SSブログ

鷹山公精神の世界発信(「Acorn」への寄稿)(5) 掲載文後半 [上杉鷹山]

◉ケネディ大統領は上杉鷹山公を知っていたか
 碑建立の目処も立った一昨年の秋頃、キャロラインさんが駐日大使の候補として報じられるとすぐ、齊藤会長が「キャロラインさんに除幕式に来てもらおう」と言い出した。米沢を中心に語られている「ケネディ大統領の鷹山公言及は都市伝説」説を十分知る私は慎重に構えざるを得なかった。そして昨秋来日御着任。会長の本気度はいよいよ高まり、ためらう私に「50周年の日に参列要請の手紙を」と文案を添え期限を切っての催促。その熱意に圧されて、かりに都市伝説であったとしてもそういう話が語られていること自体を知っていただくことも意味あること、そう思い直して手紙(日本文)を書いた。
《大使様がご存知かどうかですが、実はご父君ケネディ大統領が亡くなられて間もなくの頃から、「ケネディ大統領が最も尊敬する政治家として上杉鷹山公の名前をあげられていた」という話が広く語られるようになりました。キリスト教思想家内村鑑三(1861-1830)が英文で書いた「代表的日本人Representative Men of Japan」、あるいは国際連盟事務次長を務めた農学者にして教育者新渡戸稲造(1862-1933)の「武士道Bushido: The Soul of Japan」を通して鷹山公についてお知りになったということでした。(ただしそのことを実証するものはまだ見つかってはおりません。お父上の蔵書の中にいずれかが存在することを期待しています!)このことによって、私どもの郷土の偉人鷹山公の偉大さが一層輝きを増すことになったのは言うまでもありません。と同時に、ケネディ大統領が私どもにとってたいへん身近な存在となって現在に至っているのです。》
父は上杉鷹山を称賛.jpg ラ・フランスと共に送った手紙は大使のもとにまちがいなく届いたことと思う。11月27日ホテルオークラ、大使スピーチでの鷹山公言及のきっかけにはなったのかもしれない。演説の締めであっただけに聴く人に強い印象を与えたにちがいない。アメリカ大使館のサイトで読むことができる。
《My father admired Uesugi Yozan, an 18th century daimyo from the Tohoku area known for his good governance and sacrifice for the public good. Yozan introduced democratic-type reforms, encouraged people of different social classes to join and serve their communities together in new ways. He lived simply and invested in the future - building schools and starting businesses. In ways that resonate with President Kennedy's famous call to service, he wrote: "The domain is inherited from our ancestors, to be passed on to our descendants. It must not be thought of as our personal possession. If you put your mind to it, you can do it; if you do not, you cannot. That is true for all things. When something is not done, it is because someone has not done it."》

《 私の父は、優れた統治、そして公的利益のためには身をいとわなかったことで知られる、18世紀の東北の大名上杉鷹山を称賛していました。鷹山は、民主的な改革を導入し、いろんな新しいやり方で、異なる社会階級の人々が共に一緒になって自分たちのコミュニティに参加し奉仕することを奨励しました。彼は質素な生活を送り、将来に向けて学校をつくり、さまざまな産業を興しました。人々の奉仕を求めるケネディ大統領の有名な呼びかけにも共鳴しあうような言葉を残しています。「国家とはわれわれの先祖から受け継いだものであって、私たちの子孫に渡してやるべきものです。私たちの個人的な所有物であると考えてはなりません。(国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候) あなたがそう思ってそうやれば、そう成ります。何事もしようとしなければ成らないのです。ものごとが成らないのは、その人がそのことをやろうとしなかったからです。(為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり)」》
 

山形新聞251221.jpg

その後(12月20日)カート・トン首席公使が山形を訪問、大使の演説について《元大統領が1961(昭和36)年、記者に対して『尊敬ずる日本の政治家は上杉鷹山』と発言したとの情報はあるが、現段階で正式な記録は見つかっていない」と説明。ただ、元大統領の公の発言、手紙などは全て米国内に公文書として残されているとし、これらの文書を保管している米・ボストンのケネディ図書館で在日米大使館が調査を開始したことを明らかにした。文書量は膨大で、調査に要する日数は不明という。》(山形新聞)と報じられた。この限りでは大使発言の根拠はあいまいであり、その後の調査結果についての続報はまだない。

 はたしてほんとうにケネディ大統領は鷹山公について知っていたのだろうか、私たちも独自な調査がつづけているが、その答えはまだ持たない。しかしその実証云々は別にして、このほどあらためて内村鑑三の『代表的日本人』を繙いてみて、ケネディ大統領がこの本を読んで鷹山公を「尊敬する政治家」と考えるようになったことは十分にあり得ることだと思えた。
 このたび手に取ったのは『(対訳)代表的日本人』(稲森和夫監訳 講談社 平成14年)。古い書棚にあったのは昭和16年初版の岩波文庫だが、読み通した記憶はない。それに対して対訳本の日本語はよくこなれていてスッと読み通せた。
 「上杉鷹山」の章の序に《徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。・・・代議制は改善された警察機構のようなものだ。ごろつきやならず者はそれで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、一人の英雄に代わることはできない》とある。投票箱に頼る立憲制でなく、徳ある君主を得た封建制に信を置く内村の考えは、むしろ斬新に思える。《本質において、国は大きな家族だった。・・・封建制が完璧な形をとれば、これ以上理想的な政治形態はない》として鷹山公の生涯、治政、事蹟が要を得て紹介される。政治を志す者、政治の場に身を置く者ならば誰でも、自らを省みそして鼓舞されずにはおられまい、そういう内容に満ちている。大統領の蔵書にはなかったとしても、どこかで手に取る機会はあったかもしれない。一読して鷹山公の名が深く心に刻まれるだけのインパクトがこの書には確かにある。
 ケネディ大使からの求めによって、ケネディ大統領就任演説の有名な一節《国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。》が副碑に刻まれた。この言葉と「伝国の辞」はどうつながるのか。大使への礼状にこう書いた。
《上杉鷹山公にとって大切だったことは何よりも、「民」のくらしであり、「民」の思いでした。このことを督と次期藩主に伝えたのが「伝国の辞」でした。寄せていただきましたケネディ大統領の言葉から、「国家があっての国民ではなく、国民あってこその国家です!」との意をくみとることができました。「伝国の辞」が為政者への戒めとすれば、大統領ご就任時におけるケネディ大統領の言葉は、その戒めを踏まえての為政者から民に対する呼びかけ、「国家の意志よりも何よりも、まずもって国民みなさんひとりひとりの意志こそが大切なのです!」という宣言と理解しました。鷹山公の思いをまっすぐに受けとめて、こんどは民の方を振り向いて民の自覚をうながしたのがケネディ大統領の言葉だったのですね》と理解した上で、《鷹山公とケネディ大統領、すぐれた為政者同士の思いが、海を越え、時代を超えぴったり重なったことにあらためて気づかされました。偉大なる二人の為政者の思いは、相呼応することでさらに輝きを増しつつ世界に発信され、一人一人の民生民心に立脚したところの世界の平和と安定へと働きかけていかれるにちがいありません。》
 しかし正直なところそれは牽強付会、ケネディ大統領がそんな回りくどい理解をしていたとは思えない。大統領が『代表的日本人』を読んで異国の君主についての記述に心打たれるところがあったとしたら、鷹山公が実際に何を企て何を成し遂げたかであり、それをなさしめた鷹山公の人となりであったろう。それを伝えるに十分な中味を備えているのが内村鑑三の『代表的日本人』であることを私は納得した。実は、大統領就任演説の有名な言葉の前には次の言葉がある。
《今、我々を召集するラッパが再び鳴り響いています。・・・これは、長く先の見えない戦いの重荷を担えという呼びかけなのです。来る年も来る年も、希望をもって喜びとし、苦難を耐え忍びながら、人類共通の敵である虐政、貧困、病気、そして戦争そのものとの戦いを貫く覚悟が求められています。Now the trumpet summons us again・・・ a call to bear the burden of a long twilight struggle, year in and year out, "rejoicing in hope, patient in tribulation" -- a struggle against the common enemies of man: tyranny, poverty, disease, and war itself.》
 大統領就任にあたって自らに課したこの「覚悟」こそ、藩主就任にあたってだれに知られることもなく神に誓った鷹山公の「覚悟」と同じものではなかったか。しかし無念にも「人類の共通の敵である圧政、貧困、疾病、そして戦争そのものに対する闘い」に挑みつつ、闘い半ば3年足らずして凶弾に倒れたのだった。この悲劇によって、ケネディ大統領の名は世界中の人々の記憶に刻みつけられることになった。
 一方、その一世紀半の昔、上杉鷹山公はこの置賜の地において、ケネディ大統領が挑もうとした闘いに挑み、そして確かに勝利した。いみじくもイザベラバードはこの地をこう評した。
《 米沢平野は・・・全くのエデンの園である。・・・実り豊かな微笑する大地であり、アジアのアルカディヤ(桃源郷)である。彼らは葡萄・いちじく・ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。The plain of Yonezawa is a perfect garden of Eden ・・・; a smiling and plenteous land, an Asiatic Arcadia, prosperous and independent, all its bounteous acres belonging to those who cultivate them, who live under their vines, figs, and pomegranates, free from oppression — a remarkable spectacle under an Asiatic despotism.》
 鷹山公没して56年を経た明治11(1878)年のことである。半世紀を超えてなお、その善政の成果はこの地に確かに息づいていたことの貴重な証言である。

◉むすび
 こう書いてきて、思いがけない結論に至ったことにわれながら驚いている。要するに、その統治範囲の大小を別にすれば、その実績において上杉鷹山公はケネディ大統領の比ではない。思いがけないとは言いつつ、闘って勝利しそれゆえ尊敬されるべきは鷹山公、という当然の結論なのだが。
遠藤英先生.jpg 私たちの運動取組み開始にあたり、平成25年4月白鷹山の麓小滝地区で、遠藤英先生に「いま、なぜ鷹山公か」と題して講演していただいた。取組みへの意志固めとなるいいお話だった。《一定のレベルまで到達した社会は、人の心が大切な社会になる。これは鷹山公の時代の鷹山公の考えと同じです。世の中がやっと上杉鷹山に追いついたのです》と言われたのが心に残る。そして最近、次の文に行き当たって鷹山公が思い浮んだ。《人間が言葉を所有していると思うことこそが、驕りなのですよね。ガンディーは「すべては神のものだ」と繰り返し主張しています。ガンディーのいう「無所有」というのは、所有できるのは神だけだということです。「わたしたち自身ですら神のもの」であり、わたしはわたしを所有していない。わたしは器であり、わたしが所有していると思い込んでいるものは、いのちも言葉も思考も「わたしという器」に宿っているものです。人間は「計らい」ももっていない。すべては「神の計らい」で、人間は「自分のあるべき位置がわかりさえすれば」いい。
 この「器としての自己」を受け入れると、「わたしであることの執着」から解き放たれます。わたしは一つの現象です。そして、わたしは常に可変的な存在です。
 わたしという存在にとって最大の欲望は「わたしであること」です。自分探しとは、肥大化した欲望なのです。そして、わたしがわたしを所有していると思っている。これが大きな間違いです。わたしが命を所有しているのではなくて、命がわたしを所有している。この関係を間違えてはいけません。》( 中島岳志×若松英輔『現代の超克』ミシマ社 平26.8)
 「わたしであることの執着」からはとことん自由で「器としての自己」に徹し尽くしていたのが鷹山公であったか、と。本の名は『現代の超克』。「鷹山公精神の世界発信」のゆえんである。(おわり)

   *   *   *   *   *

これで「鷹山公精神の世界発信(「Acorn」への寄稿)」を終わりますが、「わたしは一つの現象です。」この言葉が宮沢賢治「春と修羅」の序の冒頭「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」を連想させ、一昨日の農民芸術概論綱要」の引用になったのでした。上杉鷹山、井筒俊彦、小田仁二郎、若松英輔、宥明上人といったグループの中に、宮沢賢治もしっかり加わったようです。

   *   *   *   *   *




わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます



     大正十三年一月廿日
             宮沢賢治

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。