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北野達教授最終講義「古事記が目指したもの」(3) 本来日本の「政(まつりごと)」 [熊野大社]

北野達教授最終講義「古事記が目指したもの」(2)で思金神のお働きについて記し、≪高天原的存在としての思金神の十全なはたらきを担保するのは「無私」にほかならない。≫という一文で締めました。このことが「シラスとウシハク」の問題にリンクしました。いいサイトがありました。「シラスとウシハク -シラスと日本人と天皇- なぜ天皇陛下は大切なのか?」です。「国譲り」についての説明です。抄出転載させていただきます。(太字 転載者)

大国主の治政のやり方は、国の主人となる、すなわち領土領民を私的に支配してその上に君臨する、という統治形態であったとわかります。
この統治手法、すなわち「領土領民を私的に支配する」という方法を、「ウシハク」といいます。
「主人(うし)」が「履く(はく=所有する)」
つまり、主人が自分のものにする、という統治手法です。
ですからこの「ウシハク」は、「国の主人となって領土領民を私的に支配すること」、
つまり西洋や大陸のかつての王国で行われたことや、国家による他民族の奴隷的支配構造などにおける統治手法を示す言葉です。
大国主はこの統治手法で出雲の国を治めた神でした。
天照大神(あまてらすおおみかみ)様を筆頭とする高天原の八百万の神々は、これを否定します。

天上の神々は天の安河(あめのやすのかわら)で会議を開き、地上の統治を天上に委ねさせることに決定したのです。

そして天照大神(あまてらすおおみかみ)の使いは、次のように大国主神に述べて、国譲りを迫りました。

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天照大御神の命もちての使せり。汝(な)が領(うしは)ける葦原の中つ国に、我(あ)が御子の知らさむ国と言よさしたまへり。かれ汝が心いかに。(古事記)

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そしてこのときの言葉の中に、

1 大国主が領(うしは)ける国

2 我(あ)が御子の知らさむ国

という、明確な対比が出てきます。

この「知らさむ国」の「知らさむ」が、「シラス」です。

この二つがどのように違うかというと、たとえば新田の開墾工事を行うとします。
そのとき、主君の命令によって、民衆を強制的に使役して田を開き、開いた田は主君のものとする。
ひとりひとりの民衆は、自分が何のために狩り出され、そこで労働をしているのか、まったくわかりません。
ただ、剣を突きつけられ、ムチでしばかれるから、そこで働いています。
これが「ウシハク」による統治です。 
これに対して「シラス」は、まずはみんなで「新田を開墾しよう」という問題意識を共有化します。
そのために、それぞれがどこを担当するかみんなで話し合って決め、決まった事をみんなで一致団結し、協力し共同して、これを実現します。
ブータンで、西岡京治が行った手法が、まさにこれです。

大国主神は、この違いの意味を悟ったからこそ、なるほどと納得し、国譲りを行いました。

そして、理解を示した大国主神を、高天原の人々は尊び、大国主のために天にも届く壮大な神殿を建てて、その功績を讃えたのです。
世界中が19世紀までずっと「うしはく」という統治形態しか知らなかった世界にあって、唯一日本では、
はるか太古の昔から「シラス」国を築いて来たし、それが天照大神(あまてらすおおみかみ)様の御心であるということなのです。≫
先の北野論文によると、思金(オモヒカネ)の神は ①アメノイハヤ神話 ②葦原中つ国コトムケ(国譲り)の神話 ③天孫降臨の神話 の3場面に登場します。「ウシハクとシラス」が問題になるのは②の場面です。天照大神が「これからわれわれ(天つ神)が治めようとする葦原中つ国は現在国つ神を束ねる大国主が治めているが、あらぶる神が多くたいへんなところだ。国譲り交渉役としていったいだれを差し向けたらいいだろうか」という相談を思金(オモヒカネ)の神にもちかけたところ、思金神と八百万の神たちが議(はか)りあって「天菩比(アメノホヒ)神、是れ遣はすべし」ということになり、天菩比神が遣わされます。しかし大国主による懐柔で失敗、第二、第三の派遣でもうまくいかず、四番目の建御雷(タケミカヅチ)の神の登場でようやく決着をみるというのが「国譲り」の神話です。天照大神はいちいち思金神に相談をもちかけ、そのたび思金神は八百万神に議(はか)ります。ここに日本の政(まつりごと)の原型があります。ここでのリーダーシップは思金神です。思金神は知恵を司る神様とされていますが、北野教授は、思金神自身に知恵があるというのではなく、思金神の働きはあくまで八百万の神の叡智結集にあることを明らかにしました。そして思金神は、天照大神とともに高天原にあって私たちに力を与えてくださっています。思金神の御神霊は伊勢の内宮に鎮まっておられるともいわれます。(→ヤフー「知恵袋」) 先日内宮参拝の折について「ここではひたすら無心に手を合わせるのみ」と書きましたが、きっとあの感覚が思金神に通ずる感覚です。≪高天原的存在としての思金神の十全なはたらきを担保するのは「無私」にほかならない。≫その「無私」こそが日本におけるリーダーシップの要諦です。北野達教授最終講義「古事記が目指したもの」(1)に書きましたが、≪このような日本にあって「政(まつりごと)」は対立者をねじ伏せる独裁者も、対立を前提とする多数決もなじまない≫のです。リーダーの無私のうちにおのずと道が見えてくるというのが本来日本の「政(まつりごと)」です。

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