SSブログ

『限界費用ゼロ社会』(2)「息苦しさ」と「のびやかさ」の分水嶺 [置賜自給圏構想]

マイナーだった「アプロプリエートテクノロジー(適正技術)運動」を、ハッカー文化と結びつけることで広範な文化的現象に引き上げたというスチュアート・ブランド1938ー)がこう語った。

《一方で、情報は高価になりたがっている。非常に貴重だからだ。適切な場所で適切な情報が得られれば、人生が一変する。その一方で、情報はフリーになりたがっている。情報を引き出すコストはつねに下がる一方だからだ。そこで、両者の葛藤が起こる。》156p

情報は「私的」に囲い込まれることで高価になりうる。しかしその一方で、どこにでもだれにでもタダで自由に流れてゆくというのが情報の自然のありようだ。高価であろうとする志向とフリーの方に流れようとする志向の絶えざるせめぎ合い、情報はいつもそこで揺らいでいる。


知的労働の結果としてその価値を保護するということなのだろうが、著作権法という法律は、フリーになろうとする情報の本性を殺してまさに「私的」に囲い込む、嫌いな法律だ。そもそもその人が書いたものはたまたまその人を介しているだけで、書かせているのはその人を取り囲む文化の総体、もっと言えば、その人を今そのとき生かしている、あるいは共に生きている、言ってしまえば「霊」と言ってもいいようなもの、そんな気がするので、あえてそうして生まれたものを「おれのもの」と言って囲い込むのは、その「霊」のようなものに対して申し訳ない所業なのではないか、そんな感覚からすると、著作権法はまちがっている。(吉本の「自己幻想」感覚からはまた別に考えます)


個人情報保護法が施行されたのが平成17年だからもう11年になる。個人個人をさらに孤立化に追い込もうとする法律だ。この法の根っこにあるのは、万が一の悪いことを想定してやまない性悪説だ。結果するところ相互不信が加速する。息苦しくてしょうがない。


こんなことを思っていて思いうかんだのが今日の表題「『息苦しさ』と『のびやかさ』の分水嶺」だった。「のびやかさ」を求めて解放へと向うのが自然の流れである。「情報」は「限界費用ゼロ」の象徴的存在なのだから。「のびやかさ」を選びたい。そうして開けてくる時代をリフキンは「透明性の時代」とよぶ。

 

《あらゆる人とあらゆるモノをニューラルネットワークでつなげば、人類は、現代を決定的に特徴づけるプライバシーの時代から透明性の時代に入る。プライバシーは長らく基本的権利と考えられてきたが、生得の権利だったことはない。それどころか現代を除けば、人類の生活は全歴史を通じておおむね、地球で最も社会的な種にふさわしく、公的に営まれていた。一六世紀になっても、日中、長時間にわたって一人でうろつき回る人や、夜にわざわざ姿を隠す人はみな、たいてい物に取り憑かれたと見なされた。現代以前には、私たちが知るほぼすべての社会において、人々は他人と入浴し、しばしば人目もはばからず排泄し、共有の食卓で食事をとり、頻繁に人前で性的な振る舞いに及び、大勢で身を寄せ合って眠った。

 資本主義の時代が始まると、ようやく人々は鍵のかかったドアの奥で過ごすようになる。ブルジョアの生活はごく私的なものだった。彼らは公の顔を持って暮らしていたが、日常生活の多くは世間から切り離された所で営まれた。家庭での生活は、さらにそれぞれ用途の異なる部屋(応接室、音楽室、書斎など)に分割され、各自が初めて別々のべッドや寝室で一人で眠るようにさえなった。人間生活の囲い込みと私有化は、共有地の囲い込みと私有化と手を携えて進んだ。煎じ詰めればすべてが[我がもの」か「汝がもの」になる新しい私有財産関係の世界においては、自らの所有物に囲まれ、残りの世界から隔てられた自主的行為者という概念が、独自の形をとるに至った。プライバシー権は他者を締め出す権利と化し、各人の家は各人の城であるという考えが生活の私有化に伴って現れた。そして、あとに続く世代は、プライバシーを人類史の特定の時代に見合った、単なる社会的はなく、自然が与えた人間生来の特性と考えるようになった。

 今日、発展を続けるloT(Internet of Things)がプライバシーを神聖不可侵にしていた囲い込みの層を次々に剥ぎ取り、生きる権利、自由の権利、幸福追求の権利と同様に重要だと見なされていたプライバシーの権利を奪いつつあゐ。今の若い世代はグローバルにつながった世界で育ち、フェイスブックやツイッター、ユーチューブ、インスタグラムをはじめ、数え切れないほど多くのソーシヤルメディア・サイトを通じて、自らの生活の各瞬間をせっせと投稿し、世界とシェアしたがる。プライバシーはその魅力の大半を失なってしまったのだ。この世代にとって、自由とは、他人の制約を受けずに自主的に行動したり、他者を排除したりすることにあるのではなく、むしろ進んで他人にアクセスしたり、グローバルでバーチャルな公共広場の一員になったりすることにある。この若い世代の特徴を一言で表すなら、それは透明性であり、彼らの行動の仕方は協働だ。そして自己表現は、水平展開型のネットワークでのビア・プロダクションとして行なわれる。》117p


木村社長maguro_20160112_071.jpg

「のびやかさ」にふさわしい話題があった。

いてみると誰も海賊とは話していないという。おかしいじゃないですか。海賊といったって相手は人間なんですから。それでさっそく、伝手を頼ってソマリアの海賊たちに会いに行きました。そこでわかったことは、彼らだってなにも好き好んで海賊をやっているわけじゃないということです。》《相手の視線に立って、相手の悩みに気がついてあげることが必要なんです。》

「透明性の時代」の感覚に思えました。安倍政権の発想とは真逆です。


   *   *   *   *   *

 

すしざんまい社長が語る「築地市場移転問題」と「ソマリア海賊問題」20160118


 ’01年に第1号店を東京・築地場外市場に「すしざんまい 本店」をオープン。現在では北海道から九州まで、51店舗を展開。その多くが年中無休24時間営業で、本格的な寿司を手ごろな価格で楽しむことができるという、それまでの寿司屋の常識を覆したのが、株式会社喜代村の木村清社長だ。

⇒【前編】はコチラ


「すしざんまい」が年間300件の海賊被害をゼロに

木村社長は、ソマリアだけでなく、漁場の開拓に、魚の買い付けに、自ら世界を飛び回る。

――「『すしざんまい』の社長が、アフリカのソマリアで、元海賊とマグロ漁をやっている……と話題になったことがありましたね。


木村:今でもやってますよ。ソマリアの沖というのは、キハダマグロのいい漁場なんです。ところが海賊が出るようになり、危なくてマグロを獲りに行けなくなってしまったんです。しかし、聞いてみると誰も海賊とは話していないという。おかしいじゃないですか。海賊といったって相手は人間なんですから。それでさっそく、伝手を頼ってソマリアの海賊たちに会いに行きました。そこでわかったことは、彼らだってなにも好き好んで海賊をやっているわけじゃないということです。だったらこの海で、マグロを獲ればいいじゃないか。自分で稼いだ金で家族を養うという、誇りを持った人生にしなくちゃいかん――と、彼らと話し合ったんです。


――ソマリアの人たちは、内戦で国を失い、無法地帯となった彼らの海が荒らされたため、海賊になったと主張しているそうですが、自力では対抗できなかったのでしょうか……?


木村:口で言うのは簡単ですが……、まず彼らは、マグロ漁の技術をもっていないし、船もありません。マグロを獲ってもそれを入れておく冷凍倉庫が使えなくなっている。獲ったマグロは売らなければなりませんが、そのルートをもっていない。IOTC(インド洋まぐろ類委員会)に加盟していないから、輸出ができなかったんです。じゃあ、仕方がない。うちの船を4隻もっていった。漁の技術も教えましょう。冷凍倉庫も使えるようにする。ソマリア政府にはたらきかけてIOTCにも加盟する。獲ったマグロをうちが買えば、販売ルートも確保できる。こうやって一緒になってマグロ漁で生活ができるようにしていったんです。


――「民間外交」の枠を超えた貢献ですね。なぜそこまで?


木村:いろんな国や国際機関も援助をやっていますが、どれも上滑りのことばかりであまり役に立っていないことも少なくありません。相手の視線に立って、相手の悩みに気がついてあげることが必要なんです。ソマリア沖じゃ一時は年間300件、海賊による被害があったそうですが、うちが行くようになって、この3年間の海賊の被害はゼロだと聞いています。よくやってくれたと、ジブチ政府から勲章までいただきました。


――そこまでして、事業として採算はとれるんですか。


木村:んー。まあ、正直言って今のところまだ採算はとれていませんね。しかし、将来的にはきちんと利益が出る目論見はたっていますよ。それに商売というのは、目の前の利益、儲けのことを第一に考えていたんではうまくいかないものなんです。まず考えなくてはならないのは、どうやったら喜んでもらえるか、何を求められているかということ。それに応える算段をするのが「商売」なのではないですか。

(つづく)

                 


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 1

めい

《どこか、怖いもの見たさで、日本人は突き進んでいる。集団自殺に突進するネズミの群れのように。個体が増えすぎて集団自殺はあるだろうが、減りすぎて困っているのに、集団自殺と云うのも納得できない。筆者は常々、行き着くところまで行った方が、方向転換に舵を切るのも、選択肢の一つだと書いているが、日本人には、こういう集団的行動原理のDNAでもあるのかと、疑いたくなることが多い。所謂、大きな意味で集団で切れてしまうのだ。簡単に言うと「ヤケクソ」の精神、毒を食らわば皿まで食べてみないと納得できない情動が働くのかもしれない。》
たしかにそんな気がする。しかしそうあってはダメなのだ。「息苦しさ」に耐えるのではなく「のびやかさ」の解放を! 安富教授の告白は秀逸。

   *   *   *   *   *

●怖いもの見たさで突き進む国民 立場主義と云う行動反美学
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/d/20160129
2016年01月29日

著書、『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』で、日本の権威に一石を投じた東大教授・安富歩氏と小野美由紀氏のインタビュー記事が現代ビジネスに掲載されていた。明治維新以降の強固な中央集権統治システムの弱点や、江戸時代まで営々と築いてきた「家制度」の崩壊が意味するもの。そして、国家が「個人」を「徴兵」を通じて管理し統治する強固なシステムの延長線上に、現在の日本はある。明治維新以降の日本人は個々の「立場主義」の精神に貫かれている。このようなシステムの欠陥は、二重人格的国民を醸成する。FacebooksとTwitterの関係性に似ている。俗にいう、“本音と建て前”にも同じことが言える。

安富氏らしい、“らしさ”への抵抗姿勢なのだが、筆者が氏を初めて知ったのは、ビデオニュースドットコムの出演がキッカケだ。当時は、濃い髭を生やし、サングラス姿で出演していたが、後々、公開授業などの映像を見ると、坊ちゃんポイ顔立ちの壮年だった。そして、今回のインタビュー時には女性装という出で立ちである。人生を愉しんでいるなとニヤリとしたが、赤裸々な告白を読むと、決して、愉しんでいるわけではなさそうだ。ただ、面白い現象は、現代ビジネスサイトの読まれているランキング1位になっていることだ。まさに、「立場主義」を離れたところで、良い意味でTwitterな日本人の顔が覘いているのだろう。このままじゃ駄目だまでは気づいているが、それをブレイクスルー民力がない。

もっと正直に、自分の疑問を社会に訴えかける日本人が多くなればいいと思うのだが、Facebooks的には、言えないのだろう。しかし、選挙と云うシステムは、本来、Twitter的であるべきものだが、なぜか、Facebooks的な投票行動に終始しているのが、日本人だ。無論、自民党を支持することにおいて、本音も建前も自民党と云う人がいるとしても、09年には民主党が勝ったのだから、日本人全体が、本音も建前も同じ、裏も表もございませんと云う話に説得力はない。しかし、甘利大臣が辞意を表明しても、野党が、議員辞職まで追求したとしても、山が動くと云う気配は感じない。国民から、現状はファイティング・スピリットが消えている。再生もあり得るだろうが、いつのことやら。

どこか、怖いもの見たさで、日本人は突き進んでいる。集団自殺に突進するネズミの群れのように。個体が増えすぎて集団自殺はあるだろうが、減りすぎて困っているのに、集団自殺と云うのも納得できない。筆者は常々、行き着くところまで行った方が、方向転換に舵を切るのも、選択肢の一つだと書いているが、日本人には、こういう集団的行動原理のDNAでもあるのかと、疑いたくなることが多い。所謂、大きな意味で集団で切れてしまうのだ。簡単に言うと「ヤケクソ」の精神、毒を食らわば皿まで食べてみないと納得できない情動が働くのかもしれない。

武士道などに見られる行動美学にも、そういう類はあるし、三島由紀夫率いる楯の会においても、似たような心理が働いていたように思える。ゆえに、予防原則などの概念を語っても意味がないのかな、と思えてくる。あまり書くことはないが、原発を止めさせるには、もう一発過酷事故が起きれば、流石にやめるだろうと云うのに近い。そういうことなら、安倍さんに対中戦争まで頑張って貰い、ゼロからやり直しも是とするか。その時の見ものは「第二次東京裁判」だが、A戦犯として裁かれるのは習近平か安倍晋三か。そんな妄想に耽れば、次期参議院選とかW選とか、どっちでも良くなる。今夜は、デカダンスでニヒルに(笑)。


≪ なぜ日本の男は苦しいのか?
  女性装の東大教授が明かす、この国の「病理の正体」
安冨歩【第1回】
 「東大教授なんて、高い高い断崖絶壁の上を走るレールを、ひたすら一人で登り続けているようなもの。レールを太くて頑丈にすればするほど、どんどん そこから外れることができなくなる。“レール”って、何のことか分かる? それは、『男らしくあれ』っていう強迫観念。東大教授の大半は男だからね」 そう語るのは、東京大学東洋文化研究所の教授・安冨歩(52)だ。
 身体的には男性だが、普段からスカートやワンピースなどの女性の装いをし、テレビ番組や講演会にもその姿で出演する。2014年10月、マツコデラックスの番組「アウト×デラックス」(フジテレビ系)にて「女性装の東大教授」として取り上げられ大きな話題を呼んだ。
 装いのみから注目を集めているのではない。気鋭の経済学者としても注目を浴びている。特に3.11の原発事故後に出版された『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』 (2012年1月出版)では、原発事故を取り巻くマスコミや政治家の言論が、第二次世界大戦前の戦争に関する言論とよく似ており、社会の暴走が加速する時 には、きまって知的特権階級の人々の間でよく使用される「欺瞞的で、相手を言いくるめ、服従させるための」話法がメディアや政治の場で頻発すると指摘し た。
 自分自身が「エリート」であるにもかかわらず展開する痛烈なエリート批判と、その装いによって視線をあびる安冨だが、彼は最初から現在のような自由な人生を歩んで来たわけではない。彼の人生には長い間、家族から植え付けられたと脅迫観念がつきまとっていた。

■親の価値観―”靖国精神”で満たされた家庭
 安冨の両親は昭和9年、10年生まれ。生まれた時には満洲事変は終わっており、物心ついた時には日中戦争が起こり、太平洋戦争を経験した。父は学校の校長、母は元教師という家庭の長男として安冨は育った。
 「男の子は大きくなったら戦争に行って、天皇陛下のために死ぬ。女の子は銃後を守り、息子を兵士として育て、立派に戦死したら靖国の神になったと随喜の涙を流す。私の両親はこの“靖国精神”を植え付けられたど真ん中の世代。私の教育にも当然それは影響した」
 終戦後、世は戦後民主主義に急転換。しかし国民の腹の中はまだ靖国精神で満たされている。この世代の多くの人は、この二重構造を背負っていたはずだ、と安冨は指摘する。自らは、そのような両親からのただならぬプレッシャーを全身に受けながら育ったと言う。
 「口では『お前の好きにすればいい』と言いつつ、内面では『良い学校に行って、出世しろ!』という無言の強烈なアピール。家族はお父さんの役、お母さんの役、子供の役、とそれぞれが立場を演じているだけ。心の交流は無かった」
 中学生のころ、本心では指揮者や作曲家になりたかったが、親には鼻で笑われた。ゴッホ展を見て画家になりたいと思った時には、もう口にすらしなかった。エリートになる道以外に選択肢はありえない。そんな無言の空気が安冨を苦しめた。
 「あのね、『勉強しろ』って言葉で命令するのはまだ二流だよ。本当に支配的な親って言うのは、勉強しなさいって言わなくても子供が気配を察して自分 で勉強しはじめるような無言のプレッシャーを与えてるの。最初から、親の価値観の枠組みから外れないようにガチガチに仕込んで、そこから外れることすら想像させないんだよ」
 父は職場では子供や同僚のことを第一に考え、教育に粉骨砕身する人物ではあったが、家では母親の言いなりであり、安冨の味方ではなかった。
 親の期待通りに登りつめたエリートの階段 ・安冨は親の期待を一身に受けて京都大学経済学部に進学。卒業後は住友銀行に就職し、バブルを発生させる業務に従事したが、優秀なはずの人々が命まで削って異常な活動に没頭する姿に耐えきれず、2年半で辞職した。
 京都大学の修士課程に進み、人文科学研究所にて助手を務め、その後、名古屋大学を経て、東京大学の東洋文化研究所にいたるまで、順調に研究者として のキャリアを築いてきた。そのころは、特に自身の性認識に疑問を持った事はなく、「男の大学教授」としての立場を全うすることに全力をかけていた。
 一見、華々しいエリートコースだ。しかし、心の重圧は取れず、たびたびわき起こる自殺衝動や、持病の頭痛に悩み続けたという。
 東大教授という、研究の世界では日本最高峰の立場を手に入れたにも関わらず、なぜ安冨の心は晴れず、自責の念に苦しみ続けたのだろう? ・「エリートにありがちだけど、高い目標を掲げて全力で取り組み、それが達成できたら“やれやれ失敗せずに済んだ”とホッとすることの繰り返し。達成の瞬間にホッとしても、喜びは感じられない。かといって、挑戦することをやめると気が狂いそうになるので、やめられない」
 耐えられないほどの焦燥感。それは、子供のころから両親の教育によって植え付けられたものだった。
 どんなに登り続けてもゴールの見えない断崖絶壁を、一人、延々と登り続ける孤独と不安。そこから飛び降りるきっかけを探しながらも、安冨はずっと苦しんでいた。

■”靖国の母”から植え付けられた呪縛
 最初の“飛び降り”は、妻との離婚だった。 ・その頃の安冨は、前妻からの度重なる暴言に疲れ果てていたが、「モラル・ハラスメント」という言葉も無かった時代、黙ってそれに耐え続けていた。結婚生活がうまくいっていないこと自体に、自責の念を感じていたからだ。
 堪え兼ねてついに離婚を考えたとき、立ちはだかったのは両親の猛烈な反対だった。苦しんでいる安冨を擁護するどころか、あちら側について、「良くても悪くても、とりあえず結婚生活は続けろ」の一点張り。
 安冨は激しい自殺衝動に襲われた。その衝動の根源を考えたとき、ようやく気づいた。それは母親から無言のうちに送られてくる「離婚して私のメンツをまるつぶれにするくらいなら、自殺しろ」というメッセージだったのだ。
 「今思えば、完璧な息子を産み育てたはずの“良妻賢母の鑑"としての立場が、息子の離婚によって失われる。そういう恐怖心からの反対だったのだろう」
 自分の結婚が家族全員を苦しめている――安冨はがむしゃらに離婚した。そうしなければ、本当に自殺してしまうと思ったからだ。両親へは、弟を通じて絶縁を伝えた。すると自殺衝動も消え、持病も急に軽くなったという。
 安冨を長い事苦しめていた、母から植え付けられた呪縛。それは立派な兵士を育てようとする精神の現れであった。
 教師の資格を持つ安冨の母は、賢くよく働き、子供家族に献身する“良妻賢母”を体現するような女だった。しかし、母から自分に向けられる期待と強制は、彼にとっては呪縛でしかなかった。
 「日本の”正しい母親像”は、戦中に作られたもの。『子どもを立派な兵士として育て、戦死したらニッコリする』って言うね。戦後はその精神が、経済活動に向けられて、”産業戦士”に変化したに過ぎない。
 70年経ってもずっとその呪縛が日本人を縛っている。今でも大半の母親は、知らないうちに”靖国の母”を目指している。外側は民主主義だけど、内面はいまだに“靖国精神”。その二重構造が子供を苦しめる」
 ”靖国の母”に植え付けられた、男は苦しんで戦死してこそ一人前という、無意識のメッセージ。それが安冨を大人になっても苦しめていたのだ。

■日本の男を苦しめる「ホモマゾ社会」と「立場主義」
 「母親だけじゃないよ。日本は戦時中の軍国主義のマインドのままで、表面だけ民主主義に変わっちゃったからね、精神は復員できていない。女は銃後、男は戦場。その証拠に、日本の社会って、基本的にホモマゾ(ホモソーシャルでマゾヒスティック)じゃない。
 たとえば会社組織って、おっさんが集まっていちゃいちゃしてるでしょ、昼も夜も休日も。ずっと一緒にいて、それでいて集団マゾなの。一緒に我慢しようね、みたいな。
 つまりは『貴様と俺とは同期の桜』っていう日本軍のモードのままなのよ。表面上は自由で豊かでも、腹の中は、いまだに戦時中なわけ。酒飲んで、一瞬だけプレッシャーを忘れて、また元のホモマゾの中に戻って、の繰り返し。だから日本人の男はこんなに生きづらい」
 軍国主義によって構築された「ホモマゾ社会」。それは、第二次世界大戦以降、日本が温存し続けている「立場主義」システムの一部だ、と安冨は続ける。
 「立場っていう単語は、他の言語に翻訳できません。日本独特のもの。それが日本人をがちがちに縛り付けて”自分でないもの”にしている」
 立場を失くす、立場を守る、立場上できない……何の疑問も持たずに、私たちが普段使っている言い回しだ。しかし、「立場」とは何か、いざ考えてみると、上手く説明できないことに気づく。立場にいる“私”は“私”ではないのか?立場って、一体、なんだろう?
 「『立場主義』システムは明治維新後に『家制度』に変わるシステムとして形成されたと私は考えている。それ以前は家単位で動員されたものが、徴兵制で個人単位になった。
 そうすると『お家のために命を捨てる』というイデオロギーが失われるから、代わりに靖国神社が作られた。それを変だと思わせないために、学校教育が全国民に施されて、各人は『家のかわりに、自分の立場を守るために、命を捨てる』ようになった」
 無理やり徴兵して、“兵士”と言う立場、“国民”という立場に依拠する形で人を行動させる。実に曖昧な概念なのに、いや、それゆえにこそ、“立場”は日本の社会で物凄いパワーを持ち、人を抑圧している。
 立場主義の例として、安冨はSNSでの振る舞いを挙げる。日本人は実名でFacebooksをやって、立場上、当たり障りの無い事を書いて、食べ物の 写真ばっかりアップする。一方で、匿名でやっているTwitterでは、人をさげずんだり罵ってみせる。他の諸外国ではこういった極端な二面性は見られな い。
 「立場を守るために、溜まったストレスをどこかで発散しないと気が済まないんだよ。それが自分に向いたら自傷や病気になるし、外に向いたら、他人や家族への攻撃になる。ネトウヨとか、ネトサヨなんてのがあるのも日本だけ」

■強固すぎるシステムは人を殺す
 第二次世界大戦中に軍隊から生まれた「男らしくあれ」というホモマゾ的な強迫観念と「立場を守れ」という立場主義。この2つのシステムが戦後に著しく成長してしまったからこそ、現在の日本の社会は息苦しいのだ。
 「でも日本はそのおかげでありえないくらい戦後の経済復興に成功しちゃったから、ずっと続けてれば良いって、いまだに思ってるわけ。立場を守るため に、男は命を投げ出す。それが正しい、それが正義って。おかしいよね。女はある程度やって、くだらなさに気づいたらやーめたって抜けられるけど、男は一 生、ホモマゾと立場主義から抜け出せない」
・では、日本以外の国々はどうだろうか。安冨はどの先進国にも、人を抑圧する強固すぎるシステムは存在すると語る。
 「中国はメンツ主義。メンツがすべて。メンツを守るためには死すらも厭わない。アメリカは多分『幸福で前向きなフリ』を続ける社会。そのフリを続け るために薬物に依存して、それでも続けられなくなると銃器が出てくる。英国やフランスもまた、それぞれに形態は違うけれど、同じような抑圧のシステムを抱えている。一見、民主主義のふりして、内部はガチガチのエリート主義で非民主的。システムがものすごく上手くできているから文句のつけようがないけど、エリートは精神的に追い詰められていて、階級差別が人々の魂を殺している。だから、男たちはそのストレスをスポーツ観戦で発散して、フーリガンになる」
 「女性が活躍する社会」についても、安冨は異議を唱える。
 「女性が活躍する社会っていうのは、男のホモマゾ社会の中に、女も一緒に入れって言ってるようなものだからね。ますますおかしくなるよ。総活躍社会って、女性は二級国民として活躍しなさいってことだからね」
 強固すぎるシステムは人を果てしなく抑圧し、そこから生じるストレスは、やがて暴力となり、犯罪・差別・戦争・環境破壊といった害悪を引き起こす。では私たちは日本に暮らすかぎり、立場主義とホモマゾ社会から抜け出し、自由に生きる事はできないのだろうか……? 第2回につづく。

* 安冨歩 京都大学経済学部卒業後、株式会社住友銀行に勤務し、バブルを発生させる仕事に従事。二年半で退社し、京都大学大学院経済学研究科修士課程に進学。修士号 取得後に京都大学人文科学研究所助手。日本が戦争に突入する過程を解明すべく満洲国の経済史を研究し、同時に、そのような社会的ダイナミクスを解明するために非線形数理科学を研究した。ロンドン大学の森嶋通夫教授の招きで、同大学の政治経済学校(LSE)のサントリー=トヨタ経済学・関係分野研究所 (STICARD)の滞在研究員となる。1997年に博士号を取得し、学位論文『「満洲国」の金融』(創文社)で第四十回日本経済新聞経済図書文化賞を受 賞。名古屋大学情報文化学部助教授、東京大学大学院総合文化研究科助教授、情報学環/学際情報学府助教授を経て、東洋文化研究所准教授。2009年より同 研究所教授。

 ≫(現代ビジネス:小野美由紀・愛の履歴書)

by めい (2016-01-30 06:03) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。