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遠藤三郎中将の ”えっけばらない” 日中友好(4) [遠藤三郎]

遠藤三郎元中将の日中友好についての文章、読みっぱなしはあまりにもったいない、自分の頭の中にはとても留め置ききれない、そんな思いからOCRで読み込むことになった。だれか本気で読んでくれる人があるに違いないと思いつつの作業だった。


遠藤三郎中将の”えっけばらない”日中友好(1)で紹介した「◎中国訪問と日中友好運動」の中に次の文章がある。


一九七三年五月号の中国画報には日中国交正常化に関係のあった日本の多彩な人々の写真を四十葉載せておりますが、それを人生スゴロクか広重の東海道五十三次になぞらえますとちょうどその振り出しお江戸日本橋の所に私が毛主席と握手している写真を、そして上り京の三条大橋の所に田中総理と毛主席の握手している写真を最も大きく掲げてありました。そしてその写真は本(一九七四)年大阪ならびに東京晴見に開かれた中国展会場に掲げられました。心中誠に忸怩たるものがあり中国の私に対する深い好意に感謝しております。もし私のやって来たことが日中友好の促進に若干なりとも貢献し得たものとすれば満足です。》

 

中国にとっての「日中国交正常化」は、遠藤三郎で始まり田中角栄で実現した、そう考えられていた。では遠藤三郎は田中角栄をどう評価していたか。

 

実は、この記事の標題に ”えっけばらない”というこの辺の言葉をわざわざ持ち出したのは、田中角栄さんを意識してのことだった。角栄さんにはいつも ”えっけばる”という言葉がまつわりついてしょうがない。それに対して遠藤元中将は、終始一貫 ”えっけばらない”人だったように、私には見える。そういえば以前、”恬淡”という言葉で評したことがあった。

 

昭和56年か57年のことだったと思う。徳田虎雄さんの声がけでできた「南陽獅子の会」で、田中角栄さんを呼んで語ってもらおうということで、越山会に講演依頼の手紙を書いたことがある。ロッキード公判が始まった頃で、田中バッシング最中のことだった。徳田さんも口では烈しい角栄批判だったが、根っこでは共感するものがあったと思う。こういう時こそ、角栄さんのほんとうの思いが聴けるのではないか、だれからともなくそういうことになって手紙を書いたのだと思う。越山会から丁寧な返信をいただいた記憶がある。われわれの思いを理解しつつもそれどころではない、ということが読みとれる内容だった。徳田さんの熱気に巻き込まれていたあの頃のわれわれにとって、角栄さんの ”えっけばり”には、むしろ近親感を感じ取っていたのかもしれない。

 

以下、日清戦争から説き起こし、角栄さんについての評価で終わる貴重な文章。あわせて自衛隊についてどう考えるかの文章も挙げておきます。真の友好の実現のためには、遠藤三郎元中将からまだまだ多くを学ばなければならないとつくづく思います。遠藤三郎という人に関心を持つ方がなんとかどんどん出てきてくれることを切に願います。

 

   *   *   *   *   *

 

六、桑港平和条約と日中共同声明  (一九七二年十月十五日稿)


 日本が日中十五年戦争(後四半期は大東亜戦争)に完敗して降伏した一九四五年(昭和二十年)八月十五日には中華人民共和国はまだ正式には誕生していませんでしたが、サンフランシスコで平和条約を結んだのは一九五一年(昭和二十六年)であり、その時は既に中華人民共和国は成立し(一九四九年誕生)、しかも中国大陸の全部を支配しておりました。そして蒋介石は台湾に逃れておった時ですから、日本政府は当然中華人民共和国を相手に平和条約を結ぶべきでありました。中国は元来易姓改革の国でありますから中華人民共和国が中華民国(総統は蒋介石)に代ったからといって中国そのものが変ったわけではなく主人公が代っただけで外国から占領されたのとは訳が違います。当時日本政府がいかに米国のダレス長官に強要されたからといっても、厳然たる事実を無視し中華人民共和国に対し頬冠りして亡命政府に過ぎない台湾の蒋介石、中華民国政府を相手に平和条約を結び更に米国政府に追随して終始中華人民共和国を敵視し、封じ込め政策に加担してきたことは日中十五年戦争を開始した誤りにも匹敵すべき誤りの二重奏ともいわねばなりません。

 爾来二十年、時に若干の厚薄はあったにもせよ、国民の声を無視しその誤った政策を継続してきたことは、いかにも保守党内閣とは申せ実に驚くべき愚策と申さねばなりますまい。

 二十年という歳月は日中関係二千年の歴史から見ますと短い期間に違いありませんが、近来の歴史のテンポの早さから見れば決して短い歳月とは申されません。昔の数世紀にも匹敵するでありましょう。その間日本政府はよくも侵略戦争によって中国に加えた計上すべからざる犯罪に対し一回も陳謝の意を表明することもなく恬として頬冠り通してきたその不徳義というかその鉄面皮振りには、日本国民の一人として誠に懇情に堪え得ないことでありました。それを自民党の有力議員でありことに佐藤政府の大黒柱であった田中総理が組閣(一九七二年七月七日)早々自ら北京を訪問して日中国交の正常化に踏み切ったことは、歴史の流れとは申せ彼の決断と実行力とには敬意を表し永年日中国交の正常化を訴えてきた私としては衷心悦びに堪えない所であります。彼の豹変振りを難詰しあるいは嘲笑する者もあるようですが、私はそれを君子の豹変と見倣し敢てケチをつけようとは思いません。しかし共同声明を読みつかその前後の彼ならびにその側近の言動を見る時若干の懸念なきを得ませんので、転ばぬ先の杖のつもりで二、三注意を喚起しておきたいと思います。


中国侵略戦争への反省


 第一は日本が侵略戦争によって中国に加えた罪に対する田中総理の認識の浅さであります。戦争末期彼は一義務兵に過ぎなかったようですから、彼自身は寧ろ戦争被害者というべきでありましょう。しかし一国の首相となればそうはいきません。しかるに彼が北京到着の九月二十五日夜周総理の歓迎レセプションにおける挨拶で「貴国に御迷惑をおかけしたことに対し深く反省している」と申しましたが、その言葉の中には心から罪の深さを認識した陳謝の誠意を十分汲み取り得ないような気が致しました。(最後の共同声明では「中国国民に重大な損害を与えたことについて責任を痛感し深く反省する」と改めましたが。)

 中国側の寛容により共同声明は調印されたものの、田中総理があの程度の挨拶で事が済むと思っておられるようでは、恐らく日本国民大衆にもそれが反映するであろうし中国人民の心は収まる筈はなく、わだかまりの解けない基礎の上で結ばれた日中の国交は真の親善関係を深めかつ永続せしめ得るものとは思われません。日本人にはとかく陳謝することを恥と思う風習があるようで、それが国対国となると一層甚しいものがあるように思われます。現に田中総理の挨拶を聞いた某外交評論家(元外務省高官)が「周総理は賠償を放棄したからよかったものの、さもなければ大変なことになる発言」と新聞に発表しておりました。田中総理もそんな心理からあのような言葉を使われたのかも知れませんが、もっと率直に陳謝して貰いたかったと思いました。


 私が一九五六年旧日本軍人団を組織して北京を訪れた際、公式レセプションの席上、私は過去の侵略戦争の罪を陳謝した所、同行の旧軍人中には「国辱」だといって私に抗議してきた者もおりました。「過ちを改むるに憚ることなかれ」とは古い訓えであります。悪かったことは素直に陳謝しその上で将来の話し合いをすべきであろうと思います。現にあの席上における周総理の歓迎の言葉の中に「日中の不自然な関係は一八九四年日清戦争から始まる」と申しております。

 日清戦争即ち明治二十七、八年の役当時私はまだヨチヨチ歩きの幼児でしたからほとんど記憶がありません。おぼろ気ながら子守娘の背に負わされて日の丸の紙の小旗を打ち振りながら片言で「日清談判破裂して、品川乗り出す吾妻艦云云」の軍歌を歌って旗行列に加わったこと位をかすかに覚えておる程度ですが、爾来いつしか中国人をチャンチャン坊主などということを知り、中国人蔑視の心が植え付けられてきたように思います。

 成人して日清戦争を研究して見ると、日清戦争の日本の目的は宣戦の詔勅に明示されてありますが「日本は朝鮮を独立国として置きたいのに清国は兵を朝鮮に送りその独立を侵すから止むを得ず兵力に訴えてそれを阻止する」ということになっております。この目的が真ならば日本軍が朝鮮における清国軍を駆逐し(もっともそれには朝鮮政府から予め要請がなければなりませんが)日本政府の意志を清国政府に認めさせれば足ることであり、武力戦で勝ったからといって清国政府から多大の賠償金を取っただけでなく、台湾や遼東半島等清国の領土まで割譲させようとしたことは、当時欧米先進帝国主義国の慣例だったとは申せ、東洋の君子国正義の国を以て自ら任ずる日本としては感心しないことでありました。

 さらに後年日韓合邦の美名に匿れて韓国を日本の植民地化したことは罪悪と申さねばならんでしょう。当時私の幼い日記にさえ、韓国人や韓国兵の駐韓日本軍に対する反抗の新聞報を見て日本の正当性に疑問符を打っております。

 私が陸軍大学兵学教官の時(一九三四年一一九三六年)「日清戦争で遼東半島を清国から割譲さしたことは誤りであり、露、独、仏の忠告によってそれを清国に還したことは正しい。それを恨みにして臥薪嘗胆一剣を磨いて十年後日露戦争で讐を討ったと考えるのは誤りであり、日露戦争は遼東半島返還後新たに発生した露国の無法な侵略に対し行われたものと解すべきだ」と講義して物議を醸したことは先にも述べましたが、戦争により土地の割譲を求めることは誤りであり罪悪であるという私の考えは終始変っておりません。すでに述べた上海事変の停戦協定でもその考えを表わしたつもりです。また満洲事変勃発直後参謀本部から満洲に派遣された時関東軍作戦主任参謀石原中佐から満洲を独立国家にしたら南満鉄道およびその附属地も関東州も返還するのだと聞いて、それに惚れ込み関東軍の行動に協力したのは私の頭の中に右のような考えが滲み込んでおったことも理由の一つでありました。

 次に日本の中国出兵は一九〇〇年(明治三十三年)の義和団事件による北京出兵ですが、これも先進帝国主義諸国の中国圧迫政策に対する中国人民の当然の反撥であり、非は出兵した列強側に多くあり日本もその一つでありましたが、連合出兵のことでもあり地域的にも時間的にも小さくありましたから省略致します。               

 次は一九〇四年ないし一九〇五年のいわゆる明治三十七、八年の戦役即ち日露戦争でありますが、当時私は既に小学校の高学年でありましたから当時の情況は日誌にも書いてありよく承知しております。

 「天に代って不義を討つ、忠勇無双の我兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて帰らじと、云々」の軍歌を歌いつつ召集されて行く在郷兵を町外れまで見送った光景は、今なお眼底に明瞭に残っております。

 軍国調一色に塗りつぷされた田舎町の少年には、与謝野晶子さんの「君死にたもうこと勿れ」の歌も、一部先達や平和主義者の反戦論など知る由もありませんでしたが、後年研究して見ると宣戦の詔勅にある戦争の目的が「韓国の保全」にあったとするならば、戦場を韓国外の中国領土に求めたことはいささか理論に合いません。中国政府とどれだけ了解があったか知りませんが、同盟国でもない限り中国政府を無視した話であります。

 一歩譲って日本の自存自衛上止むなきに出たものとしても、露国陸軍を奉天以北に駆逐し露国海軍を日本海に殲滅して露国と講和したならば、日本は満洲(現東北)におけるソ連の不法な権益を受け継ぐ事なく潔よく清国政府に返還すべきものではなかったでしょうか。それを日本は清国を抜きにして露国と直接取り引きして猫ババをきめたことは、正義の国としてのやり方としては後暗い所がある様に思われます。中国人はこれを何と見たか、想察するに難くありません。

 また一九一四(大正三)年山東出兵の如きも同様であります。もし日本が正義の国であったならば、青島から独軍を駆逐した後は速かに青島を中国に返還すべきものであり、独軍に代って日本がこれを占領し続けるが如きは、全く中国を無視したものであり中国人の抗議に対し弁解の余地はありますまい。その他一九一五年の手前勝手な二十一ヵ条の要求といい数次に亙る済南出兵、張作霖爆殺事件等々、一九三一年日中十五年戦争開始前においても日本の中国に対し犯した罪悪は数うるに遑がありません。

 ことに日中十五年戦争間の罪科は筆舌に尽し得ぬものがあります。(人命一千万余、財貨五百億弗余を奪った事は既に触れました)それにも拘らず田中総理の挨拶があの程度では中国側としては「顔を洗って出直して来い」といいたかったかも知れません。それを我慢して共同声明に漕ぎつけた中国側の忍耐と寛容には、さすがは五千年の歴史を有する大国民の襟度と私は心から頭の下る思いが致しました。


 戦争中の軍人の罪科の具体例等は近来各種の印刷物や新聞にも載りましたが、軍人の外一般人にも罪悪は少くなかったようです。左に記載する手紙は私が陸大教官時代の学生であり敗戦時大佐であった優秀な元将校広池俊雄氏から最近貰ったものですが、戦中、戦前、軍人以外の日本人も如何に中国人を蔑視し中国人がそれに対し如何に深い恨みを蓄積しておったかを知り得ますので、その一節をご紹介致します。

 「昨日(九月二十四日)読売新聞朝刊で水上勉氏の満洲回想を読んでいまして、はしなくも三十数年前の出来事を思い起しました。昭和十二年の春、関東軍兵端班着任間もなくのこと、奉天[現在の瀋陽〕に出張の帰途でした。(彼は関東軍参謀として新京〔現在の長春〕在勤)。

 奉天駅で人力車から降りる時驚くべき情景が眼に入ったのでした。駅前広場から大和ホテルに行く丁字路の角で、一人の日本人が車夫を叩いているのです。背が思い切り低く引きずるようにオーバーを着た貧弱な日本人が、背は彼の一倍半も高く、見るからに強そうな漢人をピョンピョンと飛び上るようにして往復ビンタで乱打していたのです。満人は何やら叫んではいるものの、鼻血を出しても直立不動で彼の為すに任せていましたが、広場にいる少なからずの日本人は無関心に通り過ぎて行くのです。私の車夫に金を払いながら聞きますと手真似で”乗り逃げを胡魔化している、こんな旦那、ザラでさあ”と言いました。ホームには既にアジア(列車名)が入っていますし重い書類を抱えていましたので、ホームに立っていました憲兵にあの不良をつかまえろと連絡したまま飛び乗ったのでしたが、車中私は何故汽車を後のにしても制止しなかったかと何とも後味がわるかったものでした。そして私の車夫が浮べた軽蔑の眼差がいつまでもちらついていまして、これで五族協和、こんなことで王道楽土なるものが果して出来るだろうかとつくづく思いました。南京事件等軍のやった非行は固く反省せねばなりませんが、軍のかげにかくれてやったじめじめした一旗組の非行についてジャーナリズ

ムがふれたがらないのは何とも合点が行かないことです。経済進出よりまず贖罪を心から祈っております。」

 私も同感です。今後国交が正常化して両国人民の交流も繁くなるでしょうが、戦前戦中横行した満洲ゴロや大陸ゴロのような無礼者の出ぬよう、そしてエコノミック・アニマルの汚名と共に恥晒しの行為をせぬよう念願して止みません。中国の方々は実に礼儀正しくかつ謙虚であります。「和を知って和せんと欲するも礼を以て節するにあらざれば行うべからず」とは中国の古い訓えでありますが革命後の今日もそのまま生きております。私共も学ばねばならぬことと思います。


賠償放棄に応える道は


 第二は賠償問題であります。中国側はそれを放棄しました。しかし日本としては断じて「ハイソーデスカ」では済まし得ないことと思います。「暴に報ゆるに恩を以てせよ」とは中国の古訓であり、決して蒋介石の専売ではありませんが、やはり中国ならではの感を深くするものであります。今から十七年前(一九五五年)私が中国を訪問した際、同行の片山哲氏(元総理大臣)が周総理に対し「将来日中平和条約を結ぶ際、賠償問題はどうなるのか」と問いました時、周総理は明確に「その時の国民感情による」と答えたのを私自身も聞いております。

 爾来日本政府は中国人民の対日感情を和らげるようなことは何もしておりません。和らげたものがあるとすれば、それは日本政府を除いた日中両国民の努力でありましょう。私が本年六月中国を訪問した際、中日友好協会の正副会長、廖承志と王国権氏に対し「侵略戦争に加担した私共は責任上賠償は当然と覚悟しております。それを軽減して下さいなどと哀願するようなことは断じて致しません。しかし率直に申し上げますと、侵略戦争に直接参加した私のような老兵の気持では賠償は我々が負担したい。侵略戦争に全く関係のなかった戦中戦後生れの若人に負担させる事は心苦しい。それで私が戦後訴え続けて来た日本の再軍備反対運動の如きは日本の国益にも合し、併せて貴国も軍事面の負担を軽減し得る結果となり、私共旧軍人の罪亡ぼしの一つとしても最も適当なものと考えているものです。

 なお賠償問題に関し注意を煩わしたいことは、私は従来賠償金は被災国の人民のために日本国民の負担するものと考えておりましたが、インドネシア、フィリピン、南ベトナム等に支払われた日本の賠償は賠償受益国政府の注文により日本の大企業家と受益国の特権者が巨利を博した事実を知りました。このようなことは貴国ではあり得ないことと思いますが、念のため」と申したことを記憶致します。

 共同声明にて中国は賠償放棄を明示されましたが、我々はその寛容に甘えることなく今後誠心誠意、蹟罪の精神を行為を以て表すよう努力する必要があろうかと思います。

 第三は日米安保条約と第四次防の問題であります。

 総理と北京に同行した二階堂官房長官が、帰国直後去る十月一日のテレピ討論会で「周総理は日米安保条約は日本にとって必要でしょうといったし、今回の共同声明では日米安保条約も四次防も問題にならなかったから、この両者は日中国支正常化の妨げにはならない」との意味を発言されました。

これはあまりにも手前勝手な解釈ではないでしょうか。

 また去る十月七日の夜同じくテレビ討論会で江崎元防衛庁長官が「周総理は台湾を武力解放せぬといっているから、日米安保条約が日中国交正常化に支障がないばかりでなく、万一台湾が第三国に侵略されるような場合は日米安保条約により在日米軍がそれに対応してくれるから却って好都合ではないのか」とも申しております。何と失礼な解釈でしょう。

 最近私を訪ねて来た某大学の教授が私に「中国は日本の核武装を恐れている。日本の核武装を押えているのは日米安保条約であるから、中国は寧ろ日本が日米安保条約を継続することを希望しているのではないか」とも申しております。

 ー九五〇年朝鮮戦争で日本を基地とする米軍との苦しい戦争体験を持つ中華人民共和国が、日米安保条約の存続を希望するとは考え得ません。周総理が共同声明に米安保条約も四次防も取り上げなかったことは「小異を残して大同に就く」の精神に則り、この両問題を取り上げたのでは国交正常化の共同声明という大同に達し得ないと思われたから触れなかったのではないでしょうか。その深い配慮も察せず手前勝手に自分に都合のよいように解釈するのは極めて無礼なことと思います。

 これと似たような話が、去る六月私が周総理と会見した時にもありましたからご紹介致します。周総理は私に「日本が真に独立国家になられたならば自衛力を持たれるのは当然でしょう」といわれました。真の独立国家とは日本が日米安保条約の絆から解かれた時であり、自衛力には軍備も含むもの

と私は解しまして、私は周総理に「それは原則として認めます。しかし自衛力を即軍備と解されるならば私は反対です」と申し日本は国の構造上、軍備国防の不可能であることや日本国憲法が軍備国防を放棄していること等を詳細説明した所、総理はそれは理解出来るが米軍基地を撤退させるのに軍隊が必要ではないかとの質問がありましたので、私は米軍基地の撤退は輿論の力によるべきであり日本の国内事情から見ても軍隊や物理的暴力によって基地を撤退さすことは禁物であります。印度の独立を非暴力不服従でかち得たガンジー翁の訓えを私は高く評価すると返答したことを記憶致します。

 この問答を聞いておった私の仲間の中には、周総理の言葉の中の「自衛力を持つのは当然でしょう」といわれたのを 「軍備を持つべきでしょう」と取った者もおりました。「当然」という言葉には「日本のご自由であり中国は干渉しない」という意味が含まれ、「べき」という言葉は命令詞であり干渉を意味します。周総理ともあろう人が干渉がましいことをいわれる筈はあるまいと戒めて置きました。日本の軍備問題にしても干渉がましいことをいわれないのは当然ですが「日本が四次防、五次防と年々軍備を増強され軍国主義に進むことには無関心でおれない」とは周総理始め廖承志、王国権中日友好協会正副会長もロを揃えて言明しておられたことであります。

 被害国としての中国にとって加害国であった日本の軍備増強が問題でない筈はありません。

 もちろん我々は周総理であろうがニクソンであろうが、他国の意見や発言によって我々の自主性を失うべきではありませんが、かつて侵略戦争の加害者であった我々は十分に被害者の気持を察しその意見を謙虚に聞きかつ尊重する必要があると思います。


 田中総理の訪中前日本政府は四次防のことは口にも出さず、共同声明発表後帰国するなり早速四次防を取り出し、十月九日の国防会議ならびに閣議において旧計画に若干の修正を加えたものの、その根幹には全く変化のない四兆六千億円余(ベースアップすれば五兆一千億)を決定しましたことは何としたことでしょう。

 勘繰るようで恐縮ですが、田中総理の訪中前は四次防は中国に対し後暗いものがあり難詰されるのを恐れ、戦々競々伏せたまま訪中し、共同声明で問題にされなかったことで急に威張り出したように思われてなりません。そうだとするとその心事の陋劣さは唾棄すべきものがあります。

 政府は四次防の決定を説明して曰く「国際情勢は緩和の方向に向っているがまだ定着してない」と。定着していないのなら四次防を縮小して定着さすべく努力すべきではないでしょうか。三次防の二倍にも増加して国際緊張を煽るとは何ごとぞといいたいのです。また国内問題としても国民大衆の生活状況、特に社会保障等の現況から見て、四兆六千億という軍事予算は果して妥当なものでありましょうか。

 最近新聞を賑わしている重症心身障害者の実子殺しの老父の話を始め社会福祉の不足による悲惨な話は絶えません。四兆六千億という金額は我々庶民には一寸見当も付き難いのですが、この間NHKの「早起き鳥」の時間に中村解説員の説明によると、農業センサスは今年度の日本農業の総生産はちようど四次防の予算と同額四兆六千億円と示しております。

 そして農家一年間の農収入は五十万円との事であります。また先年新聞を賑わしまだ犯人の上らない、銀行から運搬中の自動車から強奪した三億円の金額を毎日積み重ねても、四兆六千億円に達するには四十七年十ヵ月十日を貿すると新聞のコラム欄にありました。

 三億円あれば五百万円のマイホームなら六十戸が出来、農業収入にすれば六百戸一年分であります。

 この大予算しかも無駄遣い所か危険な遊びに惜し気もなく使用する防衛庁長官も、一方においては明日香村の古墳高松塚の調査に参加した学生の慰労費二千二百円(万円ではありません。ただの二千二百円です)を出し渋った文化庁長官も同一政府の長官と思うと、とても割れ切れない気持が致します

 四次防の決定は金額の問題もさることながら、更に見逃し得ないことは、軍用飛行機の輸入を止めて国産にしたことです。これは自主防衛とか国産愛用とか技術の進歩に貢献するとか、種々俗耳に入り易い効能書きもありますが、真実は日本の軍需産業家と制服自衛官の突き上げによるもので、シビリアンの屈服であり、かつ軍需産業の定着化は将来ますます軍縮を困難ならしめるもので、輸入機が国産機より安価だとか日米貿易の均衡上などという低次元の問題ではない重大問題なのです。

 また最近田中総理が防衛当局に、平時における自衛力の限界を研究するように命じたと新聞に見えましたが、これなども全く軍備国防に関する無知の証拠であり、軍備による国防(自衛隊法の直接侵略に対する防衛任務)を肯定する限り軍備は相対的であり、自主的に限界など決定し得るものでないことは既に述べましたから省略します。GNPのI%以内とか英仏の八割とか申すのは全く無意義なものであることを知ってって戴きたいと思います。

 田中総理は学閥もなく官閥もなく新潟県の貧家に生れ社会の荒波に揉まれて来た人物故、我々庶民の気持をよく理解される人と信じ、私は好感を持っております。

 国民の多数も同感であろうし周総理も恐らく同様であったと思います。しかし共同声明後の彼ならびにその側近の言動を見るとまだまだ安心は出来ないようです。彼の決断も実行力も彼が年若くして裸一貫土建界に身を投じたちまち巨億の財を作った力量を見ても人並以上に機を見るに敏であること

は何人も疑わぬ所でありますが、得てしてこのような人は才に溺れ勇み足を出す嫌いがあり、また財界との繋りも強いものであることに留意し、今後監視の眼を緩めてはならないと思います。

 (十月十七日追記)案の定、本朝の新聞は政府が政令を以て車輛制限令を大幅に改め、市民の反対を無視して米軍ならびに自衛隊の戦闘車輛にフリーパスを許したとか、また自民党の総裁たる身分を弁えず前例を破って中立たるべき警察部長会議に出席して挨拶したことを報じております。早くも馬脚を表わしたようであり、彼が先年沖縄にアメリカ高等弁務官を訪ねた時、日本国憲法第九条の改訂のイニシアチブを米国が取ってくれるよう依頼した彼の姿が彷彿としているようです。

 第四は日台条約の件ですが、これも共同声明には取り上げられておりませんが、共同声明発表直後大平外相談話として発表されたのは、「日中正常化すれば自然台湾との外交関係は維持出来なくなることは当然で、中華人民共和国と国交を結んで台湾と国交を続けている国はない」とか「存続の意義を失い終了したものと認められる」というようなことでありましたが、何故に「今後日本政府は中華人民共和国政府を通じ、出来る限り台湾との親善関係を続けたいから一日も早く台湾政府は北京政府と手を握って貰いたい」といわないのか。                         

 私は椎名副総裁が田中総裁の特使として台湾に行く時も右の希望を迷べて置きましたが(椎名氏は戦争中私が航空兵器総局長官時代の軍需省総動員局長で、爾来交友を続けてきた友人です)どうも田中内閣の中国政策は物足らんように思われます。



七 自衛隊違憲判決に思う  (一九七三年九月十五日稿)


 一、九月七日、四年越しの長沼問題に関する札幌地方裁判所で自衛隊違憲の判決が下されました。前年早春私も本法廷に立って自衛隊違憲の証言をしたことでもあり、その判決は当然でありかつ予期しておったことではありますが、福島裁判長が国家権力を始めとして自衛隊合憲論者の圧迫と強大な自衛隊という既成事実に屈することなく堂々と違憲の判決を下した勇気に対し私は心から敬意を表するものであります。

 憲法の成文を素直に読めば、自衛隊が違憲の存在であることは何人も否定し得ない筈でありますし、憲法制定の経緯ならびに警察予備隊創設以後政府の行った憲法解釈の移り変リを見れば、自衛隊合憲論が如何に詭弁でありこじつけであるかは明瞭であります。それにも拘らず今日もなお合憲論が侮り難い力を持ち、自衛隊が年々増強されているゆえんは国民,大衆の肌に軍備国防の久しい歴史が根強く染み込んでおり、独立国家は軍隊を持つのが当然という素朴な考えが軍備国防の能否や軍人、軍隊、戦争の本質等を深く研究することを妨げて来たためと思います。

 国民大衆が軍備国防の亡霊から抜け切らない限り、軍備論者はその権力と財力とを利用して巧みに民衆を操り、せっかくの正しい札幌地裁の判決も上級審でくつがえされ、あるいは違憲論を逆用して憲法改悪に導かれる虞れなしと致しません。既にその動きが現われております。

 これを阻止して真の民主平和の国造りを完成するためには、国民大衆が軍備国防の誤りを識らねばなりません。

 軍備国防の誤りは断じてイデオロギーや宗教や感情に傷しごた問題ではなく兵学、数字の問題、しかも初歩の戦術常識、算術の問題であります。日本国の構造、特に人口、食糧、建築、資源、なかんずくエネルギー資源等を念頭に置き近来の兵器の進歩に思いを致すならば、軍備国防が如何にナンセンスであるかは容易に理解し得る筈であります。

 しかし一部自衛隊違憲論者の様に、自衛隊の既成事実を無視して札幌裁判の判決を以て鬼の首でも取ったかの様に直ちに自衛隊即時解散を要求するが如きは、飛躍に過ぎ適当でないと思います。自衛隊が憲法に違反し且つ危険な存在になっているのはその人員数や装備ではなく自衛隊法に示してある「直接侵略に対する防衛任務」でありますから、この様な出来もしない任務は一日も早く削除して、現自衛隊をひとまず合憲かつ安全な存在とし次いで野蛮かつ弊害ある「治安出動任務」を削除し「災害出動任務」のみとし、徐々にそれを「国土建設任務」に拡大する事が賢明と思い、私は護憲連合代表委員の立場から目下強くかつ広く訴えております。


 二、九月九日には中華人民共和国から劉希文氏を団長とする三十三名の経済貿易友好の代表団が、北京から上海経由羽田に直行されました。日本の経団連を始め財界の招待であり私には直接関係はありませんが、劉希文団長を始めとして呉曙東副団長、企業、周斎、林達徳氏等私の親しい旧知が見えましたので、私も羽田に出迎え、かつ翌十日には宿舎、ホテルニューオータニに訪ねて親しく話しました。

 九月九日はちょうど二百二十日に当り颱風の季節であるのに、この日は珍らしく晴天で羽田では眩しい程の日差しであり、夜は陰暦八月十五日中秋の名月が幾年振りかで咬々と下界を照し中国の客人を歓迎するかの様でありました。



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めい

以前、シベリアに抑留された方の話を聞いて記事を書いたことがあります。
http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2011-11-22
バイクでユーラシア大陸横断のブログを読みはじめ、あらためて納得です。
飯山一郎さんが、

   *   *   *   *   *

708 名前:飯山一郎 2015/09/05 (Sat) 03:03:52 host:*.ocn.ne.jp
>>702 とらたろさん

今の日本人の大半は、隣国と隣国人に対する憎悪心しかなく、隣国の文化を学びつつ、
隣国と友好関係を結びながら共に発展していこう!という気概が完全に失せてます。

これは…、「分断して(仲悪くさせて)統治する」という米国戦争屋の巧妙な策謀に
日本の政治家・官僚・学者・マスコミが迎合し、協力してきた結果です。

ほんと、日本国民の大半は、完全に洗脳されちゃってますな。

ロシア、中国、韓国、北朝鮮ですらも、隣国の現実と真の姿を、今の日本人は完全に
見あやまっています。その余りの無知ぶりは、可哀想になるほどです。

おかげで私などが、隣国に行くと…、
「貴殿は、我が国の真実の姿・文化・風習をキチンと理解している日本人です!」と
大歓迎されます。

ほんと、可哀想ですね! 隣国を憎悪心でしか見られないシトってのは。心も財布も
頭の中身も…、みんな貧しいんでしょうね。きっと。

   *   *   *   *   *

と書かれました。遠藤中将の文章を読みながら感じていたことでした。日本人こそ洗脳されている。敗戦が日本人の心を捩じ曲げてしまったともいえるのかもしれません。ユーラシア大陸横断のブログ、ロシアの人のやさしさに心洗われます。
http://ameblo.jp/r80gs/entry-12038467478.html
by めい (2015-09-05 05:39) 

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