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福来友吉「観念は生物(いきもの)なり」 [福来友吉]

念写発見の真相.jpg『福来友吉博士の生涯 念写発見の真相』(山本健造 たま出版 1981)を読んだ。寺沢本はかなりの部分この本に負っているにちがいない。山本健造69歳、数多い著作の中の2番目、それだけに山本先生のその後の展開が予期される熱い思いがこもった好著だった。その中に福来博士が晩年到達した考えを中沢信午教授なりにまとめた文章があり刮目させられた。「一言でいえば」ということで「宇宙は一つの絶対念のテレオロギー(目的論)的自己実現の世界であり、その原理は愛である。吾々はその分枝である。吾々は分枝として自律的に自己実現を行う。そのとき、吾々の自律性が絶対念のテレオロギーと一致するならば善であり、反すれば悪である。吾々は自律性がこのテレオロギーに一致するように、祈りによって絶対念を自己の内に実現することにおいて、真の生存をすることができる。」とまとめられているが、そこにいたる筋道は、私には十分納得できるもので、ぞくぞくしながら読んだ。何度も読みたいので転載させていただきます。(「観念は生物(いきもの)なり」。どこにもルビはないが、「生物」は「いきもの」と読むはずです。)

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 福来友吉先生の晩年の学説『福来友吉博士の生涯 念写発見の真相』203-217p)
 東北心霊科学研究会が「心霊研究六四号」(昭和二十七年六月十五目発行)に東北心霊科学研究会の特別寄稿として、弟子の中沢信午博士の筆になる福来先生の学説の要約がのっているのでそれを転載することにします。

 福来先生の学説はその立場が奇抜であり、その理論が深遠であるから、私達はまだ完全にその内容を理解するに至っていない。そこで、何れ充分に研究してから機会を改めて御説の全部を詳しく紹介することとなし、今回はごく通俗的にその大要をお伝えしたいと思う。

 省みるに、先生の学説は日進月歩であり、絶えずより高きに向って進展し、晩年においてもなほ御自身完成されたとは思っておられなかったことは、日頃のお話しから明かである。
 「私の古い著書などは読んで頂かない方がかえってよい。催眠心理学(明三九)や心霊と神秘世界(昭七)などからみると今日の考えは全く変っている。生命主義の信仰(大一二)、あれも今日からすれば幼稚なものだ。」
 そしてこれらの著書の立場を脱して、全く新しい説を発表されるべく着稿のまま亡くなられたのであるから、私達は先生の円熟された思想を研究するのに、専ら日頃の談話と講演などの中に内容を求めねばならない。
 物質と精神との関係については、早くから論じておられるが、少くとも念写の研究をはじめられる以前には、物質に礎をおかない精神の存在をみとめておられなかった様である。「催眠術と医業との区別に就ての討論」(明三七)という論文においてはこの点を次の様に述べられている。
 「英国の精神研究会々員の中には、物質を離れて精神の存在することなどを主唱する人もあるけれども、これ等の説は決して科学としての心理学の範囲内に属するものではないのである。勿論後世恐るべしで、これ等の説が現今の流行の心理学説を圧倒するに至るやも知るべからざるである。しかし兎に角今現心理現象を科学的に研究せんとする学者の一般に承認する所の説では、物質を離れて精神活動の存在する、ことを許さぬので、一切の精神現象は悉く物質現象に同伴するものであるとするのである。この思想は独り心理学者間一般に行はるる所であるのみならず、心理学を基礎とせる精神科学を研究する学者間、及び生理学者間に行はる所である。」
 けれども先生は決して研究することなしに頭から霊の存在を排斥されたのではなく、公平に批評して、要するに事実を確かめねばならないと述べておられる。
 例えば同じ論文の中で、祈祷によって病を治すのが迷信か否かという裁判に関して次の如く述べられてある。
 「被告の加持祈祷が果して能く病を治癒し得るや否やを実験的に調査し、しかしてその実際上疾病治癒に効あることを発見し、そこで……兎に角被告の所行は実際上疾病を治癒し得るを以て、被告は民を欺くものにあらずと判決したりとせよ。吾人はこの如き判決が前二種の判決に比して数等信頼すべき価値を有しているものと信ずるのである。」
 理論より事実だ。事実は勤かすことができない。これが先生の生涯を一貫した主義であった。ともかくこうして催眠現象の研究をつづけるうちに、これまでの説明では不合理な現象にしぱしぱ遭遇されたということである。それは技術者が催眠において机上の学術書などの任意の頁と、そこにある言句などを読みとること、つまり現今の透視の現象を経験されたのである。ここで先生は思い切って催眠心理学を去って心霊研究の世界に突入されたのである。時に明治四十三年の春、はじめの霊能者として御船千鶴子が登場した。ここに先生の生涯の研究分野がひらけて来た。
 それから色々のことがあった。明治四十三年牙二月二十七日、長尾夫人についての念写の発見、これにつづく高橋夫人、渡辺偉才、三田光一、森竹嬢などの念写能力者の出現。これらに対する世間の批評など、実に多事多難であった。けれどもこれらのことについては伝記や年表の中にも取扱われることであろうし、また世にもかなり知られていることであるから私達は直ちに晩年の先生の学説を紹介することにしよう。

 観念生物論
 生涯を通した論文のうちで、晩年に於てもなお、一貫して変りなく、自分の思想が常にここから発していると言っておられたものがあった。それは大正六年雑誌変態心理に発表された一論文「観念は生物なり」である。念写より得られた当時の新しい立場を表明したものであり、その中で先生は三つの命題を提出しておられる。
 一、観念は要求なり。
 二、観念は力なり。
 三、観念は空性なり。

 即ち、観念の作用は、念ずることによって乾板の上に念じた姿を現出するのであるから、盲目的なものでなく、自から活動の内容を制限し、方向を選択する。のみならず、武田信玄の像の念写が終ってのちに意識せずにこれと対立観念である上杉謙信の像が念写され、山口不二子の辞世の歌を念写すると、また意識せずにこれと相対的な観念である松尾多勢子の像の念写がおこるなどの事がら考えて、どうしても観念は自らあらわれんとする要求をもったものである。また観念はその要求ずる内容の感光物質上に作用して変化を起させるのであるから力であることは言うまでもない。ところがこの観念は肉体をふれずして感光物質に作用し、しかも、一ダースの乾板のうち、任意のものに選択的に作用するのであるから、つまり表面に関係なく内部に作用できる。従って観念は空性である。空間規定を超越している。そして、観念は以上三つの命題を満足せしめるもの、つまり生命的存在、即ち生物である。これがこの論文の要旨である。
 「心霊と神秘世界はこの立場を証明する事実の追加発表であり、現在の私の考えも、根本的には観念生物流であり、これを一歩おし進めたものである。」とお話ししておられた。

 観念実在論(念論)
 さきに観念は生物也と提唱したけれども、さてその観念とは何ぞやと言うことをよく考察してみるに、先ず観念とは知覚内容が意識に表象した結果、そこに姿を規定した状態である、つまり個々の観念は個々の認識に対応する特殊なものである。これは従来の観念に関する説明と同じである。
 ところで、この観念は、念写において、それ自身が要求をもち、現れんとする発動によって感光膜上に自らの内容を自己実現することができる。従って観念は単に表象ではない。それは実在である。そして観念は念写において明かに肉体をはなれて作用し、かつ三次元の空間規定を超越している。つまり物質に基礎をおいているものではない。感光膜上に化学反応をおこさせる点において、物質に作用するものではあるが、しかし肉体をはなれ、三次元を超越して作用するのであるから、それ自身物質ではない。観念生物論のごとく、これを生物というのは、生物学上の有機体と混同されてよくないが、ともかく観念は生命的な実在である。この観念が通常は自我のうちにあって、自我の知識として活動する。けれども時にそれが自我をはなれると、随所に出没して念写を行う。即ち、観念が自我の内部で活動する場合が心理現象であり、自我の外界で活動する場合が心霊現象である。このように心理現象と心霊現象は、同じく観念の活動による点においては異るところがないけれども、心理現象としてあらわれる自我内の観念が時空を超越できないのに対して、心霊現象としてあらわれる自我外の観念は明かに時空を超越できることは種々の実験から明かである。そこでこの両観念はどうしても区別して取扱われなけれぱならない。自我内の観念は現今一般の心理学者が呼ぴならしているようにこれを従来通り観念(idea)と名づけてよい。自我外の観念はこの度新しく研究対象となるのであるから、何か別の名前をつけよう。心霊学者はおそらくこれを霊(spirit)と呼びたいであろうが、霊は死者(時には生者)の人格が消滅せずに残ったものをいうのが普通であり、個々の観念をさすのでないから、もっと他の名称がよい。ところでこの思想は西洋にみられず、従って適当な欧語も見当らない。けれども仏教のうちにこれに相当する言葉かあるので、思い切って仏教から述語をもらって、これを「念」(nen)と呼ぶことにする。つまり念とは自我の外に出た観念である。念は観念生物論における観念に相当し、その性質をそこに述べられているが、なお先生は晩年にサイキックオブザーヴァに発表された「三田光一と念写」(一九五二)において念の性質を次の様に要約しておられる。
 念という言葉は日本語である。それはすべての心理的(ideal)および心霊的(spiritual)活動の基礎となる非物質的な力である。動詞として念ずる(nen)というときには精神統一を意味する。私はこれに相当する適当な英訳を見出すことができない。そこで、日本語のままでこれを用いることにする。
 前述の実験結果およびその他の多くの実験に基いて、私は念に次の三つの特性があることを認める。
 一、念は非物質的な力である。
 二、非物質的であるから、念は純粋であり、形をもたない。けれども、それは物質に作用し、物質法則と関係がない。つまり物質界を超越している。
 三、一定の観念をもった念が形成され、実験においてこれが念写されると、その念は、その作用の後で、直ちに消滅することなく、永い間生存をつづけ、のちにまた実験のさいに活動して前回と全く同一の念写像を形成する。
 このように念は自我をはなれた観念であるが、それでは如何なる場合に観念が自我をはなれるのであろうか。第一はトランス状態においてである。即ち自我が意識を統一して認識の相をはなれ、自他つまり主観客観の区別を超越したときに、自我のうちなる観念は自我をはなれて自由となる。ここにおいて観念は念として作用し、時空超越の心霊現象をあらわす。念はまた自我とはなれて他の自我のうちに入りこんで宣言や自動書記を行うことがある。逆に言えば、トランス状態においては、自我の観念がはなれてゆくと共に、他の念か自我のうちに入ってきて活動することがある乗り移り(possession)がそれである。観念が自我をはなれる第二の場合は肉体の死である。肉体が観念の活動に不適当な生理条件となった場合に、観念は念として自由になり、宇宙内にそれ自身で存在するようになる。これは観念が肉体をはなれて活動し得るという念写の実例によって充分推察できるし、また霊媒の知識としてあり得ない死者の人格が霊媒の肉体を通じて活動する場合などから明かである。このような念がいくつか連鎖して統一的に活動するときに、それを霊と呼ぶ、つまり霊とは肉体をはなれた観念の群に外ならない。

 念写説
 念写のおこるメカニズムに関してはまだ不明である。けれども、実験によって、ともかく感光膜上の粒子に、光化学反応とひとしい反応をおこさせることには違いがない。と言って、念が光粒子そのものではない。なぜなら、念は鉛の膜を通しても作用するし、また表面に作用せずに内部に作用することが出来るし、かつまた距離を超越して選択的に任意の点に作用できるからである。けれども重要なことは、その作用の結果が光粒子のそれとひとしいことである。ここから心霊写真に関する新しい説明がなされる。心霊写真と称せられるものの中にはトリックによる偽物があるけれども、また確かに真の心霊写真というものがあるということは全く真実であって少しも疑う余地がない。ところでその事実に関しては古来二つの説が対立している。一つはオリバー・ロッジ、ホジソン、ロムプロゾー・フラマリオンなどの大家による幽霊説であり、写真の焦点に相応する位置に幽霊が実在して、それからくる光線がカメラ内のフィルムに像をむすんで感光したのだという考えである。しかし、念写がカメラなしで出来るという事、またカメラの前に実際に幽霊が存在したという証拠が成立しないから、幽霊説は不当である。もう一つの説はノッチング、モルセリ、ボッタージ、フォア、リシエ、コーチック、オストワルド、フルールノア、ド・ヴエスム、ド・ロシヤ、マクスウエルなどのような若い進歩的研究者達による精神説である。この説明によると、観念が自我の外に出て作用し、物質化(materialization)によって自己の体を構成する物質をそこに創造して姿をみせ、その姿に反射してくる光がフィルムに感光するのだという。けれども実際には姿がみえずして写真にうつる場合があるのだから、これもまた適当な説明ではない。念写によればこの点がよく説明される。つまり心霊写真もまた一種の念写であり、念がフィルムに作用して姿をあらわすのである。従って姿がみえないでも写真にうつるのである。ところが実際に姿が目に映じ、しかもその通りに写る場合がある。これは実在する幽霊から反射してくる光粒子がレンズを通してフィルム感光するのだと一般に考えられ易いが、念写説によるとそうではない。つまり幽霊として誰にもみとめられるものは、実際にそこに物体があるのではなくして、念が吾々の網膜、或はその他の視
覚器管にはたらきかけて、そこに自己の姿をみせるのである。つまり写真のフィルムと同じく吾々の視覚系統に念写しているのである。目に映じた幽霊の姿は吾々の感覚に対する念写であり、実在ではない。だから人によってこの念写を受けない者には一緒におりながら、その幽霊をみることが出来ない。この様な場合はしばしば報告されている。念写説の結果として心霊写真をとるのにカメラは不要なことになる。実際に、ウイリアム・ホープが撮る心霊写真に対して先生はカメラなしで撮ることを提案し、成功しておられる。但し念写は念の作用であるから、霊媒があくまでカメラが必要であると信じていればカメラを使わなければ撮れない。観念のもち方次第で如何様にもなるのである。
 こうして感覚に念写されて見える幽霊は、念写が終ると共に見えなくなる。つまり消滅する。従ってもし永遠の念写を行う場合があると仮定すれば、その姿は永遠に感覚に映ずることになる。物質はそのような場合ではあるまいか。つまり宇宙に一つの絶対的な念があり、それが永遠に吾々に対して念写を行っている状態が物質であり、ある法に従って流転する姿をもって念写されているのではあるまいか。この物質観はしばしば先生の談話に承ったところである。

 時間空間論
 直観世界として吾々は三次元空間を与えられている。しかし、念写はこれを超越して行われることはすでに述べた如くである。つまり念は任意の空間に出没が自在である。時間についても同じことが言える。直観にあたえられたものは現在のみであるが、念写のみならず、予言、未来透視、過去透視などにおいては、現在にいながら過去や未来の事象が現出する。しかも、それは現在にあたえられた資料からする過去や未来の推測ではなく、過去や未来の直観である。この事はまた念が時間を超越して作用することを示している。
 この時空超越性については二つの立揚がありうる。一つは、時空構造を固定した真実とし、念がその間を自由に移動(travel)して出没できるという考えである。つまり空間規定はそのままとしておいて、念の方がそれを超越できるとするのである。なるほど空間構造は現在において全部があたえられているからそれでも矛盾を来さないであろう。ところが時間構造は現在しかあたえられていないのだから、時間規定をそのままとして、念がこれを超越して過去にも未来にも出没できるとするのはアポリアである。そこで、立場を全く新しく回転して、遂に時空規定そのものが批判されねばならない。
 そもそも時間空間というものは、カントの言う如く吾々の感性の形式に属するものであり、世界そのものの、属性ではない。だから過去、現在未来という順序に時間が規定されて、吾々はただ現在だけを直観できるというのは、吾々の方でそのよりに直観するからであり、世界そのものがこの順序で経過するのではない。むしろ世界そのものは空であって、時間がないのである。過去、現在、未来が渾然と合一してあるのである。念の時間超越性は念が感性の形式をはなれて作用すること、つまり、念は時間のない世界で作用するということに外ならない。空間についても同様である。世界そのものに空間構造があるのではなく、吾々の感性の方で空間的に直観しているにすぎない。念の空間自由性は、時間自由性と同じく、念が感性の形式をはなれて作用すること、つまり、念は空間のない世界で作用することを意味するものである。換言すれば、念の超時空的性質は、念が時空を超えることでなく、念の場には時空がないことを示すのである。時空的世界はただ観念の場であるにすぎない。

 生命主義
 念写の実験および念写説によって明かなように、現象が起るのは念という超時空的な本体の自己実現によるものである。そしてその本体は超時空的である点で、空であると共に、作用する点において実であり自己実現という点において目的論(テレオロギー)的な実在、即ち生命である。この立場を一歩進めると、宇宙そのものが、実は念の自己実現によって現象するテレオロギーの世界であると考えられ、しかもその際に個々の現象が究極的には一つの法則に統一されていると思われるのだから宇宙は実は一つの絶対念の分枝体系的現象である。この絶対念はプラトンのイデア、仏教の真如、キリスト教の神に相当する。けれども念写という具体的事実から、より確かに認識される点において、念という名前で呼ぶことにする。念は自己実現のために、個々の現象に対応して個々の生命をあたえ、これによって個々の現象が各々自律性をもつことになる。この自律性の衝動がつまり無明である。このように世界はひとまず汎神論的に理解される。
 ところが無明のうちには、その自律性にょって、真如のテレオロギーからはなれてゆく場合がある。これがつまり悪である。悪は自ら煩悩の根源になると共に真如のテレオロギーに反した自律性によって他を害することになる。即ち無明には二つの場合があり、一つは、他の一つは起源となる。阿頼耶識に無明が熏習して無明業相を生み、これが能見相つまり認識の根源となって苦の世間を来すといい、無明をすべて罪悪とするのが仏教である。従って仏教では阿頼耶識に対して無明でなく真如が
習すれば、反対に認識的世界が消滅すると共に苦がなくなるというのである。ところが吾々にあたえられた世間は無明による認識の世界であり、そこに喜怒哀楽があるのであるから、無明を去ることは生命を否定することである。ところで世界は絶対念の生命実現であるから、無明を去ることはまた絶対念、つまり真如を去ることでもある。この点の矛盾をのぞくために大乗仏教では即身成仏、煩悩即菩提、衆生仏心、などという言葉がある。けれども真如と世間との関係については明かにしていない。
 吾々は悪の無明を去って善の無明を持たねばならない。換言すれば絶対念のテレオロギーから外れた道をとりもどして、絶対念の生命を自我のうちに実現せねばならない。そのためにはどうすればよいであろうか。先にトランス状態において自我外の観念、つまり念が自我のうちに来て自我の肉体を通して活動することを述べた。この事からして、絶対念の作用はトランス状態において自我のうちに活動してくるものであることは容易に理解される。ところがトランス状態において入ってくる念には、種々のものがあり、善いものも悪いものも、要するに最も入りやすいものが入ってくるのである。すると吾々はただトランスになっても悪霊の乗りうつるところとなることが往々あるわけである。この場合に、審神者(サニワ)が立派であれば悪霊をしりぞけて善言ばかり入ってくる様にすることができる。ここで吾々は自らが審神者になって、自我のうちにも善霊が入ってくるようにせねばならない。その仕事をするのが「祈り」である。一切の悪霊を斥けるべく絶対念に向って祈りながらとトランスになるときに、否々のうちに聖霊が活動するのである。ところでトランスに入るにはかなりの修業が必要であり、そのためには哀楽を断って何か苦しい仕事に専念せねぱならない。こうして、ともかく修業によってトランスに入り得て、聖霊の活動を受けても、トランスに入るたぴに行者の生活をせねぱならないのでは、日常生活のうちにおいて絶えず聖霊の活動を求めることができない。ところが不思議なことに、修業をつんでトランスに入ることをくり返すことによって、吾々は平生のままで聖霊を受けることが出来るようになる。これは、例えば霊能者が、はじめに苦行して念写などを行ったものが、馴れるにつれて、容易に出来るようになることから充分に理解される。吾々は修業をつむことによって、ただ祈ればそこに聖霊のはたらきを受けることが出来る域に達する。これは可能であり理想である。
 それでは絶対念の活動は如何なるものであろうか、先ずそれは自己実現として現象を生み出すところの創造のはたらきである。すべての個々の現象が自律的に絶対念のテレオロギーに合流するようにし向けるはたらきである。この点においてテレオロギーの基準となるものは愛である。絶対念が個々の分枝の自律的な念の自己実現の要求を行なわしめようとする愛である。従って個々の分枝は自己の自律性に従って発達するが、その発展が他の分枝の発展を害するときに、それが悪である。悪は愛によって克服することができる。その愛は絶対念の活動として分枝の内にはたらいてくるものであるから、分枝は祈りによって絶対念の活動を受けること、つまり聖霊のはたらきをうけることによって、悪を克服して愛をあらわすことができる。ここで絶対の念は汎神論的実在でなく、人格的生命となる。この見地から仏教を省みると、世間は真如に反するのでなく、かえって真如は無明を通して世間の内に自己実現を行おうとするのである。従って無明こそは必要不可欠なものである。ただその無明が常に慈悲によって薫習されるべく、吾々は修業をつみ、念じなけれぱならない。
 一言にして言えば宇宙は一つの絶対念のテレオロギー的自己実現の世界であり、その原理は愛である。吾々はその分枝である。吾々は分枝として自律的に自己実現を行う。そのとき、吾々の自律性が絶対念のテレオロギーと一致するならば善であり、反すれば悪である吾々は自律性がこのテレオロギーに一致するように、祈りによって絶対念を自己の内に実現することにおいて、真の生存をすることができる。
 以上福来先生の学説を大略して紹介した。私達の幼稚によって、もし誤った点かあれば、お許し下さるよう、故先生にお願いする次第である。(中沢信午)                       

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