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「置賜力」を考える  [メモがわり]

「置賜力」を考える     

南陽市更生保護女性会 平29.4.21 於 えくぼプラザ 

はじめに

○「置賜力」

山形県産の清酒をGI(地理的表示)指定まで高めたレジェンド的存在である山形県工業技術センター所長
小関敏彦さんが置賜出身であることを知った驚き(昭和31年、川西町大塚生れ。米沢興譲館高を経て新潟大学農学部農芸化学科卒)。

吉本隆明が米沢高等工業卒であり、井上ひさしが小松生れであり、ますむらひろしが米沢生れだった!

 

置賜観の転換

○上杉でなく伊達の視点への発想の転換(小川弘先生に聞いた「伊達遺風一掃政策(伊達事=悪い→「だで」「だでごど」の語源)」)

興譲館中学校校歌作詞/五十嵐力
 作曲/弘田竜太郎)

盆地米沢狭けれど
山には飯豊、吾妻山/川には松川、鬼面川/前には武道の不識公 /後には文道鷹山公 /自然に祖先にめぐまれし/
この恩寵を忘るるな /
興譲中学、興譲中学、学生我等」

・宮内中学校旧校歌 (作詞/結城哀草果 作曲/久木原定助)

南に開く国原/吾妻嶺と呼び合う飯豊/置賜は四季美しく/青ぞらにいらか輝き/晴れやかにサイレンひびく/学校は知徳満ち満つ/来よ、来よ、来よ/共に学ばん」

置賜人にとっての置賜観を変えたNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』1987

伊達政宗が愛して止まなかった置賜25歳までこの地を拠点として成長した伊達政宗は、秀吉により岩出山への移封を余儀なくされた。それから23年を経た慶長19年(1914)、徳川幕府の命により越後高田城築城総裁として出向の帰途、次の歌を残している。)

   故郷は夢にだにさえ疎からず現になどかめぐり来にけん

  (夢に見ることしばしばであった故郷置賜、その地にいまこうして足を踏み入れるときが来ようとは)

  越方の思い旅寝のふるさとに露おきまさる草枕かな

  (越後での築城の工事を終えての帰途、思い出の故郷での旅枕にしきりに涙があふれてなりません)

  ある時はあるにまかせて疎けれど無きあとを訪う草枕かな

  (この地に居たときは在ってあたりまえと思っていたことも、この地を離れて旅人として来てみると、

   在ったものが無くなってしまっていることの何という切なさよ)

○置賜に於ける寺社山岳配置の妙の発見

○「21世紀、置賜は世界の中心となる!」1991

○直江兼続が主人公のNHK大河ドラマ『天地人』2009

○「江戸時代の2000藩主の中でぜひ大河ドラマに取り上げてほしい藩主・上杉鷹山公」(磯田道史・林修/2016

 

NHK大河ドラマ、置賜関連

○主役  1969『天と地と』上杉謙信(石坂浩二) 1970『樅の木は残った』原田甲斐(平幹二朗)1987『独眼竜政宗』伊達政宗(渡辺謙) 2009『天地人』直江兼続(妻夫木聡) ?.上杉鷹山公

○その他  1964『赤穂浪士』 上杉綱憲山内雅人千坂兵部(實川 延若)色部又四郎(野々村潔)小林平八郎(芦田伸介)1980『獅子の時代』 雲井龍雄(風間杜夫)  2002『利家とまつ』 前田慶次郎(間竣→村上雄太→及川光博)

 

イザベラ・バード『日本奥地紀行』(明治11年 1878

《米沢平野は南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、全くのエデンの園である。田畑は鋤で耕したというより、鉛筆で書いたように美しい。米・とうもろこし・煙草・麻・藍・大豆・茄子・くるみ・柿などを豊富に栽培している。実り豊かな微笑する大地であり、アジアのアルカディヤ(桃源郷)である。彼らは葡萄・いちじく・ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である》

 

錦 仁著『宣教使堀秀成 だれも書かなかった明治』三弥井書店 2012.12

《山形県で体験した興味深い出来事を紹介しよう。帰り道の(明治十五年1882)十一月十五日、朝食をとるために南陽市赤湯の高嶋要助家に立ち寄った。休んでいると、隣室から「古今集の会読といふことするこゑ」が聞こえてくる。興味をおぼえて、仲居の女に歌をもたせて送ってみた。「へだてゝはいとゞゆかしく思ふかなことばの花のかをりもれきて」。すると、その女を介して、「やさしくも高きあたりにつたへけむかをりもあらぬ松のあらしを」と返してよこした。秀成の「ことばの花のかをり」に、「かをりもあらぬ松のあらし」と応えている。「やさし」は、恥ずかしいの意。おのれの分をわきまえた謙虚な歌である。/会ってみると、五十歳と三十歳ばかりの三人であった。「自分たちは、ここより二、三里ほどの片山里に住んでおります,教えてくれる先生もいませんが、温泉に入りながら夜も昼も『古今集』を読んでみようと思いたちまして、おとといから泊まっております」という。そして、「私たちの志を汲んで、二、三日お泊りになって教えてくださいませんか」と頼んだが、秀成は急ぐ旅ゆえとことわった。/この旅館は今の「御殿守旅館」であろうと思われる。昔は米沢藩主上杉鷹山の別荘であった。ここに泊まるのは一般に上客だから、かれらは地方の有産・知的階級と思われる。刈り入れが終わって骨休めを兼ねてやってきた村長クラスの農民だろうか。いずれにせよ庶民階級に属するといってよいだろう。「古今集」は、明治十五年の山形の「片山里」の人々にも愛好されていたのである。・・・江戸時代からの風流な文芸・文化がそのまま生きていたのである。/都の文化は東北の片田舎にも広く浸透し定着していた。秀成はそういう東北をも体験したのである。》(309p

 

安達峰一郎から師齋藤篤信への送辞  明治171885)年310

《斎藤馬陵先生米沢ニ帰ルヲ送ルノ序

我が皇国ハ山水明美、其ノ巍然トシテ高キ者、汪然トシテ深キ者ハ百ヲ以テ数フ。其ノ東北ニ於テ高キ者ハ月山ヲ宗トシ、深キ者ハ藻江(最上川)ヲ主トス。而(しこう)シテ中洲(村山地方)ヨリ甚ダ遠シ。已ニ遠クシテ高ク其ノ神、安(いずく)ンゾ霊ヲ得ザラン哉。月山ノ南十数里、地愈々(いよいよ)高ク、山益々峻(けわ)シ。水明カニシテ益々駛(はや)シ。其ノ峻ニシテ南方ニ聳絶(しょうぜつ)スル者、吾妻ノ山、大日ノ嶺。北方ニ横えん(土偏に延/広く横たわる)スル者ハ朝日ノ岳、蔵王ノ峯、其ノ汪(おう/満々と)トシテ北方ニ駛流(しりゅう)スル者ハ最上ノ川。南方ニ奔馳(ほんち)スル者ハ羽黒ノ川。是レ米沢地方ヲ為ス也。我国ノ高明ノ気、是ニ於テカ窮マル。気ノ窮マル所ニシテ、其ノ山水ヲ発セザル。必ズ欝積(うっせき)シテ秀聳(しゅうしょう)ス。蜿蜒(えんえん/蛇のうねりのごとく)トシテ磅礴(ほうはく/広大であること)。月山ノ高キ、藻江ノ深キ、已ニ霊ニシテ米沢ノ洲ヲ為ス。又我国ノ高明ノ気ニ当タリ、蜿蜒ニシテ磅礴、欝積シテ秀聳スル山水ノ所産、霊気ノ所感、金銀銅砂ノ属、千尋ノ良材、繭絲(けんし)ノ包、豈(あ)ニ独リ之ニ当ルヲ得ン哉。意(おも)フニ必ズ忠信魁奇(かいき)材徳有ルノ人ハ其ノ間ニ生マルル也。我ガ斎藤馬陵先生ノ如キハ、殆ンド其ノ人カ。先生ハ出羽ノ人。器度磊落、風采ハ雅潤藹然(あいぜん/おだやか)。其ノ容ハ淳然。其ノ言ハ能ク人ヲ動カス。面シテ最モ文書ヲ工ミニシ、遒美(しゅうび/美に迫る)秀逸、一世ヲ推倒(圧倒)ス。米沢侯ニ事へ、戊辰ノ役ニ軍務参謀ト為ル。後ニ教部省ニ官トナル。師範学校ト為ルニ及ビ、生徒ヲ教授スル懇々切、学政大イニ革マル。今ニ至ルヤ年老イタルヲ以テ先生ヲ辞職シテ帰ル。嗚呼盛ンナル哉。予知ル、峻ナル者ハ益峻、明ナル者ハ益明ナリ。嫣然荅(土偏)、笑ヲ以テ先生ヲ迎フル也。是ニ於テカ、之ニ先ンジ、巧ナル所益巧、能ナル所益々能ナリ。他日文柄(学問上の権力)ヲ中原(天下の中心)ニ執チ、以テ山水ノ欝積スル所ヲ舒トスル(解きほごす)者ハ先生ニ非ズシテ誰カ。予其ノ時ニ於テ嘉果(結果するよろこび)如何ナル哉。予ヤ先生ノ恩ヲ蒙(もう)シテ久シ。別レニ臨ミ寧ンゾ一言無ガル可ケンヤ。即チ之ヲ記シ、謹ンデ先生ノ行ヲ送ル。

  明治甲申十七年春三月十日     中学四級生 安達峰一郎再拝具》

 

斎藤篤信(1825-1891

 米沢城下の花岡町に米沢藩侍組斎藤庸信の長男として生まれる。家禄は300石。嘉永3年(1850)7月、25歳で興譲館勤学兼助読となる。文久元年(1861)7月、糠野目砦将となり屋代郷一揆に対処した。慶応4年8月の戊辰戦争では越後口に出陣、長岡城の戦いで大隊長、参謀仮総督として奮戦。米沢藩の降伏の使者として新発田の官軍本部に赴く。明治2年8月、明治政府の待詔院下院に出仕し、藩学校総係(総監、今の校長)。明治12年2月、山形師範学校初代校長。明治17年2月、校長を退任。明治18年、文部省御用係、学習院教授補を歴任。明治241012日死去。享年67歳。篤信は「とくしん先生」と愛称され、性格は剛直謹厳、文章を得意として、藩内随一の名筆家と謳われた。文武両道にすぐれた良き指導者。米沢市城南にある常安寺には、篤信の記念碑がある。

 

安達峰一郎(1869 - 1934年)

 山辺町生れ。日本の外交官・国際法学者。アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長となるが、所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年1228日にアムステルダムの病院で死去した。このときオランダは国葬の礼をもって、国際平和に尽力した多大の功績と栄誉を称えた。ヨーロッパでは「世界の良心」として讃えられている。

 

置賜には、まっとうな「アジア主義」の源流がある(雲井龍雄、宮島誠一郎、曽根俊虎、宮島詠士、遠藤三郎・・・)

 

置賜はくにのまほろば菜種咲き若葉茂りて雪山も見ゆ  結城哀草果

1-長谷観音.jpg 宮内長谷観音 結城哀草歌歌碑(昭和34年建立)

 

1-飯豊 春.jpg 宮内 内原地区から飯豊連峰を望む  

 

置賜神社山岳相関図

置賜寺社山岳相関図.jpg


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花咲か爺さん

置賜が育んだ江戸後期からの偉人方をつぶさに学習したり、著名なルポライターの紀行文に会ったりする時、此処に生をうけた在郷の一人として絵も言えないプライドを感じます。

そしてそれが、残雪に輝く山並みを近隣の新緑萌える里山越しに眺め渡すことが出来たときは、本当にわくわくさせられます。

そんな時、思うのです
ああこの眺望が、世界的デザイナーや世界の良心と呼ばれるかの博士の感性に作用したに違いないーーと!
by 花咲か爺さん (2017-05-05 07:48) 

花咲か爺さん

山形県は太古の昔には三つの巨大な湖だったと言う説がある。 一番上は、置賜盆地となり、その名残りがいまの南陽市に在る白竜湖で、その姿は風前の灯火そのものにあると言えよう。

二番目は、大江寒河江地区の名称にある通り、R287をまるで串刺しの串にした様に左右に流れを変えながら悠然と幾重にも蛇行する姿を底とした村山盆地なのではなかろうか。

そして、どんなに日照りが続こうが決して水の流れを 絶やしたことがない観光の名所古口を底とする最上 盆地が最後の湖を形成していたのであろう。

ここで、置賜力の凄さが見えてくる。
一つの県内を南から北に流れる川はまことに珍しく、しかも、三大急流と呼称されるには、先述の三つの湖にそれなりの標高差が有るということになる。 実際置賜地区の最北端荒砥と村山左沢迄のそれは80メートル有り、鉄道も高速道路も造れない長い長い、朝日連峰と出羽丘陵に挟まれた五百川渓谷を縫うように流れている。

伊達ー最上により酒田を介して、産物交易の本流を築いてきた最上川舟運の歴史を大きく開いたのは、言わずもがな徳川上杉の御用商人西村久左エ門社中が、ここで登場する。
白鷹町菖蒲地区には、置賜湖の尻を留めていた高さ3メートル以上長さ50メートルに亘る巨大な岩盤で構成された黒滝を人力で開削した、巨大治水事業の歴史遺産が、あまた現存する。

事業が余りに巨大でスケールが大きい故に、地域に残る口伝としては、滝を巨大な龍に喩えたり、秋田の金鉱職人の鑿から出た火花を稲妻に見立てたり、当時は実際に使われていた舟留め磐や錨石は子供らの水浴遊びとなっていた位である。

いづれにせよ、黒滝は、昔から松川と呼称され
盆地の北ハズレに位置しており、水中歴史遺産としては世界的価値が有るにも関わらず、研究の俎上にもいまだ上がっていない有り様のようでございます
by 花咲か爺さん (2017-05-06 15:17) 

めい

「花咲か爺さん」さん、いまコメントに気づきました。いつも読んでいていただいて恐縮です。

《置賜湖の尻を留めていた高さ3メートル以上長さ50メートルに亘る巨大な岩盤で構成された黒滝を人力で開削した、巨大治水事業の歴史遺産》!

あらためて認識を新たにさせられます。貴重な文章、ありがとうございました。
by めい (2017-05-18 06:19) 

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