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吉里吉里忌(2)井上ひさしと小田仁二郎 [井上ひさし]

「吉里吉里忌」のフィナーレは、地元の朗読の会「星座」による「子どもにつたえる日本国憲法」(井上ひさし作)の群読。「子どもにつたえる日本国憲法」はyoutubeでも聴くことができた。前文と9条を井上流に書き換えたものだが、5分ぐらいの中に「私たち」が数えたら18回出てきて、私にはそれが耳に障った。その前の栗山氏の話の中で、日本人の「主語喪失」について語られていた。
「私はだれでしょう」という題名そのものだって、記憶が無くなってしまったんですよね。で、もひとつ井上さんがこだわってるのは「主語」っていう問題ですね。「主語」イコール「主体」なんですね。夢シリーズの中でひとつ、「日本語には主語がない」っていう仮説を披露する場面があるんですけれども、それにとてもこだわって、「では、私は誰なんだ」っていう、・・・》
(戦争責任をテーマにした「夢の痂(かさぶた)」の中にある「日本語は主語を隠し、責任をうやむやにするにはとても便利な言葉だから」というセリフ
もう30年も前のことだが、「花よりタンゴ」の観劇記にこう書いたのを思い出した。
二月十六日に米軍の爆撃で夫が死んでいたという知らせを受けた藤子のセリフ。「わたしは忘れない。時は残酷だから、何万回となく月がのぼれば、どんなことでも、はるか遠くへと遠のかせてしまうでしょう。でもわたしは、生きている限り、昭和二十年二月十六日という日付は忘れません。忘れないというところから、出直します、わたくしは。」いったいこの感覚、井上氏のどのような体験に根ざしているのかわたしは知らない。ただ、われわれにとってもっとも自然であるはずの時の流れへの挑戦のセリフを聞いたとき、気持ちの中をシラーっとした風が吹きぬけてゆくのを感じてしまったのだった。非常に意志的であるがゆえに、なにか無理がある。戦争の実感とはちょっと隔たりがあるのではなかろうかと。》
ふと、「私」という言葉へのこだわりが耳に障ったことと「記憶」へのこだわりに白けることとの感覚の共通性を思った。共に容易に「つくりもの」に転化する。こだわればこだわるほど「実存」から離れてゆく。勘ぐれば、井上ひさしという人の根源の苦悩がその辺にあったのではないだろうか、などと思いつつ、小田たかの歌思い浮かんだ。自我至上の生き方うたがひ街を歩く生あたたかき風の吹く夕べ」。その次男小田仁二郎は、「私」を壊し尽くすことを文学的使命とした。・・・思いがけなく、小松生まれの井上ひさしと宮内生まれの小田仁二郎の対性を思わされることになる。(つづく)
以下、栗山民也氏と山口宏子氏の対談、前回の少し前の部分です。
*   *   *   *   *
「私はだれでしょう」表.jpg「私はだれでしょう」裏.jpg(山口)「私はだれでしょう」という作品、これも初日が一週間以上延びてる作品なんですけれども、これはラジオ局ですね、当時のNHKを舞台にして、敗戦直後のラジオ局に集まる人々の群像を描く中で、戦後の私たちは何なのかということを考える作品だったんですけれども、去年新しいキャストで再演されていますけれども、これも初演の時よりもむしろ去年なんかの方が、大きな権力が放送報道であるとか表現に対して圧力をかけてくるという話なものですから、初演の時よりより生々しい無気味さが漂ってしまうという、そういう意味でも予見的な作品ですよね。
(栗山)そうですよね。たとえば戦後の話ですけれども、「アメリカ兵」って書けないですね。新聞やNHKでもそれをどう言い換えたかというと「大きな男」という言葉なんですよ。(笑い)それを今聞くと滑稽ですけれども、まさに今の国会そのものですよね。全部書き換えていますからね。(笑い)だから、井上さんってね、井上さんの67の作品って、「今や日本の貴重なる古典だ」っておっしゃる方がいますけど、僕は全然思わない。ほんとに、毎回顔合わせの時に読むと、昨日書き上がった現代劇だという風に、ここからこう湯気が立っているぐらいに生々しい現実なんですよ。だから、シェイクスピアの言葉じゃあないですけれども「演劇は時代を映す鏡である」と。だからこそ、今の時代の世相、あるいはそういうものを生々しくドキュメントしていくという、だから記録していく、まあ国会の話じゃあないけどね、「記憶にございません」という言葉ばっかりだから、とんでもないですよって、演劇は記憶ですからね。だから僕最近ね、なんだろう、年とったせいもあるんですけれどね、歴史の声ということにすごくこだわるんですね。だから紀元前5世紀に書かれたエウリピデスという作家のギリシア劇なんかをすごく好むんですね。だから、紀元前5世紀にしゃべった言葉が、1943年に書かれたフランスで「アンチゴーネ」というたとえば作品だとすれば、それを戦前の作家によってまたリニュアルして、それを今の現代の俳優の肉体を通して表現してゆく、それはどういうことなのかといえば、古代の人間の声を今の言葉とダブらせているわけですよね。この作業が演劇かなっていう気がとってもしてね、だから、井上さんの言葉が声だっていうのは、井上さんが必死に歴史に残され、あるいは、歴史に抹殺された人間の声を聴こうとするんですね。その声を言葉にするんですね。だから、それを受け取る(?)のが私たちの稽古場なんですね。それがどういう形で再現されたらいちばんリアルな歴史の声になるだろうかって。だから「私はだれでしょう」ももちろんそうです。「私はだれでしょう」という題名そのものだって、記憶が無くなってしまったんですよね。で、もひとつ井上さんがこだわってるのは「主語」っていう問題ですね。「主語」イコール「主体」なんですね。夢シリーズの中でひとつ、「日本語には主語がない」っていう仮説を披露する場面があるんですけれども、それにとてもこだわって、「では、私は誰なんだ」っていう、だから井上さんのいちばん好きな芝居っていうのは、井上さんは答えを書かないんです。答えを書かないっていうか、答えがないんですよ、世界に、無数にあるんですね。あなたにとって答えは何ですかって言うだけで、井上さんは戯曲を通して問いかけをするんですね。その問いかけをくり返すんですね。だから、難産で作品が開きますよね、初日ね。そして何日かすると、えーと新宿の長春館、すごくおいしい焼肉屋なんだけど、長春館に全員が揃って、「おつかれさまー」ってわーっとやっと一息つける会なんですよね。すごく楽しく貴重な会ですよ。井上さん、すーっとやってきて僕のここにお坐りになるんですけど、それでね、「栗ちゃん、あのセリフなんだけど、あれでいいんだったかなあ」井上さんの中では終わっていないんですよ。われわれは「終わりました」って、焼き肉食いながら「一息入れさせてください」ってやっている時に、井上さんは必死で、井上さんの中に問題点が残っているんですね。でもそれは、井上さんが怠けて残した問題では全然ない、井上さんの中で、まだ生きてぐつぐつしている問題なんですね。その問題が次の作品の大きなテーマに変っていくんですよ。だから一本一本スケール、あるいはいろんな表層は変わってゆくけれども、中に流れているものはずーっと同じなんですね。んー、だから古典ではない、現代演劇だっていう気が、僕はとってもしてね、だから、現象の上での新しさというのではなくて、だから普遍的っていっちゃうとちょっとちがうかな、んー、もっとやっぱり根源的なことですね。人間が笑うとか怒るとか、なんかそういうことの必然ってなんだろうというのが、いろんな物語や人物を通して描いていくということなのかもしれません。

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