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アジア主義と置賜(3) その源流 雲井龍雄 [アジア主義]

「アジア主義と置賜」と題して書くことになったのは、『アジア主義』に曽根俊虎が登場したことによる。尾崎周道著『志士・詩人 雲井龍雄』の最後の章が思い起こされたのだ。よくは理解できないままに印象だけは強く記憶に残っていた。あらためて繙いた。


雲井龍雄が小伝馬町の牢に送られる前の三日ほどを藩邸の獄で過す。「辞世」はここで詠われた。尾崎は言う。


《龍雄はひたぶるに身を投げ出してきた主君と、養うことのできなかった親にいとまごいを告げる。父母の地の蒼穹にのこす涙である。龍雄はこの詩(「身世何飄よう・・・」「天数有消長・・・」)のあとに認めて「右二首龍雄国元より護送せられて東京の獄に来る時のいとまごひの詩也 雲井龍雄 獄中草之」と。

 (明治三年八月)十四日乗駕籍で東京の藩邸につき、十八日に小伝馬町の揚屋入りとなった。この三日ばかりの時に書きのこしたものである。安井息軒宛の書中にもこの詩を書いて、師匠へのいとまごいとした。龍雄はこの藩邸の獄でもう一つの詩をうたった。


  死不畏死  死して死を畏れず

  生不偸生  生きて生を偸(ぬす)まず

  男児大節  男児の大節

  光興日争  光日と争う

  道之苟直  道苟も直くば

  不憚鼎烹  鼎烹を憚らず

  渺然一身  渺然たる一身

  万里長城  万里の長城

            龍雄拝


 この詩は述懐とも辞世とも題せられて伝えられてきたが、「渺然一身万里長城」と咄(とつ/事の意外さに驚き怪しむときに発する語)として、何故に万里の長城を龍雄が見るのか、長いあいだ疑問であった。真蹟の詩の終りに龍雄拝とあるのも解きかねていた。が、最近あるとき、フッと二つとも疑いは消えた。それはこうだ。

 龍雄が獄中でこの詩をうたうとき、牢格子を隔ててこれを聴く一人の男がいたのである。その名は囃雲曽根俊虎。この詩はまさに米沢の男が、米沢の男に志をつたえる絶命の詞に他ならない。龍雄は、燈下ひとり剣に看た清国への想いはやまなかった。いま幽明相隔てようとするときに、二人の間に万里の長城はあらわれ、延々とつづいたのである。荘厳な儀式というべきである。龍雄が死とともに天に騰ると俊虎は一躍して清国に渡って万里の長城の雲に嘯(うそぶ)いた。

 十二月になって龍雄の断罪が近づくと、参議広沢真臣の日記には、にわかに助命派あるいは強行派とおぼしい人の名が出はじめた。

 十二月六日には早朝から上杉茂憲が訪ねていった。   

 明治三年(一八七〇)十二月二十六日、老人、女、子供、武士、百姓、町人、火消それに坊主まで加えて一味徒党とされ、龍雄は判決を言渡され、二十八日小伝馬町の牢屋敷で斬られた。

 その刑はきびしく、虐殺というにふさわしい。梟首一。斬十三。准流十年ハ。徒三年九。以下二十八人である。

 米沢藩士雲井龍雄は、その我慢みさい首を、東京の師走の風にさらした。謀反の罪である。行年二十七歳。

 詩はやはり、詩人の運命の完成を憎悪するものなのであるのだろうか。

  一ト声は森の中なり杜鵑    茂憲 》(『志士・詩人 雲井龍雄』p238-239)


雲井龍雄27歳、曽根俊虎24歳の時、龍雄は俊虎に向けてこの詩を詠った。

「心配しなくてもいい、間もなく迎えるであろう死を怖れてはいないから。偽って生きながらえようとする気は全く持ってはいないから。男の真直ぐな生き様が発する輝きは、太陽の輝きにも匹敵する。
おのれの歩む道が真っ当なものならば、たとえ釜茹でになろうともかまわない。いずれとるに足らないこの身ではある。とはいえ心は勇躍せよ。勢いを以てさらに、身をも勇躍せしめるべし。狭い日本に留まるのではない。万里の長城を思うがいい。」

 

その年(明治3年)3月に作った次の詩がある。尾崎の釈に曰く「 聞くに日本の外には五大洲があるという、破浪の舟を長風に放ってウラルの山や太平洋と地球を廻り、各邦の俊傑と親しく語り、万国の名勝を観てしかる後、故郷に帰って松菊を伴とすることが出来れば、一世の能事は終りだ」

 

   *   *   *   *   * 

 

少小読破万巻書

欲討聖源溯洙泗

道■世背無所用

放宕却是一侠徒」

破産煩身多結客

奮為六王進奇策

山東豪傑半屬望

共謂秦兵撃可■

縦散約解壮図違

天高地厚亦跼蹐

一朝自悔心恍然

深羞平生気宇窄」

君不見有窮之女宇定嫦娥

一飛奔月月為家

我亦将高探其窟

手擁天柱折其花」

又不見■山仙子其名晋

縹渺駕鶴截雲陣

我亦将遠窮八紘

横絶弱水進其■」

聞説八小洲外別有五大洲

長風好放破浪舟

鳥拉之山太平海

去矣一周全地球

一世俊■尽把臂

万國奇勝尽屬眸

然後税駕故山瀟洒伴松菊

一世能事庶幾将始休


少小読破す万巻の書

聖源を討ねて洙泗に遡らんと欲す

道は世と背きて用ふる所なし

放宕却って是れ一侠徒

産を破り身を傾けて多く客と結び

奮って六王の為に奇策を進む

山東の豪傑半ば望みを属す

共に謂う秦兵撃ってしりぞくべしと

縦(しょう)散じ約解けて壮図違う

天高く地厚きも亦た跼蹐

一朝自ら悔ゆ心恍然

深く羞づ平生気宇の窄きを

君見ずや有窮の女字は嫦娥

一飛月に奔って月を家と為す

我れ亦だ将に高く其の窟を探らんとす

手に天柱を擁して其の花を折る」

又見ずや■(こう)山の仙子其の名は晋

縹渺鶴に駕して霊陣を截つ

我れ亦だ将に遠く八紘を窮めんとす

弱水を横絶して其の■(じん)を進めん」

聞くならく八小洲の外別に五大洲あり

長風放つに好し破浪の舟

烏拉(ウラル)の山太平の海

去って一周せん全地球

一世の俊■(もう)尽く臂(ひじ)を把り

万国の奇勝尽く眸8ひとみ)を属す

然る後に故山に税駕して瀟洒松菊を伴わば

一世の能事庶幾くは将に始めて休まん


聖源 聖学のみなもと。○洙泗 魯の国の二川の名から孔子の学。○放宕 物にかかわらず心をほしいままにする。○山東 函谷間以東の六国。○畷路 せぐくまる、甚だ恐れる。○気宇 器量、見識。○姥蛾 月の異名。○縮山仙子晋 継氏山に王子音が白鶴に飛ってその頂にとまり手を挙げて時人に謝して去ったという伝説。○縹渺 高く遠きさま。○八紘 四方と四隅と。○弱水 仙境にある川。○進其■ 車の止め木、転じて出発することを発■という。○俊■ 才徳の衆にすぐれた人、■は毛中の長毛。○税駕 車につけた馬を解いて休息する。○能事 よく為すべきわざ。


自分はつとめて読書し、聖学の源をたずね孔子の学を学んだ。しかしわが道わが志は世と背いて用いる所がなく、心をほしいままにして遊侠の徒となった(第一段)。六国王に奇策を進めたように戊辰戦では奇策を樹て、同志もまたともに西軍を撃ってしりぞけるため奔走したが、戦やんで壮図みな志とちがってみると、この天地に身をせぐくまっていなければならぬ想いがある。深く省みて自分の平生は器量のせまいことであったと恥るのである(第二段)。西王母の不死の薬を食って婬蛾は仙となって奔って月の中に入り月の精となり■山の仙子音は鶴に乗って雲陣をゆくという、私もそのように仙となって仙境に遊びたいものだ(第三段)。聞くに日本の外には五大洲があるという、破浪の舟を長風に放ってウラルの山や太平洋と地球を廻り、各邦の俊傑と親しく語り、万国の名勝を観てしかる後、故郷に帰って松菊を伴とすることが出来れば、一世の能事は終りだ(第四段)。

『志士・詩人 雲井龍雄』p202-204)


   *   *   *   *   *


OCRで読み取ったのですが、見たこともない漢字も多く■でごまかしています。『新稿 雲井龍雄全伝  上巻』から、安藤英男による解釈とともに詩全文を画像で貼付けておきます。(クリック拡大)

雲井龍雄「ウラルの山太平の海」1 .jpg雲井龍雄「ウラルの山太平の海」2.jpg


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めい

「河上清」、どこかで米沢出身であることを聞いたことがあった、その程度だったが、「国際派日本人養成講座」を読み、米沢発の「良質なアジア主義」の流れの中に入る人であることを知ってうれしい。

   *   *   *   *   *

-----Japan On the Globe(210) 国際派日本人養成講座----------
_/_/
_/ 人物探訪:河上清~嵐に立ち向かった国際言論人
_/_/
_/ _/_/_/  米国の指導的な言論人として、河上清は日米戦
_/ _/_/ を避けるために必死のペンを振るった。
-----H13.10.06----36,129 Copies----331,526 Homepage View----

■1.栄光と悲劇の国際言論人■

 1949年10月12日、河上清がワシントンDCの病院で76
歳の人生を終えた時、ワシントン・ポストは、次のような哀悼
の社説を掲げた。

 ベテラン日本人ジャーナリストK・K・カワカミの晩年
は挫折と悲劇に彩られていた。今世紀初めにこの国にきた
彼はアメリカを日本人に、日本をアメリカ人に知らせる仕
事に身をささげ、ワシントンでももっとも著名な言論人の
一人となった。だが彼が築き上げた世界は日米開戦で崩れ
去り、彼の名声は色あせ、疑惑と敵意の対象にさえなって
しまった。以後も彼は言論活動を続けたが、再び世に認め
られることはなかった。ワシントンの多くの人々が愛着と
悔恨を持って彼を思うであろう。

 明治の初めに米沢の貧しい下級武士の家に生まれた河上清が、
アメリカに渡って、代表的な新聞、雑誌に頻繁に寄稿する著名
な言論人となり、13冊もの英文著書を出版したというのは、
いかにも明治人らしいスケールの大きな成功物語である。

 と同時に、日系移民排斥から大東亜戦争に至る半世紀の日米
間の嵐に立ち向かい、何とか祖国を救おうとして果たせず、そ
のために自らの名声をも犠牲にした悲劇の人生でもあった。

■2.「カール・マルクス」■

 河上清は、明治6(1873)年、米沢に生まれた。幼い頃に父母
を亡くした清ら兄弟の面倒を見る祖母は、清の学問の才能を見
いだして、家宝の日本刀6振りを売って、小学校に通わせた。
河上は最上位の成績で米沢中学に進み、さらにつてを得て東京
で書生としての生活を始める。

 慶応義塾で福沢諭吉から「列強に征服されないためには、近
代的な産業と軍隊を築く以外に道はない」という講義を聴いた
り、社会主義思想に触れたりした。青山学院では学生による同
人誌の編集・執筆の中心となり、マルクスの礼賛記事を書いた
ために、冗談半分に「カール・マルクス」とのあだ名を付けら
れた。後年、アメリカでキヨシ・カール・カワカミとしたのも
この縁である。

 24歳の時、当時の大新聞・萬(よろず)朝報に評論記事を
送った所、いきなり第一面の「論壇」に掲載され、その縁で内
村鑑三、幸徳秋水、内藤湖南など、萬朝報のそうそうたる執筆
陣に混じって、健筆をふるうようになる。

■3.アイオワ大学での覚悟■

 明治34(1901)年、河上はアメリカ留学に出発した。青山学
院での友人がアイオワ大学に留学しており、政治学部のベンジ
ャミン・シャボウ教授に河上の記事を紹介した所、河上に関心
を持って、奨学金を出して研究生として迎えるという措置をと
ってくれたのである。

 渡航費や生活費は自分で調達しなければならなかったが、萬
朝報を通じて紹介してもらった後藤新平(当時は台湾民政長官
[a])に会いに行った所、「これを進呈しよう。アメリカで最善
を尽くして学び、帰国してからその知識を活用してくれ」と言
って、300円を出してくれた。今の価値では300万円ほど
であろうか、見ず知らずの青年でも国家の将来に役立つとみれ
ばポンと大金を与える、そんな気風が当時はあった。

 アイオワ大学は見渡す限りトウモロコシ畑や麦畑の続く大平
原を見渡す低い丘の上に建てられている。そこで研究に打ち込
んだ河上は、なんと10ヶ月で「近代日本の政治思考」という
修士論文を英語で書き上げ、その優れた内容が評価されて翌年
には大学の出版局から1冊の本として出版される。日本国の起
源から、明治維新、自由民権運動、帝国憲法に至るまで、日本
の政治思想の流れを鋭く解説したこの本の序文で、河上は次の
ように述べている。

 私は日本という国をいつまでも愛しつづける。日本から
自分を切り離すようなことは絶対にないであろう。

 以後の河上は、日米確執の嵐の中で、この覚悟を何度も試さ
れることになる。

■4.華々しいデビュー■

 1906(明治39)年秋から河上はニューヨーク・タイムズの書評
欄で、K・K・カワカミの署名で定期的に登場するようになっ
た。日本やアジア関係の書物の評論が中心だった。前年の日露
戦争でアジアへの関心が高まっていたことも幸いしたとは言え、
28歳ではじめて米国に渡った青年が、わずか5年で米国を代
表する一流紙に認められたのである。

 翌年、シアトルで病気療養中に知り合ったミルドレッドと結
婚し、その故郷であるイリノイ州の小さな田舎町モメンスに居
を構え、長女ユリ、長男クラークと次々に授かった。河上は雑
誌や新聞に数多くの記事、論文を載せ、本も2冊出版して、米
国のジャーナリズム界ではすっかり有名になった。

 1913(大正2)年、二女マーシャも含め、河上一家5人はサン
フランシスコに移り住んだ。日本移民排斥の吹き荒れるカリフ
ォルニアが、日米関係の焦点となるという読みからだった。カ
リフォルニアでは、外国人の土地所有を禁止する法律が成立し
ていた。河上がミルドレッド名義で家を買おうとした時も、近
隣住民が反対運動を起こして、説得に苦労したほどだった。

 河上は日本人移民が勤勉かつ教育熱心であり、アメリカの社
会に溶け込もうと努力している事を説き、かつ欧州やアフリカ
からの移民には与えられる市民権が日本人移民には与えられな
い不公正を何度もついた。

■5.「日本は発言する・日中危機の中で」■

 1931(昭和6)年、満洲事変が起きると、日米関係の緊迫度は
いや増した。ただ、この時点では、米国の世論は日本断罪でま
とまっていたわけではなかった。たとえばニューヨーク・タイ
ムスの社説は次のように論じた。

 日本は満洲事変に関して効果的な広報をまったく欠いて
いる。日本の側にも数多くの点で正当な主張はある。国際
的な条約で認められた満洲での権益を中国側に侵害された
ことを主張する権利がある。・・・だが日本は国際世論へ
の配慮を怠り、激しい批判に対する自国の立場の説明や、
正当化をしないままに終わっている。

 国際連盟理事会での日中代表による公開討論会においても、
語学力、表現力の決定的な差によって、すっかり親中反日の空
気に覆われてしまった。「連盟はそれに影響されて、中国にあ
まりにも有利な見解を軽率すぎるほど早急に採用してしまっ
た」とこの社説は述べている。

 このような情況を座視できなくなったのであろう、河上は昼
夜兼行でタイプに向かい、「日本は発言する・日中危機の中
で」と題する本を大手マクミラン社から緊急出版した。タイム
リーな発言は、全米で評判になった。

 しかし、この書の序文には、時の日本首相犬養毅の序文がつ
いていた。著者の序文では河上は自分自身を「みずからの生ま
れた故国を深く愛しながらも海外に長く住んで欧米のものの見
方を十分に理解している愛国心あふれる日本国民」と規定した。

 それまでの著作のように中立客観的なアカデミズム、ジャー
ナリズムの立場でなく、はっきりと日本の側にたった政治的主
張と見なされても構わない、という覚悟がそこに表れていた。

■6.アメリカを敵とすべきではない■

 米国での日本擁護の発言と同時に、河上は日本の新聞にも頻
繁に寄稿して米国の世論を伝え、自制や譲歩を説いた。アメリ
カを敵とすべきではない、との信念であった。

 大阪毎日新聞への寄稿では、満洲国についてはアメリカは公
式にはなお不承認で日本に抗議しているものの、実際には既定
の事実としてあきらめてしまっている、アメリカに満洲への門
戸を開放せよ、と主張した。そして次のように警告した。

 ことに日本が北支(満洲と隣接する中国北部)に対して
いかなる態度をとるのか。これが米国の注意している点だ。
・・・日本がもし漫然と兵を進めて、武力一点張りで北支
に突出したとすれば、米国も黙視するわけにはいくまい。

 河上が最も激しく反対したのは、ドイツとの防共協定である。

 日独防共協定は表面は国際共産主義あるいはソ連の拡大
に対抗する予防作戦のようにみえるが、内実はアメリカと
イギリスへの対抗を目標としているようだ。もしいまはそ
うでなくとも、将来はかならずそうなる。この協定はやが
て軍事同盟になるであろう。だから、この協定は結局は日
米戦争の方向の第一歩となる危険性がある。

 透徹した視線は正確に日米戦争を見通していた。それを避け
るために河上は日米双方に向けて必死でペンをふるう。

 しかし、日本の新聞報道は激烈な対米強硬論に向かっていき、
自制を説く河上の論調はあまりにも「親米的」として次第に発
表の場を失っていった。同様に米国でもその日本擁護の立場は
人気をなくし、さらに追い打ちをかけるようにFBIからスパ
イ容疑をかけられた。こうして対米開戦の年、1941年夏には河
上はついにペンを捨ててしまった。

■7.「アジア人のアジア」■

 1941年12月7日(現地時間)真珠湾攻撃とともに、FBI
はかねてから用意してあった在米日本人、日系人の重要人物を
一斉に逮捕、抑留された。河上は「危険な敵性外国人」の最上
位のグループに入っていた。2ヶ月も勾留されて、翌年2月に
入ってから、ようやく審問が始まった。河上は堰を切ったよう
に語り始めた。

 アジアでの今の戦争は単なる武力衝突ではなく、思想的
な革命だと考えます。何世紀かに一度、全世界をゆるがす
ような革命です。その思想とは、簡単にいえば、「アジア
人のアジア」であり、私自身も青年時代から信じてきまし
た。・・・この戦争も根底にはアジア人を支配し搾取する
白色人種の"神権"に対する挑戦があります。・・・

 この戦争に日本は勝てないでしょう。だがたとえ日本が
滅びても、「アジア人のアジア」という思想や主義は厳然
と残るでしょう。そして戦後、オランダ領のインドネシア
も、イギリス領のビルマも、フランス領のインドシナも必
ずみな独立するでしょう。

 河上の雄弁に興味をもって聞き入っていた審問委員達は、さ
りげなく聞いた。「だが、あなた個人はできるなら日本がこの
戦争に勝つことを望むのではないか」 日本につくのか、アメ
リカにつくのか、という踏み絵の質問である。一瞬息を呑んだ
後、河上ははっきりと「ノー」と答えた。

 私は「アジア人のアジア」主義を実現するためには日本
が負けなければならないと信じます。日本は貧乏国である
ため、占領したアジアの国々に対しどうしても搾取政策を
とることになり、諸国の真の独立自立を助けることにはな
らないからです。

■8.「日本はまた先頭に立つ国となるでしょう」■

 河上の友人だったワシントン・ポストの元編集局長や国務省
高官、議会議員など各界の大物が嘆願書をFBIに送ってくれ
たお陰で、河上は70日間で抑留を解かれた。

 その後、河上は自ら進んで戦争情報局に協力することを申し
出て、日本兵士に投降を呼びかけるビラの文案作りを手伝った
りした。これは河上の保身であるとの解釈もあるが、負けると
分かっている戦争を早くやめさせることが祖国のためになる、
と考えたのかも知れない。

 ようやく戦争が終わると、河上はワシントンの自宅でひっそ
りと過ごした。ハーバード大学で講義しないかという話も辞退
した。妻の姉に送った手紙から、当時の河上の心境が読みとれ
る。

 健康のためにはあらゆる活動を犠牲にするのもやむを得
ない。私はまだまだ生きなければならないからです。長く
生きて日本が軍国主義のくびきを脱し、また豊かに栄える
のを見なければならない。「アジア人のアジア」という私
の永年の理想が現実になるのを見なければならない。そん
な新しいアジアでは、日本はまた先頭に立つ国となるでし
ょう。なんと言っても世界中の諸国が何世紀もかかって達
成したことを半世紀でなしとげた日本が、貧弱な敗戦国の
ままで長くいるはずはありません。

 ここでも河上の予言は恐ろしいほどに的中した。しかしそれ
を見ることなく、河上は1949年9月に没した。76歳だった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平

b. JOG(156) リカルテ将軍~フィリピン独立に捧げた80年の生涯

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 古森義久、「嵐に書く」★★★、講談社文庫、H2

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「河上清~嵐に立ち向かった国際言論人」について

 華のある人々の人生という物語に夢を馳せながら、一歩一歩
同じ異国の地で色々悩みながら悪戦苦闘する毎日です。僕はま
だ22歳。河上清が渡米するよりはやく渡米したのですが、こ
うして先達の偉業を目の当たりにしてみると、改めて日本人と
しての誇りが心の底から沸き上がるのを強く感じます。
(Hirokiさん)

 鎖国していた日本から、何故こんな人物が出たのか不思議で
す。私心を無くせば、こんなにも世界が見えてくるのでしょう
か?自分というものが無く、国のため、世界の為に尽くした姿
に体が震えるくらい感動しました。(宏さん、島根県)

 河上 清さんについての今回のコラムは、しみじみと、そし
て自分への強烈なメッセージとして、読ませていただきました。
自分もかくありたいという思いでいっぱいです。(泉 幸男さん
「国際派時事コラム」 http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/

by めい (2017-11-23 05:46) 

めい

↑のコメント、「放知技」板のmespesadoさんに注目していただきました。http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16256324/563/
さらにmespesadoさんが『「戦争ができる国」になってこそ、戦争のリスクを下げることができる、という逆説。』と書かれたことに、堺のおっさんが反応しておられます。

なお、「人物探訪:河上清~嵐に立ち向かった国際言論人」の記事は,
井上肇さんのfacebookで知りました。https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1502811863136875&id=100002242285683

河上清については、米沢日報デジタルで読んだことがあったのを思い出しました。ただ、その記事では河上清のすごさが理解できませんでした。
http://www.yonezawa-np.jp/html/museum/04kawakami.html
いまあらためて読んでみて、やはり曽根俊虎と深いつながりがあったようです。俊虎は雲井龍雄あっての俊虎でした。龍雄の「まっとうなアジア主義」的感覚は師安井息軒による薫陶の結果と思われます。その出身藩は宮崎の飫肥藩でした。安井息軒は鷹山公に並々ならぬ敬意を払って米沢を訪れています。飫肥藩と鷹山公の高鍋藩はほとんど隣同士、「まっとうなアジア主義」の源流は南九州なのかもしれません。あるいは飯山氏の本拠大隅地方につながるのか。

   *   *   *   *   *

563 名前:mespesado 2017/11/23 (Thu) 09:50:57 host:*.itscom.jp
 いつも『放知技』の記事を盛んに引用して整理してくれているめいさんという方のブログの

アジア主義と置賜(3) その源流 雲井龍雄 [アジア主義]
http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2016-08-08

という記事のコメント欄に、めいさん自ら「国際派日本人養成講座」の中の「人物探訪:河上清~嵐に立ち向かった国際言論人」という記事を引用しておられ、その河上清という言論人のおそるべき先見性に感動を覚えたので、そのサイトをここでも紹介させていただきます:

人物探訪:河上清~嵐に立ち向かった国際言論人
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog210.html

>  明治34(1901)年、河上はアメリカ留学に出発した。青山学院での友
> 人がアイオワ大学に留学しており、政治学部のベンジャミン・シャボウ
> 教授に河上の記事を紹介した所、河上に関心を持って、奨学金を出して
> 研究生として迎えるという措置をとってくれたのである。

>  アイオワ大学(中略)で研究に打ち込んだ河上は、なんと10ヶ月で
> 「近代日本の政治思考」という修士論文を英語で書き上げ、その優れた
> 内容が評価されて翌年には大学の出版局から1冊の本として出版される。
> (中略)この本の序文で、河上は次のように述べている。

>    私は日本という国をいつまでも愛しつづける。日本から自分
>   を切り離すようなことは絶対にないであろう。

>  1906(明治39)年秋から河上はニューヨーク・タイムズの書評欄で、K
> ・K・カワカミの署名で定期的に登場するようになった。日本やアジア
> 関係の書物の評論が中心だった。前年の日露戦争でアジアへの関心が高
> まっていたことも幸いしたとは言え、28歳ではじめて米国に渡った青
> 年が、わずか5年で米国を代表する一流紙に認められたのである。

>  1931(昭和6)年、満洲事変が起きると、日米関係の緊迫度はいや増し
> た。ただ、この時点では、米国の世論は日本断罪でまとまっていたわけ
> ではなかった。たとえばニューヨーク・タイムスの社説は次のように論
> じた。
>    日本は満洲事変に関して効果的な広報をまったく欠いている。
>   日本の側にも数多くの点で正当な主張はある。国際的な条約で
>   認められた満洲での権益を中国側に侵害されたことを主張する
>   権利がある。・・・だが日本は国際世論への配慮を怠り、激し
>   い批判に対する自国の立場の説明や、正当化をしないままに終
>   わっている。

>  国際連盟理事会での日中代表による公開討論会においても、語学力、
> 表現力の決定的な差によって、すっかり親中反日の空気に覆われてしま
> った。「連盟はそれに影響されて、中国にあまりにも有利な見解を軽率
> すぎるほど早急に採用してしまった」とこの社説は述べている。
>  このような情況を座視できなくなったのであろう、河上は昼夜兼行で
> タイプに向かい、「日本は発言する・日中危機の中で」と題する本を大
> 手マクミラン社から緊急出版した。タイムリーな発言は、全米で評判に
> なった。

>  米国での日本擁護の発言と同時に、河上は日本の新聞にも頻繁に寄稿
> して米国の世論を伝え、自制や譲歩を説いた。アメリカを敵とすべきで
> はない、との信念であった。
>  大阪毎日新聞への寄稿では、満洲国についてはアメリカは公式にはな
> お不承認で日本に抗議しているものの、実際には既定の事実としてあき
> らめてしまっている、アメリカに満洲への門戸を開放せよ、と主張した。
> そして次のように警告した。

>    ことに日本が北支(満洲と隣接する中国北部)に対していか
>   なる態度をとるのか。これが米国の注意している点だ。
> ・・・日本がもし漫然と兵を進めて、武力一点張りで北支に突
>   出したとすれば、米国も黙視するわけにはいくまい。

>  河上が最も激しく反対したのは、ドイツとの防共協定である。

>    日独防共協定は表面は国際共産主義あるいはソ連の拡大に対
>   抗する予防作戦のようにみえるが、内実はアメリカとイギリス
>   への対抗を目標としているようだ。もしいまはそうでなくとも、
>   将来はかならずそうなる。この協定はやがて軍事同盟になるで
>   あろう。だから、この協定は結局は日米戦争の方向の第一歩と
>   なる危険性がある。

>  透徹した視線は正確に日米戦争を見通していた。それを避けるために
> 河上は日米双方に向けて必死でペンをふるう。

>  1941年12月7日(現地時間)真珠湾攻撃とともに、FBIはかねて
> から用意してあった在米日本人、日系人の重要人物を一斉に逮捕、抑留
> された。河上は「危険な敵性外国人」の最上位のグループに入っていた。
> 2ヶ月も勾留されて、翌年2月に入ってから、ようやく審問が始まった。
> 河上は堰を切ったように語り始めた。

>    アジアでの今の戦争は単なる武力衝突ではなく、思想的な革
>   命だと考えます。何世紀かに一度、全世界をゆるがすような革
>   命です。その思想とは、簡単にいえば、「アジア人のアジア」
>   であり、私自身も青年時代から信じてきました。・・・この戦
>   争も根底にはアジア人を支配し搾取する白色人種の"神権"に対
>   する挑戦があります。・・・

>    この戦争に日本は勝てないでしょう。だがたとえ日本が滅び
>   ても、「アジア人のアジア」という思想や主義は厳然と残るで
>   しょう。そして戦後、オランダ領のインドネシアも、イギリス
>   領のビルマも、フランス領のインドシナも必ずみな独立するで
>   しょう。

>  河上の雄弁に興味をもって聞き入っていた審問委員達は、さりげなく
> 聞いた。「だが、あなた個人はできるなら日本がこの戦争に勝つことを
> 望むのではないか」 日本につくのか、アメリカにつくのか、という踏
> み絵の質問である。一瞬息を呑んだ後、河上ははっきりと「ノー」と答
> えた。

>    私は「アジア人のアジア」主義を実現するためには日本が負
>   けなければならないと信じます。日本は貧乏国であるため、占
>   領したアジアの国々に対しどうしても搾取政策をとることにな
>   り、諸国の真の独立自立を助けることにはならないからです。


>  ようやく戦争が終わると、河上はワシントンの自宅でひっそりと過ご
> した。ハーバード大学で講義しないかという話も辞退した。妻の姉に送
> った手紙から、当時の河上の心境が読みとれる。

>    健康のためにはあらゆる活動を犠牲にするのもやむを得ない。
>   私はまだまだ生きなければならないからです。長く生きて日本
>   が軍国主義のくびきを脱し、また豊かに栄えるのを見なければ
>   ならない。「アジア人のアジア」という私の永年の理想が現実
>   になるのを見なければならない。そんな新しいアジアでは、日
>   本はまた先頭に立つ国となるでしょう。なんと言っても世界中
>   の諸国が何世紀もかかって達成したことを半世紀でなしとげた
>   日本が、貧弱な敗戦国のままで長くいるはずはありません。

>  ここでも河上の予言は恐ろしいほどに的中した。しかしそれを見るこ
> となく、河上は1949年9月に没した。76歳だった。

 できれば引用先で全文を読んでいただいた方がいいと思いますが、私は
『放知技』での堺のおっさんの先見性のある文章を読みながら、それに引
き換え、昨今の日本の「有識者」であるはずの学者、評論家、ネット識者
の冴えない文章にがっかりしてきたものですが、昔の日本にはすごい先見
の明がある人物がいたものだと改めて感心した次第です。
 なお、この記事を提供している「国際派日本人養成講座」というサイト:http://blog.jog-net.jpには、他にも興味深い記事が載っていて、例えば最近の記事:

No.1036 戦争と平和の逆説
~ エドワード・ルトワックの『戦争にチャンスを与えよ』から
http://blog.jog-net.jp/201711/article_3.html

も、なかなか読み応えがありました。『「戦争ができる国」になってこそ、戦争のリスクを下げることができる、という逆説。』という、一見ギョッとするタイトルの記事ですが、非常に説得力があります。そして、この記事の最後の方には安倍政権の国際戦略にも触れられていて、

>  以上を踏まえれば、ルトワックが「安倍首相はまれに見る戦略家だ」
> [1,544]と言う理由がよく分かるであろう。

>  第一に、安倍首相は左翼が言うように日本を「戦争ができる国」に
> しようとしている。それは戦争のリスクを減らすために、必要不可欠
> なことだからだ。
  (中略)
>  自由民主主義国家にとって大切な事は、国民が「平和が欲しければ
> 戦争に備えよ」「戦争ができる国になることが戦争のリスクを減らす」
> という防衛の逆説を理解し、多くのマスコミの偏向報道を見破って、
> 正しい戦略をとっている政治家を後押しすることである。

と結ばれています。長文多謝

564 名前:堺のおっさん 2017/11/23 (Thu) 12:41:20 host:*.ocn.ne.jp
>>563 メッさん
>『「戦争ができる国」になってこそ、
>戦争のリスクを下げることができる、という逆説。』
禿同!
まさに金正恩も忠実に実行しています。
どこと事を構えるのかで、軍備の内容がかわるだけです。
金正恩は韓国ではなく、アメリカと戦う気で実行。

日本も潜在的核保有国になるでしょう。
さて、その時の仮想敵国は?

by めい (2017-11-23 14:28) 

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