SSブログ

鷹山公とケネディ大統領、魂の響きあい [上杉鷹山]

懐風第41号.jpg懐風第41号目次.jpg

米沢御堀端史跡保存会の年刊誌「懐風」第41号が届いた。20数年前、尾崎哲雄先生からいただいたのが最初だった。大正11年生れの尾崎先生は米沢のお住まいを離れ、奥さんと共に娘さんのおられる山形市の施設に移っておられたが昨年亡くなられた。そもそも直江兼続の実母探求にはまっていったのは先生の声がけがあってのことだった。今号には同じ尾崎一族の尾崎世一さんが「尾崎姓発祥の地を訪ねて」の稿を寄せておられる。今回「鷹山公とケネディ大統領、魂の響きあい」と題して書かせていただいた。6年前にも「和光神社が結ぶ歴史的奇遇 ― 兼続の母の実家、尾崎家との関わりの中で」と題して書かせていただいたことがある。今回は、ケネディ大統領が鷹山公のどこに心を動かされたかについて、「伝国の辞」碑とキャロライン大使との関わりの経緯をふりかえりつつ考えてみた。

 

   *   *   *   *   *

 

鷹山公とケネディ大統領、魂の響きあい

 

はじめに


「伝国の辞」碑.jpg

 平成二十年、南陽市宮内の齊藤喜一さんが「鷹山公の碑 白鷹山にぜひ」という投書を山形新聞に寄せたことから始まった。普通ならここでそれきりというのが投書の常のところ、思いがけなく山辺町作谷沢の樋口和男さん(山辺町議)の共鳴を得て、二人で行政に働きかけるまでになった。ところが動きかけた行政も、ちょうど「天地人」が話題の時期であり、「上杉vs最上」の確執が「置賜vs村山」へと発展しかねないとの杞憂で及び腰、結局民主導で平成二十五年春「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」が発足、鷹山公の御徳の然らしめるところ予定を超えた協賛を得て副碑も建てることとし、平成二十六年五月十三日の除幕となった。

 この過程の中でキャロライン・ケネディ大使の理解を得、また御支援をいただく結果となったことは、当初全く予期せざる、まさに鷹山公冥界からのおはたらきかけを感ぜずにはいられないことであった。この経緯を振り返りつつ、鷹山公とケネディ大統領とのいわば魂の響きあいについて、浅学を顧みず忖度してみることとします。


白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会とキャロライン大使


 白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会が、就任間もないキャロライン・ケネディ米大使にに宛てて、除幕式御列席案内の手紙を差し上げたのは平成二十五年十一月二十二日のことだった。翌二十三日はケネディ大統領の満五十年の命日。『代表的日本人』と『武士道』の英語版を同送し、手紙にはこう記した。


  《大使様がご存知かどうかですが、実はご父君ケネディ大統領が亡くなられて間もなくの頃から、「ケネディ大統領が最も尊敬する政治家として上杉鷹山公の名前をあげられていた」という話が広く語られるようになりました。キリスト教思想家内村鑑三(1861-1930)が英文で書いた「代表的日本人Representative Men of Japan」、あるいは国際連盟事務次長を務めた農学者にして教育者新渡戸稲造(1862-1933)の「武士道Bushido: The Soul of Japan」を通して鷹山公についてお知りになったということでした。(ただしそのことを実証するものはまだ見つかってはおりません。お父上の蔵書の中にいずれかが存在することを期待しています!)このことによって、私どもの郷土の偉人鷹山公の偉大さが一層輝きを増すことになったのは言うまでもありません。と同時に、ケネディ大統領が私どもにとってたいへん身近な存在となって現在に至っているのです。》


 あるいはこの手紙がきっかけかどうかはともかく、十一月二十七日、キャロライン大使がホテルオークラでのスピーチでこう語った。


 《私の父は、優れた統治、そして公的利益のためには身をいとわなかったことで知られる、十八世紀の東北の大名上杉鷹山を称賛していました。鷹山は、民主的な改革を導入し、いろんな新しいやり方で、異なる社会階級の人々が共に一緒になって自分たちのコミュニティに参加し奉仕することを奨励しました。彼は質素な生活を送り、将来に向けて学校をつくり、さまざまな産業を興しました。人々の奉仕を求めるケネディ大統領の有名な呼びかけにも共鳴しあうような言葉を残しています。「国家とはわれわれの先祖から受け継いだものであって、私たちの子孫に渡してやるべきものです。私たちの個人的な所有物であると考えてはなりません。(国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候) あなたがそう思ってそうやれば、そう成ります。何事もしようとしなければ成らないのです。ものごとが成らないのは、その人がそのことをやろうとしなかったからです。(為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり)」》


 米沢を中心に「ケネディ大統領の尊敬する政治家が鷹山公というのは都市伝説」というのが通説になりつつあった中で、大使発言が報じられるや、波紋は大きく広がった。二十九日の山形新聞、《「霧晴れた」沸く米沢/市長、招聘に意欲》の見出しが躍る。県も招聘に向けて動き出す。そうした公的勢いの中で、「伝国の辞」碑除幕式ご招待の方はすっかりかすんでしまったが、なんとか踏ん張って、副碑に刻む大使からのメッセージをいただくことができた。碑建立の目的である「世界に届け!鷹山公精神」の、まさにその実現であった。

 

Ask not what your country can do for you 

    Ask what you can do for your country”

        President  John F. Kennedy,

        An admirer of Uesugi Youzan


               Caroline Kennedy

               U.S. Ambassador to Japan


  「国家があなたに何をしてくれるかではなく、

  あなたが国家に何をできるかを問おうではないか。」

       大統領 ジョン・F・ケネディ

       上杉鷹山の称賛者


               キャロライン・ケネディ

                   アメリカ駐日大使》


 さらに白鷹山に古来続く民俗行事「高い山」、平成二十六年五月十三日の除幕式の前日の夕方、大使からのお祝いのメッセージが届いた。以下、日本語訳。


《二〇一四年五月十二日

 米国民およびケネディ家を代表し、上杉鷹山公を記念する石碑にケネディ大統領の言葉を刻み、父をたたえていただいたことに感謝いたします。本日の除幕式に伺うことができず申し訳ありません。けれども私の心は皆さんと共にあります。

 賢明な統治を行い、公益に殉じる覚悟を持っていた上杉鷹山公を、父は大変尊敬していました。鷹山公は民主改革を実施し、異なる社会階級の人々が手を携えて社会に尽くすことを奨励したほか、学校をつくり事業を興して未来への投資という英断を下しました。何世紀も時を隔てていたにもかかわらず、鷹山公と父の心は共鳴し合っていました。「国家があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国家に何ができるかを問おうではないか」というケネディ大統領の言葉と、鷹山公の「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉は、今も変わらず真実です。

 石碑の完成おめでとうございます。この碑は今後何世代にもわたり、日本と米国の人々に影響を与え続けることでしょう。      キャロライン・ケネディ》

 

山形県官民挙げての招聘運動の結果、この年九月二十七日、「なせばなる秋祭り」に大使の米沢訪問が実現した。私的な旅行とのことで、なんとか白鷹山にお出でいただけないかと打診したが日程的に無理との回答、しかしなんと驚いたことに、伝国の杜に降り立ったケネディ一家の首には、若き鷹山公と伝国の辞を染めた手拭が掛けられていたのだ。碑の除幕の記念に会が作成し、大使にも二十本ほど送っていた手拭である。われわれにはなんともうれしいメッセージだった。実はその手拭を贈ったとき、大使のサイン入り礼状をいただいていた。アメリカ合衆国の国章のある正式用紙に記されていた。以下、日本語訳。


キャロライン大使からの礼状.jpg

《東京 アメリカ大使館              

白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会

齊藤さんと高岡さんへ

 親愛なる齊藤さんと高岡さん、

 私は、上杉鷹山を称える南陽市の記念碑に、父と私の名前が一緒に刻まれたことを光栄に思います。 私は除幕式には出席できませんでしたが、この大変尊敬されるべき日本のリーダーの記念碑をいつか訪れることを楽しみにしています。

 記念の手拭とパンフレットありがとうございました。いくつかをジョン・F・ケネディ大統領図書博物館の同僚にもお分けしたところです。皆様の深い御配慮、ほんとうにありがとうございました。

                                                                          キャロライン ケネディ》


 この一連の経過の中で、鷹山公がキャロラインさんの心にしっかりと印象づけられるようになったことはまちがいない。


ケネディ大統領は鷹山公を知っていたか


「上杉鷹山を称賛」記事.jpg

 駐日大使の候補にキャロライン・ケネディさんの名前があがった当初から一貫して、「伝国の辞」碑の発案者である齊藤喜一会長は、除幕式への大使列席を願っていた。「都市伝説」説に呑み込まれていていささか消極的だった私も、会長の強固な意志に圧されて、都市伝説にしろそういう話があることを知ってもらうのはいいことだと思い直して書いたのが十一月二十二日の手紙だった。それだけに、二十八日の朝、「父は上杉鷹山を称賛」という山形新聞の大きな見出しを見たときはほんとうに驚いた。大使がそう発言した根拠はほんとうにあるのだろうか。

 翌二十九日の山形新聞は、米沢市民の熱狂を伝える半面、遠藤英先生の《「彼女がどこで元大統領の話を聞いたのか、出どころがはっきりしていない。日本人に受ける話として、この発言をしたのでは」》との言葉を紹介しつつ、《歴史研究家たちの調査の結果、そのような発言がされた公式な記録は確認されていない。》と書くことも忘れてはいなかった。

 大使招聘に向けた盛り上がりの中、十二月二十日、カート・トン駐日米首席公使が山形を訪問、大使の演説について《元大統領が一九六一(昭和36)年、記者に対して『尊敬ずる日本の政治家は上杉鷹山』と発言したとの情報はあるが、現段階で正式な記録は見つかっていない」と説明。ただ、元大統領の公の発言、手紙などは全て米国内に公文書として残されているとし、これらの文書を保管している米・ボストンのケネディ図書館で在日米大使館が調査を開始したことを明らかにした。文書量は膨大で、調査に要する日数は不明という。》(山形新聞)と報じられた。この限りでは大使発言の根拠はあいまいであり、その後の調査結果についての続報はまだない。

 ではやはり都市伝説か。私はそうは思わない。齊藤会長ともその後の渉猟の結果、その根拠を、平成十八年五月二十九日東海市の西方寺におけ「生き方の指針となる平洲先生のことば」と題する童門冬二氏の講演に見た。ネットで全文読むことができるし、音声もCD化されている。安部市長はじめ三十人近い米沢からの聴講者があったらしい。


《伝国の辞を意訳してしまえば、民は大名や城に勤める役人のために存在はしていない。民のために、大名と家臣が存在しているんだということです。これは立派な主権在民の思想です。この発言があったのが一七六〇年。まだジャン=ジャック・ルソーは生まれてない。フランス革命も起こってない時代です。
つまり個人的人権がどうこう以前の問題でしょう。そんなときに、すでに主権在民の発想をなぜこの一封建大名が言ったんだろうか。そういう疑問を持ったのが、日経新聞の論説委員長も務めた評論家の大和勇三という人です。先輩です。この人が、一九六〇年代、ワシントン支局にいたんです。
あるとき、日本人の、ワシントン支局にいるような日本の新聞記者、テレビの記者が、時の大統領と非公式な会見をしました。時の大統領は、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディです。こう聞いたわけです。
「あなたは非常に世界史にお詳しいし、またいろんな偉い人の言葉を演説なんかに引用されています。日本人でだれか、関心を持った方がおありですか
?」「一人おります」「だれですか?」「上杉鷹山です」こっちは、そんな人知らねえ。「お前、上杉鷹山、知っているか?」「知らねえ、そんな奴」「お前は?」「知っている」「だーれ、あれ?」「上杉謙信のせがれ」いいかげんなことばっかり言っていました。


 童門氏は昭和二年(1927)生れ、童門氏が「先輩です」と言う大和氏は大正三年(1914)生れ、共に東京下町(浅草?)の出身というので小中高のいずれかが同じなのかもしれない。童門氏の話し振りからして大和氏から直接聴かれた話ではないか。録音された音声を聴いて確かなことと確信した。童門氏にぜひ確かめてほしい。

 なお、平成二十六年十月十一日山形新聞の土曜コラム、鈴木雅史論説委員による「『尊敬』発言、こだわり二十年」の中で、当時の共同通信社ワシントン支局の記者に問い合わせたところ、「日本人記者団との個別会見はなかった」とあるが、大和発言否定の決定的根拠にはならない。

 さらに「都市伝説」説の論考として、高野実氏による「ケネディ大統領は『鷹山公を尊敬している』と言ったか?」(『先人顕彰』第二十号 上杉鷹山公と郷土の先人を顕彰する会 2012)がある。この中で、童門氏の同趣旨の記述(経営革命の祖上杉鷹山の研究―危機を乗り切るリーダーの条件PHP1982)について言及しつつ、それを「眉唾もの」「単なる作り話としても、少々お粗末(?)かなとも思われます。」と決めつけてしまっているのははなはだ残念なことだった。

 ただ、「都市伝説」説の発信源が米沢であるとするならば、その背景には「われわれの鷹山公が名君であったことは確かなことにしても、ケネディ大統領が『いちばん尊敬する政治家』なんて言うはずもない。」というよく言えば謙虚あるいは遠慮深さ、要するに自己卑下の気持ちがあったのではないか。キャロライン・ケネディ大使の発言には、そんな置賜人(米沢人?)の心を狭める枠を一挙に叩き壊してくれる起爆力があった。感謝せねばなるまい。


ケネディ大統領は鷹山公のどこに感動したか


 大使就任間もないスピーチ、白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会に寄せられたメッセージ、米沢訪問時のスピーチのそれぞれから、娘キャロライン大使が、父ケネディ大統領がなぜ鷹山公を評価したかと考えているかをみると、次の三点に要約できる。

 一、民を第一とする民主性と民の主体性の重視

 二、リーダーとしての「公」への姿勢。献身性

 三、「なせばなる」の言葉に込められた決意の強さ

 大使自身はとりわけ、「なせばなる」の言葉を気に入っておられるようだ。しかしそれはそれとして、ケネディ大統領が『代表的日本人』を読んだとして、異国の君主についての記述に心打たれるところがあったとしたらそれはどの箇所か。思うに、どのような考えを持っていたか云々の抽象的観念的なことではなく、鷹山公が実際に何を企て何を成し遂げたかであり、それをなさしめた鷹山公の具体的な人となりであったであろう。いったいどこにどう感動したのか。そこを突き止めたくあらためて『代表的日本人』を繙いた。

代表的日本人.jpg

 手に取ったのは『(対訳)代表的日本人』(稲森和夫監訳 講談社 平成十四年)。古い書棚にあったのは昭和十六年初版の岩波文庫だが、読み通した記憶はない。しかし対訳本の日本語はよくこなれていてスッと読み通せた。ぜひこっちをお薦めする。なるほど、内村鑑三の『代表的日本人』は、鷹山公という人物とその業績を具体的に伝えるに十分な中味を備えていることがわかる。鷹山公を紹介する書としてこれ以上の書はないのではないか、そのぐらいに思えた。

 序に言う。《徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。・・・代議制は改善された警察機構のようなものだ。ごろつきやならず者はそれで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、一人の英雄に代わることはできない》。投票箱に頼る立憲民主制でなく、徳ある君主を得た封建制に信を置く内村の考えは、むしろ斬新だ。《本質において、国は大きな家族だった。・・・封建制が完璧な形をとれば、これ以上理想的な政治形態はない》として以下に鷹山公の生涯、治政、事蹟が要を得て紹介される。政治を志す者、政治の場に身を置く者ならば誰でも、自らを省みそして鼓舞されずにはおられまい、そういう内容に満ちている。大統領の蔵書にはなかったとしても、どこかで手に取る機会はあったかもしれない。この書は一読して鷹山公の名が深く心に刻まれるインパクトがある。

 実は、大統領就任演説の中の、副碑にも刻んだ有名な言葉「国家があなたに・・・」の前には次の言葉がある。


《今、我々を召集するラッパが再び鳴り響いています。・・・これは、長く先の見えない戦いの重荷を担えという呼びかけなのです。来る年も来る年も、希望をもって喜びとし、苦難を耐え忍びながら、人類共通の敵である虐政、貧困、病気、そして戦争そのものとの戦いを貫く覚悟が求められています。》


 大統領就任にあたって国民に呼びかけつつ自らに課したこの「覚悟」は、藩主就任にあたってだれに知られることもなく神に誓った鷹山公の「覚悟」に通底する。

 序は次の言葉で締めくくられる。




《だが、そのような(聖書で約束された―引用者)王国の到来を待つ間、それとよく似た王国が、この水と陸から成る地球上の、それも異教の国、日本にかつて実現した話を振り返り、元気をつけようではないか。西洋の知恵がもたらされる前に、この国はすでに和の道を知っており、独自に「人の道」が実践され、「死を恐れぬ勇者」がいたのである。》


 「死を恐れぬ勇者 death was encountered with a hero's resolve」、見事な訳と思うが、直訳すれば「死が、英雄の決定を以てもたらされた」。この言葉が自らの未来を予感させつつ心の奥底を揺さぶったのではないかと、ふと思った。無念にも「人類の共通の敵である圧政、貧困、疾病、そして戦争そのものに対する闘い」に決死の覚悟を以て挑みつつ、闘い半ば三年足らずして凶弾に倒れることになる。皮肉にもこの悲劇によって、ケネディ大統領の名は世界中の人々の記憶に刻みつけられることになった。


むすび


 ケネディ大統領無念の敗北に先立つこと一世紀半の昔、わが上杉鷹山公はこの置賜の地において、ケネディ大統領が挑もうとした闘いに挑み、そして勝利した。いみじくもイザベラバードはこの地をこう評した。


《 米沢平野は・・・全くのエデンの園である。・・・実り豊かな微笑する大地であり、アジアのアルカディヤ(桃源郷)である。彼らは葡萄・いちじく・ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。》


 鷹山公没して五十六年を経た明治十一年(1878)のことである。半世紀を超えてなお、その善政の成果がこの地に確かに息づいていたことの貴重な証言である。

 思いがけなくたどりついた結論を言おう。要するに、上杉鷹山公は、その闘いにおいてまぎれもなく勝利した。その統治範囲の大小を別にすれば、その実績において上杉鷹山公はケネディ大統領のはるか高みにある。思いがけないとは言いつつ、闘って勝利しそれゆえ真に尊敬されるべきは鷹山公、という当然の結論である。混迷の時代、鷹山公のお導きはいよいよ重要度を増しているように思える。学ばねばならないことは多い。


   *   *   *   *   *


鷹山公目賀多雲川.jpg上杉鷹山公 信好.jpg

←目賀多雲川筆とされる鷹山公像です。目賀多家は上杉家の御用絵師で代々雲川を襲名しました。この肖像画は信済が描いたものと思われます。信済は晩年の鷹山公に仕えていました。したがって鷹山公の実像に近い御姿です。→ちなみに米沢法音寺(または白鷹町円福寺)に目賀多信好による鷹山公像が伝わりますが、この画(←)を模写したものであることがわかります。

←この肖像画と「伝国の辞」をプリントしたクロス(30×30cm)を駅の駅なんようゆーなびからころ館で販売しています。ケネディ一家に首に掛けていただいた手拭もあります。(ともに税込500円)

「伝国の辞」ハンカチ2014ok コピー.jpg「伝国の辞」手拭.jpg

【追記 2021.11.14】

 信済について詳しく書いてある記事を見つけました。

 

*   *   *   *   *

アート・アーカイブ探求《目賀多信済《山水図屏風》みなぎる清新の気──「遠藤友紀」》

影山幸一/2018年02月15日号

https://artscape.jp/study/art-achive/10143321_1982.html

満ちている神気

今年(2018)5月に丸10年となるこの連載「アート・アーカイブ探求─絵画の見方」は、多くの方の協力を得て120回を迎える。毎月日本の絵画を1点採り上げているが、約1,200年前奈良時代の正倉院の宝物から現代美術まで、時空を超えた画家の出身地を振り返ると、47都道府県のなかで山形県出身の画家の絵を探求していないことに気づいた。


山形美術館から送っていただいた図録『郷土日本画の流れ展』の資料には、「南北目賀多家を通じ最も傑出した画技」と注釈に記された画家がいた。その名は目賀多雲川信済(めかたうんせんのぶずみ。以下、信済)という米沢藩の御用絵師。ネットで検索すると米沢市上杉博物館に作品が所蔵されており、目賀多の展覧会(「米沢ゆかりの絵師たち 4」展、3月18日まで)を準備している最中という。サムネイルで見た画像には、神気が満ちている大自然が描かれていた。早速、目賀多信済の代表作といわれる《山水図屏風》の特別観覧を申請し、雪の米沢へ向かうことにした。

・・・・・

一般的に米沢では「目賀多」を「めがた」と濁音で呼んでいる。しかし江戸時代以前の文献や粉本(手本・模写・下書き等の総称)などを見ていくと「目加多」「目方」という記載が散見され、清音の「めかた」ではないかとの指摘が以前からあったという。遠藤氏は、目賀多家のルーツや関係者をたどり調べたところ、「めかた」と濁らずに読んでいた可能性が高いことがわかった。米沢藩の御用絵師だった目賀多家は、狩野探幽を祖とする江戸の鍛冶橋狩野家に入門し、狩野派の画風を継承している。北目賀多家(幽雲系)と南目賀多家(雲川系)の二家に分かれ、北が本家で南が分家にあたる。信済は南目賀多家であった。 

・・・・・

雪舟を目指した狩野派

目賀多信済は、1786(天明6)年出羽国(山形県)米沢に生まれた。藩主の身の回りの世話をする小納戸(こなんど)役の矢嶋欽右衛門長寄の三男であったが、目賀多信与(信與)の養子となり、雲川と号す。ほかに雲林、幽石、適意斎などとも号した。


1801(享和元)年、信与の隠居に伴い16歳で家督を継ぎ、1805(享和4)年第9代藩主上杉鷹山による席画が催され、のちに第11代藩主上杉斉定(なりさだ、1788-1839)の絵事勤仕として仕えた。1819(文政2)年、34歳のときに信済は自由な教育をしたという鍛冶橋狩野家七代の狩野探信守道(1785-1836)に入門。浮世絵や文人画などにも刺激を受けて修業を積んだと思われる。山水、人物、竜虎、花鳥のいずれにも優れ、信済の弟子には若井牛山(ぎゅうさん)、百束幽谷(ひゃくそくゆうこく)らがいた。

 雲龍図 Scan 小サイズ.jpg

信済は、豪放にして酒を好み、気宇高邁、興が湧き、意に適したときにのみ筆を執ったといわれ、画風は中国の南宋時代(1127〜1279)の諸大家や明時代(1368〜1644)の浙派(せっぱ)★1など、多様な様式学習を経た雪舟(1420-1506?)を範としていた。好んで竜を描いたが、壬辰の日に筆を執り、雨が沛然(はいぜん)として雷鳴(らいめい)の轟く日を選んで点睛したといわれ、逸話や日記など周辺資料が多く残っている。


遠藤氏は「信済は、豪放な天才というよりは、古画を勉強しながら雪舟を理想とし、狩野派の画風を堅実に守りつつ描くことに努力した人。8冊の日記があるが、最初の日記は24歳のとき。その頃は80歳で亡くなった父の看病に明け暮れる毎日だったことが書かれている。父が没した年の12月29日には、年が明けると自分は25歳になるのに、絵の技量の拙さ、絵師としての行ないの未熟さが嫌になると書いている。また、先祖の絵手本をよそで見せてもらい、本当は家のものなのに誰かが手放して、よそにあることが情けないと嘆くなど、信済は決して豪放ではない印象を受ける。生活は大変だったが、信済は絵に関しては勉強熱心だったと思う。のちに法橋に叙されたというが、典拠記録は現在不明」と述べた。1847(弘化4)年信済62歳で死去。米沢の信光寺に眠る。・・・・・

「適意」は思いどおりにすること

「目賀多家門人で、明治・大正期に日本画壇旧派の指導者として活躍した下條桂谷(げじょうけいこく、1842-1920)は『墨色やや濃しと雖も、谷文晁に匹敵すべき大家なり』(『米沢市史 第三巻 近世編2』p.834)と信済を激賞した。桂谷が弟子入りしたのは年代や桂谷の回想録から、信済の次の世代の目賀多幽雲信清と判断されるが、名手と伝わる信済の作品にしばしば触れていたのであろう。信済は、作画期は長いが、参勤交代で江戸へ行くことはあっても、基本的には米沢にいた絵師であり、米沢で名人でも全国的に知られている存在ではなかった。《山水図屏風》の制作背景についてはよくわかっていないが、信済の日記から推察すると、しかるべきところからの注文制作だったと思われる。屏風を保護する畳紙(たとうがみ)の表には『山水之画 雲川信澄筆』[図6]と、裏には『文政十一戊子(つちのえね)年 張師 佐藤幸四郎』[図7]と記されており、制作年代がわかる。信済の作品はほとんどが墨彩で、大抵『雲川』あるいは『信済』と署名しており、印章は『適意』、思いどおりにすることを意味している」と遠藤氏は語った。《山水図屏風》は、裏側にも作者不明の絵が描かれていた。信済の実像や作品解釈など、まだ課題は残されているが、研究は少しずつ進められている。


現在、米沢市上杉博物館のコレクション展「米沢ゆかりの絵師たち 」(2018.2.3〜3.18)では、目賀多家の仕事と暮らしが展示され《山水図屏風》も鑑賞できる。水墨画であるが金彩の表現にも着目してもらいたい。屏風における金の存在感を強化した狩野派の影響だろうか、墨のタッチやグラデーションと同様に金砂子の集密や色調の変化にも配慮が見られる。狩野派に雪舟様を併せた信済の《山水図屏風》は、壮大で清新の気がみなぎっている。

・・・・・

遠藤友紀(えんどう・ゆき)

米沢市上杉博物館主任学芸員。1980年山形県南陽市生まれ。2003年筑波大学芸術専門学群芸術学コース卒業。2003年米沢市上杉博物館学芸員、その後現職。担当:美術と教育普及。所属学会:美術史学会。主な担当企画展:「悲喜交々のアート─まなざしの共有」(2015)、「生誕100 年 浜田浜雄展〜造形の遊技場」(2015)、「生誕100年 遠藤桑珠展─大地に立つ 空を仰ぐ」(2017)など。

目賀多信済(めかた・のぶずみ)

米沢藩御用絵師。1786〜1847(天明6-弘化4)年。出羽国(山形県)米沢生まれ。小納戸役の矢嶋欽右衛門長寄の三男であったが、目賀多信与(信與)の養子となり、雲川と号す。ほかに雲林、幽石、適意斎などとも号した。1801(享和元)年信与の隠居に伴い16歳で家督を継ぐ。のちに第11代藩主上杉斉定の絵事勤仕として仕えた。1819(文政2)年、鍛冶橋狩野家七代の狩野探信守道に入門し、修業を積む。山水、人物、竜虎、花鳥のいずれにも優れ、目賀多家の門人である下條桂谷は「墨色やや濃しと雖も、谷文晁に匹敵すべき大家なり」と激賞、南・北目賀多家を通じ最も傑出した名人と伝わる。弟子に若井牛山、百束幽谷らがいる。62歳没。米沢の信光寺に眠る。主な作品:《山水図屏風》《布袋図》など。

・・・・・

参考文献

・『米澤市史』(名著出版、1973)

・中村忠雄「名人目賀多信済(米沢絵師の最高峰)」(『米沢史談 第三集』置賜郷土史研究会、1975、pp.215-219)

・『美術資料目録1──山形大学附属博物館所蔵目録2』(山形大学附属博物館、1981)

・清水澄「目賀多雲川守息」(『米沢市史編集資料 第十号』米沢市史編さん委員会、1983、pp.105-106)

・図録『郷土日本画の流れ展:山形美術館蒐集作品三百五十点公開』(山形美術館、1990)

・『米沢市史 第二巻 近世編1』(米沢市、1991)

・浅倉有子「御用絵師と絵図編纂」(図録『特別展 絵図でみる城下町よねざわ』(米沢市立上杉博物館、1992、pp.25-32)

・『米沢市史 第三巻 近世編2』(米沢市、1993)

・沖田良夫「上杉藩御抱絵師狩野派目賀多家について─信済の『慷慨』『敬記』─」(『懐風』第二十一号、御堀端史蹟保存会、1996、pp.39-46)

・「(2)コレクション展「米沢藩のお抱え絵師─目賀多家─」(『米沢市上杉博物館 年報 VOL.22』米沢市上杉博物館、2010、p.11)

・図録『米沢ゆかりの絵師たち 4』(米沢市上杉博物館、2018)

・Webサイト:「コレクション展『米沢ゆかりの絵師たち 4』(米沢市上杉博物館)2018.2.5閲覧(http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/103eshi4.htm


nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 3

めい

キャロライン・ケネディ大使の日本理解も時間とともに深まっているようです。

   *   *   *   *   *

【杉田水脈】この話言っちゃっていいですか~ケネディ駐日大使が韓国の嘘に・・・
https://www.youtube.com/watch?v=P60oc8Tpauw
by めい (2016-05-11 02:13) 

めい

ケネディ大統領はなぜ暗殺されたか。

   *   *   *   *   *

連中は、JFKを暗殺した際に、アメリカも殺したのだ

だPaul Craig Roberts
2016年5月7日

JFK政権当時、私はホワイトハウス・フェローだった。あの当時、このプログラムは後に変わって、関係者だけを対象とする小規模なものと違う、大規模プログラムだった。ロビー団体の物質的利益に対抗すべく、理想主義を生き続けさせるため、多くのアメリカの若者を政府に関与させることが、ケネディ大統領の狙いだった。いまでも、このプログラムが存在しているのかどうか私は知らない。もし存在していても、その狙いであった理想主義は、とっくになくなっているだろう。

ジョン・F・ケネディ大統領は一流の大統領だった。私の人生で、彼のような人は他にいない。実際、現代では、彼のような人が現れるのは不可能だろう。

保守派と共和党は、ケネディが思慮深いので、彼が嫌いだった。彼に対する連中のお好みの武器は、彼らによれば、マフィアの情婦やマリリン・モンローが関与していた、彼の恋愛人生の話題だ。連中は、当時一番魅力的な女性、マリリン・モンローを巡る羨望で動いていたに違いない。

大半の大統領と違い、ケネディは時代の型にはまった考え方を断ち切ることができた。ピッグズ湾、キューバ・ミサイル危機や、統合参謀本部の“ノースウッズ作戦”の経験から、ケネディは、アレン・ダレスCIA長官と統合参謀本部議長のレムニッツァー大将はいずれも反共産主義に狂っていて、アメリカと世界にとって危険だという結論をだした。

ケネディは、ダレスのCIA長官から解任し、レムニッツァーも統合参謀本部議長から解任し、彼の暗殺を起動させることになった。CIA、統合参謀本部と、シークレット・サービスは、JFKは“共産主義に甘い”と結論づけた。ビル・バックレーのような保守派もそうだ。

JFKは、軍と治安機関内の反共ヒステリーゆえに、暗殺されたのだ。
ウォーレン委員会は、このことを良くわかっていた。アメリカは、ソ連との冷戦にはまっていたので、隠蔽が必要だった。アメリカ軍やCIAやシークレット・サービス要員を、アメリカ大統領殺害のかどで裁判にかければ、自国政府に対するアメリカ人の信頼を揺るがせることになる。

オズワルドは、JFK暗殺とは全く無関係だ。それが、オズワルド自身が、訊問される前に、ダラス刑務所で暗殺された理由だ。

ジョン・ケネディを実体験するには若過ぎる方々や、彼の偉大さを忘れてしまった方々は、是非とも、この5分23秒の演説をお聞き願いたい。現在の間抜け連中の中に、これほどの演説をできる人物がいるかどうか、思いうかべるようお試し願いたい。5分30秒もない短さで、どれだけ多くのことが語られているのかお聞き頂きたい。

再選されたら、ケネディは、アメリカ軍をベトナムから撤退させるつもりだった。彼は、CIAを“千の断片に”粉砕し、アメリカの財政を搾取していた軍安全保障複合体を削減するするつもりだった。

そして、それが彼が殺された理由だ。ワシントンに住まう悪は、正しいことをしようとする外国指導者だけを殺害するのではなく、自国の指導者も殺害する。

JFKの演説はここにある。https://www.youtube.com/watch?v=YafZkjiMpjU

記事言文のurl:http://www.paulcraigroberts.org/2016/05/07/when-they-killed-jfk-they-killed-america-paul-craig-roberts/
----------

世の中広い。この演説、日本語訳がある。たとえば下記。

J.F.ケネディ大統領による秘密結社の弾劾演説
http://rothschild.ehoh.net/material/31.html
隠されたJFケネディーの演説と2013年の状況が点で結ばれました!
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51894510.html


by めい (2016-05-12 05:34) 

めい

目賀多信済関連、追記しました。

     * * * * *

アート・アーカイブ探求《目賀多信済《山水図屏風》みなぎる清新の気──「遠藤友紀」》
影山幸一/2018年02月15日号
https://artscape.jp/study/art-achive/10143321_1982.html
by めい (2021-11-14 08:00) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。