農家伍什組合掟書屏風 [上杉鷹山]
今度改て五什并近隣五ヶ村の組合被 仰出(おおせいでられ)候、
五人組ハ常々むつましく交て、苦楽を共にする事家族のことくなるべし、
十人組ハ時々親しく出入りて、家事をも聞事親類のことくなるへし、
一村ハ互に助合、互に救合の頼母しき事朋友のことくなるへし、
組合ハ患難に当て互に助て隣村よしみの甲斐あるへし、
そこで新たにあらためて伍什組合ならびに近隣の五ヵ村組合を設けることとする。
五人組は、常に睦じく交わって苦楽を共にすること家族のようでなければならない。
十人組は、時あれば親しく出入してお互い事情を理解しうこと親類のようでなければならない。
ひとつの村では互いに助け互に救い合ってその頼もしさは友人のようでなければならない。
五ヵ村組合の村同士は苦難にあって相互に助け合い、隣村同士のよしみの甲斐あるようでなければならない。
此通組結て交へく候、老て子なくいとけなくして父母
なき、或貧にして養子に疎く匹偶(ひつぐう)に後るる、或片輪にて
身過の成かたき、或病気取扱の行届かたき死して
葬をなしかたき、又ハ火難に雨露を凌かたき變災に逢て
其家の立かたき、斯る難儀かかるよるへなきものあらんには、
このようにそれぞれ組ごと絆を強くして交流し、老いて子がなく、幼くして親がない、あるいは貧しくて養子得難く連れ合いに先立たれ、あるいは身体の不自由ゆえ身過ぎままならず、あるいは病気治療行き届かず、死んでも弔いなしがたき、または火事にあっては雨露しのぎがたき、変災に遭っては一家立ち行き難き、かように難儀いかようにもし難きものがあるならば、
其五人組身に引受ての養介たるへく、五人組にて届かたきハ
十人組より力を合、十人組の力に及かたきハ一村の救に其難儀を
除き、其生涯を其相応に遂しむべく候、扨隣村若大難の事
あり其村やかて立かたきにも至へきといふ程の事
ならハ、隣村のよしみ何そ余所に見て過へき四ヶ村の頼母しき救あるへし、
まずは五人組がわが事として世話致し、それで及ばぬ事あれば十人組が力を合わせ、それで及ばねば村での世話で難儀を除き、その生涯それ相応無事のうちに遂げしむるようにしなければならない。さらにそれ、もしも一村大なる災害に襲われその村立ち行き難きほどの危機に際しては、近隣の村はよそ事として傍観することなく、かかる時ほど近隣のよしみ、四ヵ村頼もしく救済にあたらなくてはならない。
善をすすめ悪を戒め倹をまもらせ奢を制して其天職を
勤しむるか、五什組合の頼母しき務たるへし、若耕作業に
怠るもの、或天職に違て末業にはしるもの、又ハ歌舞伎・
狂言・酒宴・遊興に流れ、博奕(ばくえき)賭の勝負を事とする
類のものあらハ、伍中おのおの教訓をほどこし、
善を勧め悪を戒め、倹約を守らせ贅沢を抑えてそれぞれその天職にいそしむようにすることが五什組合本来頼もしき務めでなければならぬ。自分の天職を捨てて本来ならざる業にはしる者、また歌舞伎、狂言、酒宴や遊興に耽る者、博打や賭事をなす者あらば、まずもって五人組で教えさとし、
異見を加へ、若々改めすんハ十人組に告て異見せしめ猶も改
さるに至てハ、ひそかに村役に達して其扱を受くへし、
右通被 仰出候間頼母しき組合を立て、村々戸々永く相続いたすへき也
享和元年二月 中條
莅戸
それでかなわねば十人組で意見をし、それでもわからぬに至っては、ひそかに村役にまで相談の上、上からの相応の処分を待つとすべし。
右の通りであるので、頼りがいのある組合をつくることで、村々家々永く続けることができるように。
享和元(1801)年二月 中條(至資)
莅戸(善政)
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この掟書については内村鑑三『代表的日本人』でも、《最も重要な階級である農民には「五什組合の令」を布告した。これには鷹山の考える理想国家が如実に表されている》として、「棒杭市」と共に感動的に取り上げられている。
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この布告には役人の形式主義がまったく見られない。しかも、鷹山の米沢藩以外に地球上のどこかで、このような布告が出されて、その通りに実施されたという話は聞いたことがない。アメリカにおける農業組合は、産業組合に他ならず、その主な目的は利得である。鷹山の農民組合にあたるものを挙げるならば、使徒たちが作った初代教会にまでさかのぼらなければならない。
鷹山は、廻村横目や教導出役、いろいろな学校やさまざまな「教示」により、そして特に自らが範を示すことで、15万人からなる藩を、徐々にしかし着実に自分の理想のかたちに近づけていった。それがどこまで成功したかは、「聖人の治世」を見聞するために米沢藩を訪れた著名な学者、倉成竜渚が記述した文章の、次のような抜粋からうかがえる。
「米沢には『棒杭の商い』(正札市)と呼ばれるものがある。人里離れた道の傍らに、草履、草鞋、果物、その他の品々が値札をつけて棒杭にぶら下げてある。持ち主はそれを見張ってはいない。人々はそこへ行き、値札通りの金を置き、品物を持って帰る。こういった市場で盗難が起こるとは誰も思っていないのである。
鷹山のもとでは、最も位の高い重臣が一番貧乏である。莅戸六郎兵衛(善政)は筆頭家老で、だれよりも藩主の愛顧と信頼を得ている人物である。しかしながら、その暮らしぶりをみると、衣食は貧しい学生と変わらない。
藩内には税関もなく、国境には自由な交易を妨げるものは何もないが、それでいて密輸が企てられたことはない」。
これは、いつの世とも知れぬおとぎ話の世界の夢物語などではない。ここに記したことはわずか100年足らず前に、この地球上の誰もが知っている土地で実際にあった出来事である。たとえ、このようなことを行わせた偉大な人物の時代の現実が、今は現実でなくなっているとしても、後世への影響は、それらが行われた土地と実行した住民の中に、確実に読みとることができる。(114-116p 内村鑑三『対訳 代表的日本人』講談社2002)
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われわれが関わった平成18年の菊まつりで「棒杭市(ぼっくいいいち)」の場面をつくった。その前に「棒杭の商い中」ののぼりを立てて、食用菊やりんご等を並べた無人直売所を開いた。翌年から米沢の「鷹山公まつり」でも始めて現在に至っている。菊人形場面と説明文を載せておきます。
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「棒杭の商い」
ある日、鷹山公が遠乗りに出かけた時のことです。
街道の途中に数本の棒杭が立ち、おにぎりや野菜やわらじなど
暮しや旅の必需品が入ったざるが吊るされておりました。
中には売上金らしいお金も入っています。
鷹山公が側近の佐藤文四郎にたずねました。
「だれも盗まないのか。」
文四郎が答えました。
「はい。地元の者はもちろん、旅の者も誰ひとり品物や金を盗むものはいません。
公は潰れかかった藩を立て直しただけではなく、人の信じあう心も甦らせたのです。
もう棒杭にさえうそをつかないのです。」
今でも置賜のあちこちに無人販売所が見られるのは鷹山公の功績が今もこの地に息づいているからにちがいありません。
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