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慶長5年長谷堂合戦で討死した先祖供養祭 [わが家史]

先日(105日)、414年前亡くなった先祖の供養祭(御霊鎮め)を行いました。その経緯を記しておきます。

 

昨年の410日、NHKの歴史秘話ヒストリアで“愛”の武将美しき絆
~直江兼続と前田慶次会津にかけた夢~」が放映されました。実はわが先祖はこの二人とは結構近いところにいたのではないかと思われます。(エピソード3 激突!“北の関ヶ原” が「長谷堂合戦」です。)

 高岡氏累伝記.jpg

我が家には和綴8丁(16頁)の「高岡氏累伝記」というのが残っています。私の曾祖父次作がその父吉信(栄四郎)が調べたことを明治20年(1887)に記したもので、時に吉信54歳、次作23歳。私の祖父信太郎が生まれる2年前でした。その後次作は明治34年に37歳で父に先立ち、父吉信は74歳まで生きて明治40年(1907)に亡くなっています。今住む家は吉信生存中に建てたものです。


「高岡氏累伝記」の書き出しは「そもそもわが先祖は上杉の臣にして慶長年間上杉氏越後より会津へ120万石にて御国替えの後、元和3年米沢松が岬の城へ30万石にて御国替えに付き、御供致し米沢城下に住居す。その後上杉氏御嗣絶えたるゆえ15万石に相成るによって、藩中の御扶持もはなはだ減少しゆえに、わが先祖も次第に貧乏を招きついにその名字を他人に譲り宮内村に下り住居す。寺は米沢猪苗代片町善行寺なるゆえ不便なり。故に墓地当村正徳寺に設けり。のち享保5年(1720)正月4日世を去れり。すなわち浄昌院釈氏西生居士(俗名勘兵衛)なり。」ではじまっています。

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名字を売った先は鷹匠をしていたという家で今も米沢にあり、寺も同じ善行寺。総代長を務めておられます。ただ、この記録以前の事は調べもせずわからないままでした。にわかにその先が開けてきたのは、大河ドラマ「天地人」放映の前年、平成20年の秋、はじめて長谷堂城に登ってきた翌日です。たまたま朝、絶版本なので、定価よりかなり高い古本で買ってそのままにしていた『最上義光物語』をめくっていたら「高岡大隅守」の文字が目に飛び込んできたのです。

越境記318.jpg越境記316.jpg『越境記」は米沢市立図書館のデジタルライブラリーで見ることができます。上の最後2行と下の最初2行に高岡大隅守の討死の様子が述べられています。「高岡不明」と朱書きされていますので、注釈者にとってはじめての名前だったのでしょう。)

「柳田嘉兵衛は敵方の馬上武者と槍を合わせて戦い、自分も手負いとなりながらも突き伏せて首を取り、黒沢清左衛門は馬上の者と組んで討ち、高岡大隅守も敵方の一手の大将鈴木逸学と組んで討ち取った。しかし、大隅守は帰陣しようとしたところを逸学の下人78人から斬りかかられ、二人を斬り伏せたものの、5カ所の手傷を受けて討ち取られてしまった。」

 

「最上義光物語」は2部構成になっており、前半は最上義光の一代記である「最上義光物語」の全文現代語訳、後半は米沢上杉家に伝わる『越境記』(米沢市立図書館蔵)の中の最上合戦の部分を現代語訳した「最上合戦記」です。「越境記」は直江兼続の家臣の著作と伝えられます。

 

慶長5年(1600913日直江兼続軍は江口五兵衛光清の守る畑谷城を落とします。勢いに乗る直江軍は軍勢を上山と長谷堂攻めの二手に分かれます。916日直江兼続は、最上側志村伊豆守が守る長谷堂城の北西1,2キロ菅沢に本陣を敷き17日攻めに備えます。しかし16日、最上側の夜討ちにあって、菅沢の麓に陣取った春日右衛門側で115の首を取られます。18日、直江軍は春日右衛門を先手に長谷堂の外堀まで攻め込みますが、長谷堂城からの銃撃によって直江側は多くの命を失うというのが、最上側「最上義光物語」の記述です。

 

一方、上杉側「越境記」によると、夜討ちに遭うのは919日。この日は夕方から激しい風雨となり、これにまぎれて45百騎が犬を連れて襲ってきたのです。これに対して春日右衛門側は激しく攻めたてて敵勢を追い払ったということになっています。

 

このあと伊達政宗の動静等についての記述のあと、小滝口から攻め込んだ倉賀野長左衛門率いる宮内の安部右馬之助や大津善右衛門、私には親しい名前が登場します。

 

927日、会津からの使者によって退陣命令が伝えられます。関ケ原の戦いが915日、12日間経ってようやく直江兼続にその結果が知らされたのです。高岡大隅守の討死した日を特定したいのですが、記述の順序からして15日ではないかと思われます。

 

「高岡大隅守」の文字を見つけて思わず、隣の部屋にいた息子に「たいへんだ!」と声をあげたのを覚えています。ただそのときは「先祖かもしれない」とは思いつつも、「ほぼそうだろう」と思うようになるには時間がかかりました。「ほぼそうだろう」に至る経緯については、米沢日報社発行の『わが交遊録(第3集)』(平成141月)に載せていただいています。

 

「ほぼそうだろう」が「まちがいない」に変わるできごとが起きました。東京で鍼灸マッサージの仕事をする娘が、九州から来られた同じその道の人で霊能的感覚のある方に「戦で命を落とし供養を求めている古い先祖がある」と言われたというのです。娘にはあらためて教えていなかったはずで、娘は「こんなこと言われたんだけど」と電話で言ってきたのでした。それを聞いた私には高岡大隅守しかありえないわけで、以来なんとか供養祭をと思い続け、来年3月の母の5年祭を半年早めて、大隅守の命日が旧暦915日とすると、新暦では108日になることから105日に行ったのでした。北野宮司も「400年前の先祖供養なんて初めて」と言っておられましたが、見事な祝詞を上げて下さいました。

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供養祭祝詞.jpg

直会の席で妹の娘、私の姪がまた思いがけないことを言い出しました。ちょうど私が「高岡大隅守」のことを知った頃のことらしいが、ある占い師に見てもらおうとしたら、「あなたの母方の先祖で戦いで討死した武将の姿が見える」と 顔を見るなり言われたのだそうです。その時はそれっきりで誰にも言わずに過ごしてきたのですが、このたび「そんなこともあったっけ」と思い出したとのこと。どうしてもやらねばならない供養祭だったようです。

 

6日、山形市長谷堂の古戦場跡へ。ちょうど台風18号が接近中でかなりの雨でしたが決行。

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長谷堂には上泉主水泰綱が討ち取られた場所とされる主水塚があります。地元の人たちが激戦での死者を敵味方区別なく懇ろに葬ったことから多くの塚が残っています。もっと東に古い主水塚が田んぼの中に今もあるとのことですが、いま主水塚といえば昭和63年に広い道路の側に新たに建てられたものです。「合戦後、村人たちが主水をはじめ両軍の戦死者約二百人を手厚く埋葬し、その土墳を主水塚と名付けて、連綿と供養を続けてきた跡である」と記されており、高岡大隅守もそのひとりだったわけです。ちなみに「会津御在城分限帳」及び「上杉侯家士分限簿」には「寄合組」の中に「高岡大隅」として、「直江支配長井郡分限帳」には「上泉源五郎組之内寄合与」の中の「高岡大隅守」として記載されており上泉主水一派だったようです。

直江支配長井郡分限帳.jpg

上泉源五郎は、上泉主水泰綱の嫡男にして上泉秀綱(天正111583-慶長201615)。母は北条氏忠の娘で通称は主水佐。北条氏の小田原城下で誕生する。名は曽祖父・秀綱にあやかる。天正18年(1590年)小田原征伐によって北条氏が没落すると父と共に小田原を後にし、上野国館林・信濃国井上を転々とする。慶長2年(1597年)上杉景勝の元に入り、慶長3年(1598年)上杉家臣・安江繁家の娘を妻に迎えた。慶長5年(1600年)慶長出羽合戦で父が戦死すると家督を継ぎ、また父の功によって1500石を与えられて直江兼続の麾下に置かれた。しかし慶長6年(1601年)上杉家が米沢30万石に減封されるにあたって、秀綱の禄高も500石に減らされた。慶長12年(1607年)江戸城普請を命じられた上杉家の中奉行として工事を指揮。慶長19年(1614年)大坂冬の陣では鉄砲隊を率いて、鴫野の戦いで豊臣軍を破るが、その戦闘で秀綱自身も重傷を負う。景勝の主命によって京都で傷の療養をするも、翌慶長20年(1615年)京都で没した。秀綱には男子が無かったため、秀綱の死後にその長女が志駄義秀の三男・源五郎を婿養子としている。なお次女は安江監物に嫁いでいる。(ウィキペディア)

 

わが家の菩提寺である善行寺(ぜんぎょうじ)は、飯山から宮内を経て米沢に在るが、その過去帳に当寺米沢草創期に貢献あったとして「延宝二年七月廿四日 喜見院殿昌林宗観居士 志田修理 八十三歳義繁」とあるのは、志駄義秀の嫡男。したがって上泉家当主と志駄家当主は兄弟。上泉組で善行寺門徒の高岡家が両家に何らかの関わりがあったのではなかろうか、などと思ってみると400年の昔がまたぐんと近づいてくる。 


折からの激しい風と雨でしたが、びしょぬれになりながら塚を浄め玉串を捧げて大祓詞を奏上してきました。

主水塚参拝_K505698.jpg

1-IMG_7786.JPG2-IMG_7781.JPG3-IMG_7762.JPG4-IMG_7751.JPG

 

高岡俊見.jpg

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間沢に分家があることを知ったのは40年ぐらい前のことでした。上の妹の同級生が間沢に嫁いでその結婚式の時、花嫁のご両親に嫁ぎ先の隣組の方から「宮内に高岡という染物屋はあるか」と訊ねられたのです。ご両親「よく知っています」と答えると、「実はわが家の先祖は・・・」という話になったのです。そしてその次第を聞かされて「高岡氏累伝記」をあらためてよく見ると、たしかに「最上間沢高岡庄兵衛」とあったのです。その時の花嫁さん、同級生の私の妹も一緒だったので、このたび玉貴さんまでおいでいただいてお会いできたのも感激でした。間沢高岡家の高岡俊見さんについての記事切抜きがありましたので貼っておきます。昭和53年9月3日の山形新聞です。俊見さんは昭和54年に亡くなって、その後子息の勤さんと年賀状のやり取りがあったのですが、このたび勤さんが亡くなられたのを新聞で知って些少のお気持ちをお送りした経緯があり、勤さんの御霊前にご挨拶をとの思いもあっての間沢行きでした。その道筋をつけて下さったのが間沢高岡本家のお嫁さんで、数年前9代目のご主人を亡くされ一人でおられます。私と同年とのこと、初めてお会いしたのですが、玉貴さんのお仕事を永くしておられ、このたび宮内からの花嫁さんに連絡して下さったのもこの方です。息子と一緒に俊見さんのお孫さんとお会いしてきたのですが、息子いわく「じいちゃんと似ていた。」じいちゃんとは私の父。DNAつながりはたしかにあるのかもしれません。


3-DSCF2140.JPG2-DSCF2142.JPG1-DSCF2122.JPG(3枚は9/7撮影したものです)

昼食というより「豪華な直会(なおらい)」を終えて湯殿山へ。湯殿山行きは一ヶ月前(9/7)上の娘が来た時に連れて行ったらいたく感動して「旦那を連れてゆきたい」と言い出したことから実現したもの。「語るなかれ聞くなかれ」で知る人ぞ知るの湯殿山本殿参拝は案外行ってない人が多い。私の二人の妹も初めてだった。よかったのは本殿参拝のあと先祖参拝の場があったこと。これもまた大隅守の導きか、参拝を終えると雨はいつのまにかすっかり上がって陽が差しはじめていたのでした。

5-DSCF2307.JPG参拝後本殿登り口で。この先写真撮影禁止です。このときはもう傘不要。

4-DSCF2319.JPG

下を望むとどんどん霧が晴れだしていました。


   *   *   *   *   *

以下は「わが交遊録第3集」(米沢日報社 平14)に寄せた文章です。

 わが交遊録.jpg

正月飾り 烏帽子 2.jpg

 我が家には漆塗りの箱に入った古い烏帽子が残されている。お正月の松の内の間、正月飾りとして、謙信公(文蔵筆)、鷹山公(目賀多雲川筆)の肖像の掛け軸と共に床の間に飾ることになっている。なぜなのか、明治22年(1889)生まれの祖父に聞いても「昔からこうしてるから」と言うだけだった。

 明治20年に書かれた「高岡氏累伝記」によれば、「祖先は上杉家の家臣で、上杉氏と共に越後から会津、そして米沢へのお国替えに従ってお供し城下に住居したが、その後上杉氏の嗣子が絶えた事で15万石になったため、藩中の御扶持もはなはだ減少し、ためにわが先祖も貧乏を招き、ついに其の名字を他人に譲って宮内村に下って住居するに至った。寺は猪苗代片町善行寺であったが、不便なので墓地を当村正徳寺に設けた。現在地の宮内粡町に屋敷を求めたのが正徳5年(1715)。」とある。ただ、それ以上については何も記録はないし、伝え聞いてもいなかった。

 平成20年の秋、はじめて長谷堂城に登る機会があった。ちょうどその翌日のことだった。長谷堂合戦について知るべく、あらためて手元にあった「最上合戦記」(中村晃訳『最上義光物語』所収 平成元年教育社)を開いて驚いた。なんと「高岡大隅守」という文字が目に飛び込んで来たのだ。

 「最上合戦記」は直江兼続家臣によって記された記録である。直江軍が江口光清守る畑谷城を攻め落とした2日後の慶長3915日、その日の激闘を述べたくだりに「高岡大隅守も敵方の一手の大将鈴木逸学と組んで討ち取った。しかし、大隅守は帰陣しようとしたところを逸学の下人七、八人から斬りかかられ、二人を斬り伏せたものの、五カ所の手傷を受けて討ち取られてしまった。」とあったのだ。その時はじめて高岡大隅という武将の存在を知った。

 高岡大隅の名は、慶長2年の「上杉侯家士分限簿」、慶長3年国替後の「会津城在城分限帳」、慶長5年「直江支配長井郡分限帳」に見ることができた。慶長5年(1600)の分の「上泉源五郎組」の中に「同組之内寄り合与」の2番目に「四百石 御蔵出、討死跡 但両度二渡 高岡大隅守」とあったのが最後で、寛永8年(1631)の分限帳にはない。

 高岡の姓は、置賜では米沢市2軒、南陽市宮内3軒、飯豊町1軒の6軒のみ。うち4軒はわが家の係累で、その他の米沢市の高岡昭二郎さんとは同じ善行寺の檀家同士。高岡昭二郎家には、かつて鷹匠であったという伝えがあり、名字を譲った先は昭二郎さんの御先祖と思われる。飯豊の高岡さんは鷹山公の時代に高岡を名乗るようになったとのことで、とすると、高岡大隅はやはりわが家の先祖なのか。烏帽子はその証として先祖が残してくれたのかもしれない。

 それにしても、減封に次ぐ減封を重ねる上杉藩にあって、主亡き後暮らしを支えることの困難さはいかばかりであったことか。そして武士の身分を捨てる決断をして始まった、新天地宮内での暮らしは・・・。三百年前の先祖の苦労や思い、烏帽子を通して交々想像させられます。


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めい

なぜ「大隅守」なのか、何か意味があるのか、年来の疑問です。一応「応神天皇は大隅人」という飯山一郎氏の今朝の「てげてげ」をメモっておきます。http://grnba.com/iiyama/index.html#aa12151

   *   *   *   *   *

◆2017/12/15(金)  【連載:ホンダワケ】 やはり応神天皇は…
大隅半島の御方だった
調べれば調べるほど↓応神天皇は大隅人!

http://grnba.com/iiyama/z/USAguu.jpg
『八幡宇佐宮御託宣集 護巻三』(上の古文書)には,「大隅の辛国城は,応神天皇の霊が影向(ようごう)した根本の地である」とある.
『今昔物語集』には,八幡神(応神天皇)は先ず大隅正八幡宮に現れ,次に宇佐に遷り,ついに石清水に跡を垂れたと記載されている.
ちなみに,大隅正八幡宮は和銅5年(712年),宇佐八幡宮は天平元年(729年)の造営である.
以上,八幡神(応神天皇,ホンダワケ)の源流は『大隅』にあり,宇佐八幡宮に移ったあとに八幡神となられたといえる.
結論は,八幡神(応神天皇,ホンダワケ)は,大隅出身!と.
大分県の宇佐八幡宮(宇佐神宮)は,全国の八幡神社の根本社で,本殿の第一は応神天皇,第二は比売大神(ひめのおおかみ)を祀っている.
元々は比売大神が本来の祭神で,あとから八幡神(応神天皇)が来て,比売大神の上に新たに八幡大神の祭祀が重なったことで,宇佐の地では二重祭祀あるいは混淆祭祀が始まったというのが定説になっている.

ようするに,八幡神(応神天皇,ホンダワケ)は,『大隅』が源流である!と,全国の八幡神社の根本社である宇佐神宮が古代から認めていたということだ.

まとめると…
応神天皇は大隅人=熊襲族(のちに隼人族)で…
河内に東征して河内王朝(ワケ王朝)の始祖となった.

その河内にある応神天皇陵の原型は,大隅にある唐仁大塚古墳.
唐仁大塚古墳は,熊襲族の本拠にある前方後円墳.

上に書いたことは,先日,以下のように説明しました.
・ 【連載:ホンダワケ】 応神天皇は仲哀天皇の子? (記事)
http://grnba.com/iiyama/index.html#aa12081
・ 【連載:ホンダワケ】 巨大な前方後円墳の原型は? (記事)
http://grnba.com/iiyama/index.html#aa12101

本日の結論は…,古代天皇家は仲哀天皇でいったん途絶え…
熊襲族出身の応神天皇が,古代の新天皇家の始祖となった…と.

ところで…
今上陛下は,天皇家の先祖に百済人(高野新笠=たかののにいがさ)がおられることを明言された.
再来年,新天皇になられる浩宮皇太子殿下は…
(母方の江頭家が九州人の末裔である)雅子妃殿下から…
応神天皇の伝説を聞いておられるのではないだろうか?
『日本書紀』に書かれている史実として…
飯山 一郎 (71)

by めい (2017-12-16 07:01) 

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