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実存主義(ニーチェ)→現象学(メルロー・ポンティ) [メルロー・ポンティ]

はじめてのニーチェ.jpg副島隆彦著『ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ! 」―まず知識・思想から』を読みつつ、適菜収著『新編 はじめてのニーチェ』を読んで、アマゾンにレビューした。

 

*   *   *   

 

概念的理解を感覚的理解に変えてくれる

 

 ニーチェといえば「神は死んだ」。今までいた神がいなくなったということかといえば、そうではない。「神の視点=絶対的な視点など存在しない」(116p)。すなわち、「客観的世界」などは迷妄にすぎないのであって、「すべての認識は『パースペクティブ』に基づく」(119p)。「客観存在としての世界は存在しない。/個別の世界が発生するだけだ。」(124p)しかしそこに「権力の意志」が登場することで「世界」が構築される。すなわち自己保存の欲求を基盤にした「世界解釈」であり、それが虚構であれ誤謬であれ、そこに他者との共通世界が生まれるようになる。だからそもそも「世界は虚構であり、真理は誤謬なのだ。」(126p)神によって保障される概念やイデオロギーなんて通用しない。「真理を永遠なものと考えるプラトン=キリスト教的信念がデタラメであること。それが『神は死んだ』という言葉の意味です。」(117p

 実存主義の原点である。概念的理解を感覚的理解に変えてくれる。

 

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こう書いて、実はここから現象学に通ずる道筋が見えてきた。もう50年近くになるが、メルロー・ポンティを読んでいて「パースペクティブ」という言葉がとりわけ意味深く心に残ったのだが、このたびその言葉がまさにニーチェ思想の原点にあったことを知った。

 

50年も前書いたことを抽き出してみる。

 

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他者が、私に対して在る彼の存在の彼方でほんとうに対自として存在しており、われわれが相互に存在するものであるならば、そして神に対しての一方と他方であるのでないとするならば、われわれはお互いに現れ合うのでなければならないし、他者も私も外部を持ち、〈対自pour soi〉のバースペクティブ(私に対する私の眼と、他者自身に対する他者自身の眼)の他に、〈対他Pour Autrui〉のパースペクティブ(他者に対する私の眼と私に対する他者の眼)が存在するのでなければならない。》(『知覚の現象学』の序論第節)
 ここに、他者が存在することによって生ずるパラドックスがある。すなわち、事実として、私にとっての〈私〉と、他者から見られた〈私〉というものがあり、その二つの〈私〉は別々に切り離されてあるのではなく、現実に生きている同一の私に関しているのである。

 つまり、私にとっての〈私〉だけでない、私でない〈私〉というものがあるということが、他者の存在とともに認められねばならないことになり、このことは、他者の側にも同様に言えることなのである。この逆説的な事態が事実としてわれわれの生においてあるということによって、事実に即して哲学をなそうとする者に、私の内部に見いだした(と思っている)絶対的な私に拠って〈哲学的真理〉を振り回すことを禁じているゆえんがあるのである。また、私が他者に対してあり、他者が私に対してあるためには、私も他者も外部を持たねばならないということによって、身体の問題が哲学における中心課題の一つとなるということも了解せられるであろう。

 

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ニーチェは自己のパースペクティブ(自分にとっての世界)を絶対視した。唯我独尊と言っていい。対してメルロー・ポンティにとっては、他者のパースペクティブ(他者にとっての世界〉も無視できない。自分を見る他者がいる。そこには、〈自分(私1)〉で思っている〈自分(私2)〉以外の〈自分(私3)〉がある。〈自分(私3)〉が在ることによって、〈自分(私1)〉自体と〈自分(私1)〉で思っている〈自分(私2)〉は変調を来す(分裂する)。全体としての〈自分(私)〉とは、絶えざる3者の相克(絡み合い)から成り立つ。

1.〈自分(私1)〉:私自体(即自)

2.〈自分(私2)〉:思う自分(対自/自意識)

3.〈自分(私3)〉:他者が見る自分(対他)

ニーチェにおいて絶対視された〈パースペクティブ〉は、メルロー・ポンティにおいては、他者の存在によって相対化されている。そしてそれがあるがままの〈生〉なのである。「現象」学のゆえんである。

ちょっと「哲学」の頭になってみた。


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めい

マドモアゼル愛さんの「愛の日記」。いい文書です。この記事に相通じる気がしてここにメモっておきます。

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■ 作用のない生き方 New! 2017年07月27日(木)

人は誰でも生まれてきた以上、自分として生まれた意味があります。

きれいごとや理想でそう言うのではなく、法則が理解できたらそれが事実であることに気づきます。

なんで、顔がみんな違うのか、、、なんで声が違うのか、、、体形も違うのか、、人は誰でもその人特有の個別性をもっています。

その個別による作用は、その人にしかできないものです。そこに意味があります。

個別性は優劣とはまったく違います。私たちは自身を優劣の価値観でとらえて、落ち込んだりがっかりしたり、自分を卑下したりしがちです。

しかし、個別性にこそ意味があるとしたら、それは無意味な考えであり、害ですらあることがわかると思います。

作用に意味があるとなれば、個別性が大切であることがわかります。

作用にこそ意味があるとは、これがエネルギーの法則だからです。作用すれば、必ず反作用が戻ってきます。この反作用が宇宙の本当の力です。

作用の個別性があるため、宇宙ではまったく同じ作用は存在しません。そこに意味があります。

風に揺れる木々の葉を見ていると、いつも同じように揺れているように見えますが、実際はまったく同じに揺れることはありません。

1000年も生きながらえている大木の葉は、1000年の間、一度としてまったく同じ動きをしたことはないはずです。無数の葉が揺れる、、、その風の強さは異なり、温度は異なり、隣同士の葉の成長度合いも違う、葉擦れの音が織りなす変化もあり、葉が同じに動くことは絶対にありえないのです。

何十億人いる人の顔があきらかに全員違うように、葉の動きは二度と同じ再現をすることはありません。

優劣ではないのです。個別性が大事なのです。有志以来、葉の動きと同じく、地上に吹く風も湿度も似たようなケースはもちろんありますが、まったく同じということは絶対にないのです。

すべてが新たな作用として表現されているから、この地上も宇宙もその反作用が途絶えることなく、生き生きと生きていくわけです。

しかし、優劣の価値にそまってしまった人間の考えでは、誰かのようになろうとする、、、優位に立とうとする、、、最終的に金、地位、権力、美貌などを目指す、、、

優劣をつけようとすると同じ結果を求めることになります。

飯島先生は「間違わないようにでは練習しておかなくてちゃ」という人の言葉を聞いて、「人生に練習なんかあるんですか」とおっしゃったのを聞いたことがあります。

一時一時が真実であり、無駄な時間もなければ、特別に大事な時間ももしかしたらないのかもしれない。

すべての時、流れ、瞬間は一時だけのものであり、同じものはこれまでになく、これからもないのです。

作用、、、飯島先生は、チューナーを叩くのを見て、本当にいい音が出せたら、もう死んじゃってもいいよね、、、とおっしゃったので、私は驚いたことがあります。

良い音を出すという素晴らしい作用に対して、どんな反作用が戻るかを先生はご存じだったからです。

作用の中でも、命はひとつ、、、という視点に立った作用なら、宇宙全体を成長させる反作用が訪れることとなるわけです。

自分という枠内からの作用でも、もちろん反作用は戻りますが、限定された枠内でのものとなります。

広く深い意識が伴った作用には、宇宙大の反作用が訪れる、、そのために、私たちは自分でしかできない偉大な作用がなせるように個別性が与えられています。

病院で大勢の最後を看取った人が、いみじくもおっしゃるのは、死ぬ最後で後悔されるのでもっとも多いのは、挑戦しなかったことなんです、と。

安全神話、、、安心していきたい、、、冒険などしないで平穏に暮らしたい、、、、、人情としてはよくわかりますが、私たちに個別性が与えられている以上は、私にしかできな作用があり、、、自己保身から出た作用だけでは、死ぬ際に人は満足しない、、、ということでもあるのでしょう。

先が見通せない時代になっているため、多くの人が防衛的な生き方になっています。防衛して本当に自分を守れるならそれもいいのですが、防衛すればするだけ、むしろ自分も周囲も守れなくなることがあります。

みんなが自分の防衛だけからの作用しかしないので、地球や自然に戻る反作用が得られない、、、自然が疲弊していく、、、自然は大地寝返りをうてばすぐにでもエネルギーが補給できるのですが、それだと人類は終わってしまう。

大地の我慢、、、

先が見通せる時代なら防衛的な生き方でも利息がたまってきますので、安全神話もよくわかりますが、今はそういう時代ではないように思います。あまりにみんなが保身ばかりなので、作用の質が同じ。結果として地球規模での反作用がない。

いい子ちゃんでいると、見えない、、、社会の価値観を真に受けていると、きっと見間違う、、、自分の作用を信頼しなくちゃ道が開けない時代が始まっています。

凝り固まった価値観と、自分だけよければで進んでいた時代には、もうエネルギーがなくなっているのです。

なので、常識の船が一夜にして泥の船に化ける時代がもうすぐやってくる。

個別性で行けば、きっと抜けられる、、、この価値観の変化が必要になっていると思います。みんなが個別になれば、地球にもエネルギーが戻ってくる。そうすれば自然災害も収まる。自然災害はかけまわしてエネルギーを得るためのものだから。人間が汚した結果なんです。

自身の保身からの作用だけではもう先はない。つまらない価値に竿さす生き方、時代に竿さす作用でいいのでは。

その際に、作用を生む意識が有限のものか、無限のものかがポイントになります。

作用する意識が有限なら有限のものが戻り、作用する際の意識が無限に根差すものなら、宇宙は無限大の反作用で私たちを違った地平に連れていってくれる。

有限の意識で自分を守ろうとするのは、お金さえあればすべての問題が解決すると思っているようなものです。それはもうすぐ間違いであることがわかります。お金は人間が作ったものだからです。

あなたの中にある有限の意識と無限の意識、、、どちらを選択するかによる作用で、未来は変わるはずです。

おなかがすいた人が、あいつも腹が減っている、、、あいつも減っている、、、この子もだ、、、あの子もだ、、、みんな一緒だと、、。

そしてみんなが食えることを考えた作用をすれば、大きなものが戻る、、、本当の豊かさが戻る。

自分だけ私だけここだけ金だけ、、、その作用で行えば、周囲と人を滅ぼしていくことに気づかねばならない時代なのです。

理想論で言っているのではないのです。
何をもらえるかが大事なのではなく、何を出すのかが大切なのです。
出したものだけが戻ってくるのです。
by めい (2017-07-29 02:25) 

めい

mespesadoさんの適菜収著『安倍でもわかる保守思想入門』批判です。
著者は「政治の本質」がわかっていない、ということです。同感です。私も買って読み始めたのですが、途中でほおってあります。ただし、副島氏推薦の『キリスト教は邪教です!』は一気に読めました。いずれレビューしたいです。

   *   *   *   *   * 

369:mespesado : 2017/07/30 (Sun) 20:15:37 host:*.itscom.jp
 それでは亀さんのblogの記事をダシにした書き込みを続けます。今回は
「日米オールスターゲーム」です。ここに
> 『安倍でもわかる保守思想入門』(KKベストセラーズ)を著した、適菜
> 収との対談記事に目がとまった。
とあるので、Amazon の『安倍でもわかる保守思想入門』の「商品の説明」である「内容紹介」から引用します;

> 政治とはなにか?
> それは国を治めるということです。
> 権力を動かすということです。
> 権力の動かし方を間違えると、大変なことになります。
> 戦争になったり、国が貧乏になったり、社会が混乱する。
> だから政治家の責任は重大です。
> 私は必ずしも政治家に歴史や経済、文化に関わる高度な知識が
> 必要だとは思いません。
> 政治家には判断能力があればいい。
> 判断の基盤となるのは、常識です。それと人間を知ることです。
> とくに議会主義を採用しているわが国においては、
> フェアな議論を行なうことができる人間が求められます。
> もっと言えば、普通の人間であればいい。
> きちんと挨拶ができる、人の話をきちんと聞く、お行儀よく食事をする。
> それと、小中学校の社会科の授業で習う程度の知識があれば十分です。
> でも、この程度のハードルさえクリアできない人たちがいる。
> ……(「はじめに」から抜粋)

 やはりこの人も >>368 で紹介した人と同じレベルで政治家という職業を考えていることが分かります。それは、「政治家には判断能力があればいい。」という部分と「もっと言えば、普通の人間であればいい。」という部分に端的に現れています。
 冗談じゃない。いくら判断能力があっても、それを実行できなければ意
味がない、という肝心のことに適菜さんは気付いていないようです。政治
を実行するのに政治の専門家が必要なのは、どんなに国民のために良い施
策を実行しようとしても、それを実行することにより生活が脅かされる人
たちが必ず一定数存在し、彼らが金力や事実上の権力を持っている場合は
必死の抵抗をするからです。ですから、これらの政敵に打ち勝つための策
を考え実行する胆力が必要になります。適菜さんは、このような政治の現
実というものをまるで知らないとしか思えない。そのため、政敵を欺くた
めに、わざと人の意見を「聞かない」ことも作戦の一つとして駆使しなけ
ればならないのに、そのようなわざと行っている態度まで「小中学校の社
会科の授業で習う程度の知識」が「欠けている」から「できない」のだと
勘違いして、「でも、この程度のハードルさえクリアできない人たちがい
る」などと、“オレの方が人間的に上だよ”宣言をしてしまう。全くもっ
て、幼稚で軽薄な態度だと言わざるを得ません。
 amazon の「商品の説明」の「内容紹介」から引用を続けます:

> 現在、安倍政権を支持しているのは、利権がある連中か、
> 単なる反左翼の思考停止した連中(保守系論壇誌に多い)か、
> 新自由主義を保守と勘違いしているバカか、
> 改革幻想に踊らされた花畑である。
> 戦後の幻想の平和に酔っている「戦後民主主義者」と
> 安倍支持者は同類。
> 幻想のリアルポリティクス(実態は売国・壊国)に酔っているだけで、
> 平和ボケであることに変わりはない。
> バカは敵を間違えて取り返しがつかないことになる。
> 今、保守および真っ当な日本人が戦わなければならないのは、
> 民進党でも共産党でも朝日新聞でも日教組でもない。
> 国の根幹を破壊し続ける安倍政権である。

 適菜さんは、他のリベラルな知識人と同様、「きちんと挨拶ができる、
人の話をきちんと聞く、お行儀よく食事をする」などという表面上の態度
だけが首相に必要な能力だと思っているから、安倍政権が「あらゆる大国
の元首と隙を見せず、かつ信頼関係を結ぶという実に巧みな外交を行って
いること」とか「国益を損なうことを省益のためにしゃあしゃあとして行
ってきた財務省や外務省を政権が手なずけている」という、今までどの政
権も果たせなかったことを実行できていることには全く目が行かず(とい
うより気付いてもおらず)、そのため、こういう点でこそ安倍政権を支持
している人がいるのだ、ということが理解できないのだと思います。
 だから、あんな(表面的に優等生に見えない)人間を支持するなんて、
きっと安倍さんとの個人的関係で自分の私利私欲があるか、我々左翼に逆
らうのを生きがいにしてるからに違いない、だってそれしか思いつかない
もん!というわけです。
 このような「愚かなリベラル」にならないためには、一旦「善悪の価値
基準」をすべて捨て去る、という荒療治をした方がよいと思います。私は
「好き嫌いで政治を語らない」ことよりも、実は「善悪でものごと(政治
に限らない)を語ることを一度やめてみる」訓練をする必要があると思う
のです。リベラルな人は「善悪(=ポリティカル・コレクトネス)」のワ
ナに嵌り過ぎています。政治家に限らず、一見「悪いことをする」人とい
うのは、それが公人であればなおさらですが、それを「悪いことだと知ら
ないからしてしまう」ということではなく、むしろ「悪いといわれる事柄
だと知ってはいるが、背に腹が変えられない事情があるからやむを得ずし
ている」はずであり、その「背に腹が変えられない事情」とは何か、とい
うことを真剣に考えることから政治に対する認識が深まると思うのです。
なぜならそれこそが「政治の本質」なのですから。

by めい (2017-07-31 03:25) 

めい

《人類にとって、科学技術の進歩に続いて必要なことは、ウジウジした妬みの心であるルサンチマンを捨てることなのかもしれません。》!

   *   *   *   *   *

757:西尾仁秀: 2017/08/25 (Fri) 21:06:41 host:*.openmobile.ne.jp
飯山一郎

>>752
ピンポーン、飯山さん、大正解で~す!

あと、僕は、非正規雇用問題について、
現場の最前線で問題点を見つめた経験から感じた事が有るんです。

ある意味では、ブラック企業やブラック経営者よりも、
「自ら努力して新しい仕事や雇用や産業を創出する“気”」が無い
労働と雇用の問題についての専門家や活動家や研究者の方が、
もっと陰湿で姑息で卑怯で自らリスクを負う覚悟や根性が無いと感じる事が多々有りましたよ。

たいていこの手のタイプは、本人に直接は文句や意見を言えずに、
陰に隠れて悪口やおかしな噂をネチネチと言う位しか所詮は出来ないですね。

自分の才覚とリスク負担でお金儲けをして社会貢献をするのが、
とんでもない悪やってハナから決めつけてる思考の人間やから、
よっぽど毎日美味しい霞を食べて生きてるんやろうなと思います。
せやから、クソ真面目な顔で何を言うても言葉が軽くて、
必死に生きてる人間の心や魂にまでは響かないんですよね(笑)


769:mespesado : 2017/08/25 (Fri) 23:11:22 host:*.itscom.jp
>>757 >>762
 私はかつて、「社会主義」と「共産主義」を次のように再定義しました:

 社会主義 …… 「資本」ではなく「労働者」を最優遇する制度
 共産主義 …… 個人が起業することを禁止し、国家が一元管理する制度

 そして、「資本主義」を「社会主義」の対立概念、「自由主義」を「共産
主義」の対立概念として再定義しました。
 そして、「資本主義」と「社会主義」ではカネよりヒトの方を優遇する社
会主義の方が「望ましい」制度であり、「自由主義」と「共産主義」では、
人間の自然な欲を規制するより自由にする自由主義の方が「望ましい」制度
だ、と書きました。
 ところがベルリンの壁崩壊後に世界で起きたことはその逆でした。
 つまり、根っこが「社会主義」であり「共産主義」は「社会主義」を実現
するための手段と割り切ったソ連とその衛星国だった東欧は崩壊し、「資本
主義」でありながら「共産主義」を採用した中国と北朝鮮は生き残った。
 また、日本国内でも、「社会主義」を理念とする「社会党」は消滅してそ
の生き残りであった「社民党」も今や泡沫政党でしかなく、一方で「共産党」
の方は、アンチ自民党の受け皿として存在感を高め、今や「野党第1党」で
あるといわんばかりにしっかり生き残っています。
 なんでなんだろう?と考えてみると、「社会主義」で優遇することにした
「労働者」なるものが、実は結局西尾さんの言われる

> 自分の才覚とリスク負担でお金儲けをして社会貢献をするのが、
> とんでもない悪やってハナから決めつけてる思考の人間

のことに他ならなかったからなんですね。つまり、主として科学技術の進歩
によって世界中の国家が豊かになるに従って、金持ちに対するルサンチマン
をくすぐるために彼らを持ち上げたことの欺瞞の化けの皮が剥がれてしまっ
た、ということなのでしょう。
 これに対し、生粋の「共産主義」国家の方は、国力を強めるための手段と
して産業を強力な指導力を国家が発揮することが、国家によっては奏功する
ことがあるから今日でも生き残っているのでしょう。
 人類にとって、科学技術の進歩に続いて必要なことは、ウジウジした妬み
の心であるルサンチマンを捨てることなのかもしれません。

by めい (2017-08-26 06:01) 

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