が没したところで山田家の男系が絶えたことを記している。二男は山田家継続のための養子である。
  系譜の内、他の資料で証明できるのは、現当主尚氏から数えて七代前の宗四朗からである。二男自身も『里人巷談追録」の中でぶ…l田家の始祖は俗名を宗四朗 といった。苗照といい雲樵と号した。天保四年十月十三日歿行年四十九、松寿庵釈総建受法居士と過去帳にある。其の妻は藤恵といって正徳寺第ハ世賢成の女第十世賢哲の姉で山田家に嫁したのだ』と記している。
 この宗四朗が舟山寛に師事し、どのような経緯があったかは不明だが、宗四朗実子苗教号伯龍が書き残した証言より、二男が「舟山先生は山田家の先考宗四朗苗照の恩師であった】と記述していたのであった。
  山田家は宗四則苗照より宮内において医業に携わり、二代苗教は山田伯龍として弟子たちによる生碑が正徳寺内に建立され、地元に名を残し、三代忠靖も医業を 継ぎ傍ら村人に書読を授け、雄子門弟らにより生碑が建立されており、いずれも現存している。四代貞次郎も医を志し東都に学びしも業成らず、添山村田島医院にて医師を続けた。四代続いた山田家の医統は貞二郎の死没により絶えている。

山田家に遺された史資料と二男の研究ノート
  山田家に残されていた史資料の内まず、舟山寛の漢詩一幅が挙げられる。舟山寛の漢詩を宗四朗松寿庵が所蔵し、安政四年(一八五七)伯龍が改表したものであ る。掛軸内容は「通信」八四号で紹介したとおりであるが、軸を巻き戻した通常「表題」を書いておく所に伯龍の手になる「説明記」がある(図2)。
  「説明記」は次のように五行で綴られている。

  文敬二卯年八月九日去世松寿葺先生之
              大恩之師也
                安政四己年八月改表之
舟山隆葺先生害小字与一ト云
                   山田伯龍苗教誌

 山田伯龍がこの説明書きを書き残したことが、山田二男に受け継がれ、今、二百年の時を超えて舟山寛が復活したのである。
  山田家に遺された史資料は、多岐にわたるプ江戸時代のものは伯龍の手になるもので、医業を営んでいた時代、隠居後俳諧を好み古松園雲樵といい松隠と号した 時代の作品、明治以降は二男の手になる蒐集資料と研究原稿が主なものだが、その内、私たちの研究課題にかかわるものを祀しておくと
一、嘉永二年賓物諸品改帳
一、冨永七年蔵書記録
一、嘉永七年蔵書出入先借用相
一、安政二年種痘記帳
を挙げることができる。
 この内、舟山寛に拘る一冊を挙げるとすると、蔵書記録(図3)が挙げられ、その概要を記すと
一、儒書之部 (八○部)
ス同写本之部こ二部、内舟山翁筆六部)
ス医書之部 (五三部、内医論全、他端本十冊)
一、同写本之部(七五郎、内錦城経験方、他舟山翁筆コ部)
ス秘書之郎 (二七部、内舟山翁筆九部)
一、歌之部  (六〇部)
一、雑部  (七七部、内舟山翁書二部)
一、墨状石福部(二〇部)
の八部に分かれ、各部に手筆の異なる書名があるので、嘉永七年に伯龍が記した後、忠靖か貞次郎かによって書き加えられたものとみられる。残念ながら、今回の調査では、ここに記されていた古文書は一冊も見つけることは出来なかった。
  医書之部の『医論』は舟山寛の書と認められ、その端本が十冊あったということは、この地域で広く読まれていたことが推察できる。同写本之部の『錦城経験 方』(図4)は内藤くすり博物館が所蔵している『錦城先生経験方』と考えることができる。嘉永七年時代、舟山寛の書・筆の書籍が多数残されていたことが分 かる。また、『嘉永七年蔵書出入先借用拍』に『医論』『錦城経験方』の記述がみられるので、舟山寛の医術は、置賜地方に広く伝えられていたことが、分かる のである。
 南陽市役所南陽市史編纂室に山田二男の「研究ノート」四冊が保存されている。四十年間の教職活動を退いて、郷土史研究に打ち込んだ二勇の取材メモなどが記されている記録帳を、晩年南陽市教育委員会に寄贈したものである。
 その二冊目表紙に「二十七年度」の記載があるので、一冊日は昭和二六年以前のものと理解できる。その六月九日の条に
 六月九目星野氏訪問
今の横町に船山寛(幼名与市)といふ
漢学者で医者が居た、(今の花屋)
細井平州先生は自分の去った跡は船
山に任せるとまでいわれた人
正徳寺境内に「船山先生之墓」とし
て残って居るがもとは山王山ノつつみ
の處にあったものだ、
平州先生が鷹山公に招かれて米沢に来た時
 「宮内の船山を呼べ」とのことで肝煎羽田平
兵衛同道参ったところ藩公と同列、に座
した家老連中不可解なことに思ったが
 「学者に上下はない」との平州先生の仰
せであったと伝えている。
の記述が残されている。
 この取材メモを基に「里人巷談」のなかで、「三」と「四」の内容を展開したものと推察できる。

  六月宮内調査においても、この「星野氏」がどこの人であったのか、を調べることができなかった。現地の方たちにご協力いただいているが、未だ、正徳寺舟山 家墓地を守られている御当主親子と連絡が取れていない。当主夫妻はご高齢で、長男は本年初頭に急死されているので、舟山寛家系の資料の有無は不明な状態で ある。
  取材メモは星塹氏が話された内容と推察できるが、星野氏が何に基づいて話されたのかが明らかになると、舟山寛の教育活動は宮内周辺に限らず、米沢藩の上級 藩士たちにも影響を与えていたことがうかがえることになる。引き続き置賜地方宮内調査を続け、また新しいことが判明したら、この欄にて報告することにする。


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