故大竹俊博元南陽市長の葬儀に参列してきました [政治]
私がいっとき政治の場に身を置いた時、結果的には対立の形にはなったが、決して嫌いな人だったわけでなく、政治とはどうしようもなく対立の図式の中に嵌め込まれてしまうものなのだなあということを、葬儀に参列しつつ深く実感させられたことだった。
大竹さんは昭和14(1939)年の生れ。昭和43(1968)年から昭和54(1979)年まで3期11年市会議員を務めた後、三つ巴戦を制して県議となり昭和58(1983)年4月まで1期4年を務めるも、次の選挙で自民党系保守から推された高橋源吉氏に敗れ、昭和61(1986)年の市長選で3期目を目指す新山昌孝市長を破って初当選。以来平成10(1998)年7月まで3期12年南陽市長の席にあった。しかし市長在籍時にパーキンソン病を発病、やむなく4期目を断念して以後は闘病生活を送られていた。市長としての12年間のうち、後半の6年間、私は市議として身近に関わらせていただいた。いろんな思いが頭をよぎる。
大竹さんが県議選に敗れ浪人中のことだった。昭和59(1984)年の冬の夜、当時活動が活発だった商工会青年部の主要メンバーの集りがあった。私も出席すべく家を出て、たまたま何の用事があってのことか、同じ町内に住むEさんに立ち寄った。Eさんは当時63歳で製材業、市の開発公社理事をしておられた。そのEさんから思いがけない話を聞くことになった。
昭和59(1984)年といえば、山形県を会場にした「べにばな国体」があったのが平成4(1992)年だから、その8年前のことだ。昭和67年開催ということで「67国体」と言っていた。南陽市はソフトボールの会場に決まった。われわれ宮内商工会は、南陽市ではいちばん広い宮内にある向山グラウンドがその主会場になるものと思っていた。ところが新山市長の独断専行で南陽市の西端梨郷地区の山地を運動公園として開発して主会場にするつもりであることをEさんは話してくれたのだった。
青年部の会合が何の集まりだったか、私がその話をするや一挙に議論はその対策に向けて沸騰した。ただちに市民に知らしめるべくチラシを作ることになった。以後の動きは当時の青年部会報に詳しい。(縮刷版の写しなので見にくいけれども、私にとっては貴重な記録なのでアップしておきます。)
要するに、われわれが火を点けたこの動きがなかったら、大竹市長の実現はあり得なかった。大竹市長はそもそも若い頃からバリバリの社会党で中でも急進派と聞く。この動きは大竹さんを中心とする、市役所内組合勢力も含む社会党系勢力と歩調を合わせる形で拡大して行く。当時関係者の意見を聞いて廻ったのだが、南陽市体育協会長の佐藤稔さん(当時54歳)から、「あんたらそんなことやってたら社会党に利用されるだけだよ」と言われたのを生々しく記憶するが、いったん燃え上がったわれわれの行動を押しとどめるには至らなかった。佐藤稔氏の言葉は部会報に、「この問題にいちはやく対応された若い人達の動きは評価してよいと思います。しかし結果的に一部の党利党略に利用されたことについては問題が残りました。運動を起こす時点での配慮が必要だったのではないでしょうか。」となって残る。当時のわれわれは運動の勢いそのまま大竹市長の実現を目指す動きへとつながっていくことになったのだが、その後大竹市長と対立するよう形になって、佐藤さんの言葉が何度頭を去来したことか。あのときEさんに立ち寄らなければ「大竹市長」はなかった、そんな思いとして私の中にはずっとあったことだった。
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