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後藤四郎『軍命違反「軍旗ハ焼カズ」』 [神道天行居]

御旗会.jpg

靖国神社遊就館に日本陸軍唯一の軍旗が展示されている。敗戦とともに全ての軍旗は奉焼されたはずだった。しかし日本陸軍最後の連隊長後藤四郎中佐の一大決意によって奉焼を免れ、唯一の軍旗として現存する。


歩兵321連隊長後藤中佐が陛下から軍旗を拝受したのは昭和20723日。明治以来日本陸軍に下賜された数百旗のうち最後の連隊旗だった。「その日、宮中で天皇陛下の御手から直接に真新しい軍旗を拝受した時、陛下の御手が私の手に触れられた。全身に強烈な電流が流れたような感激だった。」と回想する。


それからわずか3週間後の終戦。後藤連隊長は奉焼命令の下った軍旗と共に爆死を決意。しかしそれを察した部下の機転がその企てを許さなかった。第二総軍司令部畑元帥による「将校は自決せずに陛下をお護りせよ」との諭しに、「陛下をお護りする気持ちでこの軍旗をお守りせねばならぬ」と翻意。旗手を務める有吉少尉にのみ告げて御紋章と御旗を秘匿し、旗竿のみを納めた軍旗箱を奉焼。


《この夜、旗手の有吉少尉は桐の小箱を持って周防の国、石城山の山頂にある日本神社に向かった。この日本神社は、私がかねて尊信している友清歓真先生が創設されたもので、友清先生は私のひそかな要請にたいして、一身の安危を賭して軍旗の秘匿を快諾して下さったのである。

 軍旗はこの日本神社の神殿の床下に秘匿され、二年後私はまたひそかにこの小箱を長崎の自宅にうつして秘匿をつづけた。日本神社にその筋の臭いがしはじめたと感じたからであった。》


有吉勝少尉の証言がある。


《軍旗の小箱を、遺骨箱に見せかけて胸に抱いて二人の下士官に護衛されて友清先生のところお届けに行きました。

 友清先生は、石城山の日本神社を創設された方で、天行居という古神道研究グループで布教をしておられました。

 後藤連隊長がまだ若い中尉時代、ある時列車で座席を同じくした今村一雄という海軍大尉から教えられて、それ以後、友清先生のご指導を受けておられたわけです。

 朝の点呼の時「アマテラス、オオミカミ」と大声で唱えることや、一日一善をやらせたのもこの天行居の影響のようです。

 終戦について友清先生は「日本は、世界の中で家にたとえれば床の間のような存在だから、必ず将来は日本が世界の中心になってゆく。このまま負けてそのままになってしまうんじやない」ということを、信念として持っておられたようでした。そして四十五年間で日本は完全に繁栄すると予言されました。》

 

軍旗秘匿が公表されたのは、サンフランシスコ講和条約締結後、昭和26年のことだった。その後靖国神社に貸与の形で奉安されていたが、平成5年正式に靖国神社に奉納されて現在に至る。奉納に際し、当時86歳であった後藤元連隊長は「軍旗は陛下の御分身である。しかるにこれを一般の武器や軍装品と同列に陳列しては困る」との所信を宮司に伝え、宮司はそれを諒とされたという。

 

以上、『古道』平成57月号で知って『軍命違反「軍旗ハ焼カズ」』(後藤四郎著 1991 毎日新聞社)を取り寄せ、一息で読んだ。 そもそも神道天行居同志の後藤四郎氏、根っからの皇道革新派であり、東條英機関東憲兵司令官に刺客を向けられるほど危険人物視されていた。

 

松本清張の『昭和史発掘』に昭和88月に東京憲兵隊が作成したブラックリストが載っており、それがそっくり転載されている。その中に後藤四郎中尉の名前もある。以下である。

 

《東京憲兵隊作成・要注意将校リスト

東京 馬奈木敬信少佐 三宅克己中尉

    近藤伝八中尉  竹下正彦少尉

    栗原安秀中尉  田中軍吉中尉

    達岡高明中尉  磯部浅一ニ等主計

    香田清貞中尉  佐藤竜雄中尉

    安藤輝三中尉  新井勲少尉

    大蔵栄一中尉  村中孝次中尉

豊橋 藤野毅一中尉  田中徹中尉

大阪 佐藤鉄馬中佐  田中隆吉少佐

    蟹江元中尉

和歌山 大岸頼好大尉

奈良 吉井斌四郎大尉 松浦邁中尉

    鶴見重文中尉

姫路 橋本欣五郎中佐

福山 相沢三郎中佐

丸亀 小川三郎中尉

小倉 後藤四郎中尉

福岡 小河原清衛大尉 楢木茂中尉

    高木利光中尉  戸次俊雄少尉

久留米 満井佐吉中佐  竹中英雄中尉

    中村数雄中尉

台南 若松満則中尉 高村経人中尉

大邱 片岡太郎中尉

羅南 朝山小二郎中尉 森田大平中尉

    藤本亀少尉

満州 片倉衷大尉 菅波三郎中尉

    佐藤操少尉 江崎瞳生大尉

    松山良則少尉 末松太平中尉

    対馬勝雄中尉 東 昇 中尉

    中島太多彦大尉 西山敬九郎大尉

    小原重厚大尉 丸山茂夫中尉

支那 花谷正中佐 長 勇 少佐》

 

そして次の文がつづく。

 

《この表には、馬奈本、橋本、田中(隆)、長、花谷等の幕僚派が含まれているので、隊付青年将校との両派混合となっている。

 幕僚派は三月事件、十月事件に見るように待合で連夜のように芸妓を侍らせ、盛宴に酔いながら大言壮語するという虚しい英雄になったときから、青年将校に見限られたのである。

 革新運動といっても、幕僚派には多分に出世主義的な不純な野心があり、政治性があった。

 青年将校は彼らを不純分子、腐敗分子ときめつけるようになり、ここから幕僚派と青年将校の決定的な分裂がはじまった。

 爾後の青年将校運動は幕僚派を排斥し尉官級の隊付将校の横断的団結となっていく。

 そしてこのころから、日本内地に置くと物騒だとにらまれた青年将校たちは、次々と、台湾軍、朝鮮軍あるいは関東軍というふうに、外地に転任、というよりも”追放’されていった。》

 

次の文がある。

 

《ある日、たまたま参謀本部の某大尉(士官学校時代の区隊長なので特に匿名)と森田少尉と私の三人が自動車に同乗したことがあった。

 「決行の目も遠くない。君たちも心の準備は出来ているだろうな」

 「大丈夫です。いつでも死ぬ覚悟は出来ています」

 森田がハツキリと答えた。

 われわれ青年将校は、昭和維新達成のためとは言いながら、一部の大臣や重臣に天剣を揮おうとしている。もとよりこれは非合法の手段である。

 したがって、決行後はそろって自決すべきであるというのが迷わざる信念だった。

 ところが、この大尉参謀はこう言った。

 「今度の維新が成功すれば、君達は維新達成の大功労者だ。自分たちは、これに酬いるために鉄血章(ヒットラーの出している功労賞)というものを準備している。この決行に参加した諸君にこれを贈って将来とも、その功績をたたえるためのものだよ」

 彼はこう言って得意そうであったが、私と森田はこの言葉には、冷水を浴びせかけられたように感じた。

 「参謀本部の連中は、昭和維新を自分たちの野望達成のための道具にしようとしているのだ」

と感じ、ここで決然として幕僚群を見かぎった。》


そして、


《昭和六年十月に橋本欣五郎中佐の企画した計画は不発のまま抑えこまれた。これを十月事件といい、処罰はなかったがわれわれの名前はブラックリストに登録された。

 そして五年後の昭和十一年二月二十六日。世に言う二・二六事件がおこった。

 結果として失敗し、事件に参加の革新派の青年将校たちは刑場の露と消えた。

 それより前に骨っぽい過激派と見られる青年将校たちは、既にいち早く台湾軍、朝鮮軍、関東軍に”追放”してあったので、在京の将校のみが参加した。

 事件後は、日本内地においては、過激な青年将校の姿はなかった。

 にもかかわらず、その後は軍の統制派と言われる人々は、二言めには、「それでは青年将校が黙っていませんよ」

 「青年将校たちが、またもや……」

 何かと言えば青年将校という言葉をつかって政党者流や財閥を脅喝した。

 姿なき青年将校の虚像におびえて、政党も財閥もいっさい口をつぐむことになり、このため日本は戦争へと転落していった。

 二・二六事件の刑死者の中には、私の同期生も三名いる。栗原安秀、対馬勝雄、中橋基明。

 彼らは草葉の蔭で、大東亜戦争の勃発を果たしてどんな気持ちで聞いたことであろうか。

 なお、世上「青年将校たちは荒木大将や真崎大将に指嗾せられて事をおこした」といわれるが、ほかの人はいざ知らず、私はこの二人から指嗾せられたことはただの一度もなかったと断言する。栗原たち事件関係者も同様であったはずである。》

 

これを読んで、当時の軍の空気がわかり、ニ・二六事件への視点も定まった。

 

大谷敬二郎著『軍閥』(十月事件と二・二六事件)からの文章が付け加えられている。

 

《昭和五年に入ると、時局に刺激せられた軍中央部一部幕僚の手によって、国家改造を研究しこれが実現を期そうとする一つの結集ができた。これが昭和五年十月東京にできた「桜会」である。この動きには、軍当局は黙認のかたちをとったので、こうした論議が表面的に行なわれ、あたかも陸軍は国家改造を志すやに見られた。もともと桜会は国家改造に志あるものを求めたので、ここには すでに西田税(右翼運動家)により思想的啓蒙をうけていた青年将校も参加した。したがって桜会は思想的にはバラバラで統一あるものではなかったが、大体において、急進的な数名の幕僚がこれをひきまわしていた感があり、そこでの論議も改造政策を討議するのではなく、時局の悲憤慷概に終始していたといっても過言ではない。そこには改造政策の具体策はなかった。

 桜会を背景として十月事件が計画されたが、それは武力革命そのもので、その権力的な行き方に批判的な青年将校群はこれから脱落していく。

 本来、青年将校の革新運動は国家の革新、それ自体を目的としたものであったが、幕僚は、もともと、国防政策の担当者であることから、その国家改造の基底は「国防」にあった。国防上の必要にもとづく国家改造であったことは銘記されねばならない。

 二・二六事件は青年将校が維新革命を企図して失敗した歴史として理解される。それはまちがいはないが、しかし彼らは重臣殺傷はしたが、その武力を背景に自ら国家改造を行なおうとしたものではなかった。重臣殺傷によって国民に一大警鐘を乱打し、陸軍を説得し、陸軍が維新の主体となって国家政造にのぞむことを求めようとしたものであった。だが、ことは失敗し彼らは潰滅した。》

 

後藤中尉は、ブラックリスト掲載間もない昭和811月、小倉歩兵第14連隊から満州独立守備歩兵第12大隊へ”追放”される。内地にいれば昭和11年のニ・二六事件の主謀者の一人として処刑対象であったにちがいないと思わされた。

 

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石原莞爾将軍との貴重な出会いが載っていてどうしても書き留めておきたくなった。昭和11年のニ・二六事件の一年後のことだった。

 

   *   *   *   *   *

 

第三章 波乱の満洲独立守備隊

石原莞爾将軍と出会う


 昭和十二年の春一。

 熱河省承徳に建立された忠霊塔の落成記念行事に、守備隊司令官の代理として出張し、その帰りの列車の中。

 トイレに立って、もとの席に帰ろうとして一等個室の前を通りかかった時、個室のドアがひらいていて中から突然声がかかった。

「オイ、君、君」

 呼びとめられて中をのぞくと少将閣下が一人ドッカと椅子にかけている。

 関東軍司令官の代理で落成記念式典に来ていた関東軍参謀副長の石原莞爾将軍ではないか。

 私はドアの前で不動の姿勢をとった。

「君はどちらの部隊かね」

「はい、第二独立守備隊司令部の後藤中尉であります」

「どうだネ、差しつかえなかったらしばらく話をしていかないかね」

 これは面白い。満洲国建設の中心的人物とかねて噂でいろいろ聞いている石原将軍から声がかかったのだ。いいチャンスだ。話を聞くことにしよう。

 閣下に向かい合って椅子に腰をおろした。

「君は陸士出身らしいが……」

「ハイ、四十一期生です」

「四十一期生なら昨年の八月に大尉になっているはずではなかったかね」

 石原将軍の方から、私の望む話題を持ちかけて来てくれた。

 「満洲にはいつ来たのかネ」

 「ハイ、昭和八年の秋です」

 「もう足かけ五年目か。それはご苦労。ところで、四十一期生の君がまだ中尉というのは?」

 「二・二六事件のあとで、”ニ・二六事件に関係ありと疑わるるが如き言動ありたるにより”という理由で、進級は停止。重謹慎三十日、しかも杉山陸軍大臣の元副官の行徳大佐殿からの通報によれば、内地に帰還を許されざる身分になっているそうです」

 相手は名だたる石原将軍だ。わたしはずばずばと日頃の鬱憤をぶちまけた。

 複雑な表情で聞いていた将軍は、

「そんな怪しがらんことがあったのか。さぞ腹が立ったろう。わしから改めてお詫びする」

 さすがは石原将軍。一介の中尉の言葉を素直にうけ入れて”すまぬ”と詫びてくれた。

「大体、満洲で大きな顔をしている日系官吏や関東軍の幕僚どもがなっとらん。見たまえ、鉄道沿線から見えるいろいろのポスターを。うわずった思いつきの標語なんかをこれ見よがしに張ってあるが、満洲の現地人に何の効果があるというんだ。彼等は腹の中では、笑っているよ。僕に言わせれば第ス陸軍大学の教育が間違っとる。戦術とか戦略とか偉そうなことを口にするが、人間として一番大事な謙虚さが大切であるということを敢えていない。謙虚さがないから自分勝手なことを言ったり、したりする」

 私は驚いた。関東軍の幕僚ナンバー2の地位にある石原将軍が、ロをきわめて幕僚を罵倒するではないか。

 たずねられるままに、私は不良邦人退治の話や対匪賊工作、そして共産地帯の治安工作の実態などの体験談を語ったが、これは無条件に石原将軍の賛同を得た。

「忠霊塔なんて私は不賛成です。日本軍が行く先々で忠霊塔を建てていたら、現地の人たちは一体どんな感じを持つでしょうか」という私の忠霊塔不賛成論に端を発して、話は宗教問題にまで発展していった。

 石原将軍は有名な法華経信者であり「究極するところ日蓮に帰一する」という論者である。

 私は「すべては天照大御神に帰一する」と言い張って、この一点だけは遂に互いに自説を固持したままだった。

 関乗車参謀副長と古参中尉とが、二人っきりで三、四時間、思う存分に所信を吐露し合うことか出来たのは私にとって望外のことであった。

 その後、軍人ばなれした、哲人のような石原将軍の不遇を耳にする度に、ただ一度しかお目にかからなかった閣下のために痛惜の情を禁ずることが出来なかった。(63-66p


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