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訃報 飯山一郎さん [飯山一郎]

ほんとうに驚きました。「放知技」板に書いてきたところです。

*   *   *   *   *

まさかの報せでした。
堺のおっさん、野崎博士とともに、
パソコンに向かう隙もないほどの濃密な時間を過ごしておられるものとばかり思っておりました。

夕べ7時すぎ、9年前に心筋梗塞を患った私にとっては命懸けの祭りの大役を果たし終え、
ヘトヘトヘロヘロになって家に戻って最初に開いた「てげてげ」、
やはり更新されていないことを確認して「文殊菩薩」へ。
あまりに突然のこと、信じられないまま「放知技」板へ。
少しずつ現実が自分のものになってきました。
すぐにも何か書きたい、書かねばと思いつつ、そのまま寝入って今朝を迎えました。
その後の「放知技」板を読みながら、
私にとっての飯山一郎さん、飯山さんなかりせばに思いを致しました。
そうして今朝最初に開いた本(『ハンナ・アーレント』矢野久美子著 中公新書)で
目に飛び込んだのが「死者との交わり」、
カール・ヤスパース追悼式典でのアーレントの言葉です。
ヤスパースに飯山さんを重ねつつ読ませられました。
今朝この文章に出会ったのも意味あることのように思え、
僭越ながら転載させていただきます。

《 私たちはいまここに集い、
カール・ヤスパースがあれほど愛し尊重していた公共性のなかで、
ともに彼に別れを告げようとしています。……

 地上にある人間は、肉体を具えていることが必要です。
著作だけ知っていて著者その人をじかには知らない者にとっても、
本の背後には…バーゼルに、アウ街に…だれかがいる、
その人が生きた声と身振りをもって語っているという確かさか必要でした。
なぜならこれだけが、本に書かれていることは現実だったのだと保証してくれるからです。

……著作は、死んだ人が世界に残していったもの、
世界は彼が生まれるまえから存在し、
彼が去ったあとも存在しつづける。
著作がどうなるかは、世界の歩みにかかっています。
けれどもこれらの本は生きられた人生であったという単純な事実、
この事実は、直接に世界に理解はされずに、忘れられてしまう危険にさらされています。
人間のもっとも儚いもの、しかし同時にもっとも偉大なもの、
つまりその人の語った言葉や独特の身振りは、その人とともに死んでいく、
でもそれらこそ私たちを必要とし、
私たちが彼を忘れないでいることを求めているのです。
追憶は死者との交わりのなかでおこなわれ、
そこから死者についての会話が生まれ、
それがふたたびこの世にひびきわたります。
死者との交わり――これを学ばなくてはなりません、
私たちはこの共同の追悼の場において、
それをいま始めようとしているのです。》
(『アーレント=ヤスパース往復書簡3』)


飯山一郎師の御冥福を衷心よりお祈り申し上げます。

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