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「いい人」がトップに立てばたちまち群がる「たくらみ」の罠にかかる(南陽市長選挙) [南陽市長選挙]

南陽市在住と思われる「白髪のおじさん」というブログに「山形県南陽市の市長選7月告示赤湯温泉街が静かに作戦は何処で話題にならず」(6月29日)と題してこうあった。

「選挙になると街は静かで何処で作戦しているかわからないよ、誰が市長やっても同じだよ、我々には関係ない。南陽市を良くしようと考えていないよ、仲間が当選するか、しないか得するか得しないかだけの市長選挙だよ」

こういう考え方、政治へのスタンスが世の中ををおかしくしている。物の分かったような(優等生風な)言いぶりで、さも正論のように世にはびこる。敗戦後70年近く、占領政策のレールに乗った教育の成果である。

敗戦の結果日本は、「公的」感覚はずたずたにされ、「私的」関心の肥大化が図られた。私にとっての「新しい歴史教科書をつくる運動」とは、その風潮を改変し、本来の日本を取り戻そうという「国民運動」であり、山形県支部はその視点から取組んで、いい態勢ができつつあった。しかし、ターゲットを教育委員会に絞る本部の方針は結果的に「政治的対立」を生むことになって運動は矮小化され、結局分解した。そもそもこの運動に、ジャパンハンドラーズが関わってはいなかったか。副島隆彦氏はそこを見抜いていた。

政治を甘くみてはいけない。政治とは、私的生活とは別次元の公的権力によって世の中を運営してゆくという、尊い営みである。政治は、単純「いい人」にできるものではない。現実にまっすぐに立ち向かえるタフな精神があってこそ、ほんとうに「いい仕事」ができる。「いい人」がトップに立てばたちまち群がる「たくらみ」の罠にかかる。かつて私が市長選に出馬したとき、私を「いい人」と睨んで、「市長になって私の言うことに聞いてくれれば力になる」と言い寄った人があったが、そういうのは正直な方で、どんな罠が待ち構えているかしれない。

政治を思うままに操り世の中を支配するためには、民心の関心を政治からそらしておくのがよい。今後世界をどう征服してゆくか、そのための手だてを記した文書が存在する。 「シオン長老の議定書」という。この文書については、本物かどうかも含めていろんな議論があるが、白髪のおじさんのブログで引用されたような言葉が出てくる背景を考える上で非常に参考になる。

《ゴイム(豚=家畜)に物を考えたり観察したりする暇を与えないように、これを商工業の方に引きつけなければならぬ。それで各国は自分の個人的利益に没頭して、共通の敵に注意を払わなくなる。しかして自由がついにゴイムの社会に仕掛けをしてこれを滅ぼすことが出来るようにするには、投機を工業の基礎にしなければならぬ。そうすると地面から取り出す富が投機によって我々ユダヤの金庫の中へ転がり込んでくるのである。



  他人との競争に勝とうという闘争と、事業界における不断の投機とが、道徳も人情もない社会を造り、その社会は宗教にも政治にも無関心どころでなく、むしろ嫌気もさしてきて、ただ金を儲けることが唯一の指針となり、これを増やすためにあらゆる努力をする。それだけが物質上の楽しみで拝金宗教となってしまう。そこでゴイムの下層民は我々の競争相手である特権ゴイムに反対して、我々に結びついてくる。それは別に高尚な目的を主張するためではなく、また金が欲しいからでもない。ただ単に上層階級に対する敵意からである。》
(シオン長老の議定書・第4議定)

 

わかりやすくかみ砕いてみる。ユダヤを「金を支配することで新たな世界をつくろうとする勢力(「世界金融資本」であるという)」、ゴイムを「ずっとつづいてきた社会(土着社会)」に言い換えるとわかりやすいかもしれない。

《土着社会を支配下に置くためには、まずその関心を商工業に向けさせる。その結果、人々の関心は社会全体の利益よりも個人的利益に関心が向くことになる。つぎに教育は、「秩序」や「和」よりも「自由」が大切と教える。このことがいずれ土着社会を根底から解体することにつながる。さらに工業については、「ものをつくることの大切さ」から目をそらさせ、「金儲けの手段」と思い込ませるようにする。そしてそこに「投機」という博打(ばくち)を持ちこむ。その結果、労働によって大地から産み出された富は、金融資本へと吸い上げられる。全体に寄与するはずのはたらきが、私的な金儲けのためのものになってしまい、ものづくりの喜びよりも、どれだけ利益をあげるかが優先するようになる。


人々は常に「競争」を強いられ、他人との絆は次第に薄れてゆく。産業界においては金銭的物差しが何より優先して、株価の上下に一喜一憂、それが博打(ばくち)にうつつをぬかすことであることなのに、誰もおかしいとおもわない。道徳も人情もない世の中があたりまえになり、心の荒(すさ)みの常態化によって宗教は無縁なものとなり、公的感覚の喪失はおのずと政治への無関心となる。ゆきつくところ、宗教や政治なんて鬱陶(うっとう)しい。世の中のすべてが「金」に換算され、ただひたすらその「金」を増やすことが目的となる。「拝金教」と言っていい。必然、世の中は、「持てる者」と「持たざる者」に二極化してゆく。そこに「平等」思想を注入すると、「持たざる者」はたちまちその思想に飛びつくが、それは高邁な精神があってのことでもなければ金が欲しいからでもない。要するに「持てる者」への敵意のゆえである。「持たざる者」が「持てる者」に敵意を抱くようになったらしめたもの、土着社会支配の基礎ができたのだ。》


階級対立を煽ったマルキシズムはまさにこの路線上にある。世の中にまず対立を持ちこむ。しかしいつまでも対立の緊張に耐えられるものではない。いずれ嫌気がさして多くは自分だけの世界に向かう。政治的アノミー(規範喪失)。世の中全体政治を軽んじるようになる。その隙に乗じて「たくらみ」は政治の実権に参入してゆく。軍産勢力に操られるまま、姑息なやり方で平和憲法破棄に踏み込んだ安倍政権を見るにつけ、敗戦日本にはまさにこのレールが敷かれ、その「たくらみ」は見事に成功しつつあるのではないか。

南陽市長選挙に戻す。「誰が市長やっても同じだよ、我々には関係ない。」この物言いはまさに敗戦日本に敷かれたレールの行き着いた先の感覚であることに気づかねばなるまい。市民の「見る眼」が問われる南陽市長選挙のゆえんである。

あらためていう。

「いい人」がトップに立てばたちまち群がる「たくらみ」の罠にかかる。政治は「いい人」にできるものではない。現実にまっすぐに立ち向かえるタフな精神があってこそ、ほんとうに「いい仕事」ができるのだ。



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