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安藤昌益、宮内にリンク!(2) 漢方医 舟山寛 [安藤昌益]

前回からだいぶ日が開いた。私の中で安藤昌益と宮内とが必ずしもがっちりかみ合ったわけではない。冷静になって整理してみる。「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」事務局長の矢内氏が宮内に注目することになったのは、その経緯については聞きそびれたが、昭和38年に書かれたガリ刷り「宮内文化史資料第4集」所収の山田二男「里人巷談」の発見による。その稿はその後「置賜文化」に活字化されている。ガリ刷りの方は判読に苦労するが、ありがたいことに「置賜文化」が鈴木孝一さんの「時代(とき)のわすれもの」に所蔵されていた。以下その項全文。

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山田二男 里人巷談(下) (宮内文化史資料第4集/置賜文化第十八号)
▽第十三話 (舟山寛のこと)

 宮内では一寸風格の変った気骨のある、名利を超越した人物を語ろう。
 今の横町花屋のあたりに舟山寛という漢方医で、然もすぐれた漢学者があった。寛先生名は与市、字は公綽(しゃく)、隆庵と号した。
 細井平洲先生(1728-1801)上杉鷹山公に聘せられて、明和八年四月九日米沢到着、馬場御殿(松桜館)に寓して、学生定附二十人を命じて教養を受けさせた。一日
「宮内の舟山寛を呼べ」
との平洲先生の仰せ、藩命を受けたので、早速肝煎羽田平兵衛同道伺い出た。

 「これは久しかった舟山、早速これへ――」

と平洲先生と同席を与えられた。藩公の恩師と同席とは、と一座のものは皆いぶかった。情勢を察した平洲先生
「舟山は余と同門の盟友、予の留守講義は舟山に代行させる。学者に上下はない」
といわれた。滞在中「大学講義」の一席を舟山が代って勤めた。聴講の命を受けた諸士は見台を前にして威儀を正した。前方に座席した若い一人が、講義中居眠りを始めた。気骨稜々の寛先生「無礼者ッ」と一喝して講本を投げつけ講義半にして退席した。
 仲ノ丁元油屋の辺に商人宿があった。一夜泊りあわせた一商人が夜中大腹痛を病んだ。早速寛先生の来診を乞うて投薬を受け、たちどころに全快した。
「何程の薬礼をおあげしたらよいでしょう」
「高価薬を使ってあるから――」
というので、相当価の薬礼を受けた。然るにその商人は米沢に行って
「宮内の舟山という医者は無暴な薬価をとった」
と奉行所に訴えた。早速差し紙がついて肝煎同道出頭の厳命が下った。
「その方医者の身分として不届な所行があったから入牢申付ける」
という意外な申渡し、寛先生かんかんに憤慨して
「昔から医は仁術といって人助けの尊い仕事だ。投薬して難病を救い、相当の薬礼を受けたのが不届な所行なら、俺は以来医者をやめる」
漸々(ようやく)身の潔白が立って出牢出来たが、それ以来あっさり医業を捨てて、悠々読書詩作に没頭して余生を送った。
 何ぞ知らん、入牢申付けた奉行というのが先年居眠り聴講の士であったという。
 舟山先生は文政二年(1819)八月歿した。今正徳寺境内に「舟山先生之墓」というのが筆子の手によって残されて居る。もっと何かと資料を得たいものと私は期待して居る。
 私が蔵して居る書軸の中に、舟山先生自作の詩を書いたのがある。舟山先生は山田家の先考宗四郎苗照の恩師であったことを記録して居る。
   高臥千年古廊倚
   一旦幽趣午眠長
   神霊賜我弁天夢
   満地烟霞捧石牀
       右辺郷作 舟山 寛
山陽張りで気品のある文字である。
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3-DSCF8405.JPG矢内氏は昨年12月に宮内を初めて訪れ、正徳寺にある「舟山先生墓」を確認された。舟山家については老夫婦のみとの住職の説明だった。それを聞いて、舟山昇さんなら何かわかるかもしれないと電話した。その結果、舟山さん、酒をひっさげて駆けつけるという展開になる。「舟山先生之墓」は昇氏の本家の墓であった。昇氏は昭和11年生まれ、若いころから北野猛宮司にみっちり仕込まれて、現在も熊野大社楽長を務め、著作もある。昇氏の5代前足軽町の舟山家(現当主林太氏88歳)から分家した。それ以後の歴史はわかるが、本家の歴史についてはあまりわからない。何か文書が残るはずとのこと。本家当主の息子は米沢で中学校の教頭だったが先日急逝。娘が金山に嫁いでいる。なんとかそこからでもわかってくればいい。ということで今後の課題。
1-東講商人鑑P0031.jpgさて、山田二男先生(宮内小の校長を務めた。現在は孫が当主)の先祖に山田伯龍という漢方医がいて、安政2年(1855)の「東講商人鑑」に記載がある。(左上が正徳寺。中央が蓬萊院。右下亀岡文殊。左下宝積坊に「神効散」の宣伝。なお次ページ全面に熊野大社さらに薬の処法を記す「家方精製記録」(安政3年)が残っており「時代のわすれもの」所蔵)、その中に、舟山寛との関わりを示す「舟山翁伝」の記載がある。矢内氏はこのたび山田家に保存されていた文書等預かっていかれたので、そこからのさらなる解明が俟たれる。4-DSCF8373.JPG3-DSCF8386.JPG
こうして「山田二男←山田伯龍←舟山寛」の線はしっかりつながった。では舟山寛からどう安藤昌益までさかのぼるのか。そこが肝心なのだが、それについてはあらためて。
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現代農業「安藤昌益」.jpg本棚に1993年に八戸で開催された安藤昌益シンポジウムの記録本があった。生誕290年没後230年を記念しての開催で、「現代農業」臨時増刊号。その巻末の「いま何故、農文協が昌益全集か」が昌益理解にたいへん役立ったので転載させていただきます。
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風変わりな発刊の辞・再録

いま何故、農文協が昌益全集か

農山漁村文化協会専務理事 坂本 尚

 

 以下の一文は一九八二年九月、『安藤昌益全集』の刊行開始に際し、その意図をわれわれの昌益への思い入れに即して述べたものである。全集の内容見本に掲載されたが、これを「安藤の思想の一つのレジュメであり、そのうえタダで配布されているのだから、勉学の徒はこの点もおみのがしないように」(「週刊朝日」)とまでほめてくださる方がいたのは意外だった。それはともかく、この全集が「とても採算に合わないだろう」との大方の予想に反して、研究者を超えた国民各層に迎えられ、足かけ六年、八七年三月の別巻(安藤昌益事典)をもってつつがなく完結することができたことは、出版人として望外の喜びであった。全集は毎日出版文化賞(特別賞)を、また別巻安藤昌益事典は物集索引賞を受賞した。

 全集の内容見本の体裁も変わって、いまは刊行の辞は一部しか載っていない。何かのご参考までに全文を再録する次第である。

 

関けてみると眼がつぶれる謀叛の書

 中江兆民は「日本に哲学なし」といいきった。しかし、和漢の書に暁通していた兆民も昌益の著作に触れることはできなかった。もし、兆民が昌益をひもといていたら「日本に哲学なし」とはいわなかったであろう。もし、兆民によって昌益が読みこまれていたら、日本における革新的思想の潮流は著しく異なったもの心なっていたに違いない。

 昌益の著作は一五〇年の間「開けて見ると眼がつぶれる謀叛の書」として、地下深く埋められていた。

 昌益の著作は兆民の死の直前、明治三十二年に、狩野亨吉によって偶然発掘された。しかし、そのあまりにも強烈な謀叛性のため、狩野はその思想を世に出すことができなかった。わずかに明治四十年の末に雑誌『内外教育評論』記者に語り、同誌三号に某文学博士の談として「大思想家あり」の記事が公開されただけであった。

 「大思想家」昌益が広く此に知られるようになったのは、外国人の手によってである。カナダの歴史家ハーバート・ノーマンによって研究された昌益は、昭和二十五年、『忘れられた思想家—安藤昌益のこと?』という岩波新書にまとめられ、初めて多くの人々に知られるようになった。高校の教科書にも安藤昌益の名前がみられるようになったのは、その後のことである。

 ノーマンはいう。「昌益は専制と抑圧の断乎たる敵として、曲学阿世の御用学者が売りものにする封建制度の因習的擁護を憎んだ人であるとともに、半面では、幾百千万の無告の同胞を代表する熱烈な代弁者であったと私は見たい](岩波新書『忘れられた思想家』下巻、二〇二ページ)

 私どもが「安藤昌益全集」をいま刊行する立場は、必ずしもノーマンの立場と同じではない。私どもは「科学万能主義」「経済合理至上主義」によってもたらされる「人間の危機」をその萌芽のうちに予感した先駆的思想家としての昌益に魅力を感じるのである。

 封建社会に抗した徹底した反体制思想の先駆安藤昌益「農民的共産主義者」、「無政府主義」、「社会主義」者としての先駆安藤昌益としてではなく、商品生産至上主義のゆきつく先を見通し、その危機を超克する思想を独自に創造し、それを「文化運動」として実践した文化運動の先駆安藤昌益に魅力を感じるのである。

 世界史的にはルソーと同時代に生き、現代の地点からみてルソーをはるかに超えていた。日本の人民が生み出した貴重な思想的遺産・昌益思想を日本人民の共有財産にする

ことを念願して、この全集は企画された。

 

出版の常識をやぶる破格な編集はなぜか

 全集発刊の意図を全集に実現するためには、出版界の常識に反する「破格の企画」を敢えて試みなければならなかった。

 第一に個人全集で全巻復刻・全巻書下し文・全巻現代語訳・注解解説という構成は、おそらく出版史上はじめての試みであろう。

 昌益の思想は難解であり、晦渋でさえある。造宇・造語に加えて言葉の多義的な用法は、昌益の文体のいちじるしい特徴をなしている。昌益独自の変形の漢文は、オーソドックスな漢文読解力では通用しないことがある。昌益独白の論理と用語に馴れなければ、その書下しさえ出来ないことがある。

 昌益を人民の共有財産にするためには、まず現存する昌益の全著作の書下し文の実現から始めなければならない。

 さらに現代の不幸は、書下し文にしても戦後育ちの日本人にはそれさえも読むことが困難なところにある。樋口ー葉の『だけくらべ』さえもが、現代語訳を必要とする程度に国民の国語能力は失われた。書下し文をも現代語訳しなければならないゆえんである。

 もともと古文を現代語訳することは、外国語の翻訳以上のむずかしさがあるものである。昌益の著作は、きわめて独自な用語、独自な概念による創造的、思想的な営為であるため、その困難は想像を絶するものがある。しかし、全巻の現代語訳なしでは、現代においては昌益の思想を人民の共有財産にすることはできない。誰もが原文の復刻と書下し文と現代語訳を比較し検討することができる状態をつくりあげること、それがぜひとも必要である。そこから全巻復刻・全巻書下し・全巻現代語訳という「破格の構成」をとることになったのである。

 そこから第二の常識はずれの編集が行なわれる。私どもの「安藤昌益全集」は、そのスタッフに一人の大学教授も含んでいない。在野の有志「安藤昌益研究会」のメンバーによって編集される。全巻現代臍訳などという企画は、学者の方々を中心にしては容易にすすめることができない。せいぜい全巻書下し文・注解というあたりで妥協しなければならない。そこを打破りたかったのである。

 昌益研究を支え、昌益研究を発展させるうえで、在野の研究家達の果たした役割はきわめて高い。昌益研究だけではない。日本の民衆の歴史を発掘し、文化的遺産を人民共有の財産にするうえでの在野の研究家遠の果たしている役割は、アカデミズムのそれに比肩しうる状況にある。昌益研究においても在野の研究家遠の力量はきわめて高い。これまでアカデミズムのつくり上げた昌益文献のテキストの多くに、在野の研究者の満足できない杜撰さが目立つ。研究者の力量を評価し、そのもてる力を発揮する機会をつくりたい私どもは在野の研究者がこれまでの昌益文献の不完全なテキストを超える十全のテキストを実現させる力量をもっていることを信頼して、その手に全集編集のすべてを委ねた。

 

昌益思想の先駆性

●「軍備全廃」の論理

 昌益は江戸時代の中期にあって現代に問いかけている。

 昌益の没後二二〇年の今年、反核・軍縮の運動が世界中で高まった。昌益は江戸時代中期にあって、唯一の軍備全廃論者であった。重要なことは昌益の軍備全廃の理論的根拠である。昌益は独自の「二別」概念をもって、支配・被支配の関係を明らかにし、軍備の必要は「二別」の存在から発することを認識し、「二別」をなくすることが軍備をなくすることである点を明確に把握していた。さらに驚くべきことには、江戸時代にあってアイヌ問題を論じて、アイヌの松前藩に対する反抗を正当なものと評価している。民族問題についての正しい認識に基づく軍備の全廃論である。けっして単純なヒューマニズムに基づく軍備全廃論ではないのである。思えば兆民もまた明治にあって当時数少ない軍備全廃論者であった。

 

●「公害反対」の論理

 昌益は公害反対運動の先駆でもある。近代的自然科学が成立していない江戸中期にあって、どのような根拠によって公害に反対したのであろうか。昌益は「金属は土や岩石の中にあって地面を固め、大地を清らかにし、流れを澄まし、人間の皮膚や骨や内臓を守っている。けっして破壊してはならない。採掘を進めてゆけば山はもろくなり、空気は濁り、人間は病気がちになる。きれいな水は流れてこず、山は崩れやすく、植物は生えず、川は土砂で埋まる。地震になれば以前より揺れる」(『統道真伝』)といっている。あたかも現代を見ているようではないか。

 

●生態系を守る論理

 昌益は江戸時代中期にあって、「いち早く生態系的自然を発見し、それを破壊する人間に鋭い警告を発した」(安永寿延)。自然科学の成立した江戸時代の中期にあって昌益は、独特な自然生成の連鎖のメカニズムを構築しつつ、人間、動物、植物、そして土の連鎖系について緻密に展開している。昌益の独自の自然観は、自然を人間から切り離し、自然を征服する主客分離の西洋的自然観ではない。また、自然と人間が分離できず、自然の中に人間を埋没させてしまう東洋的自然観でもない。東西の自然親を止揚した「直耕」の自然観。自然が自然に豊かに発展する天人同営の創造と生産、「直耕」の自然観である。人間が自然を必要とするのと同じように、自然もまた人間を必要とする。その感応関係において自然と人間をとらえているのである。

 

●恋愛讃歌・男女平等の論理

 昌益は江戸時代にあって恋愛の讃美希であり、男女平等論の先駆であった。昌益は独自の概念「互性」を基礎にした男女の平等の論理を展開する。『たとえていってみれば、男と女のように万物が互いに活かしあって沢山の人間となるのが本質だ。これが宇宙の本質だ。男と女が独立してあるのではなく、男と女をひっくるめてヒトだ。だから世間で男が尊く、女が卑しいというのは大きな間違いだ」、昌益はいろりの灰に「互」と書いて弟子たちに言う。「互という宇を横からながめてみよう。何に見えるかな」。「互」という字は男女交合のシンボルだというのである。昌益思想の独自の基本概念である「互性」はきわめて日常的な人間の営為を土台にしている。

 男女の愛による結合は「産む」ことの基本であり、夫婦の営みをこれまた昌益独自の概念「直耕」としてとらえた。男女平等についての論理の奥ゆきは深い。江戸時代に「恋愛」といった言葉はなかった。当時の「好色」という語にかえて「華情」という美しい言葉を創造して男と女の愛を土台にした両性の平等な結合を説いたのである。

 

なぜ昌益思想は現代的でありえたか

 以上のように、昌益思想の先駆性については枚挙にいとまがない。

 軍備全廃論の先駆、公害反対論の先駆、有機農法の先駆、男女平等論の先駆、唯物史観の先駆、過渡斯論の先駆、唯物論・無神論の先駆、弁証法的論理学の先駆、皇国史観批判の先駆、漢字制限論・カナ文字論の先駆、社会医学の先駆、食費の先駆、かぞえあげれぱきりがない。何故、昌益は現代日本のわれわれの問題意識にぴったり会うのであろうか。ただ昌益の天才性だけがその根拠であろうか。

 そうではない。現代の社会的矛盾が先行して元禄時代にあらわれた医業について徹底的に究明したからである。日本人離れしたその論理力に負うところはいうまでもないが、医者として健康問題を煮つめるという思想的立脚点が現代に昌益をつなげた。

 昌益は医者でめる。そして昌益の主著『自然真営道』は書として書かれている。元禄のころは、単婚家族自営農家が一本立ちした時代である。商品生産が盛んになった時代である。貨幣の力が強まりつつあった時代である。高度経済成長の時代だ。そういう時代が元禄時代である。昌益が生きた時代は元禄につづく時代であった。

 商品生産至上主義の結果は、人間に何をもたらしたであろうか。「生産」が「生活」から離れ、つまり生産の目的が失われ、人間の生産した商品が人間を苦しめ滅ぼす結果を招いた。

 現代は商品生産至上主義の時代である。商品生産至上主義でとらえてはならない「生産」の四つの分野までが、商品生産至上主義の論理にまきこまれている時代である。医療業はその目的に反して病をふやす。教育業は人間を堕落させる。食品製造業は人間の健康をそこなう食べ物をつくる。そして農業はまともな食い物をつくらない。これが現代である。

 かかる矛盾はその萌芽を元禄時代にみることができる。医業がそうである。元禄時代に早くも「医は仁術」が「医は算術」に堕落しつつあった。

 昌益は自己の日常の「生産」である「医業」をとことんつめていった。「医」とは人間にとって何であるのかと問いつめた。

 主著『自然真営道』は、その思想的営為の表現である。昌益はいう。「わたしは薬種屋の手代ではない」。薬を売って儲ける医業はすでに元禄のころから発生していた。薬の多用が一歩あやまれぱ逆に病気を重くする。医学が一歩あやまれば人殺しの凶器となりかねないことを昌益は予感していた。当時の医学会は在来的な李・朱医学の後世医方と、攻撃療法を採用するより科学的な古医方との対立の最中にあった。昌益はこの対立の中にあって医学をつきつめ、医学の凶器性を執拗なまでに強調した。

 昌益は、健康とは何か、寿命とは何かを問いつめた。医学を自然と社会の広がりの中で根本的に問うた。根本を問うことなく患者に対して薬を処方し、投与することで事足れりとする単なる臨床医学は、医者の本道からはずれている。医が根本を見失えば患者をたぶらかし、結局のところ殺人の業に転落してしまうだろう。

 昌益思想は彼の日常の「生産」である「医業」に対する根本的なつめという思想的営為の中から創造されたのである。

 もともと漢方医学は「既病を治せず、未病を治す」ことを基本としている。人間が自然とかかわりながら生きる存在であるからこそ、天地自然の運行と身体的自然の生理・病理との相関関係を凝視してきた。西洋流の医学は病患や病苦をとり除く技術として局所的に限定する思考である。漢方はあくまでも人間が生きることの総体から医学の意味を追求してきた。      ‘

 医業の商品化の発生のもつ諸悪をつきつめてゆき、自然観、宇宙観へと思考を発展させる条件はもともと後世医方としての昌益にはあった。

 私どもが昌益思想に魅力を感じる中心点は先駆性の羅列、すなわちここがマルクスに似ている、あそこがルソーにそっくりだといった先駆性さがしにあるのではない。昌益が自己の「生産」(医業)をつきつめ、自己自身を問うことによって「自炊ごと「社会」と「人間」を認識していった基本的な思想方法論にこそ魅力を感ずる。

 

町医としての思益の生き方

 医者としての昌益は、まじめに日常の臨床にとりくんだであろうか。江戸時代にあってどの程度の水準の医者であったろう。

 どんな日本医学史の本にも昌益の名前は出てこない。そのかわり、戦後に刊行された思想史の本には昌益の名前がもれていることはない。町医としての昌益の実力はどれほどのものであったのだろう。

 ここに臨床医としての昌益の処方についての評価がある。明治時代に浅田宗伯によって編れた処方集「方画」である。「安肝湯」が記載されている。「安肝湯」を見い出した医史学者龍野一雄は「宗伯は此処方は尋常の治療で効を奏し難い難症に卓効を認めるゆえに此方を採録したのである。従ってかかる優秀な処方を案出した昌益は臨床家としての技量を高く買わるべきであろう」という。

 産婦人科医としての昌益の評価も極めて高い。昌益は荻野式避妊法の先駆でもある。「夫婦常に交合し、精水を洩らすと雖も、毎度に胎むことなし。経水止りて三五日(十五日)の間に交合すれば、必ず胎妊す。」一九一三年ドイツのシュレーダーによって証明された荻野式避妊法の根拠がそれより一六○年前に昌益によって書かれている(もっとも昌益は人口調節論者ではないが)。

 医者昌益は、病気の発生す根本原因を社会のゆがみに求めた。「未病を治す」ためには「未乱を治す」ことが不可欠であるとした。「天下の乱を治するに非ずんぱ、病を救うの効も多からず」。社会のゆがみをなおさなければ、病をもなくすることは出来ない。社会をなおすためには当時の学問体系から人間が自立しなければならない。人間の意識変革なしに社会のゆがみを治すことは出来ない。

 医者である昌益は、病気をなくするためには、社会をなおさねばならぬ、社会をなおすためには人間の考え方を変えねばならぬ、三つのことは一つのことだというところに到達したのであった。晩年昌益は、医者であるが故に、医に徹したが故に、生まれ故郷に帰り、医者として衆人の意識変革の運動=文化運動ととりくむ。

 

文化運動家としての安藤昌益に学ぶ

 宝暦五年(一七五五年)五十三歳の昌益は、医者である息子周伯と妻とを八戸に残し、単身、出生地秋田県二井田村に向かう。直耕の衆人である農家に対して自己の思想を問うためにである。

 延享元年(一七四四年)師走の某日、四十二歳の昌益は、八戸の知識人たちに囲まれていた。昌益は、数日間の講演会を開いていた。講演は、当時の八戸の知識人に非常な感銘を与えた。つまり、昌益は居住地において都市知識人に対する働きかけを続けていたのであった。しかし、昌益は都市知識人の評価にもかかわらず、それに満足することはできなかった。大衆の中ヘ――。昌益はヴ・ナロードの先駆でもあった。

 生地二井田村において、昌益は農家に対しての医療活動をしながら、自己の思想を農家に語りかけたにちがいない。当時の文献によると、昌益が二井田村に現れてから五年間に村は変わった。「家毎之日待・月待・幣白・神事・祭祀等も一切不信心二面相止、其外庚申待、伊勢講、愛宕講杯も相止メ」(掠職手記)と記されている。宗数的な習慣を根本からくつがえしてしまった。大衆が自覚し、宗数的な陋習や迷信から解放されたのであった。

 昌益の晩年の活動は、大衆の中へ入っての文化運動であった。当時発展しつつあった百姓一揆を組織したのではない。また、農民を救うための上からの藩政改革運動をやったのでもない。大衆の思想的自立をうながす文化運動を展開したのである。

 当時の自然科学であり社会科学であった諸々の学問、儒、兵、道、医、仏、巫の六家の思想の尽くを批判し、六家の思想から大衆が思想的に解放されて自立することを、人間解放の根元と、昌益は確信していた。近世中期にあって、昌益の眼は、近代を超えて現代を見据えていた。

 昌益と同じく、梅園も宣長も医者であった。当時は多くの儒者が医者を兼業していた。しかし、それは生計のための手段か、学問という本業に対する副業にすぎなかった。昌益はそこがちがう。昌益は、どこまでも医業を本業と考えた。徹頭徹尾、医業に忠実に生きた。昌益にとって、医業は生計の手段以上のむのであった。「渡世と思うべからざるものは医業なり」(稿本『自然真営造巻四』)といいきっている。

 今日、「渡世と思う、べからず」といわねばならぬ仕事は、医業だけではない。教育業しかり、食品製造業しかり、そして農業しかりである。この四業が「渡世」となったことによって人間を苦しめている。四業の担い手が「二別」の社会条件の下、支配者によってそう思わせられているところに諸悪の根源がある。

 昌益は、自己の仕事から離れることではなく、自己の仕事をつきつめることによって、自己を解放した。自己の仕事をつきつめることによって六家の思想から自己を解放した。

 現代では、六家の思想は問題にならない。代わりに自然科学万能、経済学万能の思想が人間をしぼりつけている。そこから自己を解放することこそ、人間を解放する道である。

 自己自身の仕事をつきつめ、自己自身の仕事を「渡世と思うべからざるもの」として変革することなしに、自己の解放も人間の解放もあり得ない。

 この自己変革による人間の思想的自立の思想こそが、昌益思想の根幹をなすものである。

 昌益のその思想方法論と生き方こそが、私どもが昌益に学び、継承するところのものである。

 宝暦十二年(一七六二年)十月十四日、五年間の二井田村での文化運動を最後に、昌益の生涯は終わった。一九八二年、昌益没後二二〇年。私どもは、昌益の文化運動を継承し、発展させるために、ここに「安藤昌益金集金二十一巻」の刊行を開始する。

            (一九八二年九月農山漁村文化協会)

 

 


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