「紅花染め教室」(2) 紅花うんちく [紅花]
明治になって赤の染料としてアニリンが入ってきて紅花は衰退の一途を辿る。ただかろうじて伊勢の御遷宮に際しての調度品新調の伝統がその命脈を保たせた。しかしそれも昭和16年以降姿を消す。紅花の栽培、紅花餅(はなもち)製造は、戦後はほんのわずか山形市漆山の数軒の農家で行われていただけだった。山形における紅花生産の役割は紅花餅出荷までで、実際の染めを行うのは京に届いてからのことだったが、その染めの技術もすっかり忘れられていた。それを苦心惨憺の末復活させたのが米沢の中学教師鈴木孝男(昭和2年生)だった。そこには鈴木自身の情熱もさることながら、妃殿下時代からの皇后陛下の紅花に寄せる並々ならぬご関心がその情熱の大きな支えであったであろうことが、年表からうかがえる。
鈴木孝男氏の父鈴木弥太郎は、東根市出身でかつて紅花を栽培していた家で育ち、染織関係の教育者(東村山郡立染織学校)であった。孝男氏は父の影響で紅花に関心を持つようになり、父の実家の土蔵の中で200粒ほどの紅花の種を発見したことから本格的な研究に取組むようになる。私が鈴木孝男という人を知ったのは高校1年の時だったと思う。というのは、年表に《昭和38年・指導する米沢二中香華クラブ紅染研究作品が第7回日本学生科学賞「学校賞1位」に入賞》とあり、当時米沢二中の3年生でクラブ員のひとりが私の一学年下の従妹だった。山形新聞でしばしば取り上げられ、そのたびに登場していたのを覚えている。その従妹は、2年前に天皇皇后両陛下が河北町の紅花資料館においでの折、招かれて皇后陛下にお会いした4人のひとりになる栄に浴した。その時の記事があった。
その従妹に 感想を聞いたが、年表でも見る通り、皇后が皇太子妃殿下、自分が中学生という時代からの何度かの交流であり、さほどの感慨もなく淡々とその時のことを語ってくれたのにかえって驚いたことだった。
もうひとつ、鈴木氏の紅花研究を支えた妻の弘子さんが赤湯の裁判官の娘さんで、鈴木先生に嫁ぐとき、きもの商売だった私の母親が嫁入り衣装の仕事をさせてもらったと聞いていた。その中に紅花染めのきものもあったということで、年表の《昭和42年・明治100年を記念し,紅染めの打ち掛完成》とありその打ち掛か。私の家内の最初のピアノの先生だったという縁もある。
外(よそ)のみに見つつ恋せむ紅の末摘花の色に出でずとも (よみ人しらず『万葉集』)
知られずに遠くから思いつづけよう、紅花のように色に出さずとも。(私の恋は実らなくとも、あの人を見ているだけでいいんです。)
人しれず 思へばくるし紅の末摘花の色にいでなむ (よみ人しらず『古今集』)
わが胸ひとつに秘めているのはつらいから、いっそこの思い、はっきりと態度に出してしまいたい。あざやかな色を生み出す紅花のように。
なつかしき色ともなしになににこの末摘花を袖にふれけむ (光源氏『源氏物語』)
親しみのある色でもないのに,どうしてこの末摘花に袖を触れてしまったのだろう(契りを交わしてしまったのだ)
○ 古来「紅一匁と金一匁の値段が同じ」と言われてきたが、現在は?
・金 4,880円/1g(6/22) 紅花餅 36,000円/1kg(山形県紅花生産組合連合会)
・紅含有量は紅花餅の0.5%(1g 採取するのに紅餅200g必要)。紅1gは ? 円。
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