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 「活動(action)」「仕事(work)」「労働(labor)」(ハンナ・アーレント) [思想]

ハンナアーレントindex.jpg昨日、こども園の賞与支給日。急に思い立ってハンナ・アーレントについて話してきました。(手の離せない保育の合間を縫っての支給になるので、みんなに聞いてほしい時は文章にして渡すしかない↓)

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 最近読んだ本でハンナ・アーレントという女性の思想家を知って、保育の仕事について考えさせられました。
 ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年10月14日 - 1975年12月4日) は、ドイツ出身ユダヤ人の哲学者、思想家です。ユダヤ人ゆえのナチによる弾圧を身をもって体験し、「ナチも同じ人間なのに・・・人間がそうしたことをなし うる、そういう世界があったという言語を絶した恐れ」を出発点に、全体主義という政治現象、そしてその悪を人びとが積極的に担うことになった原因について 考え続けました。
 その一方、人間本来の営み(活動的生活)について、ギリシア時代にまでさかのぼって考えました。
 アーレントは、人間の生活を「観照的生活」と「活動的生活」の二つに分けます。
 観照的生活とは、ソクラテスやプラトンといったギリシアの哲学者たちがそうであったような、永遠の真理を探究する生活です。一方活動的生活とは、(それ以外の)あらゆる人間の活動力を合わせたものです。
 活動的生活は主として、活動(action)、仕事(work)、労働(labor)の三つに分けることができます。
  「活動」は、人間が関係の網の目の中で行う行為であり、それぞれが自発的に「活動」する中で社会的な役割を果し、「その行為の結果として自身が何者 (who) であるかがあからさまになる」といいます。「私的」な家族関係にはじまりますが、地域のつながり、職業人としての立場から離れた社会的な関係、さらに政治的な活動と「公的」世界への広がりをもっています。出発点はまず自分であっても、いろんな関わりの中から人にアテにされたりすることから、自分の意志でないことをしなければならないこともあります。それはそれ、自分が知らないだけで,他人にとっての自分だったのです。自分の正体は、基本的に自分にはわからない、そう思っていた方が正解かもしれません。《人間の正体は、守護霊(ダイモン)のようなもので、相対した他人には当人の肩越しに見えるが、自分自身に は見えない。これはまさに、活動が他者との関わりの中で生まれる社会的な営みであることを示している。》
 つぎに「仕事」は、職人的な制作活動に象徴される、何かを残すことを目的とする具体的な営みです。「ある特定の目的の達成をめざして行われる行為」です。こんなふうにも言われます。《「仕事」はすぐに消費されてしまうものではなく、永続的な構築物を作る営みである。「仕事」によって作られる具体物は、詩や音楽、家具などであり、こうしたも のは製作者の死後も残る可能性がある。つまり、仕事は死すべき人間の慰みになるような永遠性を有したものの制作を意味している。》目的意識をもった「教育」も「仕事」といえます。
 最後に「労働」は、人間の新陳代謝 を反映した行為であり、生存と繁殖という生物的目的のため、生産と消費というリズムにしたがって行われる循環的行為です。「活動」や「仕事」と異なり、 生存に伴う自然的な必要を満たすために、せざるを得ないのが「労働」といえます。《私 たちは生命を維持するために、米や肉を消費しなければならない。そうした消費される商品を生産することこそが「労働」である。つまり、労働は生きるための 営みに他ならず、労働しているさなかの人間は、シマウマを狩るライオンと同様で、動物として生きている。人間は、もし労働と消費のみを営むとするならば、 生まれて生きて死ぬという動物的な生命過程をただ辿っているに過ぎない。》
 「観照的生活」はともかくとして、自分の日々の営み(行動)は、「活動」「仕事」「労働」、それぞれどんな割合になっているか考えさせられました。「活動」は「人のため、世の中のため」、「仕事」は「それ自体の目的のため」、「労働」は「金のため」と、単純化してみました。どんな活動、どんな仕事、どん な労働でも「人のため、世のため」「それ自体の目的のため」「金のため」ということがあるわけなので、一概に単純化はできないのですが、アーレントは今の世の中があまりに「金のための労働」に偏(かたよ)りすぎることを問題にしたのでした。《「労働」は古代ギリシャで「蔑(さげす)まれた最低の地位」に あったが、近世にはルターによって人々の神聖な義務となり、近代にはジョン・ロックによって「すべての財産の源泉」として評価され、遂にはマルクスによって「最も人間的で最大の力」という高みにまで引き上げられた。それゆえ古来より労働は苦役であり続けたが、アーレントによればマルクスによって人間が行うもっとも生産的な行為として位置づけられるようになったと考えます。》
  古代ギリシア社会では「労働」は奴隷の仕事でした。「奴隷」に「自由」はありません。《労働することは必然(必要)によって奴隷化されることであり、この奴隷化は人間の生活の条件に固有のものであった。人間は生命の必要物によって支配されている。だからこそ、必然(必要)に屈服せざるをえなかった奴隷を支配することによってのみ自由を得ることができたのであった。》
 そこで、人間の成長に関わる「保育」を考えてみてください。自分の行動の中で「活動」「仕事」「労働」の占める割合がどうなっているか。
 以上、《》の部分は『AI時代の新・ベーシックインカム論』(井上智洋著 光文社新書 2018.5)からの引用です。
  AI(人工知能)の発達は人間を「(苦役としての)労働」からどんどん解放する方向へ進んでいます。そうした方向に加え、これからはベーシックインカムが 現実に可能な世の中になりつつあるというのがこの本の主張です。ベーシックインカムは、国民全員平等に基礎的所得保障する(たとえば一人7万円、4人家族なら 28万円)というものです。「働くことで所得を得る」のではなく「生きているから所得を得る」という考えに基づきます。そのことで、「金にならない仕事はやらない」という考えから解放されます。「仕事」とは本来「人のために役に立つこと」だったのではなかったか。目先のおカネにこだわらない本来の「仕事」が息を吹き返します。
 まとめます。
 「保育(教育)」の営みは、「労働」であるまえに「活動」であり、「仕事」です。その営み自体の中に、生きがい、喜びを見いだせるかけがえのない営みです。私にはそう思えます。

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めい

なんとなく、ここにメモっておきます。

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吉本隆明 糸井重里「悪人正機」(新潮文庫)
http://lighthouseonthehill.seesaa.net/article/33696199.html#more

 それじゃ人間ってのは何だっていうと、要するに子供が一番の基準だと思いますね。子供って、一日二四時間、全部遊びじゃないですか。生活イコール遊びなんですよ。あれが理想でね。
 つまり、働くってことは、あんまりいいことじゃないってことを言いたいわけです。
 清貧の人は、やっぱり人間、働くからいいんだって言うんでしょうけど、僕は、それはウソだって思ってますね。遊んで暮らせて、やりたいことができてっていうのが、いちばんいいんですから。


 糸井重里が近所のおじちゃんのように接してきた吉本隆明から聞き出す、過激な自己啓発の言葉。「生きる」ってなんだ?「友達」ってなんだ?「挫折」ってなんだ?などなど。質問のどれもが言葉の本体を剥きだされ、かつ噛み砕かれて提示される。「人助け」なんて誰もできない、円満な家庭なんてそんなものはねえんだよ、テレビを見るのは、たださみしいから、など意表をつく数々の見方。


 最近の作家の量産体制は、なにか人間の本質をつくような、後世に残す名作を、というよりはメディアとのタイアップやら、流行りの為だけに作品を生み出して入るような気がしていたのだが、吉本隆明は既にそこを実にうまい表現で射抜いている。
 それはこの本の「言葉」って何だ?の回で、純文学とエンターテインメントの間に「パート文学」が出てきているとの発言。その例として町田康の「くっすん大黒」は悪くないが、この次にはこういうものを書いてこういう風に成長していくだって言うようなことは考えられない、時間給でやっている感じだと。
 漱石に始まり村上龍・村上春樹までは、成長の跡を辿れるが、ウチの子供(よしもとばなな)などはテレビドラマのワンクールごとという感じだと言う。
 ここからが吉本隆明なのだが、パートで全然構わないという。むしろ文学とはこうでこうでなんてことは忘れてしまった方が良いと。知識や認識なんてつまんない部分を憶えていると、「小説がヘタになるぞ」と。
by めい (2022-02-22 03:56) 

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