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吉里吉里忌(3) 井上ひさしにとっての宮内 [井上ひさし]

前回思いがけなく、小松生まれの井上ひさし(昭和9年生)と宮内生まれの小田仁二郎(明治43年生)の対照性に思い到った。そうしてみると、その風貌から始まって、世の中に作品がどう受け入れられたかまで、たしかに何から何まで正反対。果たしてそれが、小松と宮内という地域性に起因するところがあるのかどうか。そんなことを思いつつ、井上ひさし氏へのインタビュー記事を引っ張り出してみた。昭和58年に井上氏が南陽で講演され、終わってから私と「週刊置賜」の加藤社長とで上山葉山温泉の古窯まで私の車でお送りした。「司馬遼太郎氏が盆地の風景が目に飛び込んだ瞬間『あっ』と声を上げた」と誇らしげに語ってくれたのがこの時、鳥上坂にさしかかった時のことだった。別れ際に、翌朝のインタビューをお願いし、それが記事になって残っていた。その第5回で、われわれへのリップサービスもあったかもしれないが「僕の小さな時の印象ですが、置賜盆地で一番アカ抜けしている所は、宮内ですね。」と語られている。井上氏が生まれた昭和9年頃からは隆盛を極めた宮内の製糸業にも翳りが出てはいるが、中央の歌舞伎役者や浪曲師が宮内には頻繁に訪れていた。月なきみそらの天坊一座』は宮内の松風座「昭和15年度松風座入場者数」がモデルとなっており、昭和61年に川谷拓三主演でNHK銀河テレビ小説化された時のロケ地は宮内だった。58年の時点では小松のフレンドリープラザの構想はまだなくて、宮内が先駆けるならば必ずしも小松にこだわらなくてもいいという井上氏の思いを確認した記憶がある。「こまつ座」が始動しはじめた頃、置賜への深い思いが語られた貴重なインタビューなので貼付けておきます。(当時市職員の鈴木孝一さんが撮影した講演のビデオが「時代(とき)のわすれもの」に保存されています。「週刊置賜」連載の講演録コピーも残っています。)(つづく)
井上ひさし1.jpg井上ひさし2.jpg井上ひさし3.jpg井上ひさし4.jpg井上ひさし5.jpg井上ひさし「涙を蒔いて.jpg

井上ひさし今週の人.jpg

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