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「風の谷のナウシカ」舟山やすえちゃん [舟山やすえ]

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一昨日5月26日の晩、舟山やすえちゃんを囲む会に参加してきました。われわれ世代とその子ども達世代約20名ほど。この日やすえちゃん、ちょうど半世紀を生きて50歳の誕生日、バースデーケーキのプレゼント、ハッピーバースデーをみんなで歌うというサプライズもありました。やすえちゃんの世の中を見る目のたしかさ、人柄の良さ、誠実さについてあらためて確認できたいい会でした。

 

私自身も含めて、ウヨクかサヨクかの括りで言えばウヨク、保守か革新かの括りで言えば保守、明らかにそう色分けされる集まりでした。徳田虎雄理事長がつくった「獅子の会」の仲間、米沢から参加の同志S氏などは自称軍事力専門家。憲法問題、防衛問題に踏み込めばそれぞれが一家言、それこそ「獅子の会」伝統の「突き合い」になりかねません。S氏も参加すると聞いていたので、私も久しぶり、そこそこの「突き合い」は覚悟していました。しかし、そうはなりませんでした。

 

私たち世代はいろんな場で言いあい、議論をしたものでした。はじめっから丸く収めようなどとは決して思いませんでした。みんな言うだけ言いあえば、そこからおのずとひとつの道筋が見えてくる、けんか腰もありましたが、最後はちがいはちがい一致は一致でそれはそれ、そうして言いあったものでした。それがひとりひとりの活力にも世の中全体の活力にもつながっていったのだと思います。

 

そうした思いからすると、安倍政権の姿勢はがまんなりません。議論にならない以前に議論しようとはしないのです。言いくるめる、はぐらかす、その場を切り抜けることしか考えていない、そうとしか見えません。フクイチの現状を「アンダーコントロール」と言いくるめ、「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない」はずがいつのまにかしらんふり、「経済第一」の行きつくところの軍事力増強、そのための安保法制、憲法改悪、その先にあるのは宗主国アメリカ様の言いなりの「戦争のできる国」。「アベノミクス」「三本の矢」も所詮お題目、暮らしはさっぱり豊かにならず貧しさに向っているのが実感です。1%の富裕層と残りの貧困層、中間層がぬけ落ちて二極化の進行です。

 

2年前に書いた文章があります。私の体験をもとに書きました。ここで登場する伊藤哲夫さんは、いま話題の『日本会議の研究』(菅野完 扶桑社新書 2016.5)でも「安倍首相の筆頭ブレーン」として詳しく取り上げられています。(155p166-200p239p234-246p254-255p258p290p292p297p )

 

*   *   *   *   *

 

政治が民からどんどん遊離させられている。昔はそうではなかった。地域を思う、国を思うことにみんなもっとエネルギーを注いでいた。いつのまにかみんな個のタコツボに入ってしまっているのがあたりまえになり、政治は特別な人のものになってしまっている。権力をにぎる側にとっては好都合なことだ。いろんな面での二極化と軌を一にしています。

 

「国民の生活が第一」、政党名にもなった。遠い昔のことのように思えるが、2年前のことだった。政党名になる前、鳩山さんや小沢さんが民主党の実権を握っていたわずかな時代、この言葉をかかげたポスターがあちこちに貼られていたものだった。平成22914、民主党代表選で小沢さんが敗れた日、この日が日本の分水嶺だった。あの日まっとうに小沢さんが選ばれていれば東北大震災もなかった、そう思えてしょうがない。なぜ今更「集団的自衛権」なのか。自民党のなかにも「アンタらより若い人たちが戦場に行き殺されるかも知れないんだよ?そんな大事なことを・・閣議決定で簡単に決めて良いのか?」(村上誠一郎衆院議員)と正論を吐く人もいるにはいる。しかしそんな声は掻き消されてしまう。公明党も政権与党であり続けるために「平和の党」の大原則を脱ぎ捨てた。

 

安倍首相の陰にいつも思い浮かべる人がいます。日本政策研究センター所長の伊藤哲夫さんです。懐かしい人です。「新しい歴史教科書をつくる会」運動に関わる以前からの付き合いでした。私とは同年代、新潟大学の出身です。学生時代から「生長の家」に属し、大学紛争の時代右翼側で当時の全共闘と対峙したと聞いたことがあります。その後、「生長の家」の内部で政治に対する考え方の対立が生じ、「生長の家」から出て新たなグループ(ビジョンの会)を立ち上げました。私が市議をやっていた頃、その山形のグループ、山形ビジョンの会の方々と出会ったのでした。その会のK会長さんによって、「新しい歴史教科書をつくる会」運動の渦中に入り込むことになりました。山形県支部の活動は全国でもトップレベルだったと今も自負します。ほんとうに本気でした。それだけに当時の仲間は「同志」というのがぴったりで、今でもひとりひとりが懐かしい。

 

その伊藤さんの講演の中でだったと思います。「アメリカに一週間ほど滞在して、その間何人ものアメリカの要人と会ってきた。」と多少自慢げに話されたことがありました。その後あらためて「ジャパンハンドラーズ」の存在を知るに及んで、その時の「アメリカ要人」とは誰だったのか聞いておくべきだったと思ったのですが、もうお会いする機会もありませんでした。2006-03-21 に書いたこんな記事があります。http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2006-03-21

 

19日に伊藤哲夫日本政策研究センター所長が来られるとのことで、久しぶりにビジョンの会例会に参加してきた。会場で「立ち上がれ!日本」ネットワーク山形支部の設立の会合であることを知った。地方支部としては第一号とのことだった。はじめての顔ぶれも多かった。

伊藤所長の話の中で、中国、北朝鮮を批判するに「自由と人権」を持ち出されることに違和を感じて質問した。「もっと別の言葉はないのだろうか」と。伊藤氏も自覚しておられるようで、「しかし、『自由』と『人権』という言葉は国際的には力を持つ」と答えられた。私には、アメリカによる占領下の「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」を批判し、その流れでサヨクの持ち出す「人権」に異議を唱えつつ、中国、北朝鮮を「自由と人権」の視点で批判するというダブルスタンダード、結局アメリカの言い分に巻き込まれている今の日本の「保守」の姿が見えてくる。日本本来の保守の立場とは、そうではないはずなのだ。としたら、「日本本来の保守の立場」とは何なのか。「もっと別の言葉」を本気で探したいと思った。

 

このときがお会いした最後でした。ジャパンハンドラーズとのつながりを思わされます。本来あるべき「スジ」が失われています。「スジを通す」の「スジ」です。その場その場都合のいい論理をつなぎあわせるようになったら理論家としてはおしまいです。伊藤さんは「理論家」というより「オルガナイザー」だったかもしれません。

 

安倍首相が世の注目を集めるようになったのは、平成14年、副官房長官として小泉首相と共に訪朝し、拉致問題について強硬路線を主張したことからですが、伊藤さんと安倍首相とのつきあいはずっとそれ以前からです。安倍さんの初当選が平成5年、保守系議員のシンクタンク的役割を果たす日本政策研究センターの設立が昭和59年ですから、議員当選当初から伊藤さんは良きアドバイザー、あるいは指南役だったと思います。そうしたことから教科書問題に取組む私たちにとって、安倍さんは中川昭一さん等と共に最も信頼に足る国会議員と思っていたものでした。安倍さんの兄貴分といわれる衛藤晟一議員は、伊藤さんとは「生長の家」以来のいわば身内です。

 

私は、平成13年の9.11をきっかけに始まるアメリカによるイラク侵攻、小泉政権下の自衛隊派遣という流れの中で、少しずつ「つくる会」の運動から距離を置くようになります。並行して副島さんの文章をよく読むようになりました。西尾幹二先生に副島さんとの対談を提案したら、すごい剣幕で「あんな奴はわれわれの間では信用ない」と言われて驚いたことがありました。しかし私は、副島隆彦さんの説く「アジア人同士戦わず」に深く共感しました。副島さんの文章は「正論」では読んでいましたが、最初に買った本は『堕ちよ!日本経済ーアメリカの軛から脱するために』です。この本の発行が平成128月ですから、翌年9.11が起きたときにはかなり副島さんの愛読者になっていたと思います。『副島隆彦の学問道場』はいちばん先にチェックするサイトになっていました。一時は一年1万円の会員にもなっていました。今でも副島さんは良き水先案内人です。いま『ダヴィンチ・コード』をおもしろく読んでいますが、もとをたどると副島さんの『隠された歴史:そもそも仏教とは何ものか?』でマグダラのマリアについて教えられたことからです。

 

「日本をアメリカの属国にしておくための対日操作班ジャパンハンドラーズが存在する」。今ではもう「常識」と言っていいかもしれませんが、副島さんグループが最初に言い出したことでした。このことでハッと思い起こしたのが、伊藤さんの「アメリカの要人と会ってきた」という話でした。いつのまにか、伊藤さん、アメリカの操り人形にさせられているのではないだろうか。

 

平成189月、第一次安倍内閣誕生。「美しい国」「戦後レジームからの脱却」というテーマ設定に、安倍さんらしいな、伊藤さん張り切っているんだろうな、と思っていました。しかし翌年9月、1年そこそこで体調不良を主な理由に突然の辞任、だれもがもう再起不能と思ったものでした。ところがどっこいそうではありませんでした。平成249月の自民党総裁選挙で石破氏に逆転勝利、12月の衆院選で294議席を獲得して圧勝、そして二度目の安倍内閣誕生。第一次安倍内閣の失敗からの学習効果は大きかったようで、たくましく変身を遂げていました。本来の安倍カラー満載、それは私がかつてその中にいた世界そのままでした。安倍さんがそうしたカラーを打ち出す度、伊藤さんの影を感じずにおれませんでした。

 

教科書運動に躍起になっていた頃のことですが、伊藤さんと話していて心配になったことがありました。米沢で教科書問題について講演していただいた時のことです。「われわれの歴史教科書が採用されたとして、現場の混乱が心配だけどどう思いますか。」と言ったとき、いとも簡単に「それは心配ない。」の言葉でとりつくしまもなかったのです。どういうふうに心配ないのか、いま安倍さんのやり方を見ていて、「反対するやつなんか無視してどんどん進めるから、心配ない」ということだったのかと理解できたように思うのです。「自分たちは絶対正しい、まちがいない」のです。

 

伊藤さんも安倍さんも善意の人です。いい人です。だから「たくらみ」に屈するのです。どうすれば気づくことができるのでしょうか。どうにも抜き差しならぬところまで行かねば気づけないのかもしれません。としたら国民にとって実に不幸なことです。

 

*   *   *   *   *

 

以上、南陽市長選挙に際して書いた文章ですが、いま安倍さんのやり方を見ていて、「反対するやつなんか無視してどんどん進めるから、心配ない」ということだったのかと理解できたように思うのです。「自分たちは絶対正しい、まちがいない」のです。》と、安倍政権の危うさを指摘したつもりでした。あれから2年、多くの心ある国民はこのことに気づいています。「心ある国民」とは、新聞テレビのマスコミ報道や日々の人間関係のみにどっぷり浸かることなく、ネット情報や書籍に拠る情報をもとに自分なりに「考える」ことのできる国民です。「考える」結果、目先のことだけに惑わされずに「自分の立ち位置が見える」ようになります。「知識」ではなく「知恵」の問題です。

 

ナウシカ4口絵.jpg

やすえちゃんに戻ります。 

 

やすえちゃんに「先生」は全く似合いません。「舟山さん」「やすえさん」と言ったこともありますが、知るほどにやっぱり「やすえちゃん」なのです。

 

3年前、みどりの風のメンバーがお互い同士を紹介しあうサイトでどなただったか、やすえちゃんを「風の谷のナウシカそっくり」と言っていました。それ見てから私も自然にやすえちゃんとナウシカがオーバーラップしてしまいます。

 

 宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』は、人類の最終戦争から1000年後の世界を描いた不朽の名作だ。/ 「風の谷」の周りには戦争で汚染された森「腐海(ふかい)」が広がり、巨大に進化した生物「王蟲(おうむ)」が蠢めいている。この腐海の謎に挑むのが、少女ナウシカである。http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130403/246104/

 

浄化力とでもいうのでしょうか、ウヨク・サヨク、保守・革新、そうした違いを超えたレベルでのやすえちゃんの存在意義が、自然に参会者ひとりひとりの心の中にしみわたりました。政治家として、というのもぴったしこないのですが、とにかく政治家として希有な存在です。聴くほどに語るほどにそう思えたいい会合でした。何としてでも国政の場に送り出さねばなりません。山形県民はその重大な責任を負っています。数要員でしかない人物を当選させる愚は一度きりにせねばなりません。


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宮崎駿さんが「ナウシカのこと」と題して書いたいい文章があります。付け加えておきます。


《ナウシカは、ギリシャの叙事詩オデュッセイアに登場するパイアキアの王女の名前である。私はバーナード・エヴスリンの『ギリシア神話小事典』(社会思想社刊教養文庫、小林稔訳)で彼女を知ってから、すっかり魅せられてしまった。その後、ホメロスのオデユッセイアを小説化したものを読んでみたが、期待に反してそこでの彼女には、エヴスリンの小事典にあるような輝きはなかった。それで、私にとってのナウシカはあくまでも、エヴスリンが文庫本3頁半分で描写した少女なのである。

彼もナウシカに特別の好意を持っているらしいのは、ゼウスやアキレウスの如き大立物にも1頁そこらしか費やさない小事典で、彼女にだけ前記の頁数をさいていることから充分推測できる。

 ナウシカ・・・・・俊足で空想的な美しい少女。求婚者や幸福よりも、竪琴と歌を愛し、自然とたわむれることを喜ぶすぐれた感受性の持主。漂着したオデュッセウスの血まみれの姿を怖れず、彼を救け、自ら手当をしたのは彼女である。即興の歌で彼の心を解くのも彼女である。ナウシカの肉親は、彼女がオデュッセウスに恋することを心配し、彼をせきたてて出帆させる。彼を乗せた船が見えなくなるまで岸辺で見送った彼女は、その後ある伝説によれば終生結婚せず、最初の女吟遊詩人となって宮廷から宮廷へと旅して、オデュッセウスと彼の冒険の航海を歌いつづけたという。

 エヴスリンは最後に書く。

 「この乙女は、偉大な航海者オデュッセウスの風雨にさらされた心の中に、格別な場所を占めていたのである」(小林稔訳)

 ナウシカを知るとともに、私はひとりの日本のヒロインを想い出した。たしか、今昔物語にあったのではないかと思う、虫愛(め)ずる姫と呼ばれたその少女は、さる貴族の姫君なのだが、年頃になっても野原をとび歩き、虫が蝶に変身する姿に感動したりして、世間から変り者あつかいにされるのである。同じ年頃の娘たちなら誰でもがする、眉をそり歯を御歯黒に染めることもせず、その姫君はまっ白な歯と黒い眉をしていて、いかにも様がおかしいと書いてあった。

 今日なら、その姫君は変り者あつかいはされないだろう。一風変っているにしても、自然愛好家とか個性的な趣味の持主として、充分社会の中に場所を見出す事が出来る。しかし、源氏物語や枕草子の時代に、虫を愛で、眉もおとさぬ貴族の娘の存在は、許されるはずもない。私は子供心にも、その姫君のその後の運命が気になってしかたがなかった。

 社会の束縛に屈せず、自分の感性のままに野山を駆けまわり、草や木や、流れる雲に心動かしたその姫君は、その後どのように生きたのだろうか・・・・・。今日なら、彼女を理解し愛する者も存在し得るが、習慣とタブーに充満した平安期に彼女を待ちうけた運命はどのようなものであったのだろう……。

 残念なことに、ナウシカとはちがって、虫愛ずる姫君には出会うべきオデュッセウスも歌うべき歌も、束縛を逃れて流浪らうあても持っていなかった。しかし彼女に、もし偉大な航海者との出会いがあったなら、彼女は必ず不吉な血まみれの男の中に、光かがやくなにかを見い出したはずである。

 私の中で、ナウシカと虫愛ずる姫れはいつしか同一人物になってしまっていた。

 今回『アニメージュ』の人々にマンガを描くようにすすめられて、ついうかうかと自分流のナウシカを描きたいと思ったのが運のつきとなり、とうの昔に才能ナシとマンガを断念したその理由を、もう一度かみしめるはめになっている。今はもう、なんとかしてこの少女に、解放と平和な日々へたどりついてもらいたいと願っている。》(アニメージュコミックス『風の谷のナウシカ1』徳間書店 1985

 

「解放と平和な日々」に向けて———「風の谷のナウシカ」こと、やすえちゃんに期待します。 


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