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『限界費用ゼロ社会』(4) ホモ・エンパテクス Homo empathecus (前) [置賜自給圏構想]

最後の日本向け特別章は別にして、最終章である第16章「生物圏のライフスタイル」、私はぞくぞくしながら読んだ。「共感するヒト(ホモ・エンパテクス)」の節は、《人類史における経済の大パラダイムシフトは・・・人類の意識をも転換し、共感の動因を時間的・空間的により広い領域へと拡大して、いちだんと大きな比喩的家族や相互依存を深めた社会という形で人々を団結させるはずだ。》と始まる。まさに「万有和合・世界霊化」ではないか。ちなみにホモ・エンパテクス Homo empathecusはリフキンの造語のようだ。グーグルで検索しても「一致する情報は見つかりませんでした」。この記事をアップしてはじめてネットデビューか。どんどん広がって欲しい。


リフキンによる「共感」という社会関係意識に焦点をあてた人類の発達史。共感の広がり具合によって「神話的意識→神学的意識→イデオロギー的意識→心理的意識」と段階づけられます。ただし、「→」は「変化」を表すのではありません。4段階の意識は並存するのです。したがって、「→」は「広がり」であり「深まり」を表します。読むほどに、リフキンはすぐれた文明史家であることがよくわかります。以下、太字は引用者。

 

初期の狩猟採集社会では、エネルギーの源は人間の身体そのものであり、エネルギーの保有体として動物を家畜化することも、風や水流のエネルギーを採取することもなかった。狩猟採集社会はいずれも、連携して狩猟や採集を行なったり、社会生活を営んだりするために、何らかの形態の音声言語を編み出していた。さらに狩猟採集社会は例外なく—今日わずかに残る狩猟採集社会でさえも—「神話的意識」を有していた。狩猟採集社会では、共感の動因が、血縁や部族の絆を超えて拡がることはなかった。狩猟採集社会に関する研究からは、まとまりあるコミュニティを維持できる社会集団の規模が、五〇〇人を超えるのは稀だったことが判明している—これは、血縁関係で結ばれた拡大家族に属する者の数であり、この数までなら成員どうしは社会関係を常時保ち、社会的信頼を寄せ合い、ある程度の親密さを抱くことができた。ある部族が渡り歩く領域にときおり侵入してくる他の部族は、人間ではない存在と見なされたり、悪魔とさえ考えられたりした。


 紀元前三五〇〇年ごろに中東で、紀元前三九五〇年ごろに中国の長江流域で、紀元前二五〇〇年ごろに南アジアのインダス川流域で出現した、いずれも大河に育まれた巨大文明は、新たなコミュニケーション/エネルギー/輸送マトリックスをもたらした。水路を用いた集中制御型の潅漑農業体制を構築し、維持するには、多大な労働力と専門技能が必要とされた。貯蔵された穀物という新しいエネルギー体制から都市生活が誕生し、穀物倉や道路網、貨幣、市場、遠隔地との取引が姿を現した。穀物の生産、貯蔵、分配を管理する統治組織も形成された。このような広範囲にわたる潅漑農業事業の中央集中化した管理が可能になったのは、ひとえに新たな形態のコミュニケーション、すなわち書字(文字を書くこと)の発明による。

 濯漑農業による生産と書字の出現が相まって、人間の心は神話的意識から「神学的意識」に移行した。世界の主要な宗教のいくつかは、「枢軸時代」と呼ばれる時期(紀元前八OO年ごろ〜西暦一〇〇年ごろまで)に形成された。中東でユダヤ教とキリスト教が、インドで仏教が、中国で儒教(精神的探究)が誕生したのだ。

 神話的意識から神学的意識への移行に伴って、共感の動因も血縁による絆から宗教上のアイデンティティに基づく新たな架空の家族へと急拡大した。血のつながりはなくとも、ユダヤ教徒は架空の家族として他のユダヤ教徒との一体感を持ち始めた。仏教徒も同様だった。西暦一世紀のローマでは、初期のキリスト教への改宗者たちは、互いの頬にキスをして、兄弟姉妹として接した—家族とはつねに、血縁関係にある者に限られていた過去の世代の人々には、まったく理解できない考え方だし枢軸時代の主要宗教はどれも、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」という黄金律を生んだ。このように、共感という感性が宗教的帰属を基礎にした架空の拡大家族にまで拡がったおかげで、潅漑農業による生産と書字が一つになって誕生した、時間的・空間的に以前よりずっと広い新たな文明の領域全体で、多くの人々が社会的な絆を育むことが可能になった。


 一九世紀に入ると、石炭を燃料とする蒸気印刷や新たな工場、鉄道輸送システムが時を同じくして登場し、「イデオロギー的意識」が誕生した。新たなコミュニケーション/エネルギー/輸送マトリックスは、地域市場から国内市場への通商拡大を可能にし、新しい経済パラダイムを管理する統治形態として、国民国家を確立した。各人は自らを自国の市民であると考え、同胞たちを拡大家族の成員と見なし始めた。各国が自国の歴史的な物語を編み出し(その大部分は創作だった)、それに重大な出来事や歴史的苦難、国民全体の記念祭、国家的祝事などをちりばめた。どれも血縁や宗教的絆を超えて、国家全体の結びつきにまで共感という感性を拡大するためだった。フランスの人々は、互いを兄弟姉妹のように捉え始め、拡大家族として共感を寄せ合った。その家族は、フランスの工業社会を支えるコミュニケーション/エネルギー/輸送マトリックスを構成する国内市場や政治的国境の新たな時間的・空間的領域全体に及んでいた。ドイツでも、イタリアでも、イギリスやアメリカ、その他の国々でも、共感の動因の範囲は拡がり、国土全体を包含するまでになった。


 二〇世紀には、中央集中型の電化、石油、自動車輸送が結びつき、大量消費社会が台頭し、またしても新たな認識上の移行、すなわちイデオロギー的意識から「心理的意識」への移行をもたらすことになった。私たちにとって、セラピーのように自らを省みることや、内面世界と外界の双方を同時に生きていると考えることは(それが人づき合いや日々の生活にたえず影響を及ぼしているのだが)、しごく当たり前になった。そのため、私たちはつい、祖父母以前の人々は誰一人として(厳密には、歴史上傑出したごくわずかの例外者を除いては)、心理的観点から考えることなどできなかったという事実を失念してしまう。私の祖父母はイデオロギー的観点や神学的観点、あるいは神話的観点からさえ、物事を眺められたが、心理的観点に立つことはまったく不可能だったのだ。

 心理的意識により、共感の動因は政治的な境界を超えて拡大し、さまざまな共通点から発する結びつきまでを含むものとなった。人類は、職業や専門分野、文化的嗜好など、幅広い特性に基づくさらに大きな架空の拡大家族どうしで共感を抱き始め、そうした大家族は国境を超えて社会的信頼の境界を拡張し、コミュニケーション/エネルギー/輸送マトリックスや市場がグローバルになりつつある世界において、似たような考え方をする他者への親近感をも含むことになった。


 新たなコミュニケーション/エネルギー/輸送マトリックスとそれに伴う経済パラダイムは、それ以前の各時期の意識や共感の範囲を捨て去りはしない。それらは変わらず残るものの、より広い共感の領域の一部になる。神話的意識、神学的意識、イデオロギー的意識、心理的意識はどれも、各人の心の中やあらゆる文化の中に、それぞれの文化に特有の異なる比率や程度で今なお存在し、さらには一体化して共存している。世界にはごくわずかながら、狩猟採集民が神話的意識を持って暮らしている場所もある。また、もっぱら神学的意識に囚われている社会もある。さらには、すでにイデオロギー的意識に移行していて、今度は心理的意識に向かっている社会もある。

 意識の変化はまた、機械的・直線的に進展してきたわけでもない。その途上で暗漁たる時期や退行も経験し、ある種の意識が覆い隠され、忘れ去られて、後に再び見出されることもあった。イタリアのルネサンスや北方ルネサンスは過去の意識形態を再発見した好例だ。

 それでもなお、人類の進化にはあるパターンをはっきりと認めることができる。そのパターンは、不規則ながらも紛れようのない人間の意識の変容と、それに伴う共感の動因の拡大の中に捉えられている。共感の対象は、ますます複雑で相互に依存したコミュニケーション/エネルギー/輸送マトリックスと経済パラダイムの中でまとまりを見せる、より大きな架空の家族と拡がってゆくのだ。》


《私たちはつい、祖父母以前の人々は誰一人として(厳密には、歴史上傑出したごくわずかの例外者を除いては)、心理的観点から考えることなどできなかったという事実を失念してしまう。私の祖父母はイデオロギー的観点や神学的観点、あるいは神話的観点からさえ、物事を眺められたが、心理的観点に立つことはまったく不可能だったのだ。》ここは、実感として体験としてよくわかります。わが家には幕末から明治にかけての「年代記」「音信帳」があります。ひたすら事実が記してあるのですが、そこからなんの心理も読み取ることはできないのです。明治22年生れの祖父が残した日記風のものもありますが、そこにも心の動きは一切書かれてはいません。だれもが「心理的観点から考える」ことができるようになったのはほんとうにここ数十年のことなのかもしれません。さらにそれを後押ししているのがネット文化です。15年以上前に書いた文章を思い出したので貼付けておきます。若い世代はわれわれより格段に進んでいます。リフキンもそれを見据えています。

 

*   *   *   *   * 

 

インターネットが生み出す新しい世界

インターネットでのメールのやり取りやチャットや掲示板を使った議論や情報交換、そうしたことを通して、これまでには考えられなかった人間関係が生まれています。言葉だけで自分を表現し、言葉だけから相手を判断してできあがる人間関係です。そこでは性や年齢や職業、立場に関係なくだれとでも対等に、しかも思うままの自分でふるまうことができます。それぞれが自由で平等な人間関係が可能なのです。

現実の世界の人間関係はそういうわけにはいきません。身体をもった人間として、その人の行動はいつも他人の前にさらされています。性や年齢といった生まれながらの条件や、職業や立場といった社会的条件の中で「自分」ができあがっています。心の中で「こういう人間だ」と思う自分の外に、、他人からいつも見られている身体をもった自分があるのです。自分が自分をどう思おうと、どうしようもなく他人から評価されながら生きている自分、いつもふたつに分裂しています。パソコンの前の自分と他人の目に触れている身体をもった自分、言葉だけの世界で行動している自分と他人と一緒に暮らす中で身体を使って表現している自分、このふたつの自分の間の大きな隔たりを自覚しだすことが、子どもから大人へと成長してゆく上での大切な通過点です。このふたつの自分に折り合いをつけることが大人になってゆくことと言えるかもしれません。

「言葉だけの世界の自分」は、かつては読書の体験などを通してつくりあげられたものでした。それは自分の心の様子を人前に見せないひとりだけの孤独な世界でした。ところがインターネットの出現によって、言葉だけの人間関係が自由自在に展開できることになったのです。いわば、むき出しの心、素っ裸の心を出し合った人間関係です。このことは、自分の心のもち方までもが生きてゆく上で大切な関心事にならざるを得ないという意味で、人間にとって大きな進化です。

インターネットで育つお互い同士のつきあい方は、現実の世界での人間関係にも広がって、これまでは求めても得られなかったような「深いつきあい」「心を割った人間関係」がいたるところで展開されるような世の中になりつつあるかもしれません。これからの人間の生き方は、それぞれの心のありようが、これまでには考えられないほど大きな関心を占めるようになるはずです。

「物から心へ」とはここ十数年来いろんなところで言われてきたことですが、インターネットの普及がまさにそのことを現実のものにしようとしているのです。

 

 

 

 


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