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元陸軍中将・遠藤三郎(毎日新聞 山形版)(5) 取材を終えて [遠藤三郎]

取材を終えて.jpg

毎日新聞山形版に5回にわたって遠藤三郎元中将が紹介された。画期的なことだ。『将軍の遺言』によって広く遠藤三郎の名を世に知らしめた宮武剛氏も毎日新聞記者だった。今の日本を憂いて遠藤三郎の魂が動き始めている、そんな気がする。今こそ注目されねばならない人にちがいない。

連載の3回目731部隊との関わりをつらい気持ちで読んだ。その場に臨まずしてはわからぬ必然というものがある。そこを離れての批判はだれにでもできるし、それはそれだ。日本がソ連の兵力を凌ぐには強力な細菌兵器の開発と実用化が急務であった。自軍の兵の命を預かる責任ある立場にあって、そのことに躊躇っている余裕はない。そうしたもろもろのつらい体験から逃げることなく真摯に向き合った上に戦後の遠藤三郎は在る。そのことの重みをかみしめたい。


731部隊の石井四郎部隊長が秘かに遺した戦後日記をめぐる報道番組があった。

石井隊長の戦後1 - YouTube 

石井隊長の戦後2 - YouTube

石井隊長の戦後3 - YouTube

占領軍に研究データを渡す取引によって戦犯の罪を逃れたとされる。しかし見て思ったのは、石井隊長にとって「部下を守る」ことこそが第一義であったのではなかったかということだった。石井隊長ひとりの罪で終ることではなかったはずだ。とりわけ戦時の緊迫した中で、ひとりひとりの人間は二義的である。その場の必然(吉本隆明の言う「関係の絶対性」)を離れてその人を判断することにストレートであってはならない。「戦争という場」そのものを否定することだ。石井四郎との交わり、細菌戦に臨む現場体験、そうした自らの体験を踏まえての遠藤の「軍備亡国」論であったことに深く思いを致したい。この記事の末尾に『元陸軍中将遠藤三郎の肖像』の731部隊関連部分を転載しておきます。

 

「正直者上策也」遠藤三郎.jpg

連載最終回に「取材を通じて、各地に遠藤を慕う人たちがいることを知った。」とある。そのひとりに詩吟の平謙雄先生(昭和5年生れ)がおられる。先生に遠藤中将についてご存知かどうかお訊ねしたところ、ちょうど朝鮮戦争(昭和251950)の頃に遠藤元中将に会われた体験を思い起こして下さった。置賜農業高等学校玉庭分校勤務の時代、学校で使う用紙の販売に遠藤元中将が回っておられたのだという。生活の足しに商いをやられていたのかどうか、あるいは物のない時代、いくらかでも地元の教育のために役立ちたいという思いからの行為であったのか。その頃のことを日記で確かめてみたくなった。

 

その日記、今は埼玉県狭山市に寄託されてある。年ごとに閲覧希望者が増えているものの十全な管理とは言い難いとも聞く。http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000018339 それなら川西町がその任を引き受けてはどうか。どんな偉人でも生涯を閉じた場所は時代とともに人々の記憶からうすれてゆくが、偉ければ偉いほどその生地は輝きを増す。ちなみに井上ひさし氏の小説『一分ノ一』の主人公の名前は遠藤三郎。ただし井上氏、遠藤中将に特に思い入れはなさそうで、名前だけちょっと借用という感じ。井上氏にとっても気になる人ではあったにはちがいない。


最終回、転載させていただきます。毎日新聞さんにはなんとか全国発信をお願いしたい。

 

元陸軍中将・遠藤三郎 取材を終えて 戦前戦後のギャップに戸惑い 青年将校時代、軍縮知る /山形

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 元陸軍中将・遠藤三郎は1941年、当時英領だったマレー半島上陸作戦を指揮して成功させるなど、数々の武功を重ねたエリート軍人だ。だが、戦後は軍備全廃や反戦に転じ、日中友好に奔走した。このギャップに私は戸惑った。

 「それを知る鍵は、青年将校時代にあります」と指摘したのは、近現代史研究家の吉田曠二(ひろじ)さんだ。26年10月、遠藤はパリに駐在武官として着任。自由な気風を満喫し、ジュネーブ海軍軍縮会議(27年)に随行。850万人以上の戦死者を出した第一次世界大戦の後で、軍縮の機運が盛り上がった時期だった。その後、最終的には世界から軍備をなくす軍縮案を立案し、陸軍に提出したという。

 だが、陸軍幼年学校からたたき込まれた帝国軍人の精神が遠藤の行動を徐々に支配していったのではないか。遠藤が記した当時の日記からは、戦争に勝つ大命題にまい進していく姿が読み取れた。

 敗戦の衝撃は大きかったに違いない。8月15日の日記には「声涙共に下るを如何(いかん)ともなし得ざりき」と刻んでいる。その後、トルストイ、ガンジーの非暴力思想に共感し、軍備亡国論につながっていった。「日中友好も非戦の誓いからだと思う」と語るのは、元毎日新聞記者の宮武剛さんだ。

 遠藤の妹と親しかった米沢市の遠藤宗三郎さん(75)方には、遠藤が書いた色紙が残っている。「正直者(は)上策也」と読む。謀略などの邪道を嫌ったとされる作戦家の言葉とも読めるが、戦争を生き抜いた遠藤の反省だけでなく戦後の生き方を含めた人生訓ではなかったろうか。

 現在、川西町でも遠藤を知る人は少ない。だが、取材を通じて、各地に遠藤を慕う人たちがいることを知った。長女の光橋静枝さん(86)=横浜市=が「子供の頃、勉強家だった父はピカピカ光って見えました」と話すように、正しいと思ったことには批判に動じることもなく、全力投球した行動の人だったと感じた。【佐藤良一】=おわり

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吉田曠二著『元陸軍中将遠藤三郎の肖像』(すずさわ書店,2012年)から、731部隊についての節を転載させていただきます。


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第9章 関東軍の対ソ作戦=永久地下要塞の構築(19331936)

5 遠藤三郎、第七三一細菌戦実験部隊を視察

 すでに「満洲国」内では、ハルピン郊外の平房に第七三一部隊が誕生し、最初は陸軍防水班の名目で活動していたが、漸次、その部隊組織が細菌戦開発部隊に変貌していった姿は各種の文献であきらかになっている。一九三〇年代当時、関東軍はどのような理由で、細菌戦兵器の開発を急いだのか? その当面の重要な軍事目的は、対ソ戦争に勝利するためであった。将来の日ソ戦争に備えて、参謀本部では、各種の対ソ作戦要領が立案された。それを見ると、当時の関東軍と極東ソ連軍の軍事力は一九三四年から、一九三六年を境に急速にソ連軍が優勢になりはじめている。例えば、一九三六年の陸軍省の発表したソ連軍と日本軍の平時兵力比較では、ソ連軍は正規軍と民兵軍を合わせると総兵力約百六十万で、日本軍約二十五万、ソ連軍の戦車四千台以上と飛行機は四千機以上、日本軍は飛行機約一千機、戦車二隊という状況であった(陸軍省『日露戦役の回顧と我等国民の覚悟』四五〜四六ページ)。当時の関東軍にとって、その劣勢は如何ともなしがたい現実であった。その戦略的な対抗策(救済策)として、参謀本部も陸軍省も、関東軍もともに強力な細菌兵器の開発と実用化が急務とされた。なぜなら、その新兵器が登場すれは、航空兵器と戦車部隊の劣勢を切り開くエースの切り札と期待されたからであろう。中央では参謀本部が最初にその対策に乗り出した。日本国内ですでに一九三二年四月以来、軍医学校内部に「防疫研究室」と称する細菌研究施設が設立され、その研究の提案者である石井四郎軍医学校教官を特別任務のために渡満させ、最初はハルピン郊外南東七〇キロにある背陰河(ペィインホー)に防疫特務機関をつくらせたのがそのはじまりであった。勿論、この機関は関東軍の直接の関与の下にあり、関東軍の石原莞爾大佐や後には遠藤三郎中佐ら高級参謀もその任務を担当した。

 後年、遠藤三郎はこの行動を反省し、その自伝『日中十五年戦争と私』(日中書林)の中で、当時の状況を次のように説明している。

   一九三二(昭和七)年私が関東軍作戦主任参謀として満洲(現東北)に赴任した時、前任の

  石原莞爾大佐からぷ”極秘裡に石井軍医正に細菌戦の研究を命じておるから面倒を見てほしい”

  との依頼を受けました。寸暇を得てその研究所を視察しましたが、その研究所は哈爾浜、吉林の

  中間、哈爾浜寄りの背陰河という寒村にありました。高い土塀に囲まれた相当大きな醤油製造

  所を改造した所で、ここに勤務している軍医以下全員が匿名であり、外部との通信も許されぬ気

  の毒なものでした。部隊名は「東郷部隊」と云っておりました。被実験者を一人一人厳重な檻

  に監禁し各種病原菌を生体に植え付けて病勢の変化を検査しておりました。その実験に供され

  るものは哈爾浜監獄の死刑囚とのことでありましたが、如何に死刑囚とはいえまた国防のためと

  は申せ見るに忍びない残酷なものでありました。死亡した者は高圧の電気炉で痕跡も残さない

  様に焼くとのことでありました。(遠藤三郎『日中十五年戦争と私』一六二ページ)


 この一文は遠藤が戦後に回想したものであるが、やはり細菌実験の行われた現場の陰湿極まりない臨場感を伝えている。それはまさに戦争という現実か如何に人間の判断と行動を麻蝉させるものなのかを裏書きする証言でもあった。一九三二年当時、遠藤はこのような絶対極秘的な細菌兵器の研究のために、先輩の石原大佐から面倒を見てもらいたいと依頼された。その研究費は「機密費の二十万円」であった。当時の二十万円は地下要塞建築予算六百十六万円余よりも安上がりであったが、今日の貨幣価値に換算すれば一億円以上に相当する。遠藤はそのような大金を研究開発に利用する立場に立つことになった。このような任務を与えられた遠藤は人体実験に供される人間に対して、いささかも罪の意識を感じなかったのだろうか? 後に遠藤は、人体実験は本来の軍事目的を逸脱した医学的な興味本位のもので、石井軍医正を招致して、厳重に叱責したと語っているが、遠藤が関東軍の作戦参謀であったころの日記にはその記述は見当たらない。

 以下の文章は、遠藤が関東軍作戦主任参謀とその後の同参謀副長のポストに在籍していたころの日記の引用である。彼は当時の細菌兵器実験の責任者石井四郎との会見や実験施設を視察した日の行動を次のようにその日記に記している。


  一九三二年一月二十日

  石井軍医正来リテ細菌戦準備ノ必要ヲ説明ス 共鳴スル点多シ 速々実験セシムベク処置ス

  同年九月十日

  正午石井軍医正二招待セラレ大和ホテル二行キ医師連中ト会食ス

  ー九三三年八月五日

  [長春]西公園ニテ石井式温水器ヲ見学ス

  同年七月二十八日

  昨夜半、石井軍医生ヨリ電話アリ 細菌試験ノ準備一大頓挫ヲ来セリトノ事故、実情調査ノ為、

  午前九時半出発、

  哈市[ハルビン]ニ行キ 石井軍医同乗、拉林ニ赴キ、設備ノ大要ヲ見、且実情ノ説明ヲ聞キ、

  各種ノ障碍ヲ打破シテ邁進スルヲ可トストノ判決ヲ与へ、午后三時帰宿ス

  同年十一月十六日

  午前八時半安達大佐、立花中佐ト共二交通中隊内試験場ニ行キ試験ノ実情ヲ視察ス

  第二班毒瓦斯毒液ノ試験第一班電気ノ試験等ニ各二名ツヽノ匪賊ニツキ実験ス ホスゲンニヨ

  ル五分間ノ瓦斯室試験ノモノハ肺炎ヲ起シ重体ナルモ昨日ヨリ尚生存シアリ青酸15mg注射ノモ

  ノハ約二十分ニテ意識ヲ失ヒタリ

  二万ボルト電流ニ依ル電撃ハ数回実施セルモ死ニ至ラズ 最後ニ注射ニヨリ殺シ第二人目ハ五

  千ボルト電流ニ依ル試験モ亦数回ニ及ブモ死ニ到ラズ 最後ニ連続数分間ノ電流通過ニヨリ焼

  死セシム

  夜塚田大佐ト午後十一時半迄話シ床ニツキシモ安眠シ得ズ


 この記述はこの世の地獄ともいうべき殺人の凄惨な光景の描写である。この試験場(交通中隊内)に拉致してきた人間を彼らは何度も繰り返して実験材料にし、最後に絶命するまで、その実験を中止しなかった。この人体実験は一九三三年十一月にすでに行われていたことになる。この命令は誰から発せられたのか? これは人体実験の域を超えたサディストの仕業ともいえる。身の毛もよだつ殺人の場面に何ゆえに遠藤は疑問を感じなかったのか? 日記には、その罪悪意識も記入していない。しかしこのような残虐行為は、遠藤の安眠を妨げ、精神的にも大きな負担となったことはわかる。なお遠藤はその日記に相手が「匪賊」と弁明しているが、彼ら被害者の大半は共産党員や抗日パルチザン部隊の英雄であった。昔から戦争は人間の良心や正常な判断力を狂わせた、といわれているが、今回は遠藤もまた例外ではなかったことになる。しかも精神的な疲労状態は、あの精力絶倫な石井四郎でさえも同様であった。遠藤はこの時期、背陰河にいた石井についてこう書いている。


  一九三三年十二月八日 金 降雪

  午前八時雪ヲ犯シテ飛行……午前十時十五分拉林着、石井及伊達氏ニ迎ヘラレ 背陰河ノ細菌

  試験所ヲ視察ス 六百米平方ノ大兵営ニシテ一見要塞ヲ見ルガ如クー同努力ノ跡歴然タリ 二

  十数万円ノ経費亦止ムヲ得ザランカ 細部ニ亘り説明ヲ聞キ昼食ヲ共ニシ午後二時発 自動車ニ

  テ帰路ニツキ午後六時 夜ノ曠野ヲ幾度カ道ニ迷ヒツヽモ中島大尉ノ案内ニテ哈市ニ着クヲ得

  タリ 石井ハ疲労ノ為メ発熱 一時間見舞ヒ 七時名古屋館ニ投宿ス


 これらの記述からみると、遠藤もまたその責任者として、細菌兵器の開発には、費用も二十数万円という安上がりで、しかも早期の成功をめざして、その改善を強く要請したのであろう。このころ、遠藤は北満の関東軍の地下要塞の準備に関する命令を起案したり、対ソ作戦準備を目的とする関東軍の兵力充実意見を起案したり、築城計画立案要領を作成するなど、多忙な毎日であった。それらの行動はやはり石井部隊の細菌実験の早期開発に連動した動きであったものと思われる。遠藤も疲労していたに違いないが、あの精力的な石井四郎でさえも、疲労により発熱して床に伏す有様であった。遠藤はゾ満国境を視察して、ソ連軍の兵力の増加を知り、関東軍の劣勢を挽回する起死回生の新兵翁として、細菌兵器の開発に前向きであったことは否定できない,その後、遠藤は人事異動で一旦祖国に帰還し、東京で陸軍大学の教官に就任し、盧溝橋事件後は北支の戦場にも従軍する。しかし一九三九年九月には、再び長春の関東軍司令部に舞い戻り、参謀副長としてノモンハン事件の停戦処理に尽力し、その間隙をぬって、十月には札蘭屯に行き、特殊兵器の実験を視察し、十二月には再びハルピン郊外の石井部隊を訪問した。その時期、遠藤が視察した特殊兵器とは、大砲から発射する細菌砲弾で、その実戦使用を目的にしたものであったろう。遠藤は次のようにその日記に記している。


  一九三九年十月八日

  快晴九時札蘭屯着満鉄保健温泉二投宿ス 技術部ノ斎藤少佐ヨリ演習ノ概要ヲ聴取ス

  十月九日

  九時東北方山地ニ於テ特種兵器ノ説明及実演ヲ見午后一度帰宿、午后五時半ヨリ夜間演習視察、

  一同頗ル熱心ニ実施シアルヲ見愉快ニ感ズ 但シ兵器其ノモノハ実験ノ域ヲ脱セズ実戦ニ於テ大

  ナル期待ヲナスハ危険ナリ

  十月十日

  五時起床、田坂部隊ハ既ニ出発準備ヲ整ヘアリ 六時二十五分出発 再ビ演習場ニ行ク 演習

  ヲ視察ス 十八発ヲ発射スルニ一時間半ヲ要シ又作業機ヲ障碍ナキ所二於テノミ使用シ得ルニ

  過キズ 正午終了


 この日の札蘭屯での実験は、演習場で十八発の特殊弾を大砲から発射するものであったが、その作業に部隊は一時間半も時間を費やし、ようやく終了したものの、その実験効果は期待ほどではなかったらしい。この細菌砲弾は札蘭屯の原野に打ち込まれ、その自然を破壊したに過ぎなかった。

 なおこの地方は大興安嶺の風光明媚な一角で、温泉もわき出し、秋になると紅葉が一面にひろがり、絵のように美しい保養地であった。遠藤もその日記に「大興安嶺ノ秋色」を眺めて「明ケ行ク空変り行ク山ノ色真ニ二仙境ニアルノ思ス」とその風景を絶賛している。そのような自然の原野を細菌兵器で生物か生息できない地域にしてしまう人間の愚かさ、これもまた戦争という目的が人間の判断力を狂わせた一例である。この年の九月、ノモンハンで敗北した関東軍は、対ソ戦の切り札として、細菌兵器の開発は急務であった。しかし周辺に撒き散らした細菌の防御法(日本軍兵士の感染防御)などを含め、実用化にはなお程遠い段階にあったことがわかる。それは部隊長の石井四郎の判断であり、その発言からもうかがえる。十二月十日、遠藤は最後に平房の加茂部隊を見学し、石井部隊長と面談したときの会話を次のように日記に記録している。


  十二月十日 日 快晴 零下二十一度

  ……石井大佐ノ案内ニテ平房ノ加茂部隊[第七三一部隊]ヲ視察ス 昭和八年背陰河時代ト全ク

  今昔ノ感ニ不堪 石井大佐ノ偉大ナル力ニ敬意ヲ禁ズル能ハズ 昼食ノ際高等官一同ニ希望ヲ

  述べ且背陰河時代ノ雇員一同ニ面接飛行機ヲ以テスル演習迄実施シ……夜福田氏ト会食、十時

  頃ヨリ十二時迄石井大佐ノ来訪ヲ受ク 中央部ョリ細菌ヲ以テスル攻撃ノ実行ヲ命ゼラレタル

  モ防御法ノ研究未完ノ故ヲ以テ之レガ実行ニハ不同意ナル意志ヲ漏シアリ 予モ亦同意ナリ……


 これら一連の記述は一九三二年から、三九年のノモンハン事件終了までの期間にまたがっている。その内容からは、中央部からも細菌兵器の使用について、石井四郎に指示があったことがわかる。しかしまだ石井は味方(日本軍)に細菌の防御法の研究がなお不足しているという理由で細菌戦の実用化に不同意であった。遠藤も石井のこの判断に賛成で、自分も「同意する」と発言したのだろう。しかしこの日記の記述以外に、当時の遠藤三郎が細菌戦兵器の実用に疑問を投げかけた文言は見当たらない。むしろ彼はその任務に忠実であり、石井四郎の偉大なる力量に敬意を表していることが注目される。それは満洲を取り巻く戦局が、ノモンハン事件の敗北と極東ソ連軍の強化で、一段と緊迫していたからでもあろう。

 一九三九年十二月十日、この日、遠藤は加茂部隊の野外実験場で「飛行機ヲ以テスル演習」を実施したことを耳にしている。これは明らかに、実験に提供された人体を屋外の爆弾投下地点に配置して、飛行機から投下する細菌爆弾の効果を測定する演習であったことは間違いなかろう(写真三〇三ページ参照)。この年の夏、ノモンハン事件で手痛い敗北を味わった関東軍はその年の秋から「急遽」新編成の部隊の立て直しを急いでいて、中央にも関東軍の参謀にも、積極的な攻勢でもう一度ソ連軍に一撃を加えたい、という意見が優勢になっていた。

 このような軍上層部の空気は石井部隊の活動にも波及したであろう。一説によれば、昭和天皇の軍命令で、この時期二九三九年十二月ごろ)石井部隊の再編と強化が実施されたという見方もある(常石敬一著『消えた細菌戦部隊』七二〜七三ページ、ちくま文庫)。また、石井部隊の生存者による戦後の回想記によると、ノモンハンの戦場では、八月下旬、関東軍から石井部隊に派遣されていた山本吉郎中佐が、同隊の少年隊に所属する未成年の軍属千葉和雄、鶴田兼敏(昆虫班の班員)らに命じて「日本軍の陣地に近いホルステン川上流から腸チフス菌を培養したカンテンを川水に入れ、下流のソ蒙軍に感染させる計画を実行した」という。この計画は八月下旬、深夜にトラックで投入地点を調査し、二台のトラックに乗った隊員が三回に分けて十八リットル入りの石油缶を投入地点に運び、一、二回目はトラックが湿地にはまり込んで失敗したが、ようやく三回目に成功したという。しかしソ連軍の将兵は生水を飲まなかったので何ら効果はなかった、と千葉和雄氏が証言している(「朝日新聞」一九八九年八月二十四日付「ノモンハン事件に『細菌戦』の証言」より要約)。

 なお、遠藤はこのような作戦の直後にノモンハンの戦場に到着したが、それでも当時の遠藤は指導的な立場に立つ日本陸軍の軍人であった。その立場に立てばやはり対ソ戦争には何が何でも勝利せねばならない責任があり、背に腹は代えられない重圧から細菌戦兵器の開発と実験には、狂人と紙一重の心境にあったのであろう。戦後、彼は石井四郎(※3)の人間性についても回想し、石井の肉体には仏と悪魔がともに共存していたと語っている。それは第七三一部隊の関係者だけでなく厳しい戦場にいる日本軍指導者にありがちな仲間意識ではなかったかと思われる。一九三九年末の段階では、これ以上の対ソ攻撃は無謀だと遠藤は強く反対したが、そのような遠藤でも第七三一部隊の人体実験には反対できなかったということになる。


石井四郎(一八九二〜一九五九)

 陸軍軍医中将。第七三一部隊創設者で部隊長。千葉県山武郡千代田材の地主の四男として生まれる。京都帝国大学医学部卒業後、陸軍の委託学生となり、同帝国大学大学院を経て一九二七年、防疫学についての論文で医学博士となる。一九二八〜三〇年まで、ヨーロッパを視察し、細菌兵器の開発を学び、帰国後、直ちに日本も細菌戦の研究をするように軍の幹部を説得した。同年八月、陸軍軍医学校教官となり、防疫研究室の責任者になった。一九三一、年、満洲の背陰河に部隊を設け、一九三六年に関東軍防疫部が設置されると、初期にはその要職を二人の兄を含む同族縁故関係者で固め、「特移扱」(マルタと称した)の人間に対して人体実験など非人道的行為を敗戦まで継続した。戦後GHQとの闇取引きにより、戦犯訴追を免れて、その罪を問われないまま六十七歳で死去した。(七三.研究会編『細菌戦部隊』巻末用語解説参照松村高夫監修・晩聾社刊)


6 第七三一部隊長、石井四郎の肖像

 遠藤と石井四郎との付き合いは古く、昭和初期のフランス留学時代からで、「満洲国」時代は任務の関係からもよく二人で食事を共にするなど、親密な交流が長期に亘って続いていた。それだけに頭脳優秀な石井軍医については、感慨もまたひとしおであったものと思われる。

 戦後遠藤は、石井四郎と内地で偶然に再会するが、その時も懐かしさがこみあげてきたらしい。だが遠藤は戦後の深い反省から、石井四郎の体内にはつねに仏と悪魔が同居していたとして、その人物プロフィールを次のように描いている。


  ……彼は天才肌の学者であり、風貌もまた白哲冷徹NHK放映の劇映画小林桂樹の扮する「赤ひ

  げ」そっくりです。その研究に対する熱心さは異常というべきものでありました。彼が牛込若

  松町の軍医学校で研究しておった時の如き、校内に寝泊りして研究に没頭して、近くの河田町

  に自宅があるにも拘らず殆んど帰宅しなかった由で、たまに帰宅すると夫人が悦びの余り手を

  合わして拝んだなどというエピソードもありました。

   この様な冷酷に見える彼にも哈爾浜人情味豊かな反面もありました。満洲事変で腫に重傷を

  負った私の郷里の知人佐藤富弥という上等看護兵が山形の陸軍病院に入院しておりましたが、

  治療不可能ということで除役退院させられました。私の[大本営]課長時代に佐藤は治療のため

  私を頼って上京して来ましたので、軍医学校に紹介したところ官費入院は許さないとの事であ

  りました。私は戦傷者を遇する道でないと思いその旨石井軍医正に話した所、彼は義憤を感じ

  即座に佐藤を彼の研究所の嘱託として採用し、給料を与えつつ軍医学校に官費で入院せしめ治療

  してくれました。やはり彼にも仏と悪魔が同居し、戦争がその仏を匿して悪魔を目醒めさした

  のではないでしょうか。              (『日中十五年戦争と私』163-164p


 この回想は石井四郎という軍医正の二面性を悪魔と仏の表現でうまく言い表している,しかし当時の日本の軍人は中国人やロシア人、とくに共産主義者を蔑視し、その人間性を認めなかったきらいがあり、石井四郎の悪魔性の発揮もその民族差別、思想差別意識と全く無関係であったとは言い切れない。石井は当時の日本では京都帝国大学の医学部で学んだ優等生であり、その頭脳は人一倍優秀であった。しかし頭脳の優秀さは人間性が眼かであることと必ずしも両立しない。むしろ石井四郎はその優秀な頭脳と高度な医学知識を自らの出世の道具とし、軍隊内で立身出世するためならば、あらゆる努力を惜しまず、また他人(ここでは中国人やロシア人)の生命さえ犠牲に供してもなんら良心に咎めを感じとることもない、そんな冷酷無慈悲なタイプの軍人に成長していたことになろう。

 それゆえ石井四郎のようなタイプの軍人は戦争で犯した人道上の犯罪に対する罪の意識はなく、その責任を自覚する良心さえ持ち合わせてはいなかったのである。戦争の末期、彼はその部隊具に命令して、満洲の第七三一部隊の建物や重要証拠物件を破壊し、自分はいち早く満洲から日本本土に逃げ帰った軍人でもあった。さらに彼は、元の部隊員に対して細菌実験については一切口外しないよう箝口令をしいた人物でもあった。しかも石井の愚劣な行動はその後も継続したのである。

 その一例を挙げれば、戦後日本で極東国際軍事裁判に起訴されることを恐れた彼は、米軍(GHQ)と闇の取引をして戦時ドの細菌による生体実験のデータを米国政府に売り渡した事実がある。約三〇〇〇体という多くの犠牲者を生み出した細菌実験のデータを自らが戦犯として訴追されることから逃れるために、アメリカという元の敵国に売り渡したのである。この行為については何らの弁解の余地さえないはずである。

 一九三二年当時から一九四五年の敗戦まで、満洲に実在した第七三一細菌戦部隊が残した傷痕は、それほどたやすく被害者であった中国の民衆の脳裏から消え去るものではないことを我々日本人は肝に銘じておきたいものである。

 なお余談ながら、第七三一部隊の罪状は極東国際軍事裁判では明らかにされなかったが、ソ連軍に捕らえられ、戦後シベリアに抑留された関東軍司令官山田乙三らの軍事裁判の供述で明らかにされた。その軍事法廷は一九四九年十二月二十五日から三十日までハバロフスクで開廷され、元関東軍軍人十二名が、その罪状を供述した。

 その公判記録は一九五〇年にモスクワで刊行されたが、それによって元日本軍軍人による細菌戦用兵器の準備と使用に間する実態がほぼ明らかになった。その公判記録『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件二関スル公判書類』によれば、細菌戦部隊の最高責任者が元関東軍司令官山田乙三であったこと、「生キタ人間ヲ使用スル実験ハ」「梅津大将又ハ植田大将ニ依ツテ認可サレタモノデ」(五八ページ)、細菌兵器の使用目的は対ソ速、モンゴル、中国、米英国にも及ぶものであり、指揮命令系統のトップが大本営であり、実験材料に供せられた人間(「特移扱」)には共産主義者や民族主義者が含まれていたこと、さらに中国では一九四〇年には漢口市付近で、一九四二年には南京の栄部隊が細菌の実験を実施したことなど、さまざまな角度からその実態が明らかになった(三二四〜五ページ)(『細菌戦用兵器ノ準備及ピ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件二関スル公判書類』外国語図書出版所モスクワ、一九五〇年発行)(※4参照)。しかし重要な問題は、第七三一部隊が誕生し、その細菌兵器の開発が可能になった背景には、天皇を頂点にした大日本帝国がその存在を容認し、その開発に多くの人材と経費をつぎ込んだという構造を無視することはできない。

 その根源的な背景には、対ソ戦争を予測した満洲国の防衛(赤化の防止)と将来の対ソ戦を有利に展開したいという戦略目的があったからである。しかし細菌兵器は満洲国が崩壊する直前の対ソ作戦でも戦場で実戦使用できなかった。その理由は極東ハパロフスク裁判の法廷で山田関東軍司令官が供述したように「ソヴエト同盟ガ対日戦ニ参加シ、ソヴエト軍ガ急速ニ満領内深ク進撃シ来ッタ為、吾々ハ、ソ同盟及ビ其ノ他ノ諸外国ニ対シテ細菌兵器ヲ使用スル機会ヲ奪ワレテ了ツタ」からである(前掲書三八ページ、ハバロフスク裁判予審書類第十八冊一三三ページ)。その当時、ハルピン郊外の平房に残された第七三一部隊の建造物は(関東軍が敗走する直前)石井四郎部隊長の命令で、実験施設も証拠書類もすべてが爆破された。それは勿論、証拠隠滅のためである。しかしその悪行は建物が破壊されても地下にその痕跡を残していた。

 今、その地下壕をはじめ、第七三一部隊の史跡は地元政府と第七三一部隊陳列館の努力で発掘され、地下室の囚人監禁室や凍傷実験をした建物跡、鼠でペスト菌を培養した施設など、その全貌が明らかにされようとしている。その発掘調査の目的は、旧関東軍の罪状を暴きだすためでなく、二度とこのような悲劇を繰り返さないために、地球上の全人類がこの場を見学して、戦争の罪悪を反省し、将来への教訓にしようと願ったものである。

 私はこの部隊本部跡の陳列館を二〇〇九年と二〇一〇年の秋に二度訪問した。旧本部跡の建物の階段を二階に昇ると、元関東軍参謀副長の遠藤三郎の写真がパネルで壁面に展示されていた。参謀肩章をつけた遠藤はここを見学する人々に自分もその罪の一端を担いだことについて、重い『認罪」の気持ちを告白しているようでもあった。(※5参照)


4 第七三一部隊の編成と使命

 上記ソ連のハバロフスク軍事裁判「公判書類」には日本の細菌戦部隊の編成と使命などが元幹部らの供述として、以下のように記録されている。 ◇編成について:元日本軍軍医少将川島清の供述

 「日本ノ参謀本部及ビ陸軍省ハ、天皇裕仁ノ秘密勅令ニ依リ、既ニ一九三五-三六年ニ、満領内二細菌戦ノ準備及ピ遂行ニ任ズベキ二カ[所]ノ極秘部隊ヲ編成シタ。

  石井研究所ヲ基礎トシテ編成サレタ部隊中ノーハ、秘密保持ノ為、『関東軍防疫給水部』ト称シ、他ノ一カ部隊ハ、『関東軍軍馬防疫廠』ト称シタ。一九四一年・・・・両部隊ニハ各々第七三一部隊及ピ第一〇〇部隊ナル秘匿名称ガ附サレ、上記ノ石井四郎ガ策七三一部隊長ニ任命サレ、獣医少将若松ガ第一〇〇部隊長ニ任命サレタ。

  此等ノ部隊ハ、細菌学ノ専門家ヲ擁シ、其ノ要員ノ中ニハ日本ノ有名ナ細菌学者ノ指導ヲ受ケル多数ノ研究員並ピニ技術員ガイタ。第七三一部隊ノミデモ、約三千名ノ勤務員ヲ有シテイタ事実ニ微シテモ、細菌戦部隊ノ業務ノ規模ハ明ラカデアル」

 ◇資金について:同上川島清供述

 「日本軍統帥部ハ、細菌戦用兵器ヲ準備シテイタ諸部隊ノ維持費トシテ極メテ莫大ナ金額ヲ支出シテイタ。一九三九年頃、恰爾浜カラ二〇粁隔タック平房駅ノ附近ニ、第七三一部隊ヲ配置スル為、多数ノ研究室、業務用建物ヲ有スル大軍事部落ガ建設サレ、大量ノ原料ガ貯蔵サレタ。而シテ、業務ヲ極秘裡ニ実施スル為、該部落ノ周囲ニ、立入禁止地帯ガ設ケラレタ。同部隊ハ、飛行機ヲ有シ、安達駅ニ特設実験場ヲ有シテイタ」

 ◇支部網について:同上川島清供述

  「第七三一部隊及ピ第一〇〇部隊ハ、ソヴエト同盟トノ国境線上ノ主ナル戦略方面ニ位置シ、日本関東軍ノ諸軍及ピ諸部隊ニ直属スル稠密ナ支部網ヲ有シテイタ。

  各支部ノ主要ナ任務ハ、各部隊ノ製造シタ細菌兵器ヲ実戦ニ使用スル為ノ準備ヲ行ウ事デアッタ」

 ◇使命について:関東軍司令官山田乙三供述

 「・・・第七三一部隊ハ、主トシテソヴエト同盟並ニ蒙古人民共和国及ビ中国ニ対スル細菌戦ノ準備ヲ目的トシテ編成サレタモノデアル」

 ◇生きた人間を使用する犯罪的実験:同上山田乙三供述

  「私ハ……生キタ人間ヲ使川スル実験ノ実施ヲ黙認シ、従ツテ、事実上ニ於テ、隷下ノ関東軍憲兵隊及ビ日本陸軍特務機関ガ実験ノ為送致シタ中国人、ロシア人、満洲人ノ虐殺ヲ認可シタコトトナツタ」

  (『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件二関スル公判書類』一二〜二一ページ)


 当時の関東軍司令官は特殊扱いの人々を実験材料に供し、殺害する全権を掌握していたことになる。


5 ハルビン郊外の第七三一部隊陳列館・若い服務員馮平さんの書簡より

 この第七三一部隊陳列館はハルビン郊外の旧七三一部隊の跡地に開設されている。その場所へはハルビン駅前のバス停から南郊外行きバスに乗れば、約四十分で到着する。その敷地面積は日本の甲子園球場の三倍以上の広さである。二〇〇〇年からは、精力的な金成民館長の指導の下で、地下室などの設備が科学的な手法で発掘され、旧七三一部隊の全貌が徐々に解明されている。その目的はこの史跡を将来の人類の平和目的に提供するもので、日本人の罪状を暴きだすためではない。日本人はその現実を直視して、日本民族が過去に犯した罪状を反省し、将来の鏡にすべきであろう。参考までに、私宛に送られてきた、同陳列館の若い日本語翻訳者馮平さんの日本人観と戦争の犠牲者を悼む気持ちを素直に語りかけた書簡を紹介する,この書簡は著者宛の私信である。


 吉田様 (前略)中国を仮想敵としている日本人は大勢いると思います。でもこれは日本政府の責任だと思います。日本政府とメディアからそういう考え方(一種の情報操作)があり、そういう思想、考え方が日本国民の体内にしみ込んでしまい、そう簡単に変えることはできないでしょう。昔から、日本人にとって国は全てで、命令に逆らうことは許されませんでした。しかし実はこれも日本人の良い面です。民族の特徴だと言っても過言ではないでしょう。私が日本に行くチャンスがあれば、広島・長崎の原爆ドームに行きます。

 戦争の最中に、武器の無い国民は一番可哀そうでした。軍人なら国のために戦死して、英雄と見なされます。国民は誰にも知られずに死にました。七三一部隊生体実験によって命を奪われた人々も可哀そうです。密かに細菌実験によって殺されました。これは南京大虐殺とも違います。抗日戦士や農民などその身分を問わずに「丸太」として実験されました。今でもまだ名前さえ分からない人が人勢います。死んでもお墓もなく、死体もみつかりません。さらにどのような細菌で死んだかもわかりません。

 七三一陳列館に来る日本人は友好団体の人々が多いです。しかしこの悲惨な事実を信じない人もいます。戦争は六十五年前のことで、今では証言できる人々も段々少なくなって、日本人に知ってもらうのは、これからもっと難しくなるでしょう。しかし七三一陳列館は日本人に責任を問うのでなく、ただ戦争の残酷さを知らない人に伝えたいです。余計なことを言ってしまって申し訳ございません。それではお元気で。 馮平(一〇一〇年十月十二日)


 若い馮平さんは、日本に行くときが来たら、まず最初に広島・長崎の原爆記念館を見学したいと書いている。日本人の若者も、もし中国に行けるなら、まず最初に南京大虐殺記念館とハルピン郊外の第七三一部隊陳列館を見学したい、という人が大勢出る時代が到来してほしい。モうなれば、本当の日中友好の時代になるだろう。 


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めい

元731部隊員だった東大教授追及記事がありました。本来責められるべきは先ずもって戦争そのものです。つらい記事です。

   *   *   *   *   *

東大医学部放射線科・宮川正教授は退官記念講義で731部隊員だったことを曝露・追及された
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/109.html
投稿者 魑魅魍魎男 日時 2016 年 12 月 11 日 11:52:46: FpBksTgsjX9Gw 6bOWo@mx6bKSag    

被ばく被害を隠ぺいするため暗躍している御用学者と731部隊の関連について投稿したきたが、今回は731部隊レントゲン班に所属していた宮川正東大名誉教授について調べてみた[1][2][3]。

経歴 ([4]に加筆)
1913年 広島県呉市で生まれる
1937年 東京帝国大学医学部医学科卒業
1944年 731部隊レントゲン班  (終戦まで)
1946年 逓信省病院、国立東京第一病院勤務
1953年 横浜市立大学医学部教授に就任
1956年 東京大学医学部放射線科教授に就任
1973年 東京大学を停年退職、東京大学名誉教授となる。埼玉医科大学教授に就任
1978年 埼玉医科大学放射線医学教授に就任
1980年 埼玉医科大学附属病院副院長を兼務
1983年 埼玉医科大学附属病院院長に就任
1989年 埼玉医科大学学長代行に就任
1993年 埼玉医科大学名誉教授となる
2002年 逝去 88歳

宮川教授は、731部隊に所属していた前歴をずっと隠していたが、何と東大の定年退官直前にそれがバレて、退官記念講義の場で学生から厳しく追及されるハメに陥った[5]。

---------(関連情報[5] p.248 引用ここから)--------------

ある退官記念講演にて
ところで、最近、全日本医学生連合中央書記局で出している「全日本医学生新聞」(1973年4月1日号)がつぎのような記事を発表している。以下はその全文である。

(中略)

東大宮川教授に対する追及は、3月2日最終講義の場において大衆的に貫徹された。

公開質問状
放射線科 宮川 正教授殿

(中略)
その中で、日中戦争時における細菌兵器と生体実験を行なった731部隊の犯罪性が明らかにされ、学術会議南極特別委員会に"返り咲い"ていた元731部隊員吉村寿人、北野政次について、その生体実験を中心に検討小委員会が設けられることになりました。これは新聞にも大きく報道されたのでご存知のことと思います。
 ところがこの学術会議の場で、宮川教授が731部隊出身であることが明らかにされました。
われわれは防衛医大の問題を考える時「医学者の戦争責任」を決してさけて通ることはできないと思います。教授は自らの戦争責任とりわけ731部隊に加わっていたことをどのように考えておられるのか、以下の点について公開の場で見解を明らかにしていただきたく思います。
1、731部隊に加わったのはいつからか、又どのような経緯でそうなったのか。
2、731部隊における教授の任務は何だったのか、そしてどのような活動を行なったか。
3、以上をふまえて教授自身、戦争責任とりわけ医学者としての戦争責任をどのように考えておられるか。
4、防衛医大設置に対してどのように考えどのような態度をとられるか。
昭和48年2月23日                        医学部共闘会議

われわれは以上の公開質問状に対し最終講義の場で回答するよう要求した。

医学者の"名誉"とは?

 それに対し教授はいかなる対応をしたか。
 彼はまず何より戦後20数年たった今日、"隠しおおせた"と思っていた自らの戦争犯罪が「最終講義」というまさに土壇場で曝露されたことに対し驚きと狼狽を示した。
 「最終講義は授業の場だから答えられない」といったり、「最終講義はセレモニーでしかないから追及されるくらいならやめてしまってもよい」などと矛盾したことをいいつつ、公開質問状に回答することを拒否した。
 はては「記念すべき退官記念講演の場で私を追及するなんて君らは残酷だ」となどと泣き事ともつかぬ事をいいだす始末だった。
 戦後「医学者としての戦争責任」を何ら追及されなかったばかりか逆に医局講座制の頂点に君臨してきたこの教授が土壇場で演じたのは、自らの戦争責任を大衆の場で明らかにすることではなく、自己の"名誉"を必死で守り抜こうとする醜態でしかなかったのだ。
 細菌兵器と生体実験によって中国人民を虐殺した731部隊の犯罪性を捨象し、「最終講義で追及されることを残酷だ」としか感じとることのできない人間に「医学者」を名乗る資格はない。
 3月2日、われわれの闘いによって講演後2時間余りにわたって宮川教授に対する大衆的な追及が展開された。
 われわれの追及に対して、宮川は昭和19年4月から20年8月まで731部隊に所属していたこと、又放射線によるワクチンの研究を行なっていたことを明らかにしたが、「自分が第何部に属していたかは知らない」「人体実験はやっていない」などとうそぶき、"核心"にふれる事については「知らない。忘れた」など一切"黙秘"を押し通すことによって居直り続けた。
 そして「医学者の戦争責任」についても、すべて「戦争が悪い」「天皇の命令だからやった、反抗すれば殺されていたかも知れない」などということによって自己を免罪し、あげくの果ては「日本国民全体の中の一人としてなら反省してもよい」などと"反省"にならぬいいわけを並べたて、彼の本質を大衆の面前で曝露した。
 防衛大に対しても、「よく知らない」「自衛隊の中にも医者は必要だ」といいのがれをし"軍医養成と軍事医学研究"という指摘をつきつけられるや、「軍医の役割は大きい。軍医は必要だ」とヌケヌケといってのけた。
 このように居直る宮川教授に対する追及は、席を立つ学生がほとんどいないという熱気の中で続けられ、731部隊の戦争犯罪を大衆的に確認し貫徹された。
(以下略)
---------(引用ここまで)--------------

退官記念講義は敬意と感謝に包まれて暖かい雰囲気で行なわれるものだが、左翼系学生のつるし上げにあい散々なものになったようだ。

悪いことはできないものだ。自業自得である。

当時の左翼学生の活動すべてを肯定するつもりはないが、ここでの追及は正義に基づいたものであり、まともである。(この人たちは今どうしているのか。そして今の学生は何をやっているのか)

彼が731部隊で行なった人体実験の詳細はよくわかっていないが、肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行なったという証言がある[6]。

退官記念講義の場で追及されても、実験内容を明らかにできないほど凄惨なものだったのだろう。

ナチスは、強制収用所のユダヤ人の生殖器に大量のX線を照射して不妊にさせるといった
悪魔のような冷酷な実験を繰り返していた。
同じようなことを731部隊でやっていたことは間違いない。

亀井文夫監督の有名なドキュメンタリー「世界は恐怖する 死の灰の正体」の製作に宮川教授は協力している[7]。
映画の冒頭でコバルト60のガンマ線を小鳥が死ぬまで浴びせる衝撃的な実験が紹介されているが、恐らく731部隊では中国人を使って同じことをしていたのだろう。示唆に富んだ実験である。

宮川教授は、「記念すべき退官記念講演の場で私を追及するなんて君らは残酷だ」と言ったが、自分が中国人に対して行なった凄惨な人体実験は残酷でなかったとでも言うのだろうか。

こんな人物に名誉教授を授与するのが東京大学なのである。

戦後、731部隊の他の隊員と同じく、彼は米国に人体実験データを渡すことを条件に免責となった。
弱みを握られているから、当然、米国原子力産業の言いなりであり、以後、彼も放射能被ばくの過小評価に協力することになる。

1954年に起きた第5福竜丸事件では、被ばく船は800隻もあったと言われているが、第5福竜丸一隻だけとしたのも宮川教授である[6]。

宮川教授は放射線医学研究所(現・放射線医学総合研究所)の設立に尽力したが、本来は独立して研究を行なうべき放射線医学もまた原子力産業に取り込まれていく。
米国・原子力産業の意向には一切逆らえないのである。

現在、放医研はIAEA協力センターに指定されているが、実質的にIAEAの傘下組織と
言ってよいだろう[8]。

前稿でも述べたが、宮川教授の弟子の弟子、たった2代下るとあの中川恵一准教授である。
マスコミに頻繁に登場して安全デマを流布している中川氏もまた731直系の御用学者なのだ[9]。

自分の出世や金儲けのために人間をモルモットのように使う731部隊の悪魔のような伝統は、在もしっかり受け継がれている。

731直系の御用学者が安全デマを流布して、福島の人たちを危険な放射能汚染地域にとどまらせようとしていることがその動かぬ証拠である。

731部隊関連の情報は、安倍政権・日本会議が最も闇に葬りたい事実であり、ネット上からどんどん情報が削除されている[10]。

東大のウェブサイトに載っていた宮川教授の訃報も、私が731との関与を指摘した後、あっという間に削除された[4]。

不都合な歴史事実を隠ぺいしようとするのは全体主義国家の典型的な特徴である。
まさに現代の焚書と言ってよい。

731関連でこれは重要と思う情報を見つけたら、すぐにコピーを取って保存するよう、みなさんにお願いしたい。

もっとも、インターネットで世界がつながっている時代に、いくら不都合な真実を隠そうとしても無駄である。
世界中のサイトの情報を削除改変することはできない。

無意味な悪あがきはやめろと言いたい。

過去の過ちをきちんと反省、改心しないから、何度でも同じ間違いを繰り返し、日本はいつまでもまともな国になれないのだ。

(関連情報)

[1] 「驚愕! ご用意学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く」 (拙稿 2014/5/16)
http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/205.html

[2] 「731部隊に関与した医師・医学関係者」 (拙稿 2016/11/20)
http://www.asyura2.com/16/iryo5/msg/397.html

[3] 「731部隊関係者のその後および厚労省との関係」 (拙稿 2016/11/20)
http://www.asyura2.com/16/iryo5/msg/398.html

[4] 訃報 宮川正名誉教授 (東京大学)
https://web.archive.org/web/20050208185124/http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1232/4.html

[5] 「日本医療の原罪 人体実験と戦争責任」 (高杉晋吾・著 亜紀書房 1973)

[6] 「宮川正の軌跡」 (731からフクシマまで!!)
http://blog.goo.ne.jp/bu0007/e/6060c86799f7fe8796e0b43a2b521828

[7] 「世界は恐怖する 死の灰の正体(亀井文夫監督)」 (YouTube Kodaira Prince)
https://www.youtube.com/watch?v=yCk2Qf6RA_s

[8] 「放医研、IAEA Collaborating Centreに認定される」 (放医研ニュース 2009/12/15)
http://www.nirs.qst.go.jp/publication/nirs_news/201001/hik01p.htm

[9] 「中川恵一先生 番組中は「大丈夫、大丈夫」 番組終了後、真っ青な顔で『ダメダメダメダメ』」
(拙稿 2016/6/8)
http://www.asyura2.com/16/genpatu45/msg/799.html

[10] 「[緊急!みなさまにお願い] 魚拓・コピーを即取ろう 政府は不都合な情報をネットから
どんどん削除している」 (拙稿 2016/8/18)
http://www.asyura2.com/16/genpatu46/msg/325.html

  
コメント

2. 2016年12月11日 13:02:09 : lv7vbj53vM : R5TUbJyqZ1g[1674]
▲△▽▼
タイトルの漢字が間違っている。(誤)曝露 -> (正)暴露
まあ、被曝の曝を使ったほうが、この場合はピッタリ来るかも知れないが。


3. 2016年12月11日 14:29:52 : 2VxazcwEtj : LkYd3S4cYsA[240]
▲△▽▼
昔、たまたま読んだ本、本のタイトルはを忘れたが、
生理学分野だったかな?忘れたが有名な教授が731部隊にいた
事を知りびっくりした記憶がある。
日本てのはそういう事は不問にして出世してくんだな
と思ったもんだ。
結局御用学者医者は人に安全だ影響はないと言いながら
裏では自分たちの研究用データを溜めてるんだろう。
これでは731部隊となんらかわらない。

人の命を軽んじる御用学者医者達を「311部隊」
と命名したいくらいだな。




4. 2016年12月11日 18:49:50 : EGCiYpFeqI : y0hvPLSOEHM[3]
▲△▽▼
X線を使用した人体実験を行い、放医研の設立に関与した人物が、原爆投下直後の被爆者調査に加わっていなかったことが、不思議だ。(放射線被曝の有害性を知っていたので忌避したのか?)
本人が、この履歴を意図的に隠したか?



8. 2016年12月12日 21:18:04 : RzOr01j02A : X0rqIHJ31aI[223]
▲△▽▼
すぐに探せませんのでお詫びしますが、
731部隊は、日本人の少年も生体解剖しています。
私達はこのおぞましい事実を直視せねばならないし、
ナチの犯罪には時効がないのです。
936 年、天皇署名の軍令陸甲 7 号により、関東軍防疫部は正式発足。

1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)」に改編された。そのうちの本部が「関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)」・・・

大本営作戦主任参謀:朝枝繁春の731部隊に関する証言
朝枝繁春
あの部隊は金がいる。
予算は軍令陸甲 (特別会計)
http://www.dailymotion.com/video/x2tpxms

閑院宮載仁毒ガス使用を許可、三笠宮731部隊訪問。

これらの利益は悪魔の子孫と一族に引き継がれ、国民を欺いたまま
いまなお利益と特権を享受・・・。


現代医学は彼らによって狂育されている 医学は殺人のために存在する 人を救うためなどと信じているのは、幻想に過ぎない


33:00
天皇を頂点とした731部隊の命令系統図
https://www.youtube.com/watch?v=XCIUosNlbzA

by めい (2016-12-13 05:09) 

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