SSブログ

「南陽の菊まつり」を考える(市民大学講座資料) [菊まつり]

昨日(9日)、宮内ふるさと資料館「時代(とき)のわすれもの」の鈴木孝一館長とともに「南陽市民大学講座」の講師を務めて来ました。会場は南陽市役所の大会議室。ちょうど9月9日、重陽の節句の日に「菊まつり」について語ることになりました。全部で40人ぐらい、20代の聴講者が5、6人ありました。おおすじ、5年前に「置賜の民俗」に書いた『南陽の菊まつり』百年」の内容ですが、プロジェクターで写真を見ていただきながら二人で話しました。南陽の菊まつりの大元である百花園齊藤善四郎から数えて6代目齊藤喜一さん(81歳/獅子冠事務所頭取)も自転車で駆けつけてくれました。

 

   *   *   *   *   *

 

001-表題.jpg

 

014-歴史 画像1.jpg1.はじめに
◎今年(2017)第105回、正確には大正元年(1912)から数えて105周年。(戦中中断あり)

2.菊まつり前史
◎齊藤善四郎(1789寛政1791年間–慶応19673年/初代百花園)
・代々獅子冠事務所頭取を務める旧家。菊の種苗を関西から取り寄せたり、菊人形も試作。造花の技にもすぐれ、藩主斉憲公赤湯に入湯の折献上して御嘉賞を賜り、宮内の面目を一新。桜田屋敷の御殿奉公のため娘を連れて上京の折、善四郎の造花が「江戸にて見たこともなきめずらしきもの」との評価を受け、日光大楽王院宮(ありすがわのみや-つなひと有栖川宮韶仁親王の第2王子)へ献上の栄を賜り、東叡山不忍寳珠院より白銀一斤、茶一斤のほか「花菖蒲根分け50株」を賜る。錦三郎先生によれば、この菖蒲によって菖蒲沢の由来となり、また長井古種もこの菖蒲が由来ではないか。
001-百花園善四郎 齋藤篤信賛PICT1258.jpg・伊藤木梯画/斎藤篤信讃の肖像画がある(明治5年)。讃にいわく「士而僊 非僊非士 此翁愛百花・・・」。善四郎は百花園實秀を名乗っていた。以後齊藤家は「百花園」を号して現在に至る。菅原白龍揮毫の「百花園」号額が残る。
・善四郎は花弁を愛して多種の珍草百花を栽培して無料で愛好者に分与、宮内に菊や菖蒲、牡丹等花づくり気運の種を蒔いたという。
・没後画かれた、斎藤篤信(1825-1891)の賛がある肖像画が残る。
◎齊藤登輿(二代目善四郎の妻。明治34年没。享年70歳)
・田畑仕事を嫌って表具師となった二代目善四郎に代わり、妻の登輿が菊を作る。秋になると菊見の客がたくさん来るので、餅を搗いて売ったところが一日に二斗も売れて大変儲かった。ここに後の興行としての菊まつりの原点がある。
◎佐藤大覺(横町佐藤医院/明治24年に米沢から移住)
・宮内菊づくりの先駆者。屋敷に菊を飾り、道を行く人が足を留めて見入ったとの記録がある。

 

3.菊花品評会のはじまり
◎長澤代吉・中山源之助(粡町、当時20代)→板垣幸助(観月楼)→大正3年(1914)第一回菊花品評会  
◎当初中心になったのは、長澤・中山のほか、船山喜右衛門、湯村亀五郎、鈴木栄太郎。その後、山岸次三郎、片野儀三郎、菊地熊吉、平重次、阿部乙松、菅野三郎等が指導者格として続く。
◎当時は、興行的価値のある大作りが主体。
◎米沢、長井、荒砥等の同好の士を合同して一市三郡切花品評会の開催にまで至った。(費用30円)

006「観月楼」-DSCF0035.jpg4.菊人形のはじまり
◎大正元年 山崎家(吉野石膏須藤永次の実家)→大正2年 料亭笠原「観月楼」→宮澤料亭・山正旅館
◎笠原(観月楼)当主板垣善三郎(明治3年-昭和6年/齊藤善四郎の孫/吉島小校長→宮内町助役)の尽力。「菊の助役か、助役の菊か」。新種の購入に金を惜しまず、品評会幹部を帯同して菊栽培の先進地である清水港、東京、大阪、八戸等への研究視察。東京から吉田銀次郎あるいは庄田七郎兵衛といった菊人形の第一人者を招いて、本格的な菊人形のノウハウを宮内の地に導入。

008製糸工場群.jpg5.当時の背景
◎明治の終わりから大正のはじめ、製糸業全盛の時代→花開く料亭文化
・小さなる町にはあれど中空に黒煙りはく煙突いくつ 上野甚作 (大正9年宮内短歌会にて/『南陽市史』)
・大正8年「山形県蚕糸品評会」
009A-札を燃やす成金.jpg・「札に火を点ける成金」(山本唯三郎)は宮内にもいた?
◎明治20年代に創業した名古屋の菊人形屋黄花園(こうかえん)による明治42年(1909)両国国技館での菊人形展がきっかけとなって、菊人形の全国的ブームが起きていた。
◎宮内に先んじた高畠の菊まつり
・高畠町の「福島楼」という料亭で女将竹田マキ子の尽力により、宮内に先んじて菊人形が飾られていた。(昭和十年の米沢新聞に「高畠町の菊人形は古くから有名だったが近年宮内町に奪われて賑はないのを遺憾とし・・・」、それゆえ、この年東京から菊人形師を招いて梃入れを図ったとの記事がある。また、昭和十一年に出された「菊の宮内」特集タブロイド紙(赤湯町・温泉タイムス社発行)の「菊花をめぐる宮内座談会」の中で「今年は高畠でも相当やり出して往年の勢力を盛り返したいと苦心しているそうですよ」とも語られている。)宮内の菊人形の初期の段階では高畠や荒砥から人形を借りていた。

013-菊地熊吉DSCF6336cmyk.jpg6.菊地熊吉(1894–1974)の登場   
・東京駒込染井の植木職人や庭師達に伝えられる江戸以来の菊人形の技術を受け継ぐ伊藤市太郎の弟子が吉田銀次郎。菊地熊吉はその技術を引き継いだ。後年銀次郎は「山形の宮内の菊地という人には わたしが人形づくりを教えてやったが、器用な人で、わたしより上手になっちゃいました。」と語っている。ただし、熊吉には「銀次郎に教えてもらった」の認識はあまりなく、持ち前の探究心で技術を盗みとったのがほんとうのところらしい。
015-菊地熊吉獅子頭DSCF5023.jpg・熊吉は明治27年(一八九四)宮内の小作農家に生まれ、若い時から町の祭りの飾り付けやおもちゃの彫刻でみんなに喜ばれていた。熊吉が彫った獅子頭が相当数今も大切に所蔵されている。
《山形連隊にとられるまで農業をやっていた。小学校時代から絵は好きだったし、まあ得意なほうでもあったな。しかし人形師になるとは思わなかったよ、・・・兵隊時代の軍旗祭でまわりの者におだてられて人形を彫って余興に出したんだ。これが大変評判になってしまった。大正四年秋除隊になってまた農業をやっていると、兵隊でつくったときの腕をいかし菊人形をつくらないかとすすめられた。ちょうど宮内で頼んだ東京の人形師が有利な米沢に逃げてしまったその穴埋めにな。そこで引き受け予想以上に評判だった。しかし次の年に断ったよ。なんだか責任が重いようだったし、それに人形師になっても一生メシが食える訳でなし、やはりどこまでも農業をするつもりだったから。ところがネバラレてまた引き受けてしまった。そんな具合で人形をつくっているうちこんどはおれが人形にほれはじめたんだ。しかもぞっこんという具合にな。・・・ほれた以上は真剣になったよ。毎年のように国技館と浅草花屋敷の菊人形、それに当時の帝展を欠かさず見に上京した。・・・なにも自慢することはないが、ただ宮内の菊の飾り付けは咲いた菊をくっつけるのではなく、ツボミの菊をとりつけて咲かせるところに値打ちがあると思う。この技術だけはほかで真似られないと思っている。》(昭和三十六年十一月七日山形新聞「この道ひとすじ」)
・熊吉は菊作りから、電動仕掛けも含めた場面構成、人形づくり、菊つけ、小道具、そして背景まですべて自分流に考えて一手に引き受けた。「独創だからこそ一生懸命続けられたもので、ふり返ってみると、思う存分に菊人形づくりができた。私はその点幸福者だと思っている」と後年述懐している。四男忠男がその技術と精神を受け継いだ。


7)菊地熊吉ok.jpg
016B-山正旅館菊人形会場.jpgpg.jpg7.「菊の宮内」の定着
◎菊まつりの絶頂期
・昭和4年(1929)山形新聞主催による県下の名所投票で山正旅館の菊人形が第一位を獲得。笠原、宮沢、山正の三料亭がそれぞれ競い合った時代。昭和3年11月の御大典を契機に「菊花熱狂の黄金時代」。
017-尾崎行雄観月楼.jpg◎淵明会
・「憲政の神様」「議会政治の父」と言われた尾崎行雄を菊花品評会に招いた昭和2年(1927)、菊花の進歩改良を目的とする「淵明会」なる同好会が組織。(品評会顧問菅野慶堂(宮内郵便局長)による命名。中国四〜五世紀の「田園詩人」陶淵明に由来する。陶淵明は桃源郷の語源となった「桃花源記」の作者である。その後の「南陽」という市名、あるいは「東洋のアルカディア」に通じる。)会長に町長鈴木幸松、以後代々町長が務めることになる。
・昭和11年、淵明会は町有志者を名誉会員とし、毎年一円宛の会費を徴収して、菊苗四本ずつを分譲し、係が栽培法を指導して歩いた。(事務局的役割を担ったのが熊坂義太郎。熊坂家は先の長沢代吉家、中山源太郎家と粡町で三家軒を並べる。菊づくりを支えた地域的紐帯の強さがうかがえる。)
・昭和15年、会は中止され。その後は菊づくり消滅を惜しむ鈴木文蔵、江口円太、板垣茂左衛門、竹田富之助、羽田和平により菊花同好会が結成され、戦時中も菊づくりは続行された。それが戦後他に先駆けたいち早い菊まつり復活へとつながってゆく。
18A-菊人形 櫻丸.jpg18B-菊人形 松王丸.jpg18C-菊人形 松王丸2.jpg18D-菊人形 梅王丸.jpg

(「菅原伝授手習鑑」より 菊地熊吉作 板垣敏雄撮影 昭和10年)

◎菊まつりの公共化
・昭和4年、料亭笠原が個人で負担していた菊花品評会の費用を宮内商工会も負担。昭和6年の開催には、町から100円、商工会から250円の補助金。その背景には、製糸場の釜数も職工数も昭和3年をピークに減少に転じており、経済の翳りが料亭の景気に反映し、民間だけでは担いきれなくなっていたという事情がある。
・商工会が関わることになって、毎年11月3日の明治節に熊野大社々前に献花する菊花祭開催。「商工会の連合大売出し、小学校、女学校生徒児童の、学年栽培懸崖作りの陳列まで発展して真に挙町の一大行事化する殷賑ぶりを現出、『菊の宮内』の名声を博した。店頭数鉢の菊花、ささやかな軒下に丹精の菊の香をただよわせるのが宮内町民の誇りの域にまで達した。」(昭和二十三年度版「宮内町政要覧」)現在の「菊と市民のカーニバル」の先駆けをなす懸賞大仮装行列が始まる。
◎戦火迫るの中での衰運とふんばり
・昭和12年7月の支那事変以降次第に勢いが衰えてゆく。三料亭の競い合いは昭和11年を最後とし、12年から主催は商工会。料亭では笠原だけが18年まで菊人形を続けている。
・14年、山形陸軍病院に療養中の戦士を慰問するため「宮内銃後奉公会」から菊鉢80鉢を贈呈し、他に類例を見ぬ絶好の慰問品として病院長より多大な賞賛と謝意を受け、陸軍大臣から感謝状。
・昭和17年、菊地熊吉が菊人形を作って陸軍病院を慰問している。

8.戦後の復活から興隆の時代 
◎戦後菊まつりスタート
・昭和23年(1948)「宮内園芸会」設立。24年、菊人形は鳥居の場に二場面、菊花展は宮内小校庭で開催。大賑わいになっていよいよ活況を呈するようになったのは昭和二十七年から。
・28年8月に戦前の淵明会と戦後の園芸会が一本化して「宮内町菊花同好会」となる。(現在の「南陽菊花会」へ)
019-歴史 画像3.jpg◎菊まつり最盛期
・昭和30年代は全国的に菊まつりの最盛期。29年菊人形6場面になり、31年には8場面、32年は9場面、34年には菊地熊吉担当8場面のほか、埼玉の菊人形師保坂秀孝担当4場面、計12場面。36年入場者数40,747名、37年53,759名。入場料大人50円。34年からは「東北一を誇る」と謳う。
・菊人形展を開催した都市は全国で130都市、150会場にも及ぶ。山形県では昭和38、39年、少なくとも宮内のほか、赤湯、上山、西川(間沢)、米沢、天童、寒河江、新庄の8会場で開催。この頃鳥居の場の菊人形会場は、東西広場を地上4メートルの渡り廊下で結んで開催。






21-菊まつりポスター1956.jpg22-菊まつりポスター1960.jpg24-菊まつりポスター1963.jpg25-菊まつりポスター1964.jpg

・菊人形師として一家を成した菊地熊吉も脂の乗り切った時期で多忙を極め、間沢、上山、米沢、寒河江等県内各地の菊人形も手がける。そのため関東の菊人形師にも依頼。大胆で思いっきりのいい熊吉流に対して、小振りな顔で垢抜けした東京風も好評を博していたが、今になってみればやはり熊吉流が懐かしく愛着がある。熊吉は昭和34年に山形県観光協会長賞を受けている。 


26-ポスター1.jpg28-033-ポスター3.jpg30-039-ポスター5.jpg31-042-ポスター6.jpg

9.「南陽の菊まつり」へ
・昭和42年(1967)南陽市誕生。43年、赤湯烏帽子山公園を会場に開催していた「赤湯温泉菊まつり」と「宮内の菊まつり」が合流して南陽市観光協会主催「南陽の菊まつり」に。
・昭和44年、宮内会場が鳥居の場から双松公園へ。この年宮内会場、赤湯会場それぞれ六場面ずつ、そのほか赤湯駅に一場面。43年入場料を大人50円から70円に上げていたが44年からさらに100円にアップ。その布告にいわく「皆々様のお陰をもちまして南陽の菊まつり(宮内会場)も50数年を迎えました。本年は会場を双松公園に移し自然の美とバラ園の完成した公園は二本松をしのぐものと確信いたしております。・・・」昭和30年にスタートし、地の利を得てぐんぐん勢いを増してきた福島県二本松の菊人形を意識しての会場変更。置賜盆地を一望する双松公園はロケーションとして申し分ない。しかし町中から公園に移ったことで宮内の賑わいが失われ、次第に菊まつりが地域の人々とのつながりを希薄にしていったのは否めない。
・双松公園を第一会場、烏帽子山公園を第二会場としての開催は昭和55年まで続くが赤湯の第二会場での菊人形の本格展示は45年までで、その後赤湯は菊花のみまたは二場面程度の展示となる。

10.大河ドラマと菊まつり
・最初のNHK大河ドラマ、昭和38年(1963)、井伊直弼が主人公の『花の生涯』。菊人形に入り込むのは第二回の『赤穂浪士』から。「忠臣蔵外伝(神崎与五郎東下り堪忍の場)」。40年が『太閤記』で「本能寺ノ変」「太閤記(醍醐の花見)」が登場。前年の影響で「忠臣蔵 内蔵之助一力茶屋の場」「忠臣蔵討ち入りの場」。
・つながりが本格的になったのは上杉謙信公が主役の『天と地と』の44年。ポスターにも謙信と信玄対決の場面。その後は大河ドラマあっての菊人形の傾向が強くなってゆく。
・架空の下級武士が主人公の『獅子の時代』(昭和55年)の時の全体テーマは「日本の祭り」。有名主人公の場合は菊人形の場面になりやすいが、架空の人物や知られていない人物の場合は別のテーマの比重が大きくなる傾向があり、必ずしも大河ドラマ一色ではない。菊人形のテーマをどうするかは今後の菊まつりの大きな課題。
 
33-カーニバル.jpg11.菊まつりとイベント
・昭和53年(1978)「菊と市民のカーニバル」。宮内商工会青年部が中心になり11月3日の仮装行列を1 4年ぶりに復活。「宮内商工会青年部報」に当時の状況と意気込みが伝わる文章がある。 
《古いものの良さを見直し、新しいものを創っていこう」と復活した菊と市民のカーニバルが、去る十一月三日盛大に開催された。参加二二団体、参加人数六百余名が、午後一時花火を合図に市庁舎前を宮内小学校鼓隊を先頭に各団体がこれに続いたが、肌寒い天候にもかかわらず、沿道は過去最高の三万人の大観衆で埋め尽くされた。参加団体も昨年の二倍に増えており、先に出発した団体が途中の休憩場に着いても、後続の団体が出発できないという盛況ぶりだった。/ 昭和五十三年、地域発展の足がかりとして部員全員が一丸となり「伝統行事の良さを継承し住みよい活力のある町を創ろう」と、十四年ぶりに復活したのは記憶に新しい。特に本年は南陽市観光協会よりの補助金が、昨年の菊まつりが赤字のためという理由でストップという非常事態にも屈せず、我々青年部は立ち上がった。/ 早速熊野大社宮司北野猛様へお伺いし、事情の説明を申上げたところ、「君たち若い者がやらなければ誰がやるのだ。菊と市民のカーニバルは続けてゆくところに意義があるのだ。」と激励をうけ、全面的に協力の快諾を得た。さらに昨年より我々が提言してきた「菊と市民のカーニバルは、市民みんなが一体となって盛り上げてゆくべきものであり、真の南陽市民としてこの地域をよりよいものにしてゆく」という前提を踏まえて、地区長連絡協議会にさらに詳しく事情を説明し、全員一致で協力の了承を得た。/ 今年の菊と市民のカーニバルは、若い我々にいろいろな意味で教訓を与えてくれたが、地区民、北野宮司、宮内商工会が一体となって出き得た事業であり、この絆をさらに大きくして今後の宮内の地域を「南陽市の中心」として発展させるべきであろう。》(昭和56年12月「宮内商工会青年部会報」)
・この年、「菊の女王コンテスト」も始まる。会場には舞台が設けられ毎年種々のイベントが行われるようになったが、菊人形自体の集客力の減少化傾向に合わせてイベントに力を注がざるを得なくなった事情もある。
 
34-「南陽の菊まつり」百年.独眼竜ポスター.jpg12.頂点から下降期へ
◎入場者最高「独眼竜政宗」—置賜イメージの大転換 
・昭和62年(1987)の『独眼竜政宗』はNHK大河ドラマ史上最高の視聴率39.7%を記録。この年菊まつりの入場者数65,516人(一日平均1,771人)、記録に残る中で最高。11月3日の賑わいは「町の端まで車がつながった」など今も語り草。
・置賜は、かつて室町初期から秀吉の時代まで210年の長い間伊達の領地であったにもかかわらず、上杉による伊達遺風一掃政策によって置賜人の意識から伊達の名は消されてしまっていた。その思いが一挙に呼び覚まされることになった年といってもよい。本意ならずも越後から会津へ、会津から米沢へと、いわば屈辱慚愧の歴史を背負う上杉的感覚に覆われていたそれまでの置賜のイメージが、この地に生まれ、25歳までこの地で過ごした政宗への注目によって覆された。政宗が生涯思い続け愛してやまなかった太古以来の豊饒の地、イザベラ・バードが「東洋のアルカディア」と絶賛を惜しまなかった明るい置賜へと、置賜イメージが大転換する分水嶺の年となった。
◎模索の時代へ
・63年の昭和天皇御不例ゆえの諸事自粛ということもあり、62年の勢いを取り戻せぬまま平成の時代を迎え、いつまで続けられるかの模索の時代がつづいて現在にいたる。これはひとり「南陽の菊まつり」だけの問題ではない。平成17年11月13日の読売新聞関西版に載った記事から、菊まつりの近年の厳しい状況がよくわかる。 
《関西の秋を彩る、ひらかたパーク(大阪府枚方市)の「ひらかた大菊人形」が、今年を最後に閉幕する。菊人形を作る「菊師」の後継者不足が、主な理由だ。菊人形展の中止は全国で相次いでおり、伝統文化の存続を危ぶむ声も出ている。・・・/ 後継者の確保が難しいのは、菊師の生活が不安定なためだ。仕事は菊人形展のある秋に集中するため、年収も限られる。関係者によると、菊師の大半は、愛知、岐阜の両県在住だが、一定の技術レベルに達しているのは、両県で十数人しかいないという。/ それに加えて、入場者数の減少も深刻だ。動きが無い菊人形は、若者の興味を引きにくい。「大菊人形」の場合、74年の約85万人がピークで、昨年は半分以下の約35万人にまで落ち込んだ。/ 枚方市以外でも、存続が危ういケースは多い。伝統ある菊人形の灯を絶やすまいと、98年から全国の開催地の市町村で、「菊人形サミット」が開かれ、振興策を議論している。だが、市町村の参加数は、初回(枚方市)と99年の二回目(二本松市)が各9自治体、01年の三回目(福井県越前市)が8、04年の四回目(徳島県吉野川市)が4と先細りしている。/ 山口県宇部市の常盤公園で開かれていた「宇部大菊人形」は。1996年で終了した。・・・広島県尾道市も入場者数低迷で、「尾道大菊人形展」を2000年を最後に終了した。01年からは、菊の鉢植えなどを展示する「尾道大菊花大会」へと模様替えした。/ 全国的に有名な菊人形展も、決して安泰ではない。二本松市の「二本松の菊人形」は、国内最大級の約130体を展示しているが、「最近はやや赤字の状態」(二本松市商工観光課)という。五十年以上の歴史がある越前市の「たけふ菊人形」も、「01年の第五十回を機に、開催主体を見直した」(越前市観光振興課)という。/ 菊人形展の開催地について、武庫川女子大の非常勤講師で菊人形研究家の川井ゆうさんは「興行として有料の菊人形展は、かつて二十カ所ぐらいあったが、いまは十カ所程度でしょう」と将来の存続を心配する。/ そのうえで、「イギリスなど海外の文献の記述から、菊人形が〈庭を整備する〉ガーデニングの発展に貢献したことがわかっている。菊の栽培や展示する舞台芸術など、様々な技術の粋を集めた菊人形を、守り続けてほしい」と訴えている。》


35-菊まつり宣伝チラシ ラスタライズ [更新済み].jpg

35B-kiku2006.jpg13.今後に活かせる?平成18年の挑戦
◎町中に戻った菊まつり
・平成18年(2006)と19年、新配水池建設工事のため菊まつり会場を38年ぶりに町中に降りて開催。市役所、高校が移転し、大型店にも圧され、さらに不況の慢性化ですっかり元気をなくしていた宮内に、菊まつりの間だけでも賑わいをとり戻せるかもしれない、かつての繁栄を知る五十代六十代を中心に二十代の若手も加わり十数人の有志が立ち上がった。3月末から毎週木曜日を定例日と定め計画を練った。行政そして観光協会長をトップとする菊まつり検討委員会も有志たちの意向を汲み取る姿勢を示した。かつての会場だった鳥居の場はイベントの場とすることとし、菊花品評会も菊人形展も石黒電気跡地とすることにした。

35C-菊会場入口幕.jpg35D-IMGP5201.jpg

◎テーマ「ときめく菊まつり―観て味わうニッポン」 
《日本人は古来、香りつつ立ち枯れてゆく菊の花に、安らかに長寿を全うする生の理想を見てきました。穏やかな中に凛として心鎮まる花、いかにも日本的な美しさ、菊花は天皇家の御紋章が十六弁の菊であるように日本を象徴する花です。そして、今年千二百年祭を迎える宮内熊野大社の御紋も十四弁菊に三つ巴、「南陽」の名も中国河南省南陽に流れる不老長寿の霊泉「菊水」に由来するという、菊の花にとりわけ縁深い当地です。江戸期から菊の栽培が盛んで上杉藩主に菊花を献上し褒美を賜った記録も残ります。大正初期には菊人形が飾られ、菊花品評会もはじまり、菊花の進歩改良をめざす会も結成されるようになりました。以来「菊の宮内」として全国に名を響かせ、菊まつり期間中は町じゅうが湧いたものでした。久しぶりに街に降りてくる「菊まつり」、あの祭りのときめきを取り戻します。さらに観るだけではなく、置賜の豊かな食文化も体験していただきます。日本らしさが息づく街をゆったり歩いてもらい、日本の食文化をじっくりと味わっていただく、「スローツーリズム」「スローフード」も堪能していただく「ときめく菊まつり」です。》
◎基本コンセプト
   1.「菊まつりルネッサンス」
 全国的に低落傾向の菊まつりを上昇気運にのせることのできる魅力ある菊まつりとし、五万人入場を達成します。
   2.「もてなしの菊まつり」
 熊野参道を中心に町全体が会場となるように、町を挙げてのもてなし体制をつくります。 
◎菊人形場面 
「みちのくの歴史と伝説―伊達・上杉・熊野信仰」をテーマに構成。
◎街全体が菊まつり会場となる雰囲気づくり
 1.熊野参道の石畳と電線のない町並の強調。
 2.通りに面した各種売店、食べ物屋の設置。お茶等の接待。
 3.通り両側を花垣、すだれ、のれん、日除け幕等で飾り「日本らしさ」を演出。
4.各商店会の創意工夫を引き出す。
◎五万人を目標にした誘客作戦
 1.話題づくり
   ①「日本で一人、こだわりの菊人形師 菊地忠男」「菊づくり一筋 青木 孝」を前面に押し出した宣伝。
   ②熊野大社千二百年祭と連携しつつ、みちのくの日本文化再発見。
   ③まんじゅう、そば、鯉等 地元食文化に結びつけた宣伝。
2.市民の協力体制
   ① 家族前売券一世帯一枚運動(地区長会の協力)
  ② 市外の人招待キャンペーン(家族券の活用)
   ③ 語り部、えくぼの里案内人の協力
   ④ ボランティアの組織(婦人会、食改、南陽高・・・)
 ⑤ 商店会の協力体制
3.効率的なPR方法の工夫
  ①「菊人形の観方、楽しみ方」「菊花観賞法」等についての講演機会をつくる。
  ② 前売券(特別券)を早めにつくり、押し花展に間に合わせる。
  ③ 県への協力要請(「ゆとり都」によるPR等)
  ④ 旅行業者、旅館との提携
    ⑤ ケーブルテレビの活用
  ⑥ インターネットの活用
  ⑦ 仙台等伊達政宗関連地域への重点PR
4.容易なアクセスへの工夫
    ① 道路沿いへのユニークな看板設置
    ② 長井線利用者の無料化(チラシに列車時刻表掲載。入場券を赤湯駅で販売)
◎オープニングイベントの開催
・菊まつりのスタートダッシュを期して、若い感覚も取り入れた話題性に富むイベントを考える。 
  ◎キリン・グリーンアンドフラワー(株)との提携
・アグリバイオ事業を世界的規模で展開するキリン・グリーンアンドフラワー(株)の協力を得て、新世代にも支持される新たな菊のイメージをアピールする。
◎菊人形師菊地忠男も加わっての計画づくり
・それまで菊まつり実行委員会と菊地との間は互いに「敬して遠ざける」風があった。しかし共に作り上げるのでなければ菊人形に魅力を取り戻すことは出来ない。菊地も理解した。

36-名場面.jpg

◎市民が観たくなる菊人形
・地元の人が行ってみたい菊人形、そのために地元の歴史に関わりある場面をということで。テーマを「みちのくの歴史と伝説 伊達・上杉・熊野信仰」として次の六場面ができた。 
 第一景 上杉鷹山 棒杭の商い(置賜無人直売所の起こり)
 第二景 名僧虎哉和尚と梵天丸(伊達政宗の夏刈資福寺時代)
 第三景 平維盛都落ち(宮内 照明寺伝説より)
 第四景 鏡仕掛け(懐かしい人形変化、久々の復活)
 第五景 鎌倉権五郎景政 歌舞伎十八番「暫」(熊野大銀杏を手植えした権五郎)
 第六景 上杉謙信と熊野獅子(謙信公が戦場で熊野獅子を珍重したとの伝えから)

37-屋台店169-22-IMGP4928.jpg38-棒杭市176-43-IMGP5190.jpg39-48-IMGP5339.jpg40-158-09-IMGP4151.jpg160-07-IMGP4159.jpg163-27-IMGP4830.jpg165-29-IMGP4859.jpg164-28-IMGP4850.jpg170-23-IMGP4929.jpg171-24-IMGP4930.jpg

◎その結果
・懐かしい屋台店の復活、現代版棒杭市、農家の直売店、熊野大社宝物展、バイオ先端技術による菊・特殊菊の展示、菊と市民のカーニバル、だがしや楽校、菊の健康料理試食会、ハイジアパーク出張足湯、青そフェスティバル、フリーマーケット、ミニSL、奉納ふるさと踊り、鍋コンテスト、紅花染め実演会・・・等々、多彩なイベントや飾り付けで町の賑わいがつくられた。
・入場者数は、前年より一週間の短縮にも関わらず前年比1,277人増の23,475人。一日当たりでは157人増の757人。企画案からみれば実現したのは50%強。
・全くボランティアの地元民が主体となり、官がそれを応援する形が実現した菊まつりになった意義は大きい。

172-25-IMGP4933.jpg174-30-IMGP4968.jpg175-13-IMGP5157.jpg186-45-IMGP5334.jpg193-52-IMGP5344.jpg194-53-IMGP5348.jpg205-59-IMGP5407.jpg213-68-IMGP5450.jpg214-47-IMGP1222.jpg

◎思いがけない副産物「南陽市皆川健次菊まつり振興基金条例」と「菊とあゆみ(前進)の会」
・19年2月、菊で盛り上がるふるさとへ宮内の賑わいのために使って欲しいということで、宮内出身の篤志家から南陽市に5千万円の寄付の申込み。平成19年6月「南陽市皆川健次菊まつり振興基金条例」が制定され基金が運用されることになる。(当初予定では1億円。皆川氏死去のため5千万円のまま)
・皆川氏から別途資金提供により、地元の同級生有志が中心になって、「南陽の菊まつり」応援団としての「菊とあゆみ(前進)の会」が結成。「菊とあゆみ(前進)の会」は全国に呼びかけて会員を募集、集まった約百人の会員への菊まつり情報の発信や大菊の鉢植え福助仕立送付のほか、菊まつり会場では「花びら枚数当てクイズ」を企画実施する等、「南陽の菊まつり」にとって得難い力になりつつあったのだが、19年10月皆川が亡くなったことから、3年間の活動で解散。
◎官主導に戻った平成19年
・平成19年、この年も町中での開催だった。菊人形が昭和43年以前と同じ鳥居の場に戻った。菊まつり本体は官主導に戻り、地元ボランティアの取組みは種々のイベントが主体となった。多くのイベントが組まれ、前年にも増す民のエネルギーが注ぎ込まれたが、菊人形自体の魅力を引き出すことは出来なかった。

221-1-DSCF5386.jpg14.「全国一の歴史と技と文化を誇る・・・
◎中央花公園へ
・平成20年(2008)から三年間は双松公園で開催された後、平成23年から市民体育館に隣接する中央花公園で開催。この年の入場者数は、二週間の短縮にも関わらず前年より3,090人増の21,810人、一日当りでは、442人増の948人。(入場料が前年までの大人700円から300円)入場者数を見る限り将来への足がかりを得る。
◎全国一の歴史を誇る菊人形!
・かつての雄、枚方も二本松も尾道ももう第一線にはない。菊人形が飾られ、入場料をいただく「興行」としての菊まつりの名残りをとどめるのは、南陽のほか、北海道の北見、茨城の笠間稲荷、福井の武生、南砺、それに名古屋。南陽の踏ん張りを支えるのは「全国一の歴史と技と文化を誇る・・・」、その「誇り」。第100回と銘打つ24年の宣伝チラシ「未来へ伝えたい技がある。つなげたい文化がある。」菊人形の伝統、菊づくりの文化に支えられた菊まつりを守ろうとする使命感。
◎全日本菊花連盟全国大会、二度開催
・平成24年、第48回「一般社団法人全日本菊花連盟全国大会」が初めて南陽市で開催。競技花「南陽の光」。会場周辺には3間(5.4m)の大のぼり100本がはためき、全国から集まるお客様を迎える。
・平成27年、第51回「一般社団法人全日本菊花連盟全国大会」再び開催。

222-菊花秋月CCF_000002-e1475106307956-480x336.jpg15.可能性をさぐる
◎ついに無料化(菊人形一場面に/平成28年)
◎「菊と市民のカーニバル」をどう活かすか
・市補助金100万円 宮内地区長会協力金65万円 商工会協力金22万円 広告料55万円・・・合計245万円(28年度予算)
◎花公園と宮内熊野大社周辺二極化開催
◎「菊花秋月」への期待
◎皆川基金を活かせ!

 
〈参考文献〉
・「昭和二十三年度版 宮内町勢要覧」(宮内町 1949)
・「南陽市史 下巻」(南陽市 1992)
・「南陽市史編集資料 第七号」(南陽市 1982)
・錦三郎「山色清浄」(みちのく書房 2007)
・「漆山製糸業の歴史」(おりはたの里づくり推進会議歴史部会 1994)
・森芳三「羽前エキストラ格製糸業の育成」(お茶の水書房 1998)
・川井ゆう論文「山形の菊人形」(日本玩具研究学会誌「人形玩具研究 20」 2010.)
・「宮内商工会青年部 歴史と顔」(南陽市商工会青年部宮内ブロック 1986)
 
〈参考データ〉
◎菊まつり入場者数の推移

菊まつり入場者数の推移.jpg

225-終わり.jpg


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。