白鷹山「伝国の辞」碑建立経緯にについて語らせていただく機会がありました [上杉鷹山]
10月18日に米沢英語研究懇話会第88回例会で講話させていただきました。会の最長老篠田洲雄先生(昭和7年生)が、迷惑かけっぱなしお世話になりっぱなしでずっと気になっていた高校2年、3年時の担任の先生であり、さらに手塚宮雄現会長が同級生ということで依頼されたのでした。会場は米沢市すこやかセンター。部屋に入るなりスリムにはなったけれどももう50年前とまったく変わらぬ笑顔で迎えていただき、半世紀の隔たりを一挙にとびこえて当時の懐かしい先生方のお名前がつぎつぎ出ては話しがはずんだのでした。そのノリで講話も「50年経ってもう時効ということで・・・」と、生徒全員が集められ「興譲館始って以来の不祥事」(生徒指導主任 大井魁先生 大井先生には新しい歴史教科書をつくる会の顧問になっていただき何度も御一緒する機会があったのですが、そういえばこのことが話題になったことことは全くなかったことにいま気づきました。一度謝っておくべきだった・・・)と言われたという「無賃乗車停学事件」から語り始めることになりました。
奥羽線上りの汽車通はふつう米沢駅で降りて学校まで3キロ弱の距離を歩くか自転車で通うのですが、私と赤湯からの3人は米坂線の坂町行きに乗り換えて西米沢駅まで行ってそこから1キロ弱の距離を歩いて通うことにいつの頃からかなっていました。3年の時です。だれからともなく「このまま乗って海に行ってみたいね」という話が出ていて、たしか6月30日、蒸し暑くて学校になんか行きたくないという日に決行したのでした。坂町で羽越線に乗り換えて海をながめながら余目まで行き、そこで普通列車に乗ればなんのことはなかったのですが、いつもの帰宅時間に間に合うための準急乗車が運の尽き、あえなく車掌さんの検札にひっかかって御用。山形駅で鉄道公安に引き渡され、赤湯在住の伊賀仁教頭にお迎えにきていただき、そこから苦難の一週間が始ったのでした。親が学校に行って謝ってきたり、謝罪文を書かせられたり、見るからにおっかない庄司善助校長の前で頭を下げたり、せつない思い出ではありますが、反省会の名目で停学期間中4人一緒に私の家で合宿したり結構いい思い出にもなっています。停学期間を満了して学校に行ったらみんなに笑われたような記憶があります。それから20年も経った頃、「松野良寅先生があなた方のことを書いておられるよ」と、ご主人が松野先生と同じ海軍兵学校出身の近奈美子さんにそのコピーをいただき、恥ずかしいようなうれしいような気持ちになったことがありました。米沢の海軍志向の伝統とわれわれの他愛ない「学校さぼって海見に行こう」をむすびつけていただいた畏れ多い文章で、題はたしか「海への憧憬」といったものでした。松野先生がほかでもない、米沢英語研究懇話会の創設者で初代会長ということで、思わず恥ずかしい体験を話すことになった次第でした。
以下、当日用意したレジュメです。
◉この運動への私のスタンス
(私が積極的だったことはまったくなくて、いつも齊藤会長を「まてまて」と抑える役だったのに、いつのまにかこうなってしまっていたわけで、鷹山公のお働きがあるとしか考えられない、といったことを話しました。)◉運動の経緯
・齊藤喜一会長の山形新聞投書(平成20年秋)
・樋口和男山辺町議からの電話(平成22年2月)
・山頂サミット(平成22年5月13日)
・南陽市役所との折衝(平成24年春)
・闇雲な出発
・会の立ち上げ(平成24年6月)
・遠藤英先生講演会(平成25年4月27日)
・米沢の動き(平成25年4月20日)
・山形新聞報道(平成25年5月19日)
・目標金額突破
・ケネディ大使への手紙(平成25年11月22日)
・ケネディ大使「父が上杉鷹山を称賛」発言(平成25年11月27日)
・ケネディ大使へメッセージ依頼(平成26年2月3日)
・ケネディ大使から刻銘のためのメッセージ(平成26年3月11日)
・除幕式(平成26年5月13日)
・大使からのお礼状(平成26年5月21日)
・大使、米沢訪問の報(平成26年9月25日)
・大使家族の首に手拭!(平成26年9月27日)
◉これからどうする?
○いま、なぜ鷹山公なのか?(遠藤英先生)
◆家や国を子孫に伝えるための倹約令(第一条)
国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
「今のままの暮らしを続けて見通しの立たぬままいずれ破綻の道を選ぶのか、それとも今の暮らしをがまんして子孫への 存続を計るかの二者択一が迫られます。・・・鷹山公は「今か、子孫か」の二者択一を迫って、「子孫が大事」の大原則「を提示したのが第一条です。」ただし、倹約にとどまっては駄目。「鷹山公が名君といわれるわけは、単に赤字財政を立て直した、借金を返したから偉かったというのではありません。肝心なのは、人の心も含めて、たしかに社会が良くすることに成功したから名君と評価されたのです。鷹山公は十一代代将軍家斉からも名君と言われた唯一の君主でした。」
◆西洋型ではない江戸期の民主主義(第二条)
人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
「商工業者が国家からしぼりとられるのを守るためのシステムが西洋における民主主義でした。まずもって私的利益の追求があるのです。・・・それに対して江戸時代でいう民主主義の根底は「仁政」です。思いやりの政治。他者優先。殿様は民衆のために、民衆は世の中のために。そこに争いは起こりません。・・・世界に比して進んでいた日本の中でも、この地域はさらに進んでいた。その根底をなすのが、公私のけじめを明確にした第二条の精神です。」
◆立場をわきまえること(第三条)
国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
「自分がどういう立場に立たされているかをいつも意識せよ。立場でものを考えることを忘れぬようにとの戒めです。・・・自分の立場、他人の立場をわきまえていれば、おのずと今自分が「どうすべきか」という発想が出てきます。」「息子だけの立場ではない。藩を預かる君主の立場を考えてください。」
◆鷹山公も普通の人だった
「目の前のことを一生懸命やろうとするような教育。真面目とか誠実。ラインシステム重視の教育の時代は終わっています。社会は成長するのです。一定のレベルまで到達した社会は、人の心が大切な社会になる。これは鷹山公の時代の鷹山公の考えと同じです。世の中がやっと上杉鷹山に追いついたのです。相手の心を読み取って、自分自身の思いを、自分のもっているいい個性を相手のために役立てましょう。そうすると贅沢しなければ食べてゆける。そういう時代にいま入っているのです。
鷹山公を美化してヒーローにしてはいけません。あの人は天才なんだ、神様みたいな人なんだと言っちゃうと、われわれは真似ができなくなってしまう。鷹山公は、今の高校生ぐらいで殿様になった。それから名君と呼ばれるようになるまで、どれだけの失敗と苦労があったことか。鷹山公をひとりの人間として追っかけてゆくと、失敗したり、あれこれ工夫したり、みんなで知恵を出し合ったりという実際いろんなことがある。それが全部われわれに役に立つ。われわれと同じような、その辺にいる普通の人ががんばったんだということで、われわれの手本になる。すばらしい人で、目標にすべき人ではあるんですけど、あまり棚の上に載せてしまわないで、丁寧に見ていただいて真似をしていきたいなと思うのです。」
○「世界に届け!鷹山公精神」―時代がようやく鷹山公に追いついた
《人間が言葉を所有していると思うことこそが、驕りなのですよね。ガンディーは「すべては神のものだ」と繰り返し主張しています。ガンディーのいう「無所有」というのは、所有できるのは神だけだということです。「わたしたち自身ですら神のもの」であり、わたしはわたしを所有していない。わたしは器であり、わたしが所有していると思い込んでいるものは、いのちも言葉も思考も「わたしという器」に宿っているものです。人間は「計らい」ももっていない。すべては「神の計らい」で、人間は「自分のあるべき位置がわかりさえすれば」いい。
この「器としての自己」を受け入れると、「わたしであることの執着」から解き放たれます。わたしは一つの現象です。そして、わたしは常に可変的な存在です。
わたしという存在にとって最大の欲望は「わたしであること」です。自分探しとは、肥大化した欲望なのです。そして、わたしがわたしを所有していると思っている。これが大きな間違いです。わたしが命を所有しているのではなくて、命がわたしを所有している。この関係を間違えてはいけません。》 (中島岳志「積極的な受け身」 中島岳志×若松英輔『現代の超克』ミシマ社 平26.8)
○置賜自給圏構想への期待
(マドモアゼル愛さんの「外需と内需」を紹介しました。)
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