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大室天皇問題 [落合莞爾]

51ef5QrpsKL._BO2,204,203,200_PIsitb-sticker-arrow-click,TopRight,35,-76_AA300_SH20_OU09_.jpg金融ワンワールド516+ZJjtYEL._BO2,204,203,200_PIsitb-sticker-arrow-click,TopRight,35,-76_AA300_SH20_OU09_.jpg明治維新の極秘計画51zXej63XtL._BO2,204,203,200_PIsitb-sticker-arrow-click,TopRight,35,-76_AA300_SH20_OU09_.jpg南北朝こそ日本の機密51RaadTXzBL._BO2,204,203,200_PIsitb-sticker-arrow-click,TopRight,35,-76_AA300_SH20_OU09_.jpg国際ウラ天皇と数理系シャーマン

 

飯山一郎氏が「明治天皇『すり替え説』の真相は この本で!」ということで、落合莞爾氏の四部作を紹介された。私も切実な関心を持ってまもなく4冊目を読み終えるところだ。先ほど全体を要約してあると思われるところを読んだばかりだった。「『明治天皇落胤説』は虚伝である」の項。以下その部分。


《・・・(堀川辰吉郎が明治天皇の落胤であるという)この虚伝は、「明治維新で南朝を復元するために、睦仁親王が大室天皇に入れ替わった」とする南朝革命説に発したものと観られます。


「大室天皇交替説」そのものは、歴史教科書には載らないものの、間違いなく歴史上の真実ですが、その真の意味は世上の「南朝革命説」の説くようなものではないのです。・・・明治維新を機に孝明天皇が堀川御所に京都皇統を立て、国體(国体)天皇として外事を専管することとなりました。同時に、大塔宮末裔の大室寅之祐が東京皇居に入り、政体天皇(明治天皇)として内政を担うという、国事を分担するための天皇交替だったのです。


伏見宮家から出た朝彦は、俗親王の宮号を中川宮から賀陽宮に変え、維新後に久邇宮家を新しく建てた目的は維新後の伏見殿の在り方を変えるためと聞きます。国際ウラ天皇の役割を、維新後に京都皇統に引き渡した伏見殿が、以後どんな役割を担ったのか、具体的に知る由もありません。


しかしながら、「堀川戦略」の究極の目的は「国體の護持」にあります。そのために堀川御所で京都皇統を秘かに建てたのですから、伏見殿の役割を引き継ぐ堀川辰吉郎は京都皇統から出る道理はないのです。


「その筋」を除く日本国民のほぼ全員がこれまで信じていたのは、崇光天皇以来、孝明天皇までの皇統が持明院統すなわち北朝皇統であるということで、かく言う私もこれを信じていました。・・・


その後に「その筋」が明かしてくれた秘史は、建武元(1334)年に南北両首脳の合意で両統が秘密統合された崇光天皇の後に後光厳→後円融→後小松→称光の「新北朝」の四代が続きますが称光に継嗣がなく、崇光の曾孫後花園が継ぐことによって遂に皇統を一本化したことです。・・・》(『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―落合秘史[2]p289-290


古来日本には世界全体を視野に収めながら、日本が日本として進み行くべき道を切り開く確固とした意志が存在する。その意志が南北朝という皇統分裂の危機を救った。時代を経て1815(文化12)年の神聖同盟の成立は、その意志にとっていずれ日本もその中に組み入れられてゆかざるをえないと考えられた。そのことは、たえず国際間の対立に巻き込まれ、国内にもその対立が持ちこまれることを意味する。それを救うために考えられたのが「堀川戦略」であった。すなわち今後来るべき国際的(金融的)な激流に対処するために、いわばウラの皇統を建てておくということだ。その戦略に乗って登場したのが大室天皇であった。南朝の流れを汲む大室寅之祐を表に出し、孝明天皇、睦仁親王は殺されたかの様にも思わせつつ、実はウラの皇統に回って国際的金融的激動に対処してゆくべき流れをつくったのだ。堀川辰吉郎は睦仁の子であり、ウラの流れの中でその役割を果たした。


荒唐無稽ともとられかねないが、とにかくこの四部作は、私にとっては切実な問題に解決を与えてくれたのだった。そのことはあらためて書きます。



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めい

いま、皇室をバッシングしていると… (落合莞爾氏の珠玉の文章)
(飯山一郎氏ブログhttp://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-7046.html

落合莞爾氏の著書より
いま、皇室を悪しざまにバッシングしていると…、
国民間に心理的な断層を形成せんと狙う外敵の詭計(きけい)が及ぶ恐れがあります。
いつの世にもどんな場合も「競わず争わず」に徹し、反論はおろか弁明すら一切しない皇室を、大衆の好奇心をカネに替えるための好都合な対象と考える商業メディアは、外敵からすれば最も操縦しやすい洗脳機関なのです。
国民は、わが皇室に関して正常な判断を維持するために、常にこのことを念頭に置いておく必要があります。

副島隆彦先生は“重たい掲示板”で、ご自身のことを
「私は、日本最高の頭脳であり予言者だぞ。」
と自己評価なすったが…、流石大したもんだ。
しかし最近は、日本の知識人のなかでは落合莞爾が最高峰!という評価が多い。
そこで本日は落合莞爾の文章を掲載した次第。 (飯山一郎)

by めい (2013-11-25 06:20) 

めい

張成沢は「お隠れになった」!?
http://toneri2672.blog.fc2.com/

   *   *   *   *   *

張成沢の〝処刑〟

昨夕、田中宇の最新記事「北朝鮮・張成沢の処刑をめぐる考察」が発行された。それを読んだというさる識者から、「張は小栗」と教えてもらったのだが、咄嗟に思い出したのが新井信介氏の最新記事である。同氏がふと漏らした(書いた)以下の言葉、気になってはいたのだが、さる識者のお陰で漸く真実味を帯びてきた。

「お隠れになった」
http://www.k2o.co.jp/blog2/

世間では北鮮の発表をそのまま信じ、張成沢が本当に処刑されたものとばかり思い込んでいるが、新井氏の言うように「お隠れになった」のだとすれば、残置国家として日本の皇室に倣った金王朝の基盤固めが、着実に進んでいるという何よりの証となる。つまり、張成沢は〝処刑〟されて最早この世にはいないものとした上で、今後は裏から金正恩および北鮮経済を支えていくという見方である。

なお、「張は小栗」の小栗とは、あの小栗上野介(忠順)である。通説では、小栗は慶応4年(1868年)閏4月4日、烏川の水沼河原(群馬県高崎市)において斬首された(享年42歳)ということになっている。しかし、本当はそうではなく、小栗は密かに渡米し、アメリカから祖国日本のために貢献したとする説があるのだ。この説に関心のある読者は、落合秘史シリーズ、殊に『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』を参照されたい。

ともあれ、北鮮のトウ小平と云われていた張成沢が〝隠れている〟という視点で、今後の北鮮の動きを追っていくことで、張成沢の〝処刑〟の真偽が分かってくるだろう。以下は落合秘史シリーズ、『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』からの引用である。
岩倉(具視)が東山道鎮撫総督府を身内で固め、剣客原保太郎を総督随行に任じて小栗の救出にかかる。薩藩士の折田彦市が岩倉と原の連絡に当たり、原(保太郎)が小栗を偽装処刑して逃がす。

最後に、今回取り上げた落合莞爾秘史シリーズ、この機会に紐解いていただければ幸いである。

[2013/12/19 06:44]

by めい (2013-12-20 06:13) 

めい

落合莞爾氏 かく語りき
ニューリーダー24年12月送稿

いかなる因縁か天譴を受けた私(落合)は、紀州の謫所にて相変わらず幕末維新史の研究を続けているが、今月稿にはとくに書いておきたいことがあるので、少々の脱線をお許しいただきたい。
戦後の日本社会には公言を憚る三大タブー(禁忌)が存在した。マッカーサー体制・ユダヤ陰謀・奇兵隊天皇これである。「マッカーサー体制」とは、敗戦後わが国を占領したマッカーサー元帥によるGHQ軍政が、昭和二十六年のサンフランシスコ条約の後には「間接占領体制」に姿を変え、戦後の日本国はその後も「対米従属体制」を秘密の国是としている、との認識である。これに気付いた私(落合)が『平成日本の幕末現象』を著したのは平成元年の十二月であった。
アメリカ国会図書館からの注文が二冊分入ったと出版社から連絡があったが、後で聞くに、それと前後して米国某機関が私に尾行・盗聴を実行したとのことであった。拙著が同胞に向かって対米独立を呼びかけたのに応じる動き、すなわち対米独立運動が、私の知らない裡に国内の六ヶ所で起こったそうである。
そのような動きを監視する内外国家機関の存在はとくに怪しむに足りないから、内偵のごときは当然と思い、気にもしなかった。米国某機関は私の背後勢力を探ったが、全くの独力で自費によりやっていることが分かり、呆れて沙汰止みとしたらしい。
当時、米国に留学中だった北京大学歴史系の主任教授が日本語で親書を呉れて、「貴著を米国の国会図書館で読んだが、これは予言の書である。北京大学で抄訳しても良いか?」と問うてきたので承諾した。その教授は、拙著の「自民党体制は対米従属を維持するための政権であるから、やがて崩壊する」と主張した部分を指して、「予言の書」と謂ったのである。
日本政府と言えば大袈裟だが、学友の外務省高官から貰った拙著に対するコメントは、「貴著の内容に驚いた。しかし国民の多くは本音でこの状態を望んでいるのだ」と謂うものであった。学友が「驚いた」というのは、「わざわざタブーに触れた」愚挙に呆れたのであろうか。
拙著の予言が部分的に実現したのは、三年半後の平成五年八月であった。昭和三〇年の結党以来三十八年間も政権を維持してきた自民党が、初めて野党に転落して、細川護煕による非自民連立政権が誕生したのである。しかし細川政権は六年四月の総辞職を以て短命に終わり、同年六月には自民党と社会党が大連立した「自社さきがけ政権」が後を継いだ。
この折、小沢一郎を中心とする自民党の一部が自民党を離脱して新党を結成し、新進党と称した。小沢新党は、駐日アメリカ大使アマコストが小沢に働きかけて実現させたと聞くから、日本を英米流の二大政党政治に誘導せんとする国際金融勢力(ワンワールド・バンカー)の意思に発したことは明らかである。ここに注目すべきは、小沢新党の結党資金として、平成四年に海部内閣が湾岸戦争の多国籍軍に対して行った追加資金援助九十億ドルの一部が還流したと噂されることである。財源には中央競馬会の第二納付金が充当せられた。
後日、東京都知事石原慎太郎は次のように言った。「(多国籍軍協力金四十億ドルを出した)後、さらにアメリカは九十億ドルを要求してきた。さすがにこれは内閣の一存では決まりませんから、九月に臨時国会を開いて、結局、合わせて百三十億ドルを出してアメリカの戦争を助けた。ところが出した直後に戦争は終ってしまった。カネをどう使ったか報告がない。日本にキックバックしたという噂があります。日本のメディアはやる能力も覇気もないから調べられない。アメリカ人の二人の記者が書きました。そのカネが誰にいったのか。想像に難くないけれど。 そして、それからすぐ小沢一郎は党を割って出て行った」。
野中広務も後に、同じ資金について暴露めいた発言をしている。小沢一郎を用いて自民党独裁政権を崩壊させた「金融ワンワールド」の意図は、間接占領体制を一層深化させるために、日本に二大政党制の実現を企んだのである。蓋し、特定集団を第三者としてコントロールするには、当該集団を力量の接近した二大勢力に分け、両方を睨みながらコントロールするのが最も効率的である。このゆえに、「金融ワンワールド」が国家を管理する手法として英米両国で夙(つと)に確立された二大政党制を「憲政の常道」と、御用政治学者が讃えるのである。噴飯ものは、実質共産主義の日本社会党の党首土井たか子が自社二大政党による「憲政の常道」の実現を呼びかけていたことで、これをしも欺瞞と言う。
ともあれ、拙見が半分だけでも具体的に政治に反映されたのは平成二十一年であった。民主党政権の首相鳩山由紀夫が掲げた「日米中の関係は正三角たるべき」との主張であるが、ここで「半分だけ」と言うのは、拙著はわが国の無原則な日中友好や無防備な対中接近を望んでおらず、むしろ民族自主独立の趣旨から同胞の媚中・拝中・跪中を強く警めていたからである。
ところが本年になって隣邦による尖閣諸島および竹島への侵略行動がにわかに顕在化し、同胞の対中危機感が増高した。これにより国民間に潜在していた「対米従属感覚」が責任階層の表層意識に浮上し、根底にある「対米依存願望」が肯定的に評価されることとなった。学友の外務省高官の謂うように、「やはり国民はこの状態を望んでいる」ことが、はっきりしたのである。
しかしながら時勢が志士を求めたか、もと外務省国際情報局長孫崎亨が颯爽と登場し、敢えてマッカーサー・タブーを破る『戦後史の正体』を著した。目下ベストセラーを続けている同著の内容は、下記の惹句から見当が付く。曰く「日本の戦後史は、アメリカからの圧力を前提に考察しなければ、その本質が見えてこない。元外務省国際情報局長という日本のインテリジェンス(諜報)部門のトップで、【日本の外務省が生んだ唯一の国家戦略家】と呼ばれる著者が、これまでのタブーを破り、日米関係と戦後七十年の真実について語る」。孫崎説と拙見との間には小異はあるようだが、大同たることは間違いあるまい。ともかく、これで三大禁忌の一を破る人士が二十年ぶりに出てきてくれて、私(落合)としては一安心である。
さて禁忌の二番目はユダヤ問題である。金融・経済などに関して生じた国際的事態が理解できない邦人たちの集まりで、「すべてはユダヤ人の陰謀だ」とのセリフを聞くことが多いが、論者に「ユダヤ人って何だ?」と質すと、明確な回答を得たことがない。たといあっても根拠に乏しく、合理性を欠く的外れの解説ばかりである。にも拘らず、論者はまたぞろ、場所を違えてユダヤ陰謀説を繰り返して止まない。わが国で囁かれるユダヤ人陰謀説は、帝政ロシアやナチスで公然と語られたものが流入したのであるが、帝政ロシアとナチスの滅亡後は、どの国にあっても公的に説かれることはなく、学校・官庁・大企業・各種団体など苟(いやしく)も公共的性格を帯びたところでは、文字はおろか口に出す場面すら見ることはない。つまり、第二次大戦後にこれが重い社会的タブーとなったことは明らかである。
このタブーの根源すなわちユダヤ問題の真相を知りたかった私は、学生時代から内外の識者に問うてきたが、結局明答を得られなかった。その間に聞き溜めた伝聞を基にして自ら洞察し、その結果を時折本稿で語ってきたが、ある時国際金融勢力に関する小論として月刊誌『新潮45』に掲載したところ、民族問題研究家の太田龍から「わが国の大手メディアはこれまでユダヤ問題を取り上げたことはなく、出版社が取り上げたのはこれが最初である」と評された。
この時には拙論は未完成だったが、平成二十年代に至って天童竺丸著『悪の遺産ヴェネツィア』(文明地政学協会)を通じ、ラビのサバ兄弟の唱えるユダヤ人起源説に触れることができて、漸くユダヤ問題の根幹に到達しえたと実感した。結論を謂えば、ユダヤ人なるものは本来民族としては存在せず、その実体は古代エジプト十八王朝のファラオ・アメンホテップⅣ世(アクエンアテイン)が創めたアテン一神教に惹かれて、オリエント各地から宗都アマルナに集まった雑多な種族であって、いわばアマルナ衆とでも呼ぶべき集団であった。アクエンアテインの後継ファラオのツタンカーメンがアメン教に復帰し、次代ファラオ・アイがアテン一神教を禁止したので、エジプトを追われたアマルナ衆は十二の部族に分かれてヒッタイト勢力と接する辺境の地カナーン(パレスチナ)に向かい、辛苦の末に一神教を奉ずるイスラエル王国(古イスラエル)を建てた。エジプトを追われる過程を換骨奪胎したのが旧約聖書の「出埃及紀」なのである。
当時カナーンには、メソポタミアのシュメルから出て各地に拡散した海洋交易民(コスモポリタン族)の一派が住みついていた。古イスラエル王国を建てた十二部族は、コスモポリタン族と接触して交易や鉱物採取・製錬を学ぶが、北部十部族が一神教に疑念を抱いたため、南部ユダ族とベニヤミン族は、これと決別して南朝ユダ王国を建てた。
北部十部族は北朝イスラエル王国として残るが、やがてアッシリアによって滅亡し、住民は東方に流移した(落合注・その一部が日本に渡来したアマベ・モノノベ・秦氏である)。南朝ユダ王国もバビロニア及びローマによってカナーンを追われた住民が、各地を漂泊することとなった。これが所謂ユダヤ人(スファラデイ及びミズラヒ)の淵源であるが、後にカサール汗国の遺民がユダヤ教に改宗してアシュケナージ・ユダヤとなり、スファラデイ・ユダヤをほとんど代替して、ユダヤ人の多数派を形成してしまったのである。
その後、コスモポリタン族がカルタゴ・シシリー・ヴェニス、さらにはアムステルダム・ロンドンと諸地方の潟地に拡散して交易・金融王国を築くに伴い、ユダヤ人はその藩屏たる地位を向上させ、コスモポリタン族と共存する形で勢力を延ばした。右がユダヤ人の沿革であって、今や誰しも実存を疑わない国際金融勢力の本宗は、実はユダヤ人ではなくその師匠のコスモポリタン族なのである。したがって欧米の知識階層は、コスモポリタン族とユダヤ人銀行家を併せて一つの集団と見做し、「ワンワールド・バンカー」と呼ぶようになった。
わが国で、宇野正美のユダヤ解説本が現われ始めたのが昭和五十年代で、ベスト・セラーになった。初めはアシュケナージを知らなかった宇野が、当初唱えたユダヤ論は極めて皮相的だったが、その後も研究が進み、イスラエル人の日本渡来の研究などを見ても、近年その方向はしだいに真相に向かっているが、好漢いまだラビのサバ兄弟のユダヤ起源説に就かざるを惜しむしかない。
それはさて、近来日本でも一定水準のインテリがユダヤの語を避けて「国際金融勢力」と呼ぶようになったが、これは平成年間に遭遇した「失われた二十年」、すなわち訳の分からぬこのデフレ不況の真相を理解せんと勉める過程で、ようやく事の本質に気づいたからであろう。
そこで私は、右の拙見とこれに照らして考察した江戸経済史をまとめて、本年四月に『金融ワンワールド』(成甲書房)として公刊した。この拙著を以て、大手出版社が初めて取り上げた例というのは当らないが、これでわが国のユダヤ禁忌を破ったと自負する所以は、国際金融勢力の問題に正面から取り組んだからである。つまり、同じ題材の書物は多く巷間に溢れ、中には結論が正鵠を得たのもあるが、大部分は論拠が定まらず所謂「陰謀本」に陥っていると思う。
ところが、拙著より一か月遅れて出たのが、金融論の隠れた篤学安西正鷹の『国際金融資本がひた隠しに隠すお金の秘密』(成甲書房)である。国際金融勢力による通貨創造のカラクリを明確に論じた著書は、外国は知らず本邦では本著を以て嚆矢とすると信じるが、ともかく、これを機にユダヤ禁忌を破る動きが盛んになれば私は助かるので、有り難い。
三つ目の禁忌は寄兵隊天皇論である。わが国近現代史における最大のタブーというべきこの問題は、①孝明天皇弑逆説と②睦仁親王暗殺及び大室寅之祐の交替説からなるが、前者と後者では現代社会における扱いが全く異なる。
①は既に戦前から、公開の席上で医学の権威者が死因に関する見解を明らかにしているほか、文学者による言及も数例に及び、さらには近来元皇族竹田宮の関係者が講演会で強調していた。これに対し②は、インターネットで盛んに流布されて、いやでも目に入るのに、公職にある人物が言及したことは全くない。これだけでも、社会現象として注目するのが当然の大手メディアが、故意に見えぬフリをしているのが歴然である。
この一種異常で不自然な状況はずっと続いてきたが、本稿はこの問題にも正面から取り組んで来た。このほどそれをまとめた、『明治維新の極秘計画』(成甲書房)を公刊したが、拙見は、巷間溢れる大室天皇説とは根本的に異なり、前記①の真相を孝明天皇の偽装崩御とし、②も睦仁親王の偽装薨去と断言するものである。その仔細は、本誌の読者ならすでにご高承と視て、ここでは省略するが、ともかくこれを以て三つ目の禁忌を破った私は、大方に先駆けて戦後日本の三大タブーを破ったことになる。必ずしも好んでしたわけではないが、これも天命であろう。
それはさて、『明治維新の極秘計画』を公刊した直後に、ある国文学者から教示があり、昨年の今頃、すなわち平成二十三年年十二月に明治大学教授徳田武による『朝彦親王伝』(勉誠出版)が公刊されたことを知った。その序章によると、馬場文英の『元治夢物語』を校訂注釈した徳田教授が朝彦親王に着目したのは、八月十八日の政変や禁門の変のような重大事件の際に親王の存在感が目立つからで、徳富蘇峰の『維新回天史の一面』が親王の伝記を意図した書であることを知ったが、安政六年で終わっていて、その後の最も知りたい部分が書かれていない。また奈良興福寺一乗院の門主だった弱年の親王と奈良奉行川路聖謨との交渉が全く取り上げられていないので、各種史料を渉猟してこの書を著した、という。
伏見宮邦家親王の四男として文政七(一八二四)年に生まれた朝彦親王は、天保七(一八三六)年十三歳で仁孝天皇の猶子となり、翌年に親王宣下。天保九年に得度して尊応法親王の法諱を賜り、奈良興福寺の塔頭一乗院の門主となった。実際に奈良に常住したのか確信が持てなかったが、奈良常住は慥(たしか)と観て良いようだ。奈良時代の朝彦親王(時に尊応法親王)の動静が掴めずに弱っていた私(落合)にとって、徳田博士のこの書によって、『寧府紀事』を知ったのは真に有難く、学恩に謝する次第である。
さて浩瀚な『朝彦親王伝』を開披してまず驚いたのは、弘化四年十月十一日のことを記した一文である。前文を略するが、「宮はご機嫌で『わが実家は芳野の皇居【南朝】の血筋である故か、殊に盛んであり、当今は禁裏【天皇】も後醍醐の血筋であるし、近衛も鷹司も皆我が実家の縁続きである。不思議な事よ』というご返事だ。聖謨は、心に『おん神は、どのように思召して、この宮の血筋を栄えさせたのか。天照大神のおん計らいは、人力ではどうにもならぬ』と、足利氏の昔には南朝が衰微した事などに引き比べていた」とある。
何と伏見宮を「南朝」と明言しているではないか。しかも徳田博士は毫もそのことを疑っていないらしい。さすがに眼を疑った私(落合)は、以後を読む気も失せて、「これは事いかにも重大なれば、原典に拠らざれば考究を進め得じ」と考えて、前記国文学者に原典の謄写を懇願したのである。(以下次号)

by めい (2015-06-27 14:19) 

めい

 伏見宮人脈探求に向けて 
   (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)10月15日第391号) 
http://michi01.com/tendoh/391ktg26731015.html

●月照(一八一三~五八)に興味をもっている。安政の大獄により追われる身となり西郷南洲とともに薩摩錦江湾で入水自殺を図って果てたとされる僧である。西郷は一命を取り留め、維新変革の枢軸にあって倒幕を指揮、後に西南の役で斃れるも、維新の功労者としての評価は揺るがないが、さて月照の果たした役割は何だったか、今一つ判然としない。
 落合莞爾さんの教示によって伏見宮朝彦親王や徳川慶喜公が維新変革に果たした役割を再考する必要を感じて久しくなる。渋沢栄一『徳川慶喜公伝』の方は一気に読み通すわけにもいかず時々函から出しては拾い読みしているが、徳田武『朝彦親王伝』(平成二三年、勉誠出版)は読み終えた。
 それで月照の行動がある程度は分かってきたのであるが、同時に新たな疑問が湧いてきた。僧月照は伏見宮配下で非人ネットワーク差配を任されていたのではないか、という疑問である。
●西洋近代文明をお手本として、彼らが主張する世界基準に倣うことを歴史の進化発展とする「発展史観」の謬見に少しでも疑問を持つならば、維新変革の推進者よりも、未曽有の外患に対しわが國體を守ることに腐心した人々の事跡をこそ顕彰しなければならない。すなわち、「公武合体路線」を推進した人々である。時々刻々に変化する時局に当たるべき当事者としてもっとも見事な出処進退を貫いたのが徳川慶喜公であったことは、一橋家家人渋沢栄一翁の著わした慶喜公伝を繙けば自ずから明らかとなろう。
 だが、維新における越前松平春嶽公の功績などは不当に低いのではないか。英明なる春嶽公は横浜が開港するやいなや下級藩士岡倉勘右衛門を派遣し、交易商館(コムパニイー)「石川屋」を設立して海外との接触に当たらせた。春嶽公の気概がいかほどのものであったか、武士身分を捨ててまで藩命に従った勘右衛門の動きと、その長男天心岡倉覚三の西洋文明への対決姿勢を見れば、わずかに偲ぶことができる。
 これまでの維新史観では薩長土肥の軽輩たちがにわかに力を得て維新回天の功業を成し遂げたというおとぎ話のような歴史が巷間に流通しているが、大人になれば、そんな莫迦な話はないと誰しも気づくのが普通である。
●戦乱の世に「天下布武」を掲げて日本全国の統一を果たした英雄が織田信長であったというおとぎ話も巷間に流布している。信長と秀吉と家康が類い稀な英傑であったことは事実であろうが、ただそれだけで元和偃武がなったとは考えられない。
 おとぎ話的信長像に敢然と立ち向かったのが、大学で数学を専攻して朝日カルチャーセンターで古文書学を受講しながら独学で戦国史を研究した市民史家の立花京子氏であったことは快挙である。
 立花京子の著書『信長と十字架──天下布武の真実を問う』(平成一六年、集英社新書)は、若き信長に着目して「天下布武」の大義を与え陰に陽に嚮導したのが大儒者清原家の清原枝賢(しげかた)と吉田神道家の吉田兼右(かねみぎ)であったこと、そしてその清原・吉田人脈が早くからイエズス会の工作によってキリシタンに染まっていたという驚愕の真実を明らかにした。
 徳川幕府によって神道の総元締めの任を与えられた吉田神道が実はキリシタンだったという歴史の真実は、誰にしてもにわかには信じがたいに違いない。果たせるかな、立花京子氏の研究は歴史学者や歴史ライターたちにより「陰謀史観」なるレッテルを貼られて総スカンの憂き目に遭っている。だが、まさに瞠目すべき画期的な研究である。
●かくて歴史の真実はおとぎ話を疑う真摯な研究者によって少しづつ自らの姿を明らかにして行くのだが、近世・近代において天皇と宮家、摂関家の果たした役割はほとんど明らかにされていない。まるで時代の主人公が一変しその役割は終わったかのように等閑にされているのである。
 先に私は長谷川三千子さんの近著に導かれて、大東亜戦争の終結に際して昭和天皇が示された御聖断の深い意味に改めて気づくことを得た。長谷川さんは「そのとき、人類の歴史でも稀な奇跡が起こり、われわれは新たな神を得たのだ」とまで断言している。
 この一事を以てしても明らかなように、天皇の御意向とそれを体した宮家の振舞い、そして天皇側近摂関清華家の役割を抜きにして、わが国の真実の歴史は語れないのだ。特に、国家存亡の秋においてはなおさらである。
 ただ、宮中のことを不用意に明るみに出して軽々に論うことが憚られるのは当然であって、われわれ一般庶民としては厳に慎むべきことである。
 しかしながら、國體の根幹に関わることについては別であろう。おとぎ話的謬見で覆い尽くされて國體の真実が隠されているような事態は、心ある者の看過しうるところではない。
 この事にいち早く気づいた落合莞爾さんが「堀川政略説」と「大塔政略説」とを引っさげおとぎ話的「教科書史観」の克服に挺身しているのも、今一段とわが國體が危機に曝されているという認識が落合氏にあるからである。
 とはいえ、落合さんが史料なきところを自らの洞察によって明らかにしたという壮大な歴史観に自ら何の検証も洞察も労さずしてにわかに賛同するのは却って失礼の謗りを免れまい。
 そこで、幕末維新変革における伏見宮朝彦親王の重大な役割を落合さんから教示された私としては、せめて伏見宮人脈の一端を具体的に拾い出して、学恩に報いたいと願うものである。
●迫り来る外国勢力による國體の危機を察せられた光格天皇が役行者小角に「神変大菩薩」なる諡号を寛政一一年(一七九九)に勅許された史実が示す天皇のご意向とは何か?
 それは世界の動きを一瞥すれば自然と明らかだ。今日風にいえば、「フランスの春」ともいうべきフランス革命によりフランスの王政が転覆したのが一〇年前である。それは欧州一国の国内事件ではなく、世界規模で政体変革を目論むフリーメーソン革命が初めて牙を剥き出しにした、人類史の大事件であった。
 この世界的政体大変革の波に対して「上下心を一にして対処せよ」というのが「神変大菩薩」なる諡を勅許された光格天皇の御真意である。
 それは直接的には山の民、すなわち幕藩体制から洩れた化外の民に対する呼びかけである。なぜなら、神山霊山にして役行者を祀らない山はほとんどないことからも分かるように、山の民たちは役行者を自分たちの頭領として永く尊崇し、信仰してきたからである。
●こうして国難に際しての山の民への呼びかけは「神変大菩薩号」の賜与を通して光格天皇が自ら行なわれたのである。同時に考えるべきは寺院勢力に対する呼びかけである。
 近代西洋思想の糟粕に毒されたわれわれは寺院と聞けば宗教施設であり、世俗の活動と切り離された浮き世離れした所だと錯覚しているが、まったくそれは思い違いである。寺院とは宗教施設であると同時に教育施設であり、工芸・芸能・建築・醸造・製薬・医療・金融などを含む一大企業体であったことは西洋キリスト教大寺院・修道院の例を見ても明らかである。
 寺院は出家した僧侶だけで成り立っていたわけではない。寺院や僧侶を支える様々な人々がそこに働いていたのである。神社寺院は大抵大荘園の領主であって、時代と共に武士階級に蚕食されたとはいえ、荘園経営に当たった荘官やその家人もいたはずなのである。
 天皇や宮さまが出家して寺院に入るということ、つまり寺院側からいえば門跡寺院となるということは、天皇との直接的繋がりができることを意味するのである。
●もう一つ、重要な社会勢力がある。いわゆる裏の勢力である。陽あれば陰があるように、表があれば裏があり、両者相俟って社会の全体を為すというのが日本に住む大人の常識であるが、表があたかもなきが如くに意図的に裏社会を抹殺し占領者たる外国勢力に差し出しているのが昨今のわが国の惨状である。
 裏の勢力は時代により様々な名称で呼ばれたり呼ばれなかったりするが、中世以来もっとも一般的に用いられた名称は「非人」ではなかろうか。
 網野善彦氏はこの非人の聖域(アジール)としての寺社の役割に注目した歴史家と記憶するが(記憶違いかも知れない)、網野非人史観の盲点はその聖域が政体権力からの聖域ではあっても、國體からの聖域ではありえなかったことを見逃している点にある。なぜなら、聖域そのものともいえる國體からの逃避所(アジール)などわが日本列島にあり得るはずもなく、聖域性を担保するのが一時的には寺院のもつ宗教性であったとしても、やがていつしか階層的に天皇家へと繋がり却って逃避所の聖域性を担保したのが天皇の聖性であったことを、網野氏は認めたくなかったからであろう。★
by めい (2015-06-27 14:30) 

めい

「田布施説」は鬼塚氏の妄想だった。

  *   *   *   *   *

◆2016/04/04(月)2  ウソを信じる者が多すぎる!
http://grnba.com/iiyama/index.html#zz04042
「田布施」説は単なる仮説!

☆ 明治維新の頃から日本の政治を支配してきた!という「田布施グループ」。
明治天皇にスリ替わった大室寅之祐も「田布施グループ」の出身!といった鬼塚英昭氏などの仮説がネットでは大ヒット。落合莞爾氏までが「堀川攻略」なる仮説で「明治天皇替え玉説」を補強する始末。
☆ ワシも,じつは,まだ半信半疑なのだが(爆),しかし,「田布施グループ」という強固な支配勢力がいる!という鬼塚説は,眉唾(まゆつば)だ。

☆ 戦後の岸信介・佐藤栄作の日本支配はCIAの強力な日本支配策の一環で,長州閥とか田布施は関係ない。
☆ 伊藤博文は超大物だったが…,それ以外の「田布施グループ」の者は,“日本の支配者”などでは断じてない!

☆ つまり「田布施グループ」の日本支配説は,鬼塚英昭氏の単なる仮説にすぎないのだ。ワシは信じない。

☆ 「田布施」なんぞ足元にも及ばない地域が日本には幾つもある。たとえば愛知だ。戦国の三傑,織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は三人とも愛知だった。

☆ それだけではない。加賀前田・岡山池田・広島浅野・彦根井伊等々の有力大名は,みな愛知出身だ。

☆ この「愛知集中」は決して偶然ではなく。戦争のない国家を希求する時勢が,地の利のある愛知を求めたのだ。

☆ 幕末維新では,薩摩・長州に人材が輩出した。これも,幕藩体制から西欧列強に対抗できる近代国家をつくらん!とする時勢が,適地である薩摩・長州を選んだのだ。

☆ さて,今の時勢…,いかなる人物が求められているのか?
ワシが思うには,時代・時勢は,日本人には何も求めていない!ということだ。

☆ 何しろ,日本列島そのものが,人間が住める土地ではなくなった!のだから。

☆ 死ぬ者は早く死ね! 生きたい者は必死で生き延びろ! これが時代・時勢の「声」なのだ。

☆ とにかく生き残れ! 生き延びろ!>皆の衆
飯山 一郎(70)

【感謝】 本稿を書くにあたり,『國の礎』誌の城戸周彦先生の『時勢の力』
     という名論説を引用させて頂きました。

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◆2016/04/05(火)2  「田布施」の話は ウソ800


「大室寅之祐」もウソッ8
http://grnba.com/iiyama/index.html#zz04052

ワシは『放知技』上で↓亀さんに言われてしまったww (記事)
飯山さんがHPで、田布施については半信半疑と書いていたが、小生の場合、今ではモー田布施マフィアなんか全く信じていないんだが…(爆)。
◆2016/04/04(月) ウソを信じる者が多すぎる!
http://grnba.com/iiyama/index.html#zz04042

その意味で、以下の飯山さんの発言は全く以てその通り。
**********
☆ 戦後の岸信介・佐藤栄作の日本支配はCIAの強力な日本支配策の一環で,長州閥とか田布施は関係ない。
**********
少し弁解。ワシが「半信半疑」なのは『天皇すり替え説』で…,日本を支配している「田布施」の話は,嘘っぱち!ということだ。
まぁ,今だに「田布施・神話」を信じてるってのは,ものごとを深く考えてない証拠だ。

『天皇すり替え説』は微妙な話なんだが…,
一番ダメな説は,「廁に入った孝明天皇を伊藤博文が下からヤりで突き殺した」という話。これは妄想と憶測で書かれたウソ話だ。

幕末当時でも,天皇を護衛する「御庭番」たちが,天皇が入る廁を厳重に点検していたからだ。

で,「大室寅之祐」だが,これも妄誕(もうたん,根拠のない妄想)だ。

孝明天皇が,後継者,睦仁親王が軟弱・病弱なので悩んでいたことは確かだ。押し寄せる西欧列強を相手にする迫力,能力が睦仁親王には,ない!とも考えていた。

そこで孝明天皇は考えた。すなわち,西欧列強との交渉は東京で行い,自分は東京から離れた京都に隠れ,皇統・国体を護ろう!と。
これが↑「京都皇統・東京皇室」という“ダブル皇統”の由来である。

そして東京皇室には田布施に匿われていた南朝の貴種を送り,これに外交をヤラせよう! と。

西欧列強との外交に失敗したら…,滅びるのは南朝で,京都皇室は安泰!とも考えた。これが「堀川攻略」なのだ。

なお,「大室寅之祐」はゐたとしても南朝系の貴種ではない。間違いなく下っ端の人間だった。

では一体,明治天皇にスリ替わったのは誰なのか?

某神社で神官に身をやつし,しかし南朝系の皇室祭祀を行っていた人物!という有力な説があるが…,これだ!とワシは思う。

しかし今の時点では,委細は言えない(@wぷ
飯山 一郎(70)

by めい (2016-04-05 14:37) 

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