「やまがた再発見」 長南年恵(上)(山形新聞) [宥明上人]
十四年間、飲まず、食わずで過ごしました。おそらく人類史上最高、最大の断食行者です。
大勢の病人を治した
天眼通(透視)
予言が的中
空ビンに薬が満ちる
病人が空ビンをもって来て、長南年恵が念じるとピンのなかにその病人に適した水薬がピンいっぱいにたまったのです。
「詐欺だ」と訴えられ、神戸の裁判所で、裁判長の目の前で空ビンに薬がたまりました。
裁判長「無罪」
裁判長「この水は何に効きますか」
長南「特に何にと念じていません」
裁判長「これは私がもらってよろしいですか」
長南「どうぞ」
一件落着しました。
この他、空から音楽が聞こえてきたりしました。現在のように、音楽プレーヤーなどのない時代です。その他鳥がお札をくわえてきたり、など、さまざまな神通現象を起こしています。が残念ながらつい百数十年前のことなのに詳しいことはあまり残っていなく残念です。詳しくは、宥明上人と長南年恵について書いている『意識の本体』(福来出版)を是非参照ください。
最後に長南年恵の歌を一首紹介します。
諸人のためとしあらば 我が身こそ
水火のなかも いとうものかは
偉大な神通力を得た長南年恵のあまりにも崇高な心境の一端がうかがえます。
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円滑現象
物事が調子よく円滑にいくことを円滑現象とよんでいます。
平成十九年のことです。山本健造が亡くなった後、仙台の福来博士の墓参りにいって山本が亡くなった報告と後を受け継いでしっかりやらせてもらいますとお誓いしてきました。そして帰ってからまもなくの九月のある朝方、山形の宥明上人をこのままにしておくと、時間とともに忘れ去られてしまう、と思ったのです。そして、友たちに電話を入れました。
「山形の宥明上人さまの所へいきましょう」
「え〜帰って来たばかりではないですか、わかりました」
そして、仙台へ行ったときはさそっていなかった大木さんをさそったのです。井田さんは山形へ行く時は一緒にいきたい、と頼まれていたのですが、なぜか大木さんをさそったのです。
そして、出発しました。山形へ入り、運転手の尾田さんが
「理事長どこへ行くのですか?」
「それがわからないのです」またしばらくすると
「理事長どこへ行けばいいのですか?」
「どこへいけばいいのでしょうかねぇ〜?」
「理事長いいかげんにしてくださいよ〜どこへ運転していけばいいのですか〜(笑)」
すると大木さんが
「実は昨日インターネットを見ていたら、山形のローカル新聞に宥明上人をとりあげたと、誰かがブログに書いていましたよ」
「やったあその新聞社へ直行」ときまりました。そして新聞社へいってみると社長さんは出掛けておられて名刺を置いてきました。
すぐ社長さんから電話が入り、翌日新聞社に再度でかけました。
御挨拶もそこそこに
『社長さんこのまま時間がたつと宥明上人が忘れられてしまうので何とかしたいと思って参りまた」と来意を伝えると
「私(社長)も宥明上人をなんとかしたいと思って、古本屋で一万円も出して買いました」見ると筆者(山本貴美子)が昔書いた『神通力の発現』でした。(『意識の本体』と改名 福来出版)
「有明上人を何とかしたい」と思って一万円も出して買った社長の所へ、
「宥明上人を何とかしたい」と思っている著者(筆者ー山本貴美子)が現れたのです。そりゃもうお互いがびっくりしたのです。
こんなことはめったに起こりません。ものごとは後手になれば何でもだめになります。負けます。ところが物事が運良く調子よく思いもよらないラッキーに円滑に運ぶことを山本は円滑現象と呼んでいます。この場合は、背後に宥明上人の神通力が働いているのです。
* * * * *
『意識の本体』に長南年恵が宥明上人とともに詳しく紹介されている。
そんなわけで、飛騨福来心理学研究所の方々に山形新聞記事を読んでいただきたい思いで、コピーしておきます。今回は(上)ですので、あと一回か二回続きます。執筆者は黒木あるじ(作家)という方です。
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長南年恵
(ちょうなん・としえ=通称おさなみ・としえ)1863(文久3)年、現在の鶴岡市に、庄内藩士長南寛信の娘として生まれる。本名は登志恵。庄内地方では「長南」は一般的に「ちょうなん」と読むが、後年、大阪に暮らす実弟のもとへ身を寄せた際、関西の読み方に合わせて「おさなみ」と読ませ、現在もふたとおりの呼び方が残っている。幼少のころから不思議な才能を持っており、予言をするようになったのち、巫女として開業している。成人とは思えない容姿と天真らんまんな性格から「極楽娘」「年恵観音」の名で親しまれ、多くの信奉者に支持された。実弟の長南雄吉に連れられて大阪へ赴くも数年後に鶴岡へ戻り、44歳の若さで亡くなっている。死後、信者によって鶴岡市南岳寺に霊堂が建立された。雄吉は後年、心霊研究家の浅野和三郎に年恵の回想を口伝え、浅野はそれらをまとめて1930(昭和5)年に「長南年恵物語」という作品を書いている。
翻弄された超能力者
誰もが戸惑い、答えを求め焦っていた。
その混乱を年恵は小さな身体で
受け止めていたように見える
山形自動車道鶴岡インターチェンジ(IC)を下りて市街地へ向かうことおよそ5分。国道7号からわずかに逸れた先に、南岳寺という寺院がある。鉄竜海上人の即身仏が安置されていることで知られた名刹だが、その境内に建つ小さなお堂に目を留める者はあまりいない。堂の内陣には[淡島大明神」の筆書きやあまたの仏像などと共に、ひとりの女性を撮影した写真と肖像画が飾られている。被写体である女性の名は長南年恵。彼女こそ、何もない空間から物体を導きだす力、いわゆる超能力を持った[生き神」として明治の山形を騒がせ、ついには裁判にまでかけられた人物なのだ。
さて、この数奇なる運命をたどった超能力者の生い立ちを語る前に、あらかじめ申しあげておきたい。本稿は、長南年憲の超能力が本物か否かを追及するものではない。証拠をあげつらってうそだペテンだインチキだと騒いで死者にむち打ったところで、そんな行為に意味などない。私はむしろ「なぜ、長南年恵は超能力者として祭りあげられ、裁判にまでかけられたのか」を問い、その背景となった時代や文化を突き止めたいと考えているのである。
1872(明治5)年、明治政府が公布した学制により、日本国民は等しく教育を受ける権利を得た。それに伴い年恵の暮らしていた鶴岡市にもこの時期、小学校が次々と開校されている。しかし幼い年恵は小学校に入学することなく、市内の山王町へと子守奉公に出されてしまう。長男以外の子供は奉公に出て働くのが普通の時代である。学制が公布されたといっても、現実とは大きな隔たりがあったのだろう。しかし、皮肉にも奉公へ出たことによって年恵の人生は、普通とはかけ離れた方向へと導かれていく。
奉公に出て間もなく、年恵はしばしば予百めいた言葉を□にするようになった。その予言はことごとく的中し、奉公先には評判を聞きつけた相談者がひっきりなしに訪れたという。やがて周囲から「本格的に巫女として開業してはどうか」と促された年恵は、鶴岡市隠光町にある橋のたもとで行屋を開いた。行屋の「行]とは行者、すなわち修行によって霊験を得た者を指す。年恵はどうやら行屋を開く以前、御嶽山を信仰している行者から巫術を習ったようだ(それを裏忖けるように、鶴岡市の般若寺にある彼女の墓には、山岳信仰を主体とする御嶽教の位である「大講義」の文字が彫られている)。
政府との乖離
当時は、病気の際に医者ではなく行者や巫女をたよることが珍しくなかった。加えて庄内地方は出羽三山信仰の影響が色濃く残っており、明治を迎えてもなお加持祈祷が盛んだったのである。しかし、西洋近代化を理想とする新政府はそのような行為を固く禁じていた。73年には「迷信や占い、狐憑きなどの近代化を妨げるものは厳重に取り締まるべし」という指令が、神道、仏教の教義などを管理していた中央官庁組織の教部省から出されている。学制の公布同様に、ここでも政府の理想と庶民の現実は乖齢していたわけだ。
そんな時代の移り変わりをよそに、年恵の行屋はたいそうな繁盛ぶりであったようだ。食べ物を□にせず排せつもほとんどおこなわないという神がかった性質も手伝って、その評判は日ごとに高まっていった。なかでも有名だったのは「霊水引き寄せ霊媒」。厳重に封をした空の瓶へ水を満たすのである。この水はあらゆる病に効くとされ、ついには霊水を求めて行屋はもちろん年恵の実家にまで人が押し寄せるようになったという。
しかし、迷信や祈祷の類を禁止していた政府がこの人気を見過ごすはずもない。95年7月、年恵は「医師の資格なしに治療をおこなった」という詐欺の疑惑でおよそ2ヵ月の間、そして翌96年の10月にはI週間あまり、山形県監獄鶴岡支署に逮捕、拘置されてしまったのである。
大阪で商売を営んでいた実弟の雄吉は姉逮捕の知らせを受けて鶴岡へ舞い戻り、鶴岡支署に証明願を提出した。「年恵の超能力が本当であることを認めろ」と迫ったのだ。当然ながらこの届け出は却下され、それを受けた雄吉は、年恵を自身の暮らす大阪へと転居させてしまう。たび重なる逮捕拘留に憤ったのがその理由とされているが、雄吉にはもうひとつのたくらみがあった。京都大に姉を被験者として提供し、その能力を科学的に証明してもらおうと考えたのである。
「御霊水裁判」
迷信打破の急先鋒であった哲学者井上円了と連絡を取り合っていたという事実からも、雄治の本気の度合いがうかがえる。だが、残念ながらこの試みは実現しなかった。「生き神が来る」と聞きつけた人々が連日大挙して押しかけ年恵は表へ出ることもままならなくなってしまったからだ。困った雄吉は、なんとかして年恵の存在を研究者に知ってもらおうと、大阪朝日新聞の知人記者に「霊水引き寄せ霊媒」の現場を取材してもらった。しかしこの苦肉の策は鶴岡にいた時と同じ悲劇を招いてしまう。記事が掲載されてから数日後、年恵はまたも詐欺の容疑で拘置されてしまったのだ。
間もなく年恵は拘置を不服として上告(本人ではなく雄吉が手続きをおこなったと思われる)、神戸地方裁判所で再審理がおこなわれた。これこそ、のちに「御霊水裁判」と謳われ、超能力者・長南年恵の名を後世にまで知らしめることになった裁判なのである。1900(明治33)年12月14日付の大阪毎日新聞の記事によれば、裁判そのものは「詐欺の証拠が不十分である」として早々に無罪判決が下っている。問題はその後だった。判決を受けて、弁護士詰め所に集まっていた弁護士と記者たちが年恵を囲み、「ここで霊水を出してみてくれ」と頼んだのである。年恵は快諾し、詰め所の電話室へ空の小瓶を持って入室すると(なお、事前に電話室内はちりひとつない状態まで片づけられている)5分ほどたってから再び弁護士らの前に姿を現した。小瓶のなかには黄褐色の液体が満たされており、その場にいた一同を仰天させたという。
この1件により、長南年恵の能力は広く世に知られるところとなった。もっとも本人はそのような騒ぎにほとほと嫌気がさしたようで、翌年には郷里へと帰ってしまう。そして鶴岡で巫術をおこないながら、7年後の1907年に44歳の若さで没するのである。
なんとも破天荒な年恵の生涯を追うなかで、私はふと「彼女の人生は。明治という時代に翻弄されていたのではないか」という考えにいたった。文明開化の名のもとにそれまでの価値観が排除され、近代以前の文化が駆逐されていく時代。その急激な変化を恐れた人々は、「近代の理屈では説明できない存在」を信じて年恵にすがり、いっぽうで変化を歓迎した人々は「近代の象徴たる科学の力」を信じて、年恵を表舞台に引きずりだそうとする。
誰もが戸惑い、答えを求め焦っていた。その混乱を年恵は小さな身体で受け止めていたように見える。だとすれば、彼女こそが「明治の山形とは何であったのか」の問いであり、答えのひとつであるように、私は思えてならないのだ。(つづく)
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