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宮内熊野に探る「祭り」の意味 (3) [熊野大社]

六、初午祭


《初午祭といえばお稲荷さんを思い出すが、熊野大社にも昔から初午祭があったことから察すれば、お稲荷さんの専売特許でもない。》

《正月休みも済んだ二月の初午の日に、農家の守護神の保食神(ウケモチノカミ)や五穀に関係ある神を祀った。》

《熊野の神が産霊(ムスビ)の神であり、万物創造育成の親神である。熊野の大神が作神として最も古くから最も広く信仰されて来た。その農耕の守護神である熊野の大神の大前で、初午祭を行なった昔の人の考え方も理の当然であり、わが熊野大社に昔から農民のために初午祭が行なわれて来たことも納得できると思う。》

《熊野の神が神御親神(カムミオヤカミ)と申しあげ、私達の最も遠い親神であり、また造化の神、国土の産みの親神として国を産み島を産み山川草木をも産まれたのである。最も神徳の高い親神であられることからして、熊野信仰が日本では諸社の信仰に先んじて民間の信仰となり、大衆の上に根をおろした。お稲荷さんより先んじて五穀豊穣の作神となり、家庭和楽の神として、所謂熊野信仰となって風靡するに至り、古社ではその数も最も多く祀られている。》

《大正期までは祈願祭として三町諸締が行なって来た。・・・とぼとぼと御灯明がともされ、おごそかに御祷が行なわれた。終ってからあの古めかしい社殿で、灯火をかこんで直会が行なわれ、切身のお肴で神酒を酌み交わし四方山の話をされていたことを憶えている。》

 この地における熊野信仰の原点が語られているように思われました。

 

七、火まつり


《旧二月十一日に行なわれる鎮火祭。熊野大社には火防に霊験勝れた宥日和尚に縁ある宋版大般若経六百巻があり、この大般若経を転読して火防を祈る。》

《大正期にはその頃の金で三十円の町費が、宮内町消防団鎮火祭費として予算にもられ、消防団幹部総出で厳重に執り行われて来た。》

《このお祭りの神酒や煮染など祭りに要する物資は、すべて神社の切符によって賄われて来た。神酒や煮染はもとより、ゴマ塩味噌漬など一切が一枚の切符で氏子がすすんで奉納して来たことは、まことに珍しい慶事である。また昔は沢山の赤飯をつくって小供達に振舞ったものである。》

長井の遍照寺中興の祖といわれる宥日上人火伏せ祈祷の名手として有名で、十五世紀から十六世紀にかけて活躍した和尚様でした。今でも、上人が産湯として使った長井市東五十川地区にある井戸の水を、その年最初の「壬辰」の日に汲んで家の屋根にまくと火事にならないという信仰があるほどで、この上人に縁りある大般若経が火伏せに結びつくわけです。明治初年の神仏分離の際この行事は熊野神社から宝積坊に移り、この行事は柳町町内行事として今でも行われています。

神社で切符を発行して賄われたということについては、「地域通貨」にも通じるところがあるようで、関心をもったところでした。


八、山ノ神祭 

1-DSCF0021三末社.jpg

《青麻神社、山神、大宮子易神社は妹神堂から明治初年に移されたもの。敷石のつきあたりにあった土社(不動尊)の東に祀られてあったのを大正十一年に現在のところに移された。》

石段を登りはじめてすぐ右側の奥まったところに三つ、神社があります。右が山の神、真ん中に青麻(あおそ)神社、左に大宮子易神社と三つの石の祠が並んでおりますが、そのことについての説明です。


青麻神社《中風(中症)の神として信仰》

最近は「切れない糸」ということで、夫婦円満の神さまとも言われるようになっています。昨年開催された青苧フェスティバルを機に、この神社にまつわる『青い糸』という創作民話をつくり、語り部第一人者として全国を駆け巡る多勢久美子さんに語っていただいています。


山ノ神《祭日は二月十七日。初山としてこれから山で働くことになる。》《農家や樵さん達は、ワラであんだシメ飾りに餅やスルメや木炭などを組み合わせ、お宮のかたわらの樹木の枝に下げ、お明りをともして一生懸命に今年の無事安全を祈願するのである。》

二月十七日、旧暦なので実際には雪が消えかかった三月になっていると思います。今も吉野地区で山の神様ということで、ノサというのを作って県道からも木につるしているのを見ることが出来ます。


大宮子易神社《お産の神さまとして信仰。昔は白い木綿でつくった小さい枕が納められた。この枕をお借りして産婦の枕元に置いて産婦の安産を祈った。》

3逆さ烏.jpg


逆烏(サカサガラス《御烏さまという特殊な御守札。日本三熊野(紀州三熊野・軽井沢熊野・羽州熊野)のみが、昔から頒布しているものであって他所にはない。安産御守。産婦が産気づいたとき、産婦が産気づいたとき、逆さになった烏を切り取って水に入れて飲ませると安産疑いなしという信仰による。》

いわゆる熊野牛玉宝印と言って裏に誓いの言葉を書くとそれを守らないととんでもない罰が当たると、これを熊野起請文といって大事な誓約を書くということが昔から日本のあちこちで行われていました。義経が頼朝に対して書いた、秀吉が秀頼を裏切るなと重臣たちにも書かせた、赤穂浪士も書いた、その熊野起請文です。宮内熊野大社では交通安全のお守りにして発行していたはずですが、いま手元にあるのには「復興祈願」と書いてあります。ごくあちこちにあるんだと思っていたら、今回、この三つの熊野様でしか発行してないんだと知って正直驚いたところです。


この三つの社は明治初年まで妹神堂というところにあったとありますが、室町時代以前熊野大社の規模が壮大であったころ天台守護の神として山王権現が祀られた奥の院が山王山で、そこに至る正参道のもっとも景勝の地にあり、当時はお宮のお堂が立ち並んでいたそうで、今も旧社家寺院の古い墓地が残っています。

 

九、参宮と大々神楽


《参宮の歴史は新しいが、春の初参宮と秋の菊参宮は、神社の年中行事から忘れてはならない大きな行事となっている。》

この章は参宮が始まったいきさつとその後の歴史について十八ページにわたって書いてあるのですが、ここについてはあらためてまたの機会にどなたかに語っていただければと思います。

 

十、祈年祭


《大正祭祀令によって始められた祭。トシゴヒノミマツリという。稲の豊作をお祈りする農業祭。商工祭も兼ねる。当社では三月二十四日が祭日。往時は歴代町長が衣冠に身を正して随員をしたがえ、朱傘をかざして美々たる行列が社頭に参向されたものであった。今は五月一日花祭りと同日に行なわれている。》(大正祭祀令:神宮祭祀令(大正三年一月二十六日勅令)は、戦前における伊勢神宮の祭祀に関する勅令祈年祭を大祭とする。)(つづく)


 


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