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吉里吉里忌(4)『組曲虐殺』  [井上ひさし]

組曲虐殺』61dtbVgIo0L._SY445_.jpg吉里吉里忌(1)で《平成3年に「しみじみ日本・乃木大将」の舞台を観て以来、もう井上ひさしの芝居は観なくていいと思いこんできたのだが、あるいは栗山氏との二人三脚の結果か、井上芝居は新たな地平が切り拓かれていたのかもしれない。不明を恥ず。栗山氏の思いの極みにふれて、切に栗山氏演出の舞台を観たいと思った。》と言いながら、(2)で《「私」という言葉へのこだわりが耳に障ったことと「記憶」へのこだわりに白けることとの感覚の共通性を思った。共に容易に「つくりもの」に転化する。こだわればこだわるほど「実存」から離れてゆく。勘ぐれば、井上ひさしという人の根源の苦悩がその辺にあったのではないだろうか》と言う、私にとっての井上ひさしに対する思いの振幅は何なのか。そう思いつつ最後の作品、小林多喜二の『組曲虐殺』を読んで、納得したような気がした。きっと井上作品にはどの作品にも、その場面のために他の場面があるというような場面があるのではないか。そこにたどり着くための七転八倒、それは所詮「つくりもの」なのだが、肝心の「その場面」は作者にとってのまごうことなき「真実」の世界。つくられた「私」も「記憶」も超えた、たしかな感動がある。以下、それを思った場面。

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多喜二 世の中にモノを書くひとはたくさんいますね。でも、そのたいていが、手の先か、体のどこか一部分で書いている。体だけはちゃんと大事にしまっておいて、頭だけちょっと突っ込んで書く。それではいけない。体ぜんたいでぶつかっていかなきゃねぇ。
山本 体ぜんたいでぶつかると、・・・・・どうなるんでしょうか。
多喜二 (左手を胸にあてて)カタカタカタカタ、カタカタカタカタ・・・・・、
   その不思議な音の響きに一同、虚脱から覚めて、多喜二を見る
多喜二 体ごとぶつかって行くと、このあたりにある映写機のようなものが、カタカタと動き出して、そのひとにとって、かけがえのない光景を、原稿用紙の上に、銀のように燃えあがらせるんです。ぼくはそのようにしてしか書けない。モノを考えることさえできません。
山本(つぶやくように)・・・・・かけがえのない光景?
多喜二 そのときそのときに体全体で吸い取った光景のことかな。ぼくはその光景を裏切ることはできない。その光景に導かれて前へ前へと進むだけです。
   一同、多喜二の言葉に吸い寄せられている。
(第8場 胸の映写機)
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山口・栗山対談、『組曲虐殺』について。↓ここのところを聴いて『組曲虐殺』が読みたくなったのでした。
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(山口)・・・結果として最後の作品となってしまったんですが、『組曲虐殺』というのが、これも栗山さんの演出ですよね。で、これは小林多喜二の評伝劇なんですけれども、これはちょっと今までの井上さんの作品とちょっと雰囲気がちがうというか、井上さんがご自分のお父様の体験を小林多喜二に託して書かれるという、非常にパーソナルな思いも込められた、とてもすてきな作品だったと思うんですけれども、これは何か・・・(?)
(栗山)まあ、あのー・・(?)っていうか、んー、あの、すごい状況でしたね。あのー、本が出来上がるまでの・・、あのー、井上さんって、たとえば『貧乏物語』って、さきほど河上肇さんの評伝なんですけれども、あのー、あの時はほんとにおにぎり一つで自分に課すわけですね。状況、小林多喜二のときはきっと、築地署の拘置所の中で3時間の拷問があったわけですね。その拷問で結局死を迎えるんですけれども、それでも自分の思想が間違っていたとは言わなかったわけですね。そこにやっぱり井上さんの小林多喜二を書こうと思った精神がきっとうつっていると思います。だからきっと、台本が出てきた中にいつも手紙が書き添えられているんですよ。それがすごい長いんですね。こんな長い手紙書くんだったら原稿一枚でも多い方がいいって思うんですけれども、(笑い)やっぱりその手紙を読む度に、今どういう状況なのかなって。井上さん言うんですけど、「奥歯を噛みしめて書いてます」。そして次の朝の手紙には「奥歯がちょっと痛いです」って。(笑い)そのくらいね、多喜二の拷問に耐えたそこから物語を出発させようと絶対してるはずなんですね。だからそれが、強度のすごく強い言葉になってゆくというか、それでいながら井上さんはいつも、人間は涙の谷を渡っていると、だからこそ、笑いっていうのは人がつくらなきゃあできないものなんだ、だから必死に笑いをつくろうとしているんですね。だからそのバランスがね、もうほんとうにもう地獄の風景を描いているくらいの強いものでしたね、多喜二の。
(山口)井上芳雄さんが多喜二を演られて、もちろん非常に過酷な生涯なんですけれども、とてもチャーミングな青年で、ちょっと冗談も好きだったり、まあ、歌もふんだんにあったりということで、井上さんの演劇の良さみたいなものが、とっても象徴的に詰まっている作品でもあります。で、音楽を小曽根真さんが生で、世界的な演奏家が演奏するというとても贅沢な公演でありましたですね。
(栗山)伝記をずーっと読んでって、麻布の三日間だけがどうしてもわからないと、井上さんが仰っててね、その三日間の場面が一つの実は場面になっているんですよ。それがね、「すっごくきれいな部屋で」って書いてあって、ちょっと夢のようなシーンなんですね。井上さんに、「これはちょっと周りと異質なんですけど」と言ったら、井上さんが「これは多喜二に対するプレゼントです。」
(山口)あのー多喜二が ? で「後につづく者を信じて走れ」というのが、結果として遺言のような響いてしまいますけれども。
(栗山)そうね、遺作ですからね。井上さんが脱稿して稽古場あるいは劇場にくると、作家ですから、僕はいつも「どうぞ、どうぞ」と、横を空けると、「いいです、いいです、後ろでいいです」と言っていつも後ろ、二つぐらい後ろの席に座るんですよ。井上さんは笑い声がバロメーターなんですね。それを聞かせたくてあえておおきな声で笑ったりするんですけど。『虐殺』の時はね、嗚咽ですね、んー、はっきり聞きました、僕は。まぁ、だからそれは、ひとつは多喜二に対する愛情じゃないかなって思いましたけどね。やっぱりお父さんをかぶせたんでしょうね。米沢署に三度留置されたってね。そこで拷問受けたって。だから井上さん、絶対曲げないんですよ、自分の思想をね。だから自分の作品にもちろん投影するし、それをもって僕等は文学者とか詩人とかとよべるんですけどね。
 

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