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北野達教授最終講義「古事記が目指したもの」(1) [熊野大社]

1-DSCF8095.JPG2月3日、米沢女子短大国文学教授でもある北野達熊野大社宮司の退官最終講義を聴いてきた。テーマは「古事記が目指したもの」。

そもそも教授の専門は「万葉集」。ところが「万葉集」はなかなかまとまりがつかない。そんなところから「古事記」にのめりこむようになった。その力になったのが熱心に聴いてくれる学生たち。学生にわかってもらうには自分がよくわかっていなければならない。「古事記」がわかったという手応えを感じるようになったのが5、6年前。そのいちばんの手がかりが本居宣長の『古事記伝』。しかしこれまでの学者の研究の95%は宣長批判で、だれも宣長の水準に追い付いていない。「高天原を疑ってはだめ」という宣長を現代の研究者は理解できない。いったん「古事記」の世界に入ってみないとわからないのに。まっとうな研究者といえるのは山田孝雄(よしお 1873-1958)のみ。古事記研究者以外では小林秀雄『本居宣長』津田左右吉はというと、「古事記」と「日本書紀」を併せて、そこからひとつの世界を読み取ろうとした。しかしそれは誤り。「古事記」には「古事記」の、「日本書紀」には「日本書紀」の世界がある。

4-DSCF8102.JPGでは「古事記」の世界とはどういう世界か。

そもそも「古事記」は下級役人でありながら理解能力、記憶能力が図抜けてすぐれた稗田阿礼が誦習するのを中級貴族太安万侶が記録したもの。したがってその世界は稗田阿礼によって十分咀嚼されており、それ自体のまとまり、一貫性がある。本居宣長はそこに日本本来の価値観を読み取った。「日本人とは何か」「人間とは何か」が読み取れる。そうしてわかったのが、生きている人間の知恵なんてたかがしれている、人間の「考える」ことには限界がある。それよりひたすら先祖の声に耳を傾けよ、「古事記」の世界はその凝縮。理屈で納得する世界ではない。頭でわかろうとしてもわからない。ただ、「からごころ(漢意)わろし」と言っても簡単なことではない。ウィキペディア「漢意」にこうあった。「我はからごころもたらずと思ひ、これはから意にあらず、当然理也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし」(『玉勝間』)。敢えてなんとかその、「からごころ」をふりはらって「古事記」の世界に参入すること。そうしてはじめて「古事記」の世界が開けてくる。

「古事記」にとって「高天原」があるのは自明のこと。それを説明するに陰陽思想的イデオロギーを持ち出すのが「日本書紀」。「天孫降臨神話」についても「日本書紀」の客観的記述に対して「古事記」は「神勅」で貫かれている。それが「言依(ことよ)さしたまふ」という言葉。「言依さし」とは「まつりごとの委任」の意。「言依さし」の連続性、その大系こそが日本の日本たるゆえん。すなわち「天つ神→伊耶那岐・伊耶那美の神」(葦原中つ国の修理固成)、「伊耶那岐・伊耶那美の神→天照大神」(高天原統治)、「天照大神→天忍穂耳命→日子番能邇邇藝命」葦原中つ国の統治)。この「言依さし」はさらに「日子番能邇邇藝命→(日向三代)→神倭伊波礼毘古命(神武天皇)→歴代天皇→今上陛下→議会・内閣(→)一般国民」となって今に繋がる。(「敬神崇祖と言依さしとの関係」https://ameblo.jp/utayomi-therapy/entry-12081954687.html)このような日本にあって「政(まつりごと)」は対立者をねじ伏せる独裁者も、対立を前提とする多数決もなじまない。

3-DSCF8097.JPGいよいよ講義の最終盤、北野教授はオモイカネ(思金)の神を紹介する。そして、「アメノイハヤ神話に於いて
思金の神様は、八百万の神の叡智を結集してイハトビラキの大神業を成し遂げた。古事記が描く理想の世界をそこに見る。私たちはこういう神話を持っているのです!」と講義の最後をしめくくった。実は思金神の重要性については、昨年12月1日早朝の熊野大社月例祭の5分間講話でお聴きし、いろいろ心に思うところがあったことだった。(つづく)



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