ノーベル平和賞候補だった賀川豊彦先生(山形新聞) [賀川豊彦]
(賀川豊彦 明治21年(1888) 〜 昭和35年(1960))
賀川豊彦は、貧困からの解放、戦争のない平和な世の中を目指す社会運動に生涯を捧げたクリスチャンでした。若くして神戸の貧民街に暮らし、その体験から生まれた自伝小説「死線を越えて」は、大正時代、歴史的ベストセラーとなりました。その印税はすべて社会運動に注ぎ込まれたといいます。生活協同組合の運動を立ち上げたのも賀川豊彦です。社会事業家として、政治家として活動の範囲は世界中に及びました。ノーベル文学賞の候補に2回、平和賞の候補に3回あげられています。
(昭和8年(1933)2度目の来訪時。熊野大社土社神社前。(前列中央))
昭和6年(1931)、厳しい経済状況下、満州に新天地を求めた満州事変。軍人による独断専行は、議会政治に重きを置く時の内閣総理大臣犬養毅にとって、なんとしても押しとどめねばならない事態でした。しかし昭和7年5月15日犬養首相は「問答無用」の凶刃に倒れました。五・一五事件です。以後日本は、軍人が大きな力を持つようになって敗戦までの道を歩むことになります。賀川はこの事件の直後宮内を訪れ、いかにも宮内らしい歌を残しています。
花すぎて 緑の山に小鳥なく
世のさわがしさ 気にとめぬごと
(昭和26年に宮内で書かれた色紙。(宮内幼稚園 蔵))
日本がまだ連合国軍による占領下にあった昭和26年(1951)の10月、宮内熊野講堂において、賀川豊彦大講演会が開催されました。宮内へは3度目の来訪です。入りきれないほどの聴衆でした。賀川は、この時集まった八千円を、「50年後100年後の人材を育てるための幼稚園をつくりなさい」と、地元にそっくり残します。この資金と地元の熱意によって翌27年宮内幼稚園が創園されて今日に至っています。
(宮内幼稚園第一回入園式(昭和27年5月))
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