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叔父の葬儀、山梨県韮崎市にて [わが家史]

21日に山梨県韮崎市に住む叔父が亡くなり、葬儀に行ってきました。享年91歳。水曜日に肺炎の疑いで入院、金曜に脳梗塞発症、日曜の朝帰天。7人兄弟の中で唯一人、同じ職場で「恋愛結婚」の愛妻が入院中もずっとそばに居てもらっての大往生でした。8年前に会ったのが最後でしたが、あれから全く変わっておらず、むしろ若くなって見えました。生前は左程似てるとは思わなかったのですが、あまりに祖父と似た顔になっているのに驚きました。祖父が、祖母の梅干しができるといちばん先に「英輔に」と荷造りしていた姿が思い浮かびます。戦前は東京の荏原製作所に勤め、戦火を逃れて帰郷、戦後しばらくして上京、最初の勤務地から八王子の靴下工場に引き抜かれ(今回初めて聞きました)、そこで結婚。50歳の時に奥さんの実家の近くに家を買ってボイラー士の資格を活かして仕事を得、富士山、八ヶ岳が見える韮崎市一望の自然豊かな高台の家で安穏な暮らしを送りました。甲府の銀行やデパートで82歳までボイラー管理の仕事を勤めました。私が生まれた頃はまだ上京前でだいぶ可愛がってもらった記憶があり、上京してからは鉄道大好きで、ふらっと帰郷するたびに大喜びで迎えたものでした。たいてい普通列車を乗り継いでの旅でした。棺の中には宮脇俊三の鉄道の本が納められていました。

 

韮崎駅から望む富士山.jpg

3日の通夜に間に合うように出かけました。山梨県に入ると車窓から富士山が見えだしました。韮崎の駅から写真に収めました。線路沿いにある葬祭場へのタクシーからほぼ正面にちらちらと富士山が望めます。運転手さんが「甲府からの富士山は下が山に隠れているので、韮崎からの富士山のほうがずっといい。」と自慢してくれました。「今日は赤富士になる。」と言われてぜひともカメラに収めねばと思ったのですが、まず挨拶をと葬祭場に入って、気がついたらカメラどころでなく、いつのまにか外は暗くなってしまっていました。

山形で通夜といえば、亡くなった人のまわりに身内が集って朝まで線香を絶やさぬようにする程度ですが、東京も山梨も告別式より参列者が多くなるようです。告別式は日中ですが通夜は夜なので、会社勤めの人も参列しやすく、そういうこともあってだんだん通夜重視になったのではないかと、東京から通夜だけ参列の従弟が教えてくれ、なるほどと納得しました。サラリーマン化社会の反映だったようです。通夜の形は、祭壇の中央を大きく空けて、親族の男性と女性が対面するように椅子に掛け、いちばん下座で喪主(家族)が参列者を立って迎えるというもので、一通りの読経(願成寺住職)の後、参列者が2列で式場に入って焼香します。焼香を終えると前の入口から順に退室。故人の顔を拝むこともありません。一般の参列者の焼香が終わると喪主、家族の焼香、そしてそれから和尚様の御講話を20分ほどお聴きしました。会食は通夜前に終えているので、和尚様の退席で式が終わると、その後は別に飲み食いすることもなくそのまま解散でした。


斎場から12-DSCF2616.jpg

翌朝7時40分お別れ式をして出棺、斎場に向かいます。韮崎の斎場は駅から見えた観音像の立つ高台でした。富士山は残念ながらうっすらとしか見えません。しかし、その高さはよく実感できました。叔父はいつも韮崎からの眺めを自慢していたものでしたが、なるほどの光景でした。韮崎には一度来たことがあったのですが、その時はたしか八ヶ岳は見えたように思いますが、「富士山はあの辺」と教えてもらっただけでした。息子も3年前の旅の途中立ち寄った時も見ることができなくて、「写真とって来て」と言われていたので、赤富士を撮り逃したのはかえすがえすも残念でした。叔父に「また今度来い」と言われているのかもしれません。

 

1時からの葬儀式、読経の時間が長いのと弔電披露があったほかは通夜とほとんど同じでした。一般参列者は焼香だけして次々式場から出て行きます。式場の外のホールにモニターテレビが用意され、そこで式場の様子は見ることができるようですが、そのまま帰る人も多いようでした。弔辞はありませんでした。終わってから、「この辺のお葬式はいつもこういう形なんですか」と聞くと「そうです」ということで、ずっと式場で参列する親族のわれわれはともかく、故人への思いの深い一般参列者にとってはなんとも物足りないのでは、と思いました。

 

葬儀を終えると会食場で料理を前にしての初七日忌が行われました。簡単な読経の後和尚様からのお話、喪主の挨拶、葬儀委員長(地区の代表?)の献杯で供養の宴がはじまりました。少しずつ緊張の糸がほぐれていきます。和尚様には「故人とぴったりの戒名ですぐ覚えることができました」とご挨拶しました。高昌院英堅徹心居士。

 

前日着くとすぐ、二人の義従弟から「葬儀の後の親族代表の挨拶お願いします」と言われていました。それがどこでするのかわからないままでいたのですが、初七日の供養の宴の締めということでした。実は、これまでは2回ほど合吟したことのある内柴御風の「なき人を」を何かと目を掛けてもらった叔父のためにできればやりたいと思って、ひそかに準備していました。ところがなかなかうまくゆかなくて、やるもやらぬもなりゆきまかせと思ってマイクに向かいました。こんなにシーンとした雰囲気の中で話すのは初めてのように思いました。おおよそ次のように語りました。

 

「高岡家は上杉家とともに山形に入りました。上杉とご当地甲斐の国武田といえば川中島合戦でお互い敵味方です。しかし武田家滅亡後、信玄公の六男信清公(まちがって「孫」と言ってしまいました)は上杉を頼って米沢に来て今も米沢に墓があります。(異母姉が景勝公の正室菊姫だったわけです。墓は同じ林泉寺です。)あらためて400年も前の上杉と武田の縁を思いおこし、私の叔父がこの甲斐の国の皆様にお世話になりこの地に骨を埋めることになった縁をありがたく思います。叔父は八王子で義叔母と結婚しました。34女の7人兄弟、わたしたち実家の甥姪3人も含めて、恋愛結婚は英輔叔父一人でした。50歳でこの地に移ったのでしたが、好きな人と一緒になって自分の思うままに生きていた(ように見える)えけちゃ(みんなそう呼んでいた)はいちばん幸せだ、と他の兄妹たちは語っていたものでした。奥さんにわがまましながら最後までそばに居てもらって亡くなった叔父はほんとうに幸せだったと思います。私も叔父からは小さい時からかわいがってもらいました。叔父から『おまえ何かやれ』と言われているような気がして、『なき人を』を吟じさせていただきたいと思います。まだうろ覚えでまちがうかもしれませんがご容赦ください。


   なき人を    内柴御風


 なき人を ついの別れと 弔えど

   心は消えず ありし面影

 なき人を ついの別れと 弔えど

   心は消えず ありし面影   」

 

案の定、出だしがうまくゆかず2回ほどやり直したが、3回目おかしなままそのまま強行したら後半の本詠はいい具合におさまって、しっかり気持ちを込めることができた。義叔母さんに「お父さんの値打ちをあげていただいてありがとう」と感謝されてうれしかった。

 

電話とハガキにまめな叔父で最後に電話で話したのは1月の20日過ぎだったと思う。今年の雪の多さを見てもらいたくて写真を送った時だった。「仕事は忙しいか、大丈夫仕事はあるか。」と必ず聞いてくれた。この時もそうだった。「なんとかかんとか大丈夫やってるよ。」というのが最後の会話だった。最後までほんとうにありがとうございました。

 


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めい

祝 大村智博士ノーベル賞受賞!

大村博士がつくった美術館の住所が叔父の住所と同じ町内(神山町鍋山)であることを知り、ご無沙汰している義叔母に電話してみました。美術館の向いにやはり大村博士がかなりの深さ(2000m!?)まで掘って出た温泉があり、いつも利用しているとのこと。税金で持ってゆかれるよりみんなに喜んでもらったほうがいいということで掘った温泉だそうです。今日ゲートボール場に行く途中前を通ったら報道の車がいっぱい停まっていたとのこと。ノーベル賞のお陰で近況を語り合うことができました。

美術館の住所を知るきっかけになった記事は下記。

   *   *   *   *   *

新ベンチャー革命2015年10月6日 No.1229
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/35323044.html

タイトル:大村博士がノーベル賞をもらったので日本国民の国富が100兆円規模で米国に移転される可能性大:今秋にFRBが利上げすると円株同時安の悪夢に襲われる

1.ノーベル賞受賞の決まった大村博士は稀に見る大物日本人だった

 2015年10月5日、北里大名誉教授・大村博士にノーベル医学・生理学賞授与が決定したそうです(注1)。筆者は恥ずかしながらこのニュースを見るまで、大村博士のお名前を知りませんでした。

 なんだか、千円札の野口英世の再来のような感じです。そこで、ネットを調べるとすでに、2011年に、大村氏のノーベル賞受賞を予言しているブログが見つかりました(注2、注3)。

 この人物はこれまで見ないような大物であることがわかりました。本人の研究成果のひとつである抗寄生虫薬・イベルメクチンの商品化を米メルクに認め、特許ロイヤルティ収入総計250億円以上を得ていたようです。ところが、それを自分のフトコロにはほとんど入れず、所属する北里研究所の研究費として提供していたそうです。

 マスコミ報道によれば、韮崎大村美術館の所有者でもあるそうですが、これも、上記、ロイヤルティの一部から拠出されたと思われます。

 いずれにしても、大村氏は私腹を肥やさない人物のようです。日本にはめったにいない貴重な人材と言えます。

 利権に明け暮れる安倍自民の連中とは大違いです。早速、大村氏を利用しようとする安倍氏にはもうウンザリです。これも安倍氏の取り巻きが思いつきそうな姑息な国民だましでしょうが・・・。

    (以下略)

by めい (2015-10-06 20:59) 

めい

大村博士の奥さんの眠る寺、同じ願政寺でした!
by めい (2015-10-07 08:36) 

めい

痛快!大村博士伝。新聞の広告を見て読みたいと思った記事がありました。

   *   *   *   *   *

総理大臣がなんだ! ノーベル賞・大村智先生の、権威に媚びない「痛快人生」 祝!医学・生理学賞受賞()
http://www.asyura2.com/15/hasan101/msg/689.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 10 月 21 日 09:21:05: igsppGRN/E9PQ

医学・生理学賞を受賞した大村智・北里大学特別栄誉教授(80歳)〔PHOTO〕gettyimages

総理大臣がなんだ! ノーベル賞・大村智先生の、権威に媚びない「痛快人生」 祝!医学・生理学賞受賞
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45883
2015年10月21日(水) 週刊現代 :現代ビジネス

山梨の農家の長男として生まれて、夜間高校の先生になり、一念発起して研究者に。そして自分の作った薬が世界中の人の病気を治す---そんな偉人めいた話がぶっとぶ、豪快なセンセイの一代記。

■総理からの電話に「あとでかける」

2年連続、しかも複数分野でのノーベル賞受賞に日本列島は沸いた。口火を切ったのが、10月5日に医学・生理学賞を受賞した大村智・北里大学特別栄誉教授(80歳)だ。

受賞理由は、アフリカで年間数千万人が感染し、重症化すると失明に至る感染症・オンコセルカ症の特効薬『イベルメクチン』の発見と開発。

アフリカでオンコセルカ症の診療にあたっていた長崎大学熱帯医学研究所元所長の青木克己氏が、当時の反響を語る。

「それまでオンコセルカ症に対して安全で有効性のある薬はなかった。われわれにできることは、寄生虫を媒介するブヨを殺虫剤の散布で殺すことだけ。それだけに、イベルメクチンができたときは大騒ぎでした。

日本ではあまり知られていませんでしたが、世界では大村先生の名前はとうに浸透しています。私は先生のノーベル賞受賞は20年遅いと思っています」

とはいえ、世界に冠たる「平成の野口英世」の素顔は、温厚な人格者というよりは、独立自尊、時の権力にもズバズバと物申す快男児なのだ。


持ち前の反骨心は、受賞の一報を受けての北里大学での記者会見で、さっそく発揮された。業績紹介や学長挨拶の後、詰めかけた報道陣を前に大村さんが挨拶をしようと口を開きかけた刹那、事務方が「安倍総理からお祝いの電話です」と耳打ちした。

すると、大村さんは「あとでかける」とにべもない。気を利かせたつもりの司会者が、「ただ今、安倍総理のほうから電話が入っておりまして、そのあと大村先生のご挨拶を」とフォローした。苦笑い気味に携帯を耳にあてた大村さんが、再び報道陣に向き直って発したひと言は――。

「今、総理大臣から電話があるそうですけども、(この電話口で)ちょっと待たされております。タイム・イズ・マネー。(会見を)続けましょう」

こう言って、挨拶に戻り、今度は総理のほうを待たせたのである。この対応に、「わざわざ記者会見の最中に電話を入れてくるような政権の人気とりを一蹴してくれて、胸がすっとした」「大村さん最高!」などの感想が、ネット上に溢れかえった。

■自分の食い扶持は自分で稼ぐ

中学以来の友人で、大村さんが創設した「山梨科学アカデミー」常任理事の功刀能文氏が語る。

「『たとえ総理相手といえども、自分にはそれ以上に大事なものがある』というのが大村先生。権力に巻かれることはしません。


『国立の研究者たちはお上の保護の下、国民の税金で研究しているけれど、僕は自分自身の研究でお金を稼いで研究費に充てている』という自負がある。事実そうやってここまで来たのです」

たしかに大村さんの経歴は、研究者としては異色ずくめだ。1935年、山梨県韮崎市の農家に生まれ、学生時代はクロスカントリースキーに熱中。おかげで勉強のほうはすっかりそっちのけになったという。

地元の山梨大学を卒業後、上京して夜間高校の教師になったが、一念発起して学問の道へと進んだ。『生命誌ジャーナル』のロングインタビューで大村さんは当時をこう振り返っている。

「昼間は大学で勉強、夜は高校に行って授業をし、土日は徹夜で実験という毎日。資金が足りない時はアルバイトで時間講師もやりましたよ」

修士号を取った後、大村さんは東京に残らず故郷を目指している。Uターンした山梨大学で助手だったときに出会ったのが、微生物の世界だった。

大村さんの評伝『大村智 2億人を病魔から守った化学者』著者の馬場錬成氏は言う。

馬場錬成『大村智 2億人を病魔から守った化学者』

「大村氏には〝研究勘〟とでもいうべき独特の才能が若い頃からあったように思います。ご本人に聞いても『何かある』としか言わないけれど、傍から見ると人生の岐路で意外な決断を下している。ポリシーが〝人真似はしない〟であるというのもうなずけます」

山梨大から北里研究所へ移って、猛烈に研究し、米国での研究留学へと飛び立った。そして持ち前の独立心と負けん気から、独自の研究スタイルを築き上げる。研究費も含めて「自分の食い扶持は自分で稼ぐ」という、通称「大村方式」がそれだ。再びご本人の弁を引こう。

「まず企業から研究資金の支援を得て、有用な化合物を見つける。そして発見した化合物の使用権を企業に渡す。企業がその化合物を実用化・販売したら、その売り上げに応じて特許料を私の研究室に入れてもらうというものです。

私はイベルメクチンで得た特許料で病院を建てました。世界中訪ねても、特許料で病院をつくった大学の先生というのは私だけかもしれません」

このシステムなら、国に頼る必要はない。そもそも国は、私大には助成金を出したがらない。前出・馬場氏は言う。

「文部科学省の科学研究費補助金の配分は、旧帝大をはじめとする国公立大が約7割。ひどく偏っています。私学出身者で、当時としては珍しい産学連携から研究費を調達した大村先生がノーベル賞を受賞したというのは、まさに画期的なことです」

ビル・ゲイツのサクセス・ストーリーに共感 〔PHOTO〕gettyimages

■ごひいきはマイクロソフト創業者

受賞理由となった、イベルメクチンの元となる微生物「放線菌」が静岡県の川奈ゴルフ場脇から採取されたというエピソードはすっかり有名になった。が、イベルメクチン商品化をめぐるエピソードはもう一つあるという。馬場氏が続ける。

「1981年、イベルメクチンは動物薬として商品化されることになり、大村先生を始めとする北里研究所とメルク社で特許料に関するライセンス契約が話し合われました。

最初の交渉で、メルク社は『オオムラが発見した放線菌の菌株を3億円で買いたい』と提案した。研究所の理事会はこの提案を受けようとしたのですが、大村先生は買い取りを拒否した。この薬が生み出す利益はそんな程度で済むものではないと読んだのです。

結局、最後はメルク社側が折れ、大村先生の提示した条件を飲んだ。その後、メルク社側から北里側に支払われた金額は現在までで200億円を超えています。あのとき菌株買収を拒否していなかったら、北里側は3億円にせいぜい若干のお礼を手にするだけで終わっていたでしょう」

この莫大な収入を、大村さんは北里研究所の建て直しにつぎこんだ。

大村さんが北里研究所の副所長に就任したとき、研究所は3億~4億円の赤字を抱えた貧乏研究所だった。大村さんの妻は「大学の教授に落ちついてやっと給料もちゃんと入るようになったのに、また給料の安い研究所に戻るなんて……」とぼやいていたという。

ところが、構造改革、人材育成に取り組んだ大村副所長は、貧乏研究所を金融資産230億円以上の黒字施設に回復させた。研究者として超一流であることは言うまでもないが、経営者としても傑出した能力を発揮するアイデアマンなのだ。

「先生には商人的感覚がある。ご本人もマイクロソフト創業者のビル・ゲイツが大好きなんです。彼は学者ではないけれど、一人であれだけの財を成した。その姿に共感するようですね」(前出・功刀氏)

いわゆる「専門バカ」とは違う。そんな幅の広さを象徴するのが、大村さんの絵画熱だろう。

■負けず嫌いの根底にあるのは「東大への対抗心」

ノーベル賞報道がなされたとき、人々の度肝を抜いたのは、数年前に韮崎市の自宅跡に建てた自前の美術館を韮崎市にポンと寄付していた、というエピソードだ。

大村さんは、イベルメクチンだけでなく、これまで26もの医薬品の商品化に成功している。医薬品研究者は生涯に一つ商品化できるものを見つけられたら大成功、といわれており、商品化されればそれほど実入りは大きい。特許料は研究所に入るとはいえ、その一部は、当然、大村さんに支払われる。

かつて公表されていた高額納税者名簿によれば、大村さんの'03年分の納税額は1億3,500万円で、山梨県の高額納税者第3位だ。当時の税制で計算すると、推定年収は3億6,500万円! しかも単年だけの一時的な収入ではないから、大村さんは、まさに山梨きっての大金持ちなのだ。

が、周囲の人々は、大村さんの私生活は、いわゆる金満家とはかけ離れたものだと口を揃える。

「取材で何度もご自宅に通いましたが、私が接した限りでは、私生活で華美な消費をしている印象はまったくありませんでした。そもそも大村氏には贅沢をしようという発想がない。絵画も投機が目的ではなく、あくまで子供の頃から好きだった絵を見て心を休めたいという目的で買っていました」(前出・馬場氏)

六十数年来の付き合いの功刀氏に至っては「あの人には、豪華なものとか派手なものは似合わないですよ」と大笑いする。

「大村先生は高級ホテルやレストランでは食事はしません。田舎流です。町の飲み屋とか学生が泊まるような宿が大好きで、みんなでワイワイやっています。

好きな酒は焼酎。いつも自分の焼酎ビンを持っていて、山梨に帰ってきたときは、その焼酎ビンを抱えて行きつけの蕎麦屋に行くんです。

自宅は教え子たちの合宿所にしており、合宿が始まると先生は自分の親まで呼んでいました。とにかくオープン。あけっぴろげです」

大金持ちだが気さくな先生は、故郷と絵画と本と教え子を愛している。

「先生の負けず嫌いは相当ですが、その根底にあるのは、東京一極集中、わけても東大への対抗心です。

どこかの大学を卒業した後に東大大学院へ進学した人が、周囲の受けをよくしようと、学歴を東大卒とするでしょう。先生はそれががまんならない。だから、ことあるごとに『自分は山梨大学卒です』と公言しています。山梨の人間としては嬉しいですよ。

肩書なんて必要ない、という矜持が先生にはある。それが人を惹きつけるのではないかと思います。努力家でもありますが好奇心旺盛で、読書も欠かさない。学士院会員なだけに、他の分野の学者との交流もあるから、話題もボキャブラリーも豊富で、座談の名手です。

時折冗談をはさんで場をなごませるのもお手のもの。12月のストックホルムでのスピーチを今から楽しみにしていて、『スウェーデンの王様に笑ってもらわなくちゃ』と、すでに息巻いているみたいですよ」(前出・功刀氏)

こんな面白い研究者が出るのだから、日本もまだまだ捨てたものじゃない—そんな気持ちにさせてくれる大村さんの授賞式を、われわれも楽しみにしよう。

「週刊現代」2015年10月24日号より

by めい (2015-10-22 05:17) 

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