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木村東介「宮島詠士」(2) 「一に詠士、二、三がなくて四に副島、五に犬養」 [宮島詠士]

東介氏の宮島詠士への傾倒ぶりが語られる。名のある人で詠士の書を愛する人も多い。国立博物館書道部門堀江課長、中村研一、笠信太郎、田村泰次郎、上条信山、中村正義、中曽根康弘、緒方竹虎、大久保伝蔵(山形市長)等の名が挙がる。緒方竹虎は「いままで、いろいろの書幅を座右にしてきたが、わたくしの魂を洗い尽してくれたものは、しょせん宮島先生の書ひとつであった。以来毎朝、先生の書の前に端座、その香気に対すると、不思議と政治に挺身する信念と勇気が湧いてくる。」と語ったと言う。

 

緒方と詠士の書.jpg

「書ログ」という書道家の方のブログに、詠士の書を背景にした緒方の写真が紹介してあった。曰く、

にかく宮島先生の書を見ると心が静かになって、背筋が真っ直ぐになって、緊張感をうけます。/喜怒哀楽は感じません。/ですが不思議と自分の中の精神を認識する事ができるのです。・・・

(写真は)第三代自由党総裁で時の副総理である緒方竹虎氏の背後に掛かった書は宮島先生の書です。

緒方副総理が「宮島詠士先生の人と書」という題で講演されたおり、宮島詠士先生を心の師とされていること、また先生の書の前に端座すればその光に心は清められ、政治に挺身する信念と勇気が湧いてくる。と結んで壇上を去ったそうです。/宮島先生の書は精神にビリビリきていたんですね!!!/あーーー精神の書、、、凄い!!!》


   *   *   *   *   *



宮島詠士 

—詠士書道とわが審美異説—

(二)


「一に詠士、二、三がなくて四に副島、五に犬養」

 

 「詠士の書」と言っても初めて耳にする人も多いことだろう。まだまだその真価は一般に認識されていない。

 審美の上で、わたくしが常に尊敬している武者小路先生に、詠士を四、五幅持参して意を訊したことがある。が、書道の中に人種の平等を叫び、アジアの独立を宣言し、日本の政界、官僚、軍人などを、魂を叩きつけるようにして痛罵した烈々たる詠士の歯車と、人間界の雑多な出来事に毅然として絵を描き、詩を作る武者小路先生の歯車とでは、硬度の質が異なるために、体質的に合わなかったようである。このことは、勅使河原蒼風氏、川端龍子氏、山本丘人氏たちにも言えるかも知れない。丘人氏には一幅呈上したが、わたくしの熱意はからまわりに終わってしまったかとも思う。和田三造先生にも一幅差し上げたことかあるが、はたして最高のものと思っておられるかどうか、わからない。

 小説「羽左衛門伝説」の中で、書道を一に副島、二に犬養と提唱されてきた里見さんには、一度、詠士の書をお見せしたいものと再三勧誘したが、しょせん縁なき衆生で頭から見る気がなかったらしい。

 一方、国立博物館の書道の堀江諜長のように、すでに数十年来の詠士の書の礼讃者もいる。確か四、五年前、毎日新聞夕刊の「書と人」の欄に堀江課長の解説付きで、詠士の書が載っており、俄然うれしくなったことがある。「嬌々人中之龍」という書で、これはかつて『萌春』という美術の本にも、墨の芸術として載っていたものだった。

 洋画の中村研一さん、朝日新聞の元論説委員長笠信太郎さんも大の詠士の信者だと聞いているし、文壇の田村泰次郎さんは、一時、むさぼるようにわたくしの手から詠士を買っていかれたものであった。

 日展の書道の会場をわたくしはいつもかけ足で見るクセがあるが、その中につい足を止めさせられた書があった。それは審査員で招待作家、文部省の学習指導も兼ねている上条信山という人の書で、後になってこの人が詠士の書に傾倒していることを知り、はじめて合点がいったのだった。

矯々人中龍.jpg

 一方、日展審査員に抜擢されながら、日展内の機構にあきたらず憤然として脱退した日本画の鬼才、中村正義は詠士の書に感動してわたくしの手許から奪い去っていった。それが「嬌々人中之能」である。

 また近ごろになってのことであったが、政界の若き梟雄中曾根康弘氏の応接間に詠士の書が泰然として掲げられていたことで、さすがに人物だと感心した。

 政界と言えば、故緒方竹虎氏も詠士の愛好家だった。もう十五年も前の話だが、先の日展の審査員上条信山氏が、時の副総理緒方竹虎氏と文部大臣安藤正純氏との支持で、当時の名士から書の話を聴こうという催しがあった。場所は確か銀座の交詢社ホールだったが、その日の緒方氏の一時間半にわたる話の中に、この詠士の書のことがあった。

「いままで、いろいろの書幅を座右にしてきたが、わたくしの魂を洗い尽してくれたものは、しょせん宮島先生の書ひとつであった。以来毎朝、先生の書の前に端座、その香気に対すると、不思議と政治に挺身する信念と勇気が湧いてくる。」

 というような話だったらしいが、残念なことに、このときの記録が速記されていない。むろんテープ・レコーダーなどという重宝なものもなかった時代である。あるいは霜烈な詠士の書を東洋随一のものとして紹介したというよりも、詠士の思想と人格を紹介したかったというほうが正しいかも知れない。歴代総理級の政界の大物の中にあって清廉潔白、清貧の中にも凛として節を曲げなかった緒方竹虎氏の人となりをうかがい知る話である。

 しかしなんといっても、詠士の書を最も熱愛していたのは、前山形市長の大久保伝蔵氏であろう。少数詠士コレクターの現出により、いまでこそどんな場末の市場でも、詠士の書は副島、犬養の書を凌駕して五、六万の金額で奪い合われているが、十五年ほど前までは日本の美術商はだれも詠士などに見向きもせず、市場に現われるとわずか六百円というささいな評価でしかなかった。わたくしは、そのころから人知れず業者に依頼して、とりつかれたように集めだしていたが、まもなくどこかに強敵が隠れていることを肌に感じたことがあった。それが山形市長の大久保さんだった。かれは、上京するたびに都内の美術商をまわって、詠士の書と歌人斎藤茂吉の書を買い漁っていたのである。相当量所蔵していたばかりでなく、ついには詠士の碑を、その生まれ故郷山形に建てるほどの傾倒ぶりだった。

 これら数々の例は詠士の書を提唱するに当たって、かならずしもわたくし一人の独断ではないという傍証なのである。ただ、これらの人々の間における詠士の書は、書道とその人格の上でAクラスであり、上位であるというだけの極めて冷静な決定であって、わたくしのような狂信的な姿態とはなっていないかも知れぬ。

 わたくしの場合における狂態は、近世書道の中で、すなわち明治、大正、昭和三代の百年間に一応、一に副島、二に犬養と言われていた序列を覆し、一に詠士、二、三がなくて四に副島、五に犬養と訂正する強引さなのである。この横車にはその道の識者から「頑迷な救い難き狂態」と冷笑されることを、十分予想した上での提言である。(つづく)



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