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追悼 熊野秀彦先生(9) お別れ会(仙台) [神道天行居]

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67日、仙台青葉神社で斎行された東北神咒奉唱大会で、熊野先生のお別れ会の開催を知らされ、13日、竹さんとともに参加してきました。


私たち置賜天行居同志として東北神咒奉唱大会に初めて参加したのは、昭和62年だったと思います。それまで何度か本部での修斎会に参加し、無言潔斎の中でお聴きする熊野先生の御講話に、それまで全く知らなかった世界の広がりを実感するようになっていました。そうした折、われわれに天行居を教えてくれた先輩同志長谷川平内さんの「仙台に熊野先生がお出でになるから行ってみないか」という誘い、一も二もなく馳せ参じたのでした。


長谷川さんを通して聞いていたことでしたが、天行居が大ゆれに揺れたという「(宗主継承に関わる)憲範問題」の渦中に東北が巻き込まれ、まだその余韻がくすぶっている時代でした。このたびお聞きしたのですが、そういう中、当時の友清操宗主(先師友清先生の奥様)の命を受けての熊野先生東北派遣だったのだそうです。奥津彦重先生(渡部悌治先生の岳父)と小野浩先生を擁する東北帝国大学独文学を拠点に広がった東北の天行居同志たちとの関係修復という大きな使命を熊野先生は担っておられたのです。天行居のその辺の事情について当時新参の私たちはほとんど何もわかってはいませんでしたが、最近になってその深刻さを実感させられることがありました。実は昨年の東北神咒奉唱大会の報告記事に書いた小野浩元宗主先生の部分が削除されて、文意が汲み取りにくくなっていたのです。

 

《私事に渉りますが、私が神道天行居を知って今年でちょうど三十年になります。この間天行居道士としてなすべきいかほどのことをやってきたか、顧みればはなはだ心もとないわけで、お山に在っての感覚と家に在っての感覚との歴然たるギャップ、当初は家に在ってあった「これではダメだ」の思いも、いつしかその「ダメ」レベルで定着日常化して現在に至るわけですが、とはいえ三十年の歳月の経過にはそれなりの歴史があって、いつしか「天行居的感覚」らしきものが、どれだけ身についたかはともかく、自分なりに理解できるようになってきたようで、そんな折、先の「古道」六月号に掲載された鴨居正恒先生の「神楽」(昭和三十三年一月号からの転載)の記事になぜかたまらなく心惹かれ、たまたま手元に先生の遺文集『清雲遺蹤』(正・続)があり、そこにある東北所縁の小野浩先生「故鴨居正恒大人命霊位献詠」の中「君こそは同志(まめひと)のなかの同志と 先師(さきつみおや)も洩らしたまひぬ」によって、なるほど「天行居的感覚」といえば鴨居先生、ということで東北神咒奉唱大会に臨んだのでした。》の中のそこにある東北所縁の小野浩先生「故鴨居正恒大人命霊位献詠」の中「君こそは同志(まめひと)のなかの同志と 先師(さきつみおや)も洩らしたまひぬ」によって、》が削られ、そんな折、先の「古道」六月号に掲載された鴨居正恒先生の「神楽」(昭和三十三年一月号からの転載)の記事になぜかたまらなく心惹かれ、先生の遺文集『清雲遺蹤』を拝読、「天行居的感覚」といえば鴨居先生、ということで東北神咒奉唱大会に臨んだのでした。》になっていました。そのため、いちばん肝腎の「君こそは同志(まめひと)のなかの同志」という先師友清歓真先生の鴨居先生評価が読む人に伝わらなくなってしまったのです。このことが不本意でこのたび梅原支部長さんに話したところ、小野先生に対しては「破門」という措置がとられていたことを初めて知ったのでした。当時の事情はわかりませんが、なにもかもかむながら、それなりの必然があってのことでしょう。そうした中での熊野先生派遣だったわけです。

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ちなみにその前、昭和60年2月に、郡山市で行われた開成山神咒奉唱大会に本部を代表して熊野先生がお出でになった記録がありました。(『古道』昭和60年4月号)







 

平成元年から会場が青葉神社に移って「東北神咒奉唱大会」と称するようになって今年で27回を数えます。それ以前は榴ヶ岡天満宮で行われていました。すぐ近くに、梅原林蔵仙台支部長の梅林本店がありました。そこは仙台でも由緒ある昔からの旅館で、明治天皇東北行幸の行在所にもなった場所でした。熊野先生がお出でになったときの直会はその梅林本店が会場でした。支部の御分霊があり参拝行事も行われました。その場所は今はマンションになっていると思います。

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その場所にあった、東郷元帥揮毫の「明治天皇行在所」碑は、巡りめぐって今は名取市相互台にある梅原支部長宅のお庭におさまっています。

 

その時の熊野先生のお話で忘れられないのは、「今日お集りの皆様は伊達と上杉のゆかりの方々ですね。」と言われたことです。20人足らずの語らいの中でのことでしたが、確かにその通りであったことはその後も何度か確認させられたことでした。先週の東北神咒奉唱大会で思いがけなくも直会の場で披露していただいた、地元の踊りの会の方々による「さんさ時雨」の話ががきっかけになり、昨日の会でもこのことに話題が及びました。

 

伊達政宗は永禄10年(1567)置賜で生れ、天正19年(1591秀吉により岩出山移封を命ぜられる25歳まで、置賜を拠点に活動しました。政宗が会津の蘆名義広を下し、戦国大名としての地位を確立することになった摺上原の合戦(天正17年6月5日)、その勝利を祝う歌が「さんさ時雨」と言われています。とすると、「さんさ時雨」の発祥は置賜です。そのことを話題にしたことから、上杉と伊達の話になったのでした。

 

大河ドラマ史上最高の視聴率といわれる『独眼竜政宗』の放映は昭和62年です。これは置賜にとって「事件」でした。というのは、それまで置賜の人々に、伊達政宗という名だたる大名がこの地で生れ育ち、25歳になるまでこの地を拠点に力を蓄えたことをほとんど知られてはいなかったのです。南陽市の観光課職員が、外から問合せが入って初めて置賜と政宗の関わりを知ったという話があったほどでした。

 

実は置賜に入った上杉は徹底した伊達遺風一掃政策をとったのだそうです。今でも、悪いもの、嫌なことを指して言う「だでごど」という言葉が残りますが、これは「伊達事」です。今から35年ぐらい前、(昭和56年頃だったと思います)この話を小川弘先生からお聞きした時のことは、今もはっきり覚えています。そのぐらい「エーッ」という感じだったのです。高畠町夏刈資福寺趾に隣接する長谷川平内さんとお会いしたのは昭和59年だと思います。長谷川家は伊達の時代からこの地にあって、鷹山公から伊達家の墓守をするように命ぜられたとのことでした。置賜人に徹底された「伊達事=悪」ゆえの伊達の墓の荒れようは、高鍋藩秋月家から養子に入った鷹山公の目にはあまりに異様に映ったのではないでしょうか。鷹山公は長谷川家にも親しく立ち寄られたとのことで。長谷川家には鷹山公の時代の屏風が遺されていましたが、今それは米沢の農村文化研究所に保存してもらっています。

 

純米酒「紅一点」製造の傍ら「政宗そば」の看板をあげていた長谷川さんに、商工会青年部として「菊まつり」だったかのポスターを持って行ったことからはじまります。「政宗そば」の幟の注文をいただいたりしました。そこで目の触れる場所においてあった『友清歓真全集』に出会ったのです。参玄社版第一巻の帯にこうありました。

 

《  日本民族の「心」と「理想美」を描いた不世出の名著、ついに登場  林 房雄


 友清歓真氏は昭和二十七年故人となられたが、私は故三島由紀夫君が大神神社に参籍し、「奔馬」を書く前に氏の『 霊学筌蹄』を読んだことを知り、知人の好意により既刊全集を手にすることができ、その博学というも愚かな古今東西にわたる鴻識と動かぬ信仰、自在な発想、大胆な論証にただ驚きの目をみはった。友清氏は必ずしも世にいう教祖的な人物ではない。三十代にしてすでに「神道霊学」なるものを体系づけたが、ただ山にこもって布教せず、しかも当代の知識人の一部に熱心な支持者を持って、今ようやく完璧な全集が刊行されようとしている。(「神武天皇実在論」より)》

 

この紹介に惹かれたにちがいありません。いったん入り込むと、わからないながらもどんどんその世界に引き込まれてゆきました。「宗教的」といっても、決して自己を絶対化することなく、常に自らを相対化して止まない基調音に何よりも好感をもつようになっていました。友清神学の基底をなす審神(さにわ)の精神が文章のいたるところから伝わってきました。ウソやハッタリではない、信ずるに足るホンモノだと確信できました。そうして昭和60年花爛漫の4月、最初の修斎会参加になります。一言、神棚の中で過ごしたような5日間でした。多くの宝物を得た思いでした。本部からの帰途、田布施駅まで熊野先生と御同道できたのも忘れがたい思い出です。


昭和6110月号の『古道』に次の一文を寄せていました。その年7月の修斎会に地元の仲間とともに2回目の参加、熊野先生に求められて書いたもので、先生に語るつもりで書いたと思います。

 

《   石城山大神境に結縁して

      

 一昨年の初夏、もしあの時先輩同志長谷川さんのお宅へ足を向ける偶然がなかったなら、私にとって、また私の仲間にとって、神山石城山も神道天行居も友清歓真先生もおそらくは存在してはいなかったに違いない。あるいは又、今身に関わる諸々の不都合も、神山石城山への結縁の前提条件だったとするならば、過去の事々の一つ一つすべてがかけがえなくありがたい……、神々についてまともに思いを到らすようになってまだ日も浅い浅薄な私にも、このたび二回目の修斎会参加を通じて今日に到るまで、かたじけなくもありがたい神々の御加護の確かさを実感させていただきつつ、神山石城山への結縁による責務の重大さに身を引き締めております。

 「生きているうちだけが人生じやあない。」こんな言葉が仲間同士の会話の中でごく自然な事として語られるようになっているこの頃の私たち、死んだら終わり、神様なんているものか、いわんや天皇が神様だなんてとんでもない、そんな戦後の風潮を当り前の事として生れ育ってきた私たちの周囲にも何か大きな変化が起ころうとしています。例えば、これまでほとんど気に留めることもなく見過ごしてしまっていたお社やほこらや石碑などへの関心が、私たちの周囲の若い世代の間にも確実に高まりつつあります。そんなところにも、かつて人間が体験してきた神々との交流の歴史を読み取ろうとする機運の到来を感じとることができるような気がするのです。このことをあらためて思うにつけても、私たちの周り到る所にある、神々の世界を垣間見るよすがの数々を端なくも見逃して来てしまっていた我身の迂闊さを思わずにはいられません。そしてこうした感じを持つことのできるようになった今、生後四十年を経てようやく、本来あるべき地点に辿りつくことができた……・この感慨に胸を熱くするのです。

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 いったい自分はこの世に生を享けてこれまで何をなし得たか、そしてこれから何をなし得るのか、男四十にしては不甲斐ない問いざまではあるけれども、神山石城山との結縁の僥倖を得たこの今の地点でこの問いを発しうるその意義を心に銘記しつつ、身と心を浄くしてどうすることもいらぬかむながらの道をひたすらに歩み行くことができるなら……まだほんの緒をつかんだに過ぎない自分ではあるけれど、これまでは見ようともしなかった別の世界の遥かな広がりを今は感じることができる、修斎会の帰途の機上から、雲海に浮かび出た富士の御姿を拝して間もなく、遥か雲海の彼方に望み得た黄金色に輝く神界の都市とも見紛うあの遠景は、今歩み入りつつある新たな世界の果てしなさを暗示するものとして、深く記憶に刻み込まれ続けるような気がしてなりません。

 今こうして拙い一文を綴りながらも、四十年の体験を積み重ねてつくりあげてきているはずの自分の思考を支える概念の数々が次第に背景に退いてゆき、遠い過去と遥かな未来をも視野に収めた大きな世界を見渡すことのできる新しい思考の枠組みが見えてきつつあるような気がします。おそらくその新しさは、私にとっては新しくあっても、人類の永い歴史からすれば新しくも何ともないごく当り前のことなのでしょう。だから不安がないのでしょう。とはいえまだまだ何をするにも忙しなく、思うは易く達するは難きを日々痛感している自分、ただ方向だけは見誤ることなく焦らずに日々精進を重ねて行く覚悟でおります。今後共変わらぬ御導きのほど何卒宜しくお願い申し上げます。》


以下はお別れ会の次第です。実は、いつもご一緒だった奥様が熊野先生御帰天のほぼ50日前先立たれておられましたので、併せてのお別れ会となりました。斎主は遠藤基博同志が務められました。

お別れ会次第.jpg

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直会では梅原支部長(昭和4年生)のフラメンコ、伊藤さん(昭和2年生)のさんさ時雨をご披露いただきました。おふたりは幼少の頃から身につけられた坂東流舞踊熟達のご姉妹です。


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