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副島隆彦著『日本が中国の属国にさせられる日』を読んで [置賜自給圏構想]

 副島氏はいつも読者の気持ちを抉(えぐ)ろうとして著作に挑む。その姿勢に惹かれて氏の著を買う。このたびの本の主たるモチーフは、団塊までの世代にいまだきちんとした総括もされぬまま憧憬を伴って影を引いている「マルクス主義」的気分に引導を渡すことにあったのではないか。共産主義を目指したロシア革命史と中国革命史についての十分腑に落ちる副島流解釈が貴重だ。そしてそこから次の結論が導かれる。

 《国民意識の成長と豊かな社会の実現(経済成長による先進国入り)が無いのに、形の上だけ国王(王国)制度(キングダム)を無理やり廃止してもいいことはない。大混乱になるだけだ。だから日本の天皇制と同じように、中国皇帝を形だけ残して、「虚君」でいい。形だけの王を残して、国民が団結して、その間に国民生活の向上を実現していく、という堅実な政治体制を作らなければいけなかった。/だから、中国で言えば、前述したとおり康有為と梁啓超が正しい。ロシアで言えばケレンスキーやトルストイやヴェラ・ザスーリチが正しい。無意味な暴力革命(武装蜂起、クーデター)などやってはいけなかった。そのあとが大変だ。/それなのに孫文型の暴力革命をやってしまった。これが間違いだった。このことをはっきりと言わなければいけない。》259-260p)そして言う。《副島隆彦の人生における結論は、「暴力の肯定はダメだ」である。》261p)私にとって副島氏から学ぶべき言葉として、「アジア人同士戦わず」と双璧を成して重い。


 キリスト教とキリスト自身をイコールに考えてはならないごとく、マルクス主義の悪の理由が必ずしもマルクス本人に由来するわけではない。そのことが、レーニンより20歳も年長であり、マルクスの教えに忠実だったロシアの女性革命家ヴェラ・ザスーリチに宛てた書簡によって明らかにされる。

 ロシアにおいては、ヨーロパ諸国の如き資本による農民の富の収奪は起きてはいない。ヨーロッパ諸国のみに限定される資本家的システムを経てはじめて共産主義革命の必然が在るのであり、性急にそれをロシアに求めれば、古くからある相互扶助に基づく共同所有(ミール共同体)を、かえって残酷な私的所有に転換することになってしまうことになるとマルクスは危惧して言う。

 《ロシアの古くからある村落共同体(ミール共同体)はロシアの社会的再生の支点(力点)となるものであることが私は分かった。このことは明確だ。だから、ロシアの今の村落共同体がこの意味において効力をさらに発揮させられるべきだ。そのためには、このロシアの愛すべき村落共同体に多方面から押し寄せる(資本主義化に伴う)破壊的影響を、まず除去することが大切だ。その上で、今の村落共同体が、自然な発展(健全な経済成長)をできるように(あなたたちロシアの革命家たちは)その条件を整えることに尽力すべきです。》193-192p

 なんと穏当でありまともであることか。レーニンにつながるマルクスイメージは転換させられる。マルクス本人はレーニンなんかよりずっとトルストイの方に近かった。レーニン以来のマルクス主義幻想を引きずるサヨクもサヨクなら、同じ幻想を敵と見て反共を語るウヨクもウヨクである。そして言う。 

《今も日本には国民主義(ナショナリズム)がない。有るのは反共主義の信念だけだ。徹底的に純化した反共主義。反共産主義という信念だけだ。他にはなんにもないと思う。他には、実はそれぞれの宗教(信仰)があるのだろう。「自分には信仰に基づく信念がある」と言うのなら、それは十分に保守思想の根拠となる。それは認められる。/彼ら右翼がもっていることは、ただ唯一、反共産主義の旗頭(スローガン)だけだ。これ以外に自分たちの信念の拠り所はない。それが今の日本だ。》263p

 ただし私は、この考えは肯んじない。日本には権藤成卿の言う「社稷(しゃしょく)」の思想がある。決して「あった」のではない。根っこには今もある。

《在野の学者として日本社会史を専攻する権藤が、明治新政府の中央集権化が進行するにしたがって、農村に残存する社稜中心の地縁共同体内部におこなわれていた民衆自治の良俗が破壊され、経済的にも明治日本の資本主義体制が確立されるにしたがって、農村の自治が中央に簒奪され、疲弊していくすがたに心をいためていたことはうたがいない。とくに、かれは明治四年の地租改正によって、社稜すなわち地縁共同体にとって神聖なるべき土地が資本主義的な何らの制限のない自由売買の対象となったことを痛烈に批判する。土地の自由売買が明治政府によって公認されることによって、土地は投機の対象となり、不在地主が発生し、社が外部の強力な力によって根本的にこわされることになる。》(滝沢誠「権藤成卿」紀伊国屋新書 昭和56年)

 本来日本の国民主義(ナショナリズム)が立脚すべき場はここにあると思う。私のまわりを見る限りいまだ確固たる基盤がある。そう確信して自覚的にその整備をすすめること。それはまたマルクスが、ヴェラ・ザスーリチを通して注ぐロシアへのまなざしにも通じるのではないか。

 

 サヨクもウヨクもその幻想の起源は同じところにある。共にそこから自由になった時、「日本人としての共通意思」の世界が開けてくる。図らずもこの本はその可能性を指し示す。私にとっては、思わず「置賜自給圏構想」へとリンクした。


「サヨクもウヨクもマルクス主義幻想から訣別せよ」と題して、アマゾンにレビューしてきました。


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めい

《日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないヂゃないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬにかぎる。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりをやるに限るよ。(氷川清話」講談社学術文庫P269)》「アジア人同士戦わず」に関連して勝海舟の言葉です。副島重掲板の津谷論文からです。長いですが全文メモっておきます。日清戦争についての視座を得る上で役立ちます。福沢諭吉、伊藤博文、山県有朋、大隈重信、板垣退助、勝海舟といった当時の重要人物の立ち位置がわかる好論文です。

   *   *   *   *   *

[1921]石井利明氏の日清戦争美化論に反論する。日清戦争はしなくても良かった侵略戦争である。
投稿者:津谷侑太
投稿日:2016-05-08 16:43:17


津谷侑太(つやゆうた)です。今日は2016年5月8日です。

 まずは石井氏に対してお礼を述べさせて下さい。小室直樹氏の19世紀における国際法の常識を紹介した本を教えていただいてありがとうございました。たいへん勉強になりました。

 それでは以下が論文となります。

 私は会員ページに福沢諭吉について触れた論文を載せていただきました。学問道場の重たい掲示板において、石井利明(いしいとしあき)氏がそれに対して反論をされました。私は執筆者としてこれに反論しなければなりません。

 閲覧者の皆さまには福沢諭吉という大変素晴らしく立派な明治の啓蒙(けいもう)思想家であったと思われていると思います。ところが、福沢諭吉には戦前たいへん人気があった理由に彼が帝国主義者であり、他国への侵略をそそのかす言論を行っていたことはあまり知られていません。

 チャンコロ、チョーセン人とネット右翼はいきり立ちますが、彼らを明治時代から大切に育ててきたのが福沢諭吉です。まさにネット右翼のお師匠様が福沢諭吉であると言えます。

 現在、中国や韓国を侮蔑する若者がいますが福沢諭吉の言論をそのままコピーしているようなものです。何の独創性もない。

 福沢諭吉の真実の姿を知ってもらう事によって正しく、福沢諭吉という思想家を理解した方が福沢先生も草葉の陰で喜んでいただけることでしょう。

 石井氏の重たい掲示板への投稿の一部を貼り付けます。

(貼り付け開始)
 私の反論は、津谷研究員の、「明治維新の黒幕はアメリカの手先であった福澤諭吉である論」の諸事実に対してではなく、津谷君が福澤をアメリカの手先と決め付ける基準である。
その基準は、彼が擁護する安川寿之輔と同じ理由で間違っていると考える。

それは、平山・安川論争の論点である「福澤がアジア諸国を蔑視(べっし)していたかどうか」という安川の論に結び付けて、大東亜戦争の敗戦及び、その後の侵略した国家群に対する外交の失敗までも、なんでもかんでも、遡(さかのぼ)って福澤のせいにする事にある。

真実の福澤は、アジア蔑視者でもなければアジア解放者でもない。
当時の日本にアジアを解放する力が無いことを福澤は当然知っていた。
彼は日本国の独立自尊だけで手一杯で、日本の国益の追求以外に手を出す余裕など無かった。それは、当時の指導者なら当然の事です。

19世紀のアジアの現実を想像して欲しい。
植民地化を免れているのは、国家としては日本とタイしかない。

福澤の生涯は、1835年1月10日に始まり、1901年2月3日に終わる。まさに、19世紀を生きた人物だ。
安川論者は、福澤が19世紀に生きた人間という、もっとも単純で重要なことを無視している。

19世紀は西欧列強によるアジアの分捕り合戦の真っ最中なのだ。
福澤は、数度の海外渡航により、この現実の厳しさが骨身に染みて分かっていた。
そして、日本が植民地にされてしまうかもしれないという恐れを他の誰よりも感じていた。その恐れの中心が大英帝国であった。

津谷論文の中では、福澤は「戦争屋」であると書かれている。
この言葉の使い方も、乱暴である。
それは、戦争が19世紀と20世紀以降では、全く違った意味を持つからである。

小室直樹博士の、『痛快!憲法学』のp168-169を要約します。

近代の戦争は経済的利益を追求する為に行われる国益追及のための外交手段の一つとして認められており、従って、どこの国でも戦争を自由に行うことが出来るし、誰も、他の国の戦争を批判することが出来なかった。
これが第1次世界大戦前の20世紀初頭までの国際法の常識です。

石井 利明です。
よって19世紀を生きた福澤に、植民地にされない力を得るためなら戦争という手段に訴えることに対する躊躇(ちゅうちょ)が無いことは当然です。それどころか、多額の献金までしているのは事実です。

だからといって、福澤が日清戦争を推進した黒幕の戦争屋と決め付けることは間違っている。
日清戦争に負けたら国益どころか、日本の独立までも危うくなる。

「現在の価値観で過去の判断を評価するのは先人に対する冒涜に他ならない」という言葉を私は大切にする。
津谷研究員が正しいとする安川は、福澤の過去を断罪する為に、歴史に教訓を得ると称して、この手法を使っている。

福澤の生きた時代に反戦思想や、20世紀のようなアジア蔑視の思想は存在しない。
そして、福澤はアメリカの手先ではない、と私は考える。
私は、「手先」という言葉を、自国及び自国民の利益を省(かえり)みず、他国の利益のために動く人間という意味で使うからだ。

(貼り付け終了)

 津谷侑太です。以上が石井氏の私に対する反論です。

 私はこの石井氏の反論に答えねばなりません。

●過激な戦争屋であった福沢諭吉

 それはなぜかと申しますと、石井氏の反論を私が素通りするにはあまりにも危険であると判断したからです。石井氏は1894年に起きた日清戦争を肯定している。そこが危険なんです。日清戦争は日本にとってしなくても良い戦争だった、ということをわかっていただきたい。読者の皆様にはこのことをわかっていただきたいのです。

日本の対外進出の歴史年表

 1868年 明治維新
 1894年 日清戦争
 1901年 福沢諭吉死去
 1904年 日露戦争
 1941年~1945年 太平洋戦争
 2016年 中国共産党が尖閣諸島狙う

 なぜ私が日清戦争にこだわるかというと、福沢諭吉のせいで中国・韓国・台湾は日本に対して、恨みに思っているからです。この事実は日本国内ではほとんど知られていません。石井氏に賛同すると言う事は中国・韓国・台湾を敵に回す行為です。石井氏の言論に賛同することで私津谷侑太はこの三ヵ国を敵に回すことに反対です。石井氏の投稿は2016年の世界への挑戦でもあります。

 日本を立派な独立国にすることで調子に乗った日本が太平洋戦争で痛い目にあったことがあります。無意識のうちに石井氏は福沢諭吉を美化する事によって、国際社会への無意識の異議申し立てをなさっておられる。それに閲覧者も引きずられて、「石井氏の日清戦争肯定は正しい」とするならば、大いなる誤解をこの学問道場に産んでしまいます。

 過激な福沢諭吉に同意して、日本の針路を間違えるようなことがあってはならない。2016年に福沢諭吉を信じ込むことは危険なことです。19世紀の福沢諭吉を正当化することは中国を怒らせることです。中国人や韓国人は福沢諭吉にいじめられた恨みは忘れていない。

 2016年の今、福沢諭吉のアジア侵略は正しかったとするのはあまりにも無謀であります。やめたほうがいいですよ、と私は皆さんに提言したい。

 それが私が石井氏に反論する一番大きな理由です。

 台湾や韓国は福沢諭吉を民族の最も憎むべき敵と断言している。日本国内の私たちが福沢諭吉を立派な先生と尊敬するのは良いんです。しかし、福沢諭吉を尊敬するあまり、福沢の行った悪い面までなかったと言ってしまうのは歴史の捏造に等しい。

 参考までに福沢諭吉のアジア蔑視の言論を見ていきましょう。

(引用開始)

 とりわけ日清戦争時には、侵略戦争の推進と勝利のために「チャンチャン・・・・・・皆殺しにするは造作もなきこと」、「清兵・・・・・・豚尾児、臆病なり」、「朝鮮・・・・・・軟弱無廉恥・・・・・・四肢麻痺して自動の能力なき病人」「台湾の反民・・・・・・無知蒙昧の蛮民」などと、アジア蔑視の「排外主義」呼号の先頭に立ってきた福沢

(安川寿之輔『福沢諭吉の教育論と女性論』237ページ)

(引用終了)

 福沢は自分が代表をしている新聞・時事新報(じじしんぽう)において、1894年の日清戦争のときにかなり中国や韓国に対し、馬鹿にする言論を行っていたわけです。中国人をチャンコロ、豚と見下す言い方を広めたのも福沢です。

 福沢諭吉の言論が日本をアジア侵略を主導して来たのは当時の日本の知識人から批判されてきたことです。例えば、明治の外務省官僚だった吉岡弘毅(よしおかこうき)は次のように福沢を批判している。

(引用開始)

「我日本帝国ヲシテ強盗国二変ゼシメント謀ル者ナリ。」と告発したうえで、(中略)「不可救ノ災禍ヲ将来二遺サン事必セリ。豈(あに)之(こ)レヲ国権拡張ノ良策ト謂(い)フベケンヤ。」ときびしく批判した。
(安川寿之輔『福沢諭吉と丸山眞男』184ページ)

(引用終了)

 吉岡は福沢の言論は将来に禍根(かこん)を残すと予想している。この未来予測は的中し、中国侵略のあげく、日本はアメリカとの戦争に負けて本土を空爆されてしまうのであるのは皆さん周知のことと思います。吉岡は征韓論(せいかんろん、朝鮮国に日本が侵略する)に反対した当時の外務省では主流派でした。吉岡はのちにキリスト教の牧師となっています。1894年の日清戦争の延長線上に1941年の太平洋戦争があります。

●19世紀に反戦思想は存在したか?

 さて、話を戻します。

 日清戦争は本当に日本にとって良い戦争だったのか?これから検証していきましょう。


『福沢諭吉の真実』という本を書いた平山洋(ひらやまよう)という人物がいます。この男はハーバード大学のエドウィン・ライシャワー研究所に留学してから突然、福沢諭吉研究をはじめた不可解な人物です。
それまでは地味な学者だったのに、今では福沢諭吉研究の大家(たいか)に成りあがっている。私の推測に過ぎませんが、エドウィン・ライシャワー研究所で福沢諭吉の真実の姿を隠蔽するために福沢=平和主義者と福沢諭吉の虚像をでっちあげることを指示されたのでしょう。

 評論家の古村治彦(ふるむらなおひこ)氏の『ハーヴァード大学の秘密』(PHP研究所、2014年)を読むと、ハーヴァード大学が日本を操るための人材を養成していることがわかる。養成された人物の一人が平山洋氏であると考えられます。福沢諭吉が死んで1901年から2016年で115年になります。

 このような昔の人物を引っ張り出して美化するのは何らかの謀略の匂いを感じます。
私にも一体彼らが何の謀略を企てているのか、わかりません。しかし、平山洋の言論を見ていると、福沢諭吉が中国人を蔑視していたことを隠したいようです。 おそらく、平山洋にとって、福沢諭吉の過去の言動を調査されると困るのでしょう。

しかし、平山がいくら架空の福沢諭吉を捏造しても現実の福沢諭吉はアジア蔑視を広め、中国人虐殺を煽った評論家です。
福沢諭吉がどれくらい頑張って、中国人や朝鮮人を虐殺をするように煽ったのか、その実績をなかったことにするのはあまりにも福沢諭吉先生がかわいそうではありませんか!

 石井さんの言論の問題点は石井氏が19世紀の日本人を誤解していると言うことです。先程見た外務官僚の吉岡弘毅(よしおかこうき)をはじめ、反戦の考えは明治政府にはありました。

 石井利明氏の重たい掲示板の投稿を一部載せます。

(貼り付け開始)
福澤の生きた時代に反戦思想や、20世紀のようなアジア蔑視の思想は存在しない。

(貼り付け終了)

 このように石井氏は反論されました。私が石井氏の反論で最も気になったところは19世紀の価値観は20世紀、あるいは21世紀と異なるということについてです。

 確かに19世紀の日本人の生活は現在とは全く違います。テレビも携帯電話、車もない。ところが、思想面においては江戸時代、あるいは明治時代の日本は急速に進んでいました。

 外国の文献が中国に持ち込まれ、そこから日本に翻訳されて送られてきたからです。この動きを石井氏は知らないのかもしれません。

 そのため、日本の知識階層はとっくに反戦平和の考えをもっています。もっと言うならば、聖徳太子の憲法十七条に「和をもって尊(とおと)しとなす」とあります。

 日本人は古来より戦争が嫌いだったのです。石井氏の歴史観では19世紀だけ、戦争が思うがままにできてしまう、ということになります。

 19世紀の日本をリードした知識人が昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ、のちの東京大学)の古賀謹一郎(こがきんいちろう)です。当時としては知らない人間がいないほどの超有名人でした。長州の吉田松陰が江戸にまできて、古賀と国際情勢を論じるほどです。

 この古賀の日記には反戦平和の思想がはっきり書かれています。以下は1866年に頃に書かれたと推測されるものです。

(引用開始)

 西人は他国を侵略して残忍を極めている。『嗚呼、人民何の罪かある、(中略)予は「禁呑滅会社(他国を侵略するのを禁じる会社)」を建てんことを欲するのみ』。
(小野寺龍太『古賀謹一郎』221ページ)

(引用終了)

石井氏の「福澤の生きた時代に反戦思想や、20世紀のようなアジア蔑視の思想は存在しない。」は古賀日記が19世紀に書かれたものであることを踏まえると間違いです。古賀謹一郎と福沢諭吉は同時代の人物です。石井氏は19世紀の日本を誤解しています。

19世紀に反戦思想はあったんです。

 それではいよいよ本題に入って行きましょう。論点は石井氏が主張されている日清戦争は日本の独立を守るために必要な戦争であったか、否(いな)かです

 これから私は三つのポイントに要点を置いて反論します。まずは平山・安川論争について解説します。
  
①福沢諭吉を巡る大論争、平山・安川論争とは何か。
 
 石井さんは私にだけではなく、教育学者の安川寿之輔(やすかわじゅのすけ、80歳)氏に対して抗議されている。なぜこんなことになったのか、閲覧者の皆さまにとってはわけがわからないと思いますから、説明させて下さい。

 発端は十五年前、2001年に遡(さかのぼ)ります。きっかけは安川が朝日新聞に福沢諭吉を批判する記事を載せたのがきっかけでした。安川寿之輔は「福沢諭吉――アジア蔑視()(べつし)広めた思想家」という論説を発表します。
 安川氏は中国と日本、あるいは日本と韓国の関係改善に熱心な教育学者です。それを福沢諭吉=反戦平和を唱えたリベラルな評論家とした誤解が国民の間に広がっているとの危惧から本当は戦争を煽った従来の福沢諭吉像とは真逆なのが福沢諭吉の正体だと真実を書こうとしたのが動機だったようです。

 これに激しく反論したのが文学者の平山洋(ひらやまよう)です。平山は「福沢諭吉は日清戦争を煽ったが、それは西洋対東洋の戦いであって国益に従っていたのだ」と書いて反論しました。

 さらに『福沢諭吉の真実』(文藝春秋、2004年)を平山は出版、平山は「福沢諭吉は清帝国との戦いを煽ってなどいない。その証拠に日清戦争のときの時事新報の杜説は全部福沢の弟子による代筆である。福沢は中国との戦争を望んでいなかったのだ」と書いている。

 このあと、2016年にわたるまで平山・安川論争は延々と続いているわけです。ところが、この平山の説明には大きな欠点があるんです。
 それは根拠が薄弱であると言う点です。平山は「福沢先生は戦争に反対していたのだ。安川先生は勘違いして福沢諭吉が戦争推進の極右扱いしている。これは誤解であって福沢諭吉の弟子が勝手に代筆したものなのである」と主張している。

 私、津谷侑太の意見を述べていきますと、これは途中までは真実なんです。すなわち、「福沢諭吉の弟子にスパイが潜り込んでいた」という一点においてです。
 福沢の弟子に石河幹明(いしかわかんめい)という人物がいます。この石河が全く福沢諭吉と考えが違う。福沢は過激な戦争屋でありましたが、太平洋戦争にまでは関わっていない。もはや死人となった福沢諭吉を悪用して、石河幹明は若者たちをアメリカとの戦争に駆り立てていきました。
 ところが、平山は福沢諭吉を美化したいがあまり、福沢諭吉は日清戦争で戦争を煽っていないとまで主張しています。

 平山は根拠もないのに「福沢諭吉は忙しかったのである。そのため、石河に代筆させて自分は日清戦争に関与しなかったのだ」と決めつけている。これはいささか苦しい言いわけです。自然に考えれば、国民の啓蒙に尽力していた福沢が時事新報の主筆であるのに黙っているというのは不自然極まりない。まして、日清戦争の為の資金は福沢諭吉と渋沢栄一(しぶさわえいいち、日本銀行創設の父、七百もの企業を創業)が調達して来たものです。自分がお金を出している戦争に興味関心がないというのも変な話です。

 このように平山洋は安川の福沢批判に対して、有効な反論ができませんでした。平山は根拠薄弱(こんきょはくじゃく)として、論争に負けそうになります。これが平山・安川論争のはじめのほうの話です。
②石井氏の反論・・・19世紀の日本において国際法に合法だから日清戦争はやっても良い?
 続いて、石井研究員の反論に対して、反論させて下さい
(貼り付け開始)

石井研究員は「津谷論文の中では、福澤は「戦争屋」であると書かれている。
この言葉の使い方も、乱暴である。
それは、戦争が19世紀と20世紀以降では、全く違った意味を持つからである。

小室直樹博士の、『痛快!憲法学』のp168-169を要約します。

近代の戦争は経済的利益を追求する為に行われる国益追及のための外交手段の一つとして認められており、従って、どこの国でも戦争を自由に行うことが出来るし、誰も、他の国の戦争を批判することが出来なかった。
これが第1次世界大戦前の20世紀初頭までの国際法の常識です。

石井 利明です。
よって19世紀を生きた福澤に、植民地にされない力を得るためなら戦争という手段に訴えることに対する躊躇(ちゅうちょ)が無いことは当然です。それどころか、多額の献金までしているのは事実です。


だからといって、福澤が日清戦争を推進した黒幕の戦争屋と決め付けることは間違っている。

日清戦争に負けたら国益どころか、日本の独立までも危うくなる。

(貼り付け終了)

 石井氏の反論である最後の部分はいささか考えすぎであると思います。“日清戦争に負けたら国益どころか、日本の独立までも危うくなる”という部分についてです。石井さんは日本は植民地になっている属国ではない、と書かれている。

 日清戦争は清帝国が日本に侵略した戦争ではありません。よって日本が負けた場合でも日本の独立は危うくはなりません。ましてや、日清戦争は清帝国が朝鮮王国に侵攻した日本軍とにらみ合い、「このままでは戦争になる。こちらも朝鮮半島から手を引くから、日本のほうもひきあげてくれ」と清から申し出て、引き揚げました。ところが、日本は議会で伊藤博文首相が「清国との戦争避けるべし」との態度で議会対策に乗り出します。山県有朋は「清との戦争は絶対に避けるべし。清と事を構えるのは愚か者のすることだ」という態度で反対。

 このように明治政府、議会は戦争反対!の気運が高まります。そこに登場してきたのが右翼団体です。熊本県出身の佐々友房(さっさともふさ)は強硬に日本の出兵を主張。これが伊藤博文内閣を揺さぶりました。どういうことかというと、このとき日本は選挙制度を導入しており、伊藤首相以下閣僚たちは国民の顔色を伺って政権運営をしなければならない立場でした。

 日清戦争の少し前、板垣退助の自由民権運動が流行します。これによって、議会開設を伊藤博文は受け入れます。こうして選挙制度導入となったわけです。ところが、今度は伊藤、山県らの元老政治への反発が衆議院で強まり、衆議院は反伊藤派の佐々友房(さっさともふさ)が力を持ち、これに野党である大隈重信(おおくましげのぶ)率いる立憲改進党(りっけんかいしんとう)が呼応します。

 こうして窮地に陥った伊藤首相は清国への戦争を決断するんです。このまま、総選挙に突入すれば、大隈重信や佐々友房が実権を握ってしまう。そうすれば、大隈首相誕生で日清開戦へと突入してしまう。そうなる前に穏健派である伊藤博文が戦争指導することによって、大隈の動きを封じようとしたのでないか、私にはそう思えます。

 伊藤は総選挙を実施しますが、与党・野党ともに過半数に至りませんでした。このとき、伊藤に世論という形で圧力を与えていたのが、福沢諭吉です。

 福沢は時事新報(じじしんぽう)という新聞社を創設、旗振り役となります。

 ここで福沢諭吉は戦争を煽り、日清戦争を煽りまくる訳です。そのことについては石井研究員も同意してくださっているので、論点にはしません。
 重要な事は日清戦争は本当に日本の国益に寄与したか?ということです。 「どこの国でも戦争を自由に行うことが出来るし、誰も、他の国の戦争を批判することが出来なかった。
」と石井さんはお書きですが、アメリカのマスコミは日清戦争での日本軍による虐殺を批判しています。日清戦争では非戦闘民を虐殺しており、これは当時の国際法に照らしても違法のはずです。

 このように国際的に日本=野蛮の国というイメージが広がりました。

 石井氏の引用している社会学者の小室直樹(こむろなおき)氏は『痛快!憲法学』においては日清戦争について国際法が合法だったか、違法だったのかについて答えが書かれていません。ところが、小室直樹は読者の誤解を招くような次のようなことを書いてしまっている。
(貼り付け開始)
 小室直樹博士の、『痛快!憲法学』のp168-169を要約します。

近代の戦争は経済的利益を追求する為に行われる国益追及のための外交手段の一つとして認められており、従って、どこの国でも戦争を自由に行うことが出来るし、誰も、他の国の戦争を批判することが出来なかった。
これが第1次世界大戦前の20世紀初頭までの国際法の常識です。

(貼り付け終了)

 ここで小室直樹はあまりにもおおざっぱな解説をしてしまいました。19世紀における戦争について重要な条件があるということの解説です。戦争を行っていいのが、文明国に限定されるということです。17世紀から20世紀初頭にかけて世界は文明国、半開国(はんかいこく)、野蛮国(やばんこく)の三つに分類され、小室の主張する戦争をしても良いのは文明国だけです。つまり、欧米諸国のみです。

 それなのに、小室直樹はそのような重要な事実を全く書いていません。これでは読者である石井氏が勘違いするのも無理はない。つまり、明治政府は文明国ではないため、せいぜい半開国でした。つまり、国際法の適用できる文明国ではないわけです。日本を半開国と定義していたのも福沢諭吉本人です。
 しかし、福沢諭吉は自分の中国侵略の野望を実現するためなのか、自分の言論を修正して、日本を文明国としています。教育学者の安川寿之輔氏は次のように福沢諭吉のころころと変わる主張を批判しています。ジャーナリストの岩上安身(いわかみやすみ)氏による安川インタビューの一部を抜粋します。

(http://bit.ly/1bFS7X3 @iwakamiyasumi)
(貼り付け開始)
安川氏「福沢諭吉は、朝鮮を文明に誘導するという名目で武力侵略を合理化しました。

1882年の『朝鮮の交際を論ず』という論文で、『(朝鮮が)未開ならば之を誘うて之を導くべし、彼の人民果して玩陋ならば之に諭して之に説くべし』と書いています」

安川氏「一般の人は、福沢諭吉が蘭学や英語を学んだので、アジア蔑視に走ったと思いがちです。そうではありません。初期啓蒙期の福沢は、『野蛮国』『半開国』『文明国』の3つに分けた場合に、朝鮮と中国を、日本と同じ『半開国』だと見なしていました」

安川氏「それが、明確にアジア侵略を目指すようになってからは、それを合理化するために、『朝鮮や中国は野蛮で遅れており、わからずやだ』ということを述べ立てることになりました」

岩上「『朝鮮の交際を論ず』には『我輩が斯く朝鮮の事を憂てその国の文明ならんことを冀望し、遂に武力を用いてもその進歩を助けんとまでに切論するもの』とありますね。まさに、他国の『文明』化のために、武力侵略を正当化するものですね」
(貼り付け終了)

 つまり、安川氏の見抜いた福沢諭吉の正体とは権謀術数(けんぼうじゅっすう)の人であり、自分の主張に合わせてころころと考えを変えるいい加減な評論家というものでした。

 福沢諭吉は中国や朝鮮は半開国としていたのに、急に野蛮国になってしまっている。そのかわり、福沢諭吉は日本を文明国にしてしまっている。日清戦争実行のため、勝手にアジア諸国の地位を上げ下げしている。

 石井氏は福沢諭吉が日清戦争を主導したとしても国際法的に問題ない、と私に対して反論しています。ところが、石井氏は福沢諭吉が「国際法など無視して構わん!」と主張していたことを知らないようです。福沢諭吉は著書の『通俗国権論(つうぞくこっけんろん)』で国際法を無視することを日本国民に訴えています。

(引用開始)

 また彼は、「百巻の万国公法は数門の大砲に若(し)かず、幾冊の和親条約は一筺(いっきょう)の弾薬に若(し)かず。大砲弾薬を以て有る道理を主張するの備(そなえ)に非(あら)ずして無き道理を作る器械なり。・・・各国交際の道二つ、滅ぼすと滅ぼさるるのみと」という弱肉強食の国際関係のきびしい現実を強調した。
(安川寿之輔『福沢諭吉と丸山眞男』143ページ)

(引用終了)

 つまり、石井氏は国際法的に正しいと日清戦争を規定していますが、その石井氏の反論に福沢諭吉本人が反論しているわけです。国際法など、強大な軍事力の前では役に立たない、と。石井氏は福沢諭吉を擁護するあまり、福沢諭吉本人と論争になってしまうという皮肉な結果になってしまっています。
 
 石井氏は福沢諭吉という大先生を大いに誤解していると言うことです。石井氏よりも安川寿之輔氏のほうが正確に福沢諭吉を捉えているわけです。安川氏が大物の福沢研究者であるのに、福沢研究をされている石井氏が安川氏を批判するのは解せません。

 安川寿之輔名誉教授という先生の本を読むことによって、石井氏の福沢研究の大いに役立つことでしょう。安川氏は福沢諭吉の啓蒙活動について、良いところは良いと認めています。決して福沢諭吉を誹謗中傷するために動いている学者ではありません。

 話を戻すと国際法を守る、守らないという考えは日清戦争時に福沢諭吉の念頭になかったわけです。では福沢は何のために日清戦争を煽ったのでしょうか。

 福沢諭吉は自分が戦争を肯定する動機について次のように語っています。

(引用開始)

 「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若(し)くものなし。・・・・・・我人民の報国心を振起せんとするの術(すべ)は、之(これ)と兵を交(まじう)るに若(し)くはなし」と書いて、権謀術数な報告心振起のために外国との「戦争の勧(すす)め」を主張した。

(安川寿之輔『福沢諭吉と丸山眞男』144ページ)

(引用終了)

 福沢諭吉が日清戦争を煽ったのは国際法を守る、守らないではなく、清帝国が日本に攻め込んでくる、という理由でももちろんなく、人民の愛国心を湧きあがらせることであると述べています。

 こんなふざけた理由で福沢諭吉は日本兵を戦場に送るように煽っているわけです。石井氏の主張されているような国際法的に戦争は正しいという理論を福沢諭吉は全く気にしていない訳です。福沢諭吉は戦争を日本国内の結束を高めるためにやるべき、という国際法をまるで眼中にない動機をもって、戦争を正当化しているわけです。

 福沢諭吉の身勝手な言論によって、どのような結果になったのでしょうか。
 最後の③の章を見ていきましょう。
 
③日清戦争は日本の国益にならず!勝海舟の戦争反対論
 
  日清戦争に反対した人物として、旧幕臣で明治時代には隠居していた勝海舟がいます。勝はこれまた旧幕臣の向山黄村(むこうやまこうそん)に明治期に語った言葉です。

(引用開始)

日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないヂゃないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬにかぎる。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりをやるに限るよ。

おれなどは維新前から日清韓三国合縦の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引き受けることを計画したものサ。今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところをなるくらゐのものサ。

日清戦争の時、コウいう詩を作った。

隣国交兵日 其軍更無名
可憐鶏林肉 割以与魯英て、

黄村などは「其軍更無名とはあまりにひどい。すでに勅語もでて居ますことだから」といって大層忠告した。それでも「これは別の事だ」といって人にもみせた。○○サンにも書いてあげたはずだ。(氷川清話」講談社学術文庫P269)

(引用終了)

 勝海舟の中にはしっかりと反戦思想が根付いています。いや、反戦思想というのは現代的呼称だろう。勝は「今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところをなるくらゐのものサ」と言って戦争をすれば、欧米を利するのみ、勝ははじめからわかっていたのだ。時事新報の福沢諭吉や日清戦争を強力に推し進めた陸奥宗光など勝から見ればそこそこ小粒の人材に過ぎなかったといえます。

 勝海舟は西郷隆盛や熊本の思想家・横井小楠(よこいしょうなん)など、幕末からスケールの大きな人物たちと付き合ってきました。その勝海舟からすれば、福沢諭吉たちは欧米に利用されているように見えたことでしょう。

 このように勝海舟こそは日清戦争当時、冷静な人物でした。なぜこんなことを論評するかというと、勝海舟の本業が国家戦略家だったからでしょう。そのように私は推測します。

 勝は幕末において、坂本龍馬の先生として著名な存在です。十四代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)が大坂に来た時は補佐して、世界情勢についてご説明しています。

 将軍の側近として、また安全保障の専門家である勝海舟には日清開戦は日本国の誤った判断であると予想できたことでしょう。
  そして、この勝海舟の推測は的中している。日清戦争後、ドイツ・ロシア・フランス三ヵ国が日本に「遼東半島を寄越せ」と要求。明治政府はびっくり仰天し、遼東半島を差し出しました。歴史教科書で覚えさせられる有名な「三国干渉」です。
 
 清国に侵略しても領土を占領しても三国干渉でとられたら日清戦争とは何のためにやった戦争だったのでしょうか。日本兵の戦死や清国兵士の虐殺もドイツ・フランス・ロシアの三ヵ国が楽して領土獲得するための踏み台となってしまっている。
 
 この事態を正確に見通していた勝海舟はさすがに大物といえましょう。たかだか下級武士上がりの福沢諭吉では世界情勢がまるで読めていなかったんです。
 福沢諭吉は日本を一等国とするどころか、ますます窮地(きゅうち)に陥(おとしい)れてしまったわけです。石井研究員は日清戦争は国益にかなっていたと主張されますが、福沢諭吉の日清戦争賛成論はむしろ、日本の国益を害していたわけです。

(参考文献)

安川寿之輔『福沢諭吉と丸山真男 「丸山諭吉」神話を解体する 』(高文研、2003年)
安川寿之輔『福沢諭吉の教育論と女性論 「誤読」による〈福沢神話〉の虚妄を砕く 』(高文研、2013年)
平山洋『福沢諭吉の真実』(文藝春秋、2004年)
勝海舟『氷川清話』(講談社学術文庫、2000年)
by めい (2016-05-09 05:22) 

めい

上記、津谷論文に対する副島隆彦氏からの批判です。今後の展開に期待します。

   *   *   *   *   *

 ここの [1921 ]番の 「石井利明氏の日清戦争美化論に反論する。日清戦争はしなくても良かった侵略戦争である。投稿者:津谷侑太 2016年5月6日」の 津谷ゆうた君の文章について、である。

 私は、こんなことを書く津谷君を叱(しか)らないといけない。福沢諭吉(ふくざわゆきち)が、どれぐらい偉大な、 日本の幕末から明治時代(1901年に死去。明治天皇の死去は、このあと11年後の1912年。「逝く人二人」(イクヒトフタリ)と覚える。殉死(じぃんし)して自刃した乃木典彦=のぎまれひこ=と共に) を生きた知識人であったか。そのことを 日本人の多くは知らない。 

 さらには、慶応(義塾)大学の卒業生たちも、何も分かっていない。自分の大学の創設者の福沢諭吉が、どれほどの大人物だったかを誰も知らない。「福翁自伝(ふくおうじでん)」と、「学問のすゝめ」を、大学で新入生のときにタダで配られるらしいが、ほとんどの学生は、これらの本の意味が分からない。 自分の人生は、もっと目先のことと、“現在”のことで忙しい。 

 福澤諭吉の思想 の何がそれほどに優れていたのかを、今頃になって、ようやく、日本国民に徹底的に教えるために石井利明君が努力している。今年中には、なんとか、「福澤諭吉とユニテリアン=フリーメイソンの思想」というような本を、「慶応出身者たちよ、何とか、福澤の偉大さを、まずあなたたちが日本国民に先駆けて、分かってください」という趣旨から書いて出版する。 石井君は、そのための細心の努力をしている。

 それを、まだ24,5歳の若造である 津谷ゆうた君が、「長幼の序」も弁(わきま)えず、丁寧に石井君が、津谷君の短慮にたいして、教えてあげたのに、わざと理解しないふりをして、反論している。 反論になっていない。 あちこちに、姑息で、くだらない欺瞞(ぎまん)が、津谷君の文には、見られる。福沢諭吉を「戦争屋」などと呼ぶことを、私、副島隆彦は許さない。

 あるいは、福沢諭吉が、日清戦争をした、とか、そのお金を出した、というようは、おそるべき記述を、津谷君はしている。 一介の市井(しせい)の言論人に過ぎない福澤が、戦争を遂行したり、戦争を賛美して、何かを実行することはできない。福澤は、政府の高官を務めなかった人だ。乞われても、明治政府に入らなかった。そういう人が、ただの戦争屋や、戦争賛美人間になることはない。

 福澤は、自分が嫌った 最高権力者の伊藤博文(いとうひろふみ)とも、つながってまで、「ハーヴァード大学がら、ユニテリアンの神学者でもある、若手の優秀な4人の教授たちを慶応義塾に招いて」、日本が、当時の世界覇権国である大英帝国の哀(あわ)れて惨(みじ)めな植民地にされないようにと、彼ら、世界最先端のアメリカ知識人たちに、慶応大学で、講義をさせた。 

 福澤は、幕末から、幕府の使節の随行員として咸臨丸でのアメリカ行きだけでなく、ヨーロッパにも2回行っている。その途中の、港で、中国と、インドと、エジプトが、イギリス(大英帝国)からの残酷な植民地支配を受けて、それぞれの国王たちがイギリスに屈従して、疲弊しきった国になっていることを十分に知った。だから、当時、勃興していた、新しい国であり、イギリスと対抗して、その植民地から這い上がったアメリカに大いに期待した。

 このことを、私たちは、昨年、石井君と、津谷君も執筆陣として書いた 『ユニテリアン教会=フリーメイソン が 明治日本を 動かした』 (成甲 =せいこう=書房刊、2015年) を11人で苦労して書いて出版した。 この本の重要性を知るひとは、今も少ない。

 津谷君は、以下で、「・・・・発端は十五年前、2001年に遡(さかのぼ)ります。きっかけは安川が朝日新聞に福沢諭吉を批判する記事を載せたのがきっかけでした。安川寿之輔は「福沢諭吉――アジア蔑視()(べつし)広めた思想家」という論説を発表します。・・・」としっかり書いている。

 そして、「・・・『福沢諭吉の真実』(文藝春秋、2004年)を平山洋(ひらやまよう)は出版、平山は「福沢諭吉は清(しん)帝国との戦いを煽ってなどいない。その証拠に日清戦争のときの時事新報の杜説は、全部福沢の弟子による代筆である。福沢は中国との戦争を望んでいなかったのだ」と書いている。」 と、津谷君は、正確に書いている。

 副島隆彦です。 これでいいのだ。この主張は、私たちの研究員の 庄司まこと研究員が、8年ぐらい目に、ここの今日のぼやきに、「平山洋が正しい。安川寿之輔が、間違いである」と、詳しく説明して書いた。津谷君は、この、自分の先輩研究員の文章を、しっかり読み直しなさに。それから厳しく反省しなさい。くだらない感情論で文章を書かないで、自分が大事にしている、「古賀謹一郎(こがきんいちろう)論」をしっかり完成しなさい。

 私、副島隆彦は、まだたくさん書くことがある。が、今は、時間がない。
女という生き物は、長幼の序、年齢による差別、というのがないようで、アナーキーな生き物のようだ。それに対して、男の世界では、5歳、あついは10歳も年齢が違うと、その年齢の差、人生経験の差を重視して、先輩の考えを尊重し、先輩後輩の上下(じょうげ)のけじめ、を大切にする生き物だ。 

 あれこれ、バカな、自分でも自覚がある、歪んだ性格に陥る前に、まじめにこつこつと書く、ということを今はしなさい。石井利明くんに、津谷くんは、謝罪と反省の文(メール)を書きなさい。 学問道場の先生としての副島隆彦からの 津谷君への教育、指図 です。 いうことを聞きなさい。

副島隆彦 記 

by めい (2016-05-14 03:50) 

めい

康有為が話題になっています。どこかで関心を持ったことがあると思って検索してこの記事を見つけました。こにメモしておきます。

青島の康有為旧居記念館
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8603.html
康有為は日本人に暗殺された?
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8604.html

2007/7/8に↓この本を求めています。読んでません。
「中国の人と思想 (11) 康有為―ユートピアの開化」
https://www.amazon.co.jp/中国の人と思想-11-坂出-祥伸/dp/4081850119

ちょうどこの頃、滝沢誠『権藤成卿』を読んでいた。
http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2007-07-09

93夜『権藤成卿』滝沢誠|松岡正剛の千夜千冊
http://www.google.co.jp/search?client=safari&rls=en&q=康有為%E3%80%80権藤成卿&ie=UTF-8&oe=UTF-8&gfe_rd=cr&ei=g5XVWN_EDtDo8Afd14KgCw#spf=1

《やがて日露戦争がおこってポーツマス条約が結ばれると、明治政府は朝鮮統監府を設置、伊藤博文が初代統監となった。/ このとき伊藤は内田良平と矢上錦山を統監府嘱託にして京城におもむいている。このことを助言したのは玄洋社の杉山茂丸だった。ここには、やがていっさいの厄災の元凶となる日韓合邦運動が芽生えていた。この密かな運動計画は、一進会の財団結成とともにしだいに濃いものになっていく。/ そのシナリオには、日韓合邦が成就した暁には、一進会100万の会員を率いて満州移住を実現し、やがておこるであろう“支那革命”に乗じて満州独立をかちとろうということが書きこまれていた。/ これはのちの昭和になって肥大する“東亜連邦構想”の第一歩にあたる。ロシアの極東進出を阻むシナリオがそこに下敷きになっていた。/ また、ここには奇妙な「鳳の国」構想というものも描かれていた。「鳳の国」というのは大高麗国建設の夢ともいうべき破天荒なもので、古代の沿海州に勢力をはっていた扶余族の版図をふたたび蘇らせようというものである。そんな天一坊めいた計画もあったのである(ここにはのちの五族協和や大東亜共栄圏の骨格もあらわれている)。/ しかし、当時はこれらの奇々怪々の構想には、黄興も孫文も、かれらを支援した宮崎滔天も松永安左衛門も、さらには康有為も梁啓超も、また犬養毅も柏原文太郎も賛同していた。熱心だった。ようするに当時のアジア主義者の大半がこの構想の裡にあったのである。》

どこにおいたか『 康有為―ユートピアの開化』を探してみることにする。


by めい (2017-03-25 07:07) 

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