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安藤昌益、宮内にリンク!(1) 昌益研究家矢内氏の来訪 [安藤昌益]

3月11日「宮内のことで聞きたいことがある」ということで、矢内信悟さんという方の来訪を受けた。いただいた名刺には「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の事務局長とあった。すぐ本題について語りはじめられた。滔々とした語り口、次々初めて聞く名前が出るが、安藤昌益はもちろん狩野亨吉、森鴎外の名も。一通り来訪の意図が明らかになったところで、打ち合わせていた「時代(とき)のわすれもの」の鈴木孝一さんに同道、そこでの話が一段落したところで酒酌み交わしつつ談論、そこに舟山昇さん(81歳熊野大社楽長)も加わることになって、得がたい時を過した。いただいた「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会通信」掲載の矢内氏論考「川村寿庵の弟子舟山寛について報告する」等を参照しつつ整理してみる。

まず千住と安藤昌益のつながりについて。安藤昌益の『自然眞営道』稿本は「北千住の仙人」とも言われた橋本律蔵が所有するものだった。律蔵の死後、古本屋を通して狩野亨吉の手に入り(明治32年)、明治41年、雑誌『内外教育評論』1月号に「大思想家あり」として初めて紹介、昭和3年発表の論考「安藤昌益」(青空文庫で読める)によってさらに広く世に知られるようになった。千住は江戸から北へ向かう起点となる宿場町として北方との多くの交流がある土地であり、矢内氏らの調査研究によって、江戸末期千住の医師たちの間で安藤昌益の思想が学ばれていることがわかった。(京都帝大の史学の基礎をつくった内田銀蔵(千住の川魚問屋「鮒与」の出)が京都大に残した資料から、佐藤元萇という医者の日記に、江戸末期米問屋藁屋橋本家(橋本律蔵の4代前)に出入りし、その頃から安藤昌益の思想を学ぶ動きがあったことが書いてある。元萇は漢詩を能くし、鼻っ柱の強い森鴎外が「私には師と言える人はふたりしかいない」と言ったそのひとりという。20年間書き綴られた「佐藤元萇日記」を残す。)

それが宮内とどう関わるのか。安藤昌益の医統を継ぐ川村寿庵(錦城という医者がいる。その弟子に「羽陽 舟山寛」がおり、川村寿庵の処方を記した『錦城先生経験方』の序文を書き、『醫論』の著もある。矢内氏はこの舟山寛について、山田二男先生が『宮内文化史資料第4集』の「里人巷談」の中に書いてあることを発見、昨年12月宮内に来て「舟山先生の墓」のある正徳寺をたずねて髙橋晃俊住職に取材した。今回は、主にこの舟山寛について深く知るべく二度目の取材。前回いとや旅館に宿泊し、おかみから私と鈴木孝一さんを紹介されていたのだが、私たちに会う前に山田二男先生宅(孫の尚氏)を訪れていろいろ資料を預かって来られた。山田家の先祖に「山田伯龍」という医者がおり舟山寛の弟子である。従って「安藤昌益→川村寿庵→舟山寛→山田伯龍」という医統をたどることができる。このあと思いがけない展開になるのだが、とりあえずここでいったん区切ります。

矢内さんのお話、いろんな盛りだくさんの内容で整理するのがたいへん。ネットでも安藤昌益についてはいろんな人が調べており、深入りするときりがない。そんな中で、安藤昌益の人となりがよくわかる文章がありました。神山仙確という弟子によるものです。『自然真営道』、「自然(じねん)」にどういう思いが込められているかがよくわかったように思いました。岩盤がつながっています。この辺で言う「じねーんと・・・」(祖父がよく言っていたような気がする。今はもうあまり聞かない)の感覚に通じます。自然真営(じねんしんえい)の妙道」と言うようです。

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「確門」(昌益の門人たち)の高弟である神山仙確が、師の人となりを書き、「自然真営道」の「大序巻」に挿入している。昌益がどんな人であったかが分かるだけでなく、この仙確の文章はすこぶる感動的である。 「良子は吾が師なり。良子には師なく弟子なく、人道を問へば答え、私を問へば答えず。故に、吾道を問ひ、其の答を採りて以てこれを師とす。其の人と成り、知るところは、聖・釈・老・荘・厩の未だ知らざる所のみ。これを言ひ見(あら)わして、古書は一句も語らず…」 良子(りょうし)とは良中先生、昌益のことである。 「良中先生は私の師である。先生には師もなく弟子もいない。道をたずねれば答え、私事をたずねても答えてくれない。故に私は道をたずね、その答えを採録して自分の師としている。先生の人となりについて言うなら、先生の知見は、聖人・釈迦・老子・荘子・厩皇子(聖徳太子)にわたっているが、この人たちが思い至らなかったこと、知らなかったことを指摘するが、古い書物についてはそれらの一句たりとも語らない。神知速行、まことに活真人というべきである。先生の人相は貴からず卑しからず、顔は美でもなく醜でもない。その精神は自然真営の妙道に通じており、つねに直耕を尊び、古来聖釈の徒が不耕貪食して天道を盗み、私法をつくり世を魔界となして禽獣に堕落せしめることを悲しみ、自然真営道の妙道を書につづり、永く無乱平安の世になさんと願っている。先生の平常は少欲で、朝夕の食事は飯汁のほか、別の菜は一切食わず、酒は飲まず、妻以外の女性と関係をもたない。人を賞めず他をそしらず、自分を高ぶらせず卑しめず、上を羨むことを知らず、下を見下すことも覚えない。尊ばず、いやしまず、へつらわず、むさぼらず、家計貧しからず、富まず、借りず貸さない。四季の贈答は世間の風習にまかせ、これに心をわずらわすことはない。 世間の人が自分を賞めれば、私が愚になったかと憂い、他人が自分をそしるのを聞けば、私は誤っていないと悦び、誹や頌は愚賢聖にのみあることで、真人には無縁であると知る。 先生は一眼で、他人の心奥や行状まで知ってしまうこと、まことに妙である。道の外は教えず、また習うこともせず、自他をいつくしまず、親しまず、うとんぜず、憎まず、見えすいた孝もしないし、不孝もしない。歌舞慰楽は耳目にいれるが、心を奪われることはなく、問えば何一つ知らぬことはなく、問わなければ一言も教えない。が、備道-自然に備わる道-については、問、不問にかかわらず、これをすすめて止むことがない。…無始無終の天下万国に、こんな人があったことを聞かない、視たこともない、皆無でないとしても、まだ聞いたこともなく、これからも存在するとは思えない。だがこれが吾が師である。」地に潜む龍(三)http://www.compassion.co.jp/column/essai/essai030

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安藤昌益を世に出した狩野亨吉という人もすごい人です。よく調べたらたまたま二人は同郷(大館)だったというのです。これもすごい。大きな力が働いています。

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日露戦争後、亨吉は京都帝国大学文科大学の初代学長となった。彼は在野の支那学者・内藤湖南や幸田露伴を教授に推挽した。漱石にも声を掛けたが、これは実現しなかった。この湖南や露伴の教授推挽の際、権威主義の傲慢な文部省官僚たちと揉めた。湖南や露伴には学歴がないと言うのである。しかし湖南は野にあって当代随一の支那学者であり、露伴は優れた文学者である。亨吉の目に狂いはなかった。彼はそもそも、高学歴で傲慢で浅知恵の官僚どもとの折衝には、実に不向きな人間なのである。亨吉は宮仕えにうんざりした。一人静かに研究に打ち込みたかった。 明治四十年、亨吉は「記憶すべき関流の数学者」として本多利明を発掘した。無論、江戸時代の人である。本多利明は数学者、物理学者であるばかりでなく、日本で最初の本格的な経済学者でもあった。 さらに翌年、亨吉はついに某文学博士談として「大思想家あり」と題し、確龍堂良中(昌益のこと)の思想のエッセンスを、実に慎重に思慮深く言葉を選び、新聞に発表した。 狩野亨吉(こうきち)の手元に稿本「自然真営道」を持ち込んだのは古書店の田中清三だが、彼の手に入るまでは次の経緯であったという。 北千住に橋本律蔵という人がいた。大きな屋敷に住み、膨大な書籍を有する篤学者だったらしい。「北千住の仙人」と呼ばれていたそうである。あまり近所つき合いもなかったようだが、近くの内田魚屋の親父には、「自然真営道という非常に貴重な書籍を秘蔵している」という話をしていた。家産が傾いていたこともあり、律蔵の死後、その蔵書や書画骨董の全てが売りに出された。内田魚屋からその話を聞き及んでいた内田天正堂という者が駆けつけたとき、蔵書は既に浅倉屋書店が買い取った後であった。内田天正堂は浅倉屋に行って「自然真営道」を入手した。彼が読んでみたところ全く理解できず、これを本郷の一高近くにある田中清三書店に売った。田中清三がそれを亨吉に持ち込んだのである。 「北千住の仙人」橋本律蔵は、どうしてこの「自然真営道」を秘蔵していたのだろうか。彼の先祖は安藤昌益の門人だったのだろうか。

亨吉は「自然真営道」を読みすすみ、この著者が「倭国羽州秋田城都ノ住ナリ」とあるのを見つけた。しかし確龍堂良中の本名や、彼の身分がわからない。亨吉は一冊一冊、渋紙表紙に貼られている反故紙を剥がし、そこに何が書いてあるかを調べてみた。すると、彼と弟子との手紙のやりとりの断片が出てきたのである。借金の無心やら、その断り、年始の挨拶などである。そして確龍堂良中の本名が安藤昌益であること、秋田に生まれ、医学を学び、八戸で町医者をしていたことが分かったのである。門人は二十数名を数え、八戸、松前、須賀河、江戸、京都、大坂にいることも分かった。 亨吉は秋田大館の出身である。彼は秋田の知人友人に安藤昌益、確龍堂良中の照会の手紙を書いた。「これなら簡単に調べはつくだろう」と亨吉は思ったに違いない。秋田の友人たちは八方手を尽くして調査したが、安藤昌益の記録も手がかりも、全く見つからなかったのだ。 それにしても昌益の「自然真営道」が、同じ秋田出身の亨吉の手に渡ったのは全くの奇蹟と言っていい。しかも亨吉は当代随一の博捜の碩学なのである。かなり後に判明するのだが、亨吉の生まれた大館町(現大館市)と、安藤昌益の生没地である二井田村(現大館市)は一里半ほどしか離れていなかった。(地に潜む龍http://www.compassion.co.jp/column/essai/essai025


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