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安藤昌益、宮内にリンク!(3) 舟山寛←川村寿庵←・・・←安藤昌益 [安藤昌益]

4月6日の地区長会総会、懇親会の席、新町の新地区長高橋晃俊正徳寺住職と「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の矢内事務局長のことを話題にしていたら、それをすぐそばで聞いていた果樹栽培の篤農家片平文男田町下新地区長、なんと20代からの安藤昌益マニアで安藤昌益全集(農文協)も全巻そろえているとのこと。明18日開催の「宮内歴史を語る会」に参加していただくことにした。どういう経緯で安藤昌益に入れ込むようになったか、そのあたりあらためて聞いてみたい。

前回正徳寺にある「舟山先生墓」の舟山寛を紹介したが、この舟山先生の医統を遡ると安藤昌益につながる。

舟山寛序文61465-004.jpg舟山寛の名が中央で知られるのは、最近矢内氏が発見したという『醫論』(神農黄帝から中国古典籍にはじまり、日本の高名な医師を考証した著作。京都大学付属図書館富士川文庫所蔵)と『錦城先生経験方』(序文執筆。内藤記念くすり博物館所蔵)による。
安肝湯61465-026.jpgこのうち『錦城先生経験方』は、川村錦城(寿庵)による処方の書であるが、その中に安藤昌益(良中)による処方「安肝湯」があることから、安藤昌益の医統に連なると目される。
ということで、今回の記事の題を「舟山寛←川村寿庵←・・・←安藤昌益」とした。私にはいまいち決め手に欠ける感じで「・・・」を入れたが、ただこの地に安藤昌益マニアが存在することは、安藤昌益精神の文化遺伝子(ミーム)存在の証かもしれない。
置賜の医学史は、私も高校で英語を習った松野良寅先生による研究や同級の米沢医師会北村正敏君を中心にした堀内文書発掘紹介によって洋学の視点から注目されることが多いが、その一方漢方(東洋医学)においても中央に通ずる優れた系譜があったことを知るべきだ、ということも矢内氏から示唆されたことだった。
矢内氏宮内訪問の目的は、舟山寛のほかに、共に多紀運従の存誠薬室門下池黒村出身舟山養源と宮内島貫元光もあったのだが、その二人についてはまだ手がかりを得ていない。なお矢内氏によると『南陽市史編集資料第39号』所収「船山道也家文書」の船山家は別系統とのこと。
「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会通信 第84号」掲載の矢内信悟氏による「川村寿庵の弟子舟山寛について報告する」から宮内関連の感想部分を転載させていただき、一応締めとします。
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 江戸時代「羽陽」と表記されていた現在地山形県南陽市宮内周辺に、安藤昌益と川村寿庵の医統を受け継ぐ実在の人物舟山寛と、ペンネームと思われる杉玄達と春涼の存在を報告してきた。ここに、昌益思想を継承する拠点が、青森ハ戸、秋田大館、江戸千佳に加えて山形宮内にもあったことを報告できた。
 舟山寛については、昭和三十年代に故山田二男先生が「里人巷談」に書き残しておいてくれたおかげで世に出たもので、その後半世紀を超えてこの地域にあっても眠っていたが、南陽市立図書館をはじめ置賜地方の10に及ぶ公共機関の協力を得て、再び、しかも川村寿庵・安藤昌益研究と結びついて世に出たものであった。
 本年一月に逝去された故安藤義雄先生が常々言われていた「記録に残さなければ歴史的事実は伝わらない」のお言葉を今回の調査活動でしみじみと感じ入った次第であるが、東京から調査に来たということで筆者の取材に応じる為に雪明りの夜道をついて宿泊先に足を運んで下さった鈴木ひろ子さんが、山田先生の教え子の系譜にあたる方であった、という「歴史的偶然」は、舟山寛が導いてくれたものであったのか、たくさんの幸運が結びついて今回の調査報告ができることになった。いちいちお名前を挙げなかったが、山形県の置賜地方のたくさんの方々のご厚意に深く感謝申し上げます。

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